ナパカレッジまでの片道4キロを徒歩で通っていた。
野原を抜けていく近道があって、地元のひとびとからは忘れ去られ、地図にものっていない細道だったため、人影はなく、牛や馬とも出会うことはなく、そこをひとりで歩くのが好きだった。
そのルートを2年間使ったが、歩行者とすれちがったことは一度もなかった。
アパートを出て数分後には街路樹におおわれた美しい通りに入っていく。前庭のあるカリフォルニア独特の白いスパニッシュ造りの家々がならんでいる通りだ。そこを抜けると、広い道に出る。すると左手のほうにナパ川にかかる緑色に塗られた鉄橋があらわれる。
マックスウェル橋だった。
その橋を渡り、あぜ道のような細い道に入ると、土の匂いとともに、廃線になった鉄道の錆びたレールがのびているのが目に入る。とは言っても、はじめてそこへ足を踏みいれたとき、深い雑草におおわれていたため、つま先をひっかけて転びそうになるまで、そこに線路があることにも気がつかなかった。
その鉄路の、いまにも朽ち果ててしまいそうな枕木を踏みしめながら、さらに注意深く進んでいくと、すこし先のほうから水の流れる音が聞こえてきて、じきに小川があらわれ、そこに長さ3メートルくらいの壊れかけた木の橋がかかっていた。
線路は丈夫そうなのだが、腐りかけの枕木が歯抜けになっているため、まるでハリウッドの冒険映画に出てくる危険な橋のセットにしか見えなかった。
修復されたような痕跡もないので、はじめてその橋を目にしたときには、元のハイウェイへもどったほうがいいのではないかとおもって、ずいぶん悩んだ気がする。
あたりには人家も葡萄畑もなかったので、その橋はあってもなくてもいいようなものだったのかもしれない。
雨の日の翌日でなければ小川の水位はかなり低かったが、流れは速く、線路を踏みしめながらおそるおそる渡りはじめると、ギギギっと歯ぎしりのような音をたてて橋がしなり、かすかに左右にぐらつくため、綱渡りをしているような気分になって、うなじのあたりがサワサワするほどのスリルを感じた。
橋を渡りきると、背の高いポプラの木が、たった1本、カリフォルニアの深青い空をめざしてのびていて、ちょうどそこからナパカレッジの裏側まで細く長い一本道がつづいていた。
秋だった。鳥が鳴いていた。聴き覚えのある独特な声だった。シンセサイザーで作られたとしかおもえないような甲高い人工的な音色なのにもかかわらず、透明感のある、かなり遠くまで届きそうな鳴き声で、わたしたちのタウンハウスのパティオで鳴いていたこともあり、耳を惹きつけられた。
野原を見まわすと、ほんの5メートルほど先の草の先っぽにしがみついて、草といっしょに風にゆすぶられながら鳴いているのが目に入った。
カラスを小ぶりにしたような体つきで、翼の根元が朱色なので、見た目通りに『レッドウイングブラックバード』(Red-winged Blackbird)と呼ばれていた。
タウンハウスの隣人だった初老の婦人バーニースによると、メスの方はスズメのような茶色っぽい鳥で、オスにくらべると、艶やかさのない目立たない姿をしているのだそうだ。
「一夫多妻制の鳥だから、オスのほうは、あの赤と黒の目立つボディと、あの独特な鳴き声で、たくさんのメスを呼び寄せてるのにちがいないわよ」
その日、レッドウイング・ブラックバードの透明感のあるユニークな鳴き声を耳にしながら橋を渡り切ったとき、いつも目印にしていたポプラの木の下に寝袋が置き去りにされていることに気がついた。
どうしてこんなところにスリーピングバッグがあるのか不思議でしかたがなかった。しかも寝袋はぺたんこの状態ではなく、上の上までファスナーで閉じられてはいたけれども、ヒトの体が入っているかのようなふくらみを見せているのだ。
みるみる動悸が激しくなってきた。
こんな人気のない場所だから、なにかを寝袋に包んで運び、気づかれないように棄てたのにちがいない。
まさか…と考えはじめて、とつぜんの恐怖におそわれ、背筋を氷のカケラでなぞられているような感覚とともに、唾液が飲みくだせなくなるほどに緊張しはじめたのをおぼえている。
おそるおそる近寄って、反対側からのぞきみると、寝袋の端っこからニット帽を被った男性と思われる頭がのぞいていたので、わたしはおもわず短い悲鳴をもらしたが、つぎの瞬間には、そんな自分の声をおさえこむかのように片手ですばやく口をふさいでいた。
人気のないところで耳にした自分の悲鳴が怖かったからだとおもう。
ホームレスの人かもしれないけれど、息をしているようにも見えなかったので、わたしはゆっくりと腰をかがめて、いちおう何らかの反応があるかどうかを確かめようとした。
状況によっては、ここからカレッジまでマラソンして、警察に連絡をしなければいけないかもしれない。
さわやかに乾燥したカリフォルニアの秋風には、青々した草原の匂いと、どこからともなくはこばれてきた干し草の匂いがまじっているだけで、恐れていた腐臭などはなかった。
わたしは、指先のふるえをおさえつつ、男性のニット帽に手をのばしかけたのをおぼえているけれど、そのとき、ふいに寝袋のファスナーがジジっと動いて、先端のあたりが開き、ぐるりと頭がまわったとたん「わおっ」という男性のおどろきの声が聞こえた。
その声のせいで、こちらも同時に悲鳴をあげ、尻もちをついていた。
寝袋の中身は初老の白人男性だった。
彼は顔をのぞかせ、眉をひそめて、まぶしそうにこちらを見た。
白髪が光っていたのをはっきりとおぼえている。
初老の男性はいつまでも不思議そうにわたしを見つめていた。
「こんにちは。大丈夫ですか?」
「もちろんだよ。失礼だけど、きみは中国人かな?」
「いいえ。日本人です」
「日本人? あれ? わたしは、まだ、眠ってるのかな?」
「え?」
「これは夢のつづきなのかな…」
「え?」
「だって、日本人の若い女性が、こんなところにいるはずがない。そうでしょ?」
「ご心配なく。わたしは夢のなかの人間じゃありません。ナパカレッジに行く途中なんです」
「こんな田舎道を通って?」
「これがいちばんの近道ですから」
「それはそれは」と彼はまぶしそうに目を細めてカレッジの方角へ顔を向けた。
「ほんとうにだいじょうぶですか? どうかなさったんですか?」
「死体だとでも思われたようだ」
「ごめんなさい。死人かもしれない、ておもいました」とわたしは笑った。
「いや、とうぜんでしょうね。こんなところで寝てたんだから。わたしは怪しい人間ではないし、お尋ね者でもないので安心しなさい。とは言っても、この本人がそんなことを言ったら、よけいにあなたを怖がらせてしまうことになったかもしれないが」
「ここでお昼寝してたんですね」
「昨夜からずっとですよ。足音と悲鳴で目が覚めるまではね」
「起こしてしまってごめんなさい」
「いや、もう真昼です。そろそろサンフランシスコにもどらなくちゃいけない時間だ。いいタイミングでした。ありがとう」
彼はさらにファスナーをおろして半身を起こした。
「昨夜は満天の星を眺めることが出来て、ママにも会えて幸せな時を過ごすことができましたよ」
言葉も丁寧で語調もしっかりとしていたが、初老の男性の発したその『ママ』(mommy)という子供っぽい言い回しにわたしは違和感を感じていた。
「じつはね、年に1度は、こうやって寝袋に入って、夜空の星を仰ぎ見るために、このナパを訪れるんです。このあたりには街灯も何もないので、プラネタリウムにいるのと変わらない。満天の星が見れますからね。あなたも試してみたらいい」
「昨夜は三日月でしたね」
「そうだね。細い細い三日月でした。おかげで、銀河まで見ることができましたよ。わたしが子供のころ、母親がそこで死にましてね」
「え?」
「そこの精神病院で死んだんですよ」
「フリーウェイ沿いにある、あの大きな病院のことですか?」
彼はうなずいた。
「ナパ・ステート・ホスピタルです。あそこに入院していました」
わたしは以前、カレッジからの帰り、ぐうぜんにも、隣人のバーニースの車にひろってもらったことがあった。まだ、ほんの数回だけれども、バスで通っていたころで、バス停に立っていたわたしをバーニースが見つけてくれた。そのとき、なにげなくバスの窓からながめていたその病院について尋ねたことがあった。
広い門構えの向こうに、壮大な、まるでお城のような建造物が見えたからだ。
バーニースによると、19世紀の後半に建てられたカリフォルニア最大の精神病院で、広大な敷地の中には、まさにゴシック建築による城のような病棟と、周囲には酪農の施設、それに加えて養鶏場や野菜畑までもがあり、病院内で自給自足ができたらしい。
『昔は強制的に断種手術を受けさせられた患者さんたちがいて、術後に死亡した人たちも多かったらしいのよ。みんな敷地内に埋葬されたらしくてね』
彼女があまりにも深刻な口調で話すものだから、精神病棟をあつかった映画で見たことのあるシーンが思い出され、耳の奥に、狭い廊下に響きわたる悲鳴や叫び声が聞こえてきたかのような記憶が残っている。
『ナパはね、ワインだけではなくて、この精神病院でも有名な場所なのよ』
バーニースの皮肉っぽいことばに、わたしは後部座席をふりかえって、彼女の車のリアウインドーごしに病院の門をながめやったとおもう。
初老の男性はのっそりと上半身を起こして草地に腰をおろした。
さわやかな北カリフォルニアの秋の日で、風にはこばれてきた干し草の匂いが生々しく、レッドウイング・ブラックバードがいたるところで鳴いていた。
「父親が女好きでね。浮気ばかりするものだから、ママは精神を病んだんです。ママはとてもやさしかった。ママのことが大好きでした。ママが入院する日に迎えの車が家の前にきて、ママが乗せられ、わたしはその車を夢中で追いかけました。だから、いまだに、映画のなかでそういう場面が出てくると、ついつい席を立ってしまうんです。それ以上は見てられなくてね。母親と別れさせられる場面なんて」
「おいくつだったんですか?」
「5歳でした。ママを乗せた車が角を曲がって見えなくなるまで、夢中で走って、走って、走りました。ママぁって叫びながらね。そのあとすぐに、わたしはサンフランシスコで宝石店を経営していたママの実家に引き取られたんです」
「お母さまはずっと入院しておられたんですか?」
「ほんの4、5年のことでした。祖母に連れられてあそこに何度か見舞いに行きましたよ。子供のわたしが見ても、会うたびにママの目つきが変わっていくのがわかりました。ママは病院で死にました。そのあと、わたしが12歳になったころ、はじめて祖母が話してくれてわかったことなんですが、ママは自殺でした。神さまからさずかった命を自分で奪ったのだから地獄に行くのではないかとたずねたのをおぼえています。祖母のことばだけが救いでした。『心配しなくてもいいよ。あの子はね、なんにも悪いことをしてはいないんだよ。だから、自殺っていったって、ちゃんと天国にいけて、星になったのにちがいないわ』とサンフランシスコの夜空を指して言ってくれたんです。わたしはそれを信じました。じつは今も信じています。戦争中にグアム島で日本軍と戦った時は、夜空を仰いで『早く殺してくれ。ママに逢いたいよ』と叫んだこともあります。軍隊が辛かったんです。戦場は地獄でした。でも、弾はあたらず、死ねませんでした。きっとママが死なせてくれなかったんでしょうね」
彼は立ち上がり、寝袋をたたみはじめた。
そして、それを小脇に抱えると、ナパカレッジの駐車場に自家用車を停めているからと言って、細い長い一本道に足を踏みだした。
そして、なにかを思い出したように「ロバートです」と手をさしだしたので「ヨウコです」と握手をした。
ぶあつい暖かい手だった。
「いっしょに行きますか?」とたずねられたが、「いえ、もうしばらくレッドウイング・ブラックバードの鳴き声を聞いていたいので」と答えたのをおぼえている。
彼はふり返って言った。
「それにしても、こんな場所で、こんな日に、日本から来た女性と会うなんて。さてはこれもママのせいかな。ところで、あの壊れかけた木の橋を渡るのはやめた方がいいですよ。危ないですよ」
わたしは「はい、気をつけます」と答えて、彼と同じカレッジの方向へは行かず、来た道をもどることにした。
頭と胸がいっぱいになって、なにかが口からあふれ出てきそうで、とても授業を聴講できるような気分ではなかったからだ。
朽ちた木の橋を、ゆっくりと、注意深く渡りはじめると、ふたたびレッドウィング・ブラックバードが鳴きはじめた。小川の周辺の木に止まっているようだった。すぐに見つけることができた。こちらを恐れることもなく、すぐそばを通りすぎたときも、ずっと鳴きつづけていた。
わたしがちゃんと渡りきれるかどうかを監視するつもりなのかもしれない、とその時、ふと思った。
けっきょく、バークレーに引っ越すまでの残りの数ヶ月間、その木の橋が落下することはなかった。
あれから半世紀あまりたって、緑色の鉄橋だったマックスウェル橋はモダンなコンクリート橋になり、あの朽ち果てそうな木の橋は消え去ったが、小川をふくめたあたり一帯は、いまだに野原のままだ。
たぶんレッドウィング・ブラックバードもあのころと同じように鳴いているのにちがいない。
1982年 9月 / ナパ
無断引用および無断転載はお断りいたします
All Materials ©️ 2021 Kazuki Yoko
All Rights Reserved.
Comments