オレ、こう見えても、半分はアメリカ人の血が流れてるんだ。どこからどう見ても東洋人っていうか日本人っぽい顔をしてるけどね。
親父はドイツ系アメリカ人の3世なんだけどお袋が日本人なんだ。そのせいで顔はアジア系だけど苗字は長ったらしいドイツ系の名前なんだよ。そんなドイツ人っぽい名前にオレのこの容貌だから、転校するたびに、教師たちのおどろいた顔を見ることになった。クラスメートはすぐにイジメを開始するしね。で、物心ついた時から『なんで生まれてきたんだろ』て思うことが多かったかな。
親父は優秀な男だったよ。イェール大学を出てニューヨークに本部のある投資銀行に勤めてたんだけど、日本支店を任されることになって、お袋とオレを連れて東京に移住することになったんだ。
オレのこの『南無阿弥陀仏』の刺青は、当時東京にいたころにできた恋人が彫ってくれたものさ。うんと年上の彫り師だったんだけど、彼の腕にも同じ刺青があって、六本木で知り合った時から、その『南無阿弥陀仏』から目が離れなかった。
家はひとことで言えば地獄だったし、通わされてたインターナショナルスクールにはイヤな奴がたくさんいて学校には行きたくなかったし、もちろん家には帰りたくないし、いよいよどこにも行き場がなくなってた。
アメリカにいたころにオレをいじめてたやつよりも嫌なやつらが多かったよ。じっさいに暴力をふるったりはしないんだけど、いつもみんないっしょになってチクチクやるんだよな。
日本人だからわかってくれるよね。
親父とお袋もかわいそうだった。オレのせいだよ。とても実の親子には見えないからね。近所やまわりの連中は、たいてい、養子か、もしくはお袋の連れ子とでも思ってたんじゃないのかな。
ふたりとも初婚だったんだけどね。
とにかく両方の親から無視されてて、毎日がつらかったせいもあったかもしれないけど、彫り師だった彼に誘われるまま、彼の家に泊まりに行ったんだ。あの日はちょうどオレの17歳の誕生日でもあったしね。でも、祝ってくれる人なんていなかったよ。で、『じつは、今日、オレの誕生日なんだ』って言ってみたんだ。そしたらさっそくお祝いしてくれた。
ほんと、それまでの人生でいちばん最高の夜だったよ。
オレの悩みを一晩中じっと聴いてくれたし、ほんとに優しくていい人だった。
深夜をまわったころ『南無阿弥陀仏』を誕生プレゼントに彫ってもらったんだ。
そのまま三日くらい居候させてもらったんだけど親の顔が目に浮かぶこともなかったな。
だって、家に帰らなくても、心配するような親じゃなかったし。
オレは思うんだけど、お袋の場合、せっかく白人と結婚したのに、生まれてきた子供が自分とよく似た東洋人の顔をしてるってことで、きっと誰かにだまされたみたいな気持ちになっていたのかもしれないな。たぶんそのせいで自分の息子には関心がなくなってしまったんだと思う。もちろん自分の子供にたいする愛なんていう感情はあまりわかなかったのにちがいないよ。
でも、久しぶりに家に帰ってきた息子の腕に『南無阿弥陀仏』が彫られてるのを見たときは、さすがに気が狂ったんじゃないかと思えるくらいに驚いて『あなたは私の息子じゃないわ。家の恥』なんて言い出して、そのあまりの怒り方にオレの方が驚いてしまったくらいだよ。じつはね、そんなふうに感情的になったお袋を初めて見て、ある意味、うれしかったんだ。もともと、息子としてあつかってもらったことなんてなかったからね。
眠れない夜、じっとベッドに横になってるとき、ぼんやりと腕の『南無阿弥陀仏』を見てたら、なんだか救われるような気がして、これから先、いままで味わったこともないような素敵なことが起こるかもしれない、なんて夢に見てたけど、あの日は、結局、『あなたは勘当よ。この家から出てってちょうだい』て言われて、彼のところに戻るしかなくなったんだ。
もちろん、大切なギブソンのギターを抱いてね。
あの人、ていうか、彼は本当にいい人だった。親に捨てられたも同然のオレを旅に連れだしてくれて、おかげでオレは初めて京都と大阪を楽しむことができた。
あれはたしか夜も11時をまわったくらいだったかな、地下鉄の駅で電車が来るのを待ってた時、小柄な坊さんがオレに近づいてきて言ったんだ。
「あなたは悪霊に取り憑かれてますよ」ってね。
白っぽい明かりにつつまれた地下鉄駅のプラットホームでだったよ。その坊さんの顔を間近に見ると、かなりの年齢の坊さんだってことがわかった。
その坊さんは『南無阿弥陀仏』とだけ唱えて、すぐにそこからいなくなったんだけど、せっかく彼と楽しい思いをしたばかりだったのに、オレはショックで言葉を失ったよ。
いや、あまりのショックで、じつを言うと、オレ、駅のプラットホームで吐いちゃってね。
で、東京に戻ってくると、彼が『こんどは般若心経を彫ろう』て言ってくれたんだ。
この背中に。
260文字あったから2ヶ月以上かかったよ。熱はでるし、痛いし、ほんとうにたいへんだった。だけど、この痛みを耐えたら、オレの体から悪霊を追い出せるんだって信じてたんだ。
彼が言ってたんだけど、オレが勘当されたのも、地下鉄で坊主に言われたことも、しょせんは夢みたいなものなのかもしれなくて、オレに起こってることなんて、この永遠に止まることのない『現実』って河の流れの一瞬一瞬でしかないんじゃないかって、そんなふうに考えたらすこしは気が楽になったよ。
それに、なにしろ背中にお経を背負ったんだから、こんどこそは、ほんとうに救われた気もしてたし。だから、オレ、こうやって、いまもギブソンひとつで生きていられるんだと思った。
あのときの話にもどると、彼の友達がバンドやってて、たまたまオレが弾き語りしたら、「なかなかいいじゃないの」ってことになって、そのバンドでプレイさせてくれるようになったんだ。
二年近く一緒にやらせてもらったよ。
だけど、ちょっと困ったことがおきて、金が必要になったせいで、2年近く電話もしなかった親父に会いに行ったら、お袋が白血病で入院してるっていうから、そのまま見舞いに行くことになったんだ。
びっくりしたよ。白血病ってのは若い連中の病気だとばかり思ってたからさ。観客を泣かせてやろうって魂胆が見え見えの恋愛映画なんかでよく使われる病名だったしね。
へぇ、あんな年でも白血病ってのになるんだな、なんて、ちょっと信じられなかったのをおぼえてる。もちろん背中の『般若心経』(はんにゃしんぎょう)は見せなかったよ。余命いくばくもないお袋をまたまた発狂させちゃ可哀想だし、悪いもんな。
臨終のベッドでお袋はオレの手を握って『ごめんね。ゆるしてね』ってひと言だけつぶやいてね。
その手の感触がどうしても思い出せないんだ。しっとりしてたかカサカサしてたか、ぽっちゃりしてたか骨張ってたか、ぜんぜんおぼえてないんだ。温かかったかどうかすら思い出せない。
涙は出なかったな。ぜんぜん泣かなかった。2ヶ月くらいぼんやりした感じがあったね。電話をかけたらまたお袋が出てきて、なんかきついことを言われるんじゃないかとおもったことだってあったよ。で、ふいに「あ、そうだった。あの人、もういないんだった」てね。
それから、ちょっとして、親父がニューヨークに帰ることになって、オレも一緒にもどったんだ。けっこう高級なアパートメントだったんで、満足はしてたんだけど、親父がすぐに新しい女を作ったんで、けっきょくオレはまたそこを出ることになった。
あれはたしかバンドの仲間と動いてたときだったかな。ミネソタのミネアポリスでだった。郊外の安いモーテルで目を覚まして歯を磨いてたんだ。そのとき鏡に映ってる自分の腕の刺青から目が離れなくなったんだよ。
『南無阿弥陀仏』てやつさ。
するととつぜん鏡の向こうにお袋が立っていて、オレのことをじっと見守ってくれてるような気がしたんだ。
はっきりとその気配を感じたんだよ。
とたんに涙があふれてきて、そのまま、とまらなくなった。声をあげて泣きじゃくったよ。5歳の子供みたいに泣きじゃくって、そのあとすごく気分が良くなった。あんなに最高な気分になったのは10年ぶりくらいだ。体まで軽くなった気がしたよ。
オレは大丈夫。この背中のお経とこのギブソンのギターさえあれば、オレはいつでもどこでも生きていけるって確信してたから、なんてことはなかった。
また、新しいバンドにも入れたし、来月にはシカゴのウォータータワープレイスのすぐ近くにあるバックルームでライブをやることにもなってるんだ。
オレのギターのリフを聴きにきてくれたらうれしい。待ってるよ。
1988年 秋 / シカゴ
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