カリフォルニア大学バークレー校の、その庭園のようなキャンパスは、東京ドームの15倍にもなる21万坪という広さで、19世紀後半から20世紀初頭に建造された重厚な建物がいくつもあった。
キャンパス内には丘と森があり、そのあいだを縫うようにせせらぎが流れていた。
そして、わたしは、その日、1930年代に造られた生命科学(ライフサイエンス)ビルディング前につくられた小さな森のなかの木陰に座っていた。
いろいろな樹木があったが、特にユーカリの爽やかな香りが好きだった。
わたしがペーパーバックを広げて読書に耽っていると、1匹のリスがそばにやってきた。
餌を欲しがっているのかもしれなかったが、あいにくナッツを持ち合わせていなかった。
そのままじっとしていると、そのリスはかなりヒト慣れしているらしく、わたしのクツのそばから離れない。そのうち、ふいにジーンズのすそに前足を引っかけたかと思うと、あっという間に膝頭までのぼってきて、こちらにその小さな顔をむけ、じっとわたしの目を見つめてきた。
何と大胆な行動をするリスなのだろう。
こんな風にアプローチをしてくる小動物ははじめてだった。
ほとんど重さは感じなかったけれども、あまりの驚きで、リスが何をもとめているのかすらわからなかった。
わたしはリスを興奮させないように、そっと本を閉じて、ひっそりと足元に置いた。
リスはほんのわずかなあいだ、わたしと向かい合ったあと、するりと膝から降り、すばやく近くの木の幹を駆けのぼるなり、こんどは枝から枝へとジャンプしはじめた。
ふわふわした尻尾をパラシュート代わりに使って落下を防いでいるようにすら見えた。
おまえたち人間にはこんなことできないだろう、と自慢しているかのように見事なジャンプぶりだった。
ユーカリの香りに包まれながら、足元から本をつまみあげたわたしは、もとのページをさがして開いた。すると、そのリスがふたたびわたしのそばにやってきて、すばしこく膝頭へ跳び乗ってきたのだ。
さすがにびっくりしたが、驚いたそぶりを見せないように、なんとか平静をよそおい、そのままの姿勢を保っていた。
もしかしたらわたしから本を奪いたいのだろうか。
読書をさせないようにするつもりなのだろうか。
けれども、リスはちらりとわたしの顔色をうかがったあと、すばやく近くの木の幹に飛び移り、カリカリと爪の音をさせながら、すばしこく駆けのぼったかと思ったら、ふたたび枝から枝へとジャンプしはじめたので、猫とおなじように、ただこちらの注意を引きつけたいだけなのかも知れないとも思った。
そんなアクロバットを見せつけたとしても、このわたしが褒美のナッツを持ち合わせていないことには気づいているはずなのに。
しばらく、そんなリスのアトラクションを楽しんでいると、うしろから女性の声がした。
振り返ると、中年の銀髪のスーツ姿の女性が立っていた。
上背があり美しく威厳があった。
「それ『CLASH』でしょ? あなた、『CLASH』を読んでるの?」
「はい」
「手にいれるの、大変だったでしょ。どこで見つけたの?」
「昨日、テレグラフ通りの『シェークスピア』という古書店のなかをぶらぶらしてたら、ぐうぜん目に入ってきて」
「あそこには変わった本がたくさんあるものね」
「JGバラード、お好きなんですか?」
「娘に勧められて読んだの。娘がJGバラードが好きだから」
「じつは、ちょうど読みはじめたところへ、あのリスがエンターテインメントをはじめて……」
「リス?」
いままでのリスの行動を説明しかけたところへ、ひとりの男子学生が「ダイアモンド教授、ちょっとお話があるんですが」と彼女に声をかけた。
ふたりは小声でなにかを話したあと、足早に森を出て、ライフサイエンスのビルディングへと入っていった。
『ダイアモンド』という名前がずっと耳の奥に残っていた。
アパートへもどって、バークレー大学のジェネラルカタログで名前を探すと、神経解剖学の教授マリアン・ダイアモンドだということがわかった。
あとで知ったのだが、女性で、しかも脳神経学の創始者の一人だった。
ちょうどその頃、1984年に、彼女は保存されたアインシュタインの脳のスライスを調べることのできる権利を得たのだが、サンフランシスコの地方テレビ局だけではなく、全米のメジャーメディアでも、そのことは話題になった。
後年、彼女は『Use it or lose it』(生かすも殺すもあなたしだい)という名言で、脳の神経細胞を発達させつづけるために必要な5つの要素を説明した。
栄養を摂ること。エクササイズをすること。新しいことに挑戦すること。好奇心を失わないこと。そして、実験室で一生を過ごした研究者にはめずらしく、「だれかを愛すること」という要素を、5番目においた。
それまで、脳の発達は、あるレベルまで到達したら、あとは生理学的にも神経学的にも衰退していくだけである、と考えられていたらしいが、その常識を彼女はくつがえし、大人になっても脳の成長は止まらず、『脳は使えば使うほど発達する。使わなければ劣化する。生かすも殺すもあなたしだい』という事実を脳神経学そのものによって科学的に確かめたのだった。
彼女のそのシンプルでパワフルな定義は、あれから40年近くを経たいまでも古びていない。
そんな女性と出会ったわたしは、一週間後のまた同じ時刻に同じ場所に腰を下ろして同じ本を読んでいた。すると、しばらくして、あのリスがやってきたのだ。
耳が少し欠けているので、先週と同じリスであることはすぐにわかった。
リスはわたしの膝に跳び乗ったり、枝から枝へと飛び移ったりしながら、食べ物を乞うこともなく、わたしをふたたびエンターテインメントしてくれた。
ところで、ダイアモンド教授とは、そのあと、ライフサイエンスビルディングの廊下で、2度ほどすれちがったことがある。
まわりには誰もいなかったし、どういう女性なのかを知ったあとだったので、緊張しながら通りすぎようとしたら、まるでわたしのことを覚えていたかのように、2度とも親しげなほほえみを投げてくれた。
忘れられない女性のひとりだ。
1984年 秋 / バークレー
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