カリフォルニア州北部の学園都市バークレーで暮らして一年がすぎたころ、緒斗(おと)がナパ郡のカレッジに入ることになり、夏に引っ越しをすることになった。そして、当日の6月22日をむかえた昼下がり、ナパへ向かうフォードLTDの助手席で、わたしはペット用のキャリーケースを膝の上に抱えていた。
そのなかには、ドライブ嫌いのサティがいて、ドアの格子のすきまからこちらを見上げながら、訴えかけるように悲痛な声で鳴いていたが、いつものことなので、「サティはグッドボーイ。サティはお利口さん」と呼びかけながらもじっさいには無視していた。
右へ目を向けると、丘の斜面を埋めつくした白っぽい家々をながめわたすことができ、左にはサンフランシスコ湾がひろがって、夏の日ざしをうけた海面の輝きがまぶしく、その湾の出口をふさぐようにして、半島のようなマリン郡と、林立するサンフランシスコのビル群が遠くにかすんだまま、金門橋でかろうじてつながっているのが見えた。
時速100キロ以上で飛ばしながらも、窓をあけていたので、カリフォルニアの乾燥したパワフルな夏風を受けて、上半身全体がシートにおしつけられていた。
そのままノンストップでフリーウェイを走っているうちに、バークレーでいちばんポピュラーなFMラジオ放送局KBLXの電波が入らなくなった。そして、ちょうど50分ほどたったころだろうか、目の前にひろがる風景のなかに、わたしはなにか不穏(ふおん)なものを感じたのだ。
はるか前方に見えてきたナパの山々の稜線(りょうせん)の、その背後にひかえた空が、ぼんやりと濃いオレンジ色にかすんでいたからだろう。
その日は月曜日だったが、夕焼け空がひろがるまで、あと5、6時間は残っていた。
フリーウエイをあとにして、畑となだらかな丘にはさまれた道を走っていくうちに、向かっていく先の空が、しだいに血のような夕焼け空に変わっていくので、わたしたちは互いに顔を見合わせた。そして「なんだか気味が悪いなぁ」という緒斗のつぶやきが合図だったかのように、わたしはクルマの窓ガラスのすべてを閉じた。
そのうち、閑散とした田舎町ナパの大通りに入っていくと、こんどは、あたり全体が灰色の煙におおわれはじめ、じきに灰のような粉じんがたちこめてきて、とつぜん夕暮れ時のように暗くなりはじめた。
真昼の夕焼けだった。
けぶった街景色の、その異様な光景に、かなり薄気味の悪さを感じていたのか、ヘッドライトを点灯させた緒斗は、歩くような速度でダウンタウンのはずれにあるスーパーマーケットにLTDを乗りいれた。
すると、その広々した駐車場にはおどろくほどの人だかりがあって、みなが同じ方向を指さしているのだ。
どうも、盆地のナパをかこむ山々のなかの、とくに東の方面を指さしているようすだった。
なにごとだろうかと思い、速まる鼓動とともにフォードLTDから外へ飛び出すと、空気に焦げた臭いが充満していた。
山火事だった。
*
日が落ちると、タウンハウス(長屋)の2階の窓からは、不気味な深紅色に染められた夜空が見えた。
はじめて住む街の山々が燃えているのだ。
胃がシクシクと痛んだ。
不安な気持ちのせいで、自分の鼓動が聞こえてくるようだったが、緒斗とふたり、ことばを交わすこともなく、じっと外を眺めているうちに、それもしだいにやわらいできた。
中庭を挟んで、向かいのタウンハウスの棟の屋根には、数人の男たちのシルエットがあった。
6、7人はいただろうか。
どうやって屋根に上ることができたのだろう。
日本のマンションと比較すると、ちょうど3階くらいの高さがあるので、消防車に装備してあるような梯子(はしご)がないと無理におもえた。
山火事を眺めているらしく、みながこちらに背を向けていた。
中庭越しにもかかわらず、スペイン語の話し声が呪文のように聞こえてきて、一瞬、移り住んだ場所をまちがえたのではないかという錯覚にとらわれた。
彼らはおそらくブドウ畑で働くためにメキシコからやってきた人たちにちがいなかった。
ときどき笑い声も聞こえてきた。
数人のうちのひとりが、彼らの背中に向けられたわたしたちの視線に気がついたのか、なにげなくふりかえってこちらを認めると、うれしそうに手をふってきた。
もういっぽうの手にはビール瓶をにぎっていて、わたしたちも彼に手をふった。
山火事は夜空を赤く染めつづけていた。
*
わたしは、その日まで、この目で、じっさいに、火事というものを見たことはなかった。
ニュース番組では見たことがある。
商店街の半分が燃えさかっているような恐ろしい火事も見たことがあるけれども、それはあくまでもテレビ画面を通してだった。
じっさいに家が燃えているのを近くで見たような経験はなかった。
幼いころ、故郷の街でもっとも有名だった映画館が燃えたことがあって、そこから2キロ近く離れていたのにもかかわらず、母が2階の窓をあけると、こちらへ向かって夜空を火の粉が流れてくるのが見えた。
幼かったために、恐怖というよりは美しい幻のような記憶として残っているのだが、母の場合はちがう。
彼女は戦争を体験した世代のひとりだった。
とくに軍需施設があり、また物資を運ぶための大切な拠点でもあった街に暮らしていたせいで、米軍からの空襲を受け、街全体が火に包まれるという恐ろしい光景を見ただけではなく、そのなかを逃げまどい、防空壕に逃げこむよゆうがないときには、父とふたり、水びたしのムシロに身をくるみ、この世の終わりのような大火災のなかを生きのびたひとりでもあった。
「みんなでイモムシになってね。おかげで助かったのよ」
それでも髪の毛が焦げて、クシをいれると、パラパラと粉になったわ、と苦笑していたのをおもいだす。
暗くなって空襲警報が鳴りひびくと、夜空を突きさすようなサーチライトに照らしだされたB29の大編隊が、そのジュラルミン製の機体を輝かせながら、おなかの奥をふるわせる爆音(ばくおん)とともに迫ってきて、巨大な線香花火のような焼夷弾が落下傘にぶらさがってメラメラと燃えながら夜を昼に変え、つづいてパラパラと切れ目なく爆弾を投下させたのだという。
何軒もの家がいっせいに燃えはじめると、その近くにいるだけで、空気そのものが、まるで蒸し器から吹き出す蒸気のように熱くなるのを感じるし、また、街のなかから酸素がなくなってきて呼吸ができなくなる、とも言っていた。
「それが町内だけではなくて町全体にひろがると、もう、あたりは火の海でね、どこへ逃げたらいいのかわからなくなったわ」
小さな海峡の街ですらそんなことだったのに、東京大空襲を味わったひとびとは、いったいどんな地獄を見たのだろう。
あの夜、わたしは、そんな母の目をとおして、ナパの山火事をながめていたような気がする。
きっと彼女の記憶がわたしの視界を赤く染めていたのにちがいない。
*
翌日のナパ市の新聞によると、5カ所で付け火があったそうだ。
その夜だけで、ナパ郡の5パーセント、ちょうど東京ドームの2000個分(2万3千エーカー)の土地を焼きつくし、そのせいで、数えきれないほどの家畜や動物が丸焦げになり、丘の中腹にならんだ金持ちの大邸宅や、ミドルクラスの家々がたくさん焼失したと言うことだった。
翌日も、またその翌日も、ナパの街は、昼間から不気味にくすんでいた。
山火事がおさまるのには、1ヶ月くらいかかったかもしれない。
この年もアメリカは深刻な不況の真っ只中にあった。
第2次世界大戦以来、最も過酷な経済状況だったと言われている。
1981年 6月 / ナパ
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