渡米してすぐにヘイスト通りのアパートメントに住みはじめたのだけれども、そこから大通りのシャダックアヴェニューへ出たところの角に、白く塗装された煉瓦造り(れんがづくり)の古い堅牢な印象の4階建てのアパートメントがあった。
20台ほどの自家用車をとめることのできる駐車場をはさんで、その白い建物の裏口をわたしの3階の部屋から眺めることができた。
なぜだかわからないが、建物の裏がわだけは塗装されていないため、煉瓦が剥き出しになっていた。
シャダックアヴェニューに面したおもての1階には古本屋と中華料理店とマッサージパーラーがあって、わたしは毎日のように古本屋に通っていた。
たまに店先に置いてあった手巻きタバコ用の巻き紙『ZiG-ZAG』を買うことがあったのは、緒斗とカンナビス(マリファナ)を吸うためで、本は立ち読みで済ませることが多かった。そのせいだろうか、ユダヤ系の細身の店主はいつもきまって無愛想だった。
ただ、彼が客と親しげに会話をしているところを見かけたことが1度もなかったので、無愛想なのは性格なのだろうとおもっていた。
中年の彼は丸眼鏡をかけていて、頬にケロイド状の傷跡があった。
12月の初旬のことだった、わたしが駐車場のそばを歩いていたとき、例の煉瓦造りの白いアパートの裏口からローラが出てきた。
彼女は南米出身の小柄でグラマーな女性だった。
マッサージパーラーが彼女の仕事場だった。
彼女の服装からすると、かなりきわどいサービスをしていたのにちがいない。
たまに駐車場の路肩に腰をおろして、疲れたようすで、ぼんやりと喫煙しているのを見かけることもあった。
いつの頃からか、彼女が話しかけてくれるようになった。彼女がわたしにタバコをすすめてくれて、わたしがことわると、代わりにキャンディーをくれた。彼女はキャンディーを口に含んだまま、タバコを吸うのが好きだったようだ。
彼女もわたしも英語が母国語ではなかったので、ともにカタコト英語で会話するしかなく、本当はどこまで話が通じていたのか、よくわからない。
彼女はコロンビア生まれで、16歳の時に違法移民としてアメリカに入国し、フロリダで数年過ごしたあと、マイアミで知り合った男とロサンゼルスに移り住んだが、その男が刑務所に入ることになって、仕方なくまた別の男とサンフランシスコにやってきたのだそうだ。けれども今度はその男が3ヶ月も経たないうちにドラッグの過剰摂取で声をもらすこともなく死んで、独立記念日の夜に、レストランですすり泣いていたとき、たまたま声をかけてくれた男がこのマッサージパーラーのマネジャーで、ここバークレーに落ちつくことになり、それからいつのまにか2年がたったと話してくれた。
そのうち、ある日本人男性が客として来るようになったらしい。はじめはひと月に1度くらいだったが、3ヶ月後には毎週来てくれるようになり、週に2、3度、訪ねてくることもあったそうだ。
「いつも、手土産を持ってきてくれたの。ケーキとか色々」
彼ほどの紳士には会ったことがなく、いつもスーツ姿で優しくて、もっとも要求の少ない客で、しかも猥褻な言葉を使わない男性だと言う。
日本人の男性って紳士が多いの? と尋ねられたが、答えようがなかった。
ところが、その男性が2ヶ月前からパタリと来なくなったらしい。
どうしてかなあ、と彼女はすがるように尋ねたが、いきなり時間が気になったのか、わたしの腕時計をのぞきこんだあと、あわてて仕事場の裏口へと消えていった。
それから2週間がたったころだろうか、ちょうどクリスマスイヴの日だったとおもう、古本屋で少し立ち読みをしたあと、いつものように、レジ横においてあった巻きタバコ用の『ZIG-ZAG』を買おうとしたときだった、いつもは無愛想な中年の店主が、とつぜん小声で「メリークリスマス」と声をかけてきたのだ。
驚いたわたしは条件反射のように「メリークリスマス」と即座に返した。
すると彼は頬の傷をひきつらせながら「支払わなくていいよ」と微笑んだのだ。
わたしはお礼を言って不思議な気持ちにさせられたまま店を出た。
店を出たとたん、もしかしたら今夜は何かが起きるかもしれないと思ったのは、あの無愛想な店主が声をかけてくれるなんてはじめてのことだったし、しかも微笑んでくれるなんてほとんど信じがたい出来事だったためだ。
バークレーの街は静かな夕暮れにつつまれていた。
ローラは路肩に腰を下ろしていつものようにタバコをくゆらせていた。
とつぜん手をふって、せわしくわたしを呼びよせるので、いそいで駆け寄ると、彼女は満面に笑みをうかべた。
あの日本人の客がもどってきて、しかも食事に誘ってくれたと言うのだ。
ほんとうにローラはうれしそうだった。
けれども、その夕暮れが彼女と話した最後の時間になった。
路肩に腰かけてタバコを吸っている彼女の姿を見ることは、それから二度となかった。
1980年 12月 / バークレー
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