だれでも人生のどこかで頭がスイカのように割れて死にかけたかもしれない瞬間を経験したことがあるのではないだろうか。
わたしは幼い頃、家の庭の池に真っ逆さまに落下したことがあった。
そのとき、岩と岩のほんのわずかな隙間に体がはさまって、目と鼻の先にあった大きな岩に頭を打ちつけることもなく、一命を取りとめたらしい。
そのエピソードをもちだすたびに、わたしの両親は『あれは奇跡的だったね』と胸をなでおろすのだった。
大人になってからは、バークレーの大学通りの交差点を、自転車に乗って横切ろうとしたとき、渡り切る直前に、向かいの歩道の縁石に前輪があたって、サドルにまたがったまま転倒してしまった。ちょうどそこへ2両編成の電車みたいな連節バスが曲がってきたため、路面に横たわったわたしの頭がその巨きなタイアの真下にまきこまれそうになり、近くを歩いていた人々からは甲高い悲鳴があがるのが聞こえた。
けれどもわたし本人はなにが起こっているのかわからなくて寝起きのようなぼんやりした顔をしていたのではないかと思っている。
ただ、ひとつ、はっきりとこの目に入ったのは、運転手が肩が見えるまで窓から身を乗り出し、サングラスをかけたまま首をひねって、あわてふためくこともなく、じっとわたしを見つめながら、冷静にカーヴを切っていったことだ。
髪を踏みしめていくタイアのせいで顔がグイッとのけぞるのをおぼえた。
あの瞬間の、頭皮もろとも髪を引っぱられるような感覚は、いまでも生々しくよみがえってくる。
三度目はナパでの出来事だった。
それはナパカレッジで親しくなったアイリーンが間借りをしていたカントリーハウスを訪ねた時に起きた。
そのカントリーハウスの周辺には他に家がなく、だだっ広い野原には雑草がはびこっていて、数頭の馬が放し飼いにされていた。
アイリーンはナパカレッジの教務部で働いている女性だった。
緒斗(おと)がカレッジに入学してまもなく留学生のためのカウンセリングの予約をするために教務部に行くと、氷のような眼差しの痩身の白人女性が受付にいた。
人間を含めたいっさいの生き物には感情を見せないようにプログラムされたスーツ姿のロボットみたいな印象をうけた。
彼女のあまりにもすげない応答を見かねたのか、すぐ後ろにいた別の白人女性が声をかけてきて、すぐさまカウンセリングの日取りを決めてくれた。
その女性がアイリーンだった。
あとで彼女にたずねてわかったことだが、ロボットのようなスーツ姿の白人女性は新人で、かなり緊張していたらしい。
はじめて東洋人を間近で見て、緊張が倍増したのにちがいないと彼女は説明してくれた。
アイリーンは小柄だった。
映画『グレンミラー物語』でグレンミラーの愛妻役を演じたジューン・アリソンと見目形(みめかたち)がそっくりで、体から優しさがあふれているような女性だった。
カレッジですれ違ったときは、笑顔でかならず声をかけてくれる人だった。
聖母マリア像のように人をやさしく包みこむような笑顔で。
北カリフォルニアに位置するナパは、11月から2月にかけての雨期に入ると、ロシア川が氾濫するほど雨の日がつづいた。
そして、夏になると、海峡の街に育ったわたしが経験したことのない暑い日がつづくのだった。
ナパの市街はとくにアスファルトからの照り返しが強かった。
タウンハウスの管理人のネルソンさんの奥さんから麦わら帽子を買った方がいいと薦められて、ダウンタウンのデパートで帽子を探していた時だった、あれこれ被って試していると、うしろから「あなたにはそれが似合うわよ」という女性の声がして、振り返るとアイリーンだった。
決断できずにどれでも良いような気持ちになっていたので、アイリーンの選択はありがたかった。
彼女はタウンハウスの中庭までクルマで送ってくれた。
「よかったら、今度の日曜日、彼とふたりで、遊びに来ない?」
「ありがとう。楽しみだわ」
彼女が間借りしているカントリーハウスには馬が数頭いるらしく、わたしはそんな場所へ行けると思っただけで胸が高鳴るのをおぼえた。
けれども緒斗には先約があったし、わたしたちは、その頃、冷戦状態だったので、わたしはひとりで訪ねることになり、アイリーンがクルマで迎えにきてくれた。
アイリーンのホストファミリーは中年の白人夫婦だった。
ふたりとも、どっしりとした体つきで、とてもフレンドリーだった。
アメリカ中西部の北に位置するミネソタ州に生まれたアイリーンは、酒を飲むたびに暴力をふるう夫に耐えきれず、このカリフォルニアまで逃げてきたのだと説明してくれた。
そのとき、ナパの街角におかれていた無料新聞の広告で見つけた仮の住処(すみか)がココだったのだという。
33歳とはおもえない女高生のようにストレートな笑顔でアイリーンはそう言った。
「カリフォルニアに親戚はひとりもいなかったけれど、寒いところで育ったわたしは少女時代からカリフォルニアに憧れてたし、学生時代にナパ出身の女の子と寮が同じ部屋だったの。そのとき彼女がワインのこと、いろいろ教えてくれて。たしか彼女の父親は小さなワイン醸造所の共同経営者だったはず。うらやましかったわ」
夫婦はアイリーンの事情を聞くと、すぐさま「サンクチュアリ」(避難場所)として、彼らの部屋のひとつを提供してくれたらしい。
それにしても、彼女のような笑顔をもった女性に暴力をふるうことができる男性とは、いったいどんなタイプの人間なのだろう。
わたしは会ったこともない男性にたいして、怒りに縁取られた先入観をいだくようになった。
そのせいなのか、わたしの心のなかで、彼女のイメージが、不思議なほどの強さを秘めた女性へと変わっていくのがわかった。
夫から暴力を受けていたという経験があるのにもかかわらず、外面からは彼女のそんな過去をうかがうことはできなかった。
よほどのプライドの持ち主なのか、それとも、ダイヤモンドのように傷つくことのない精神の持ち主なのか、もしくは彼女の心のなかには不思議な力が宿っているのだろうか。
そうだとしかおもえなかった。
木の香りのする広々した部屋で、みんなで一緒にランチを食べていると、ヒッピー風の長い髪をかきあげながら、口髭を生やした細身の青年が姿をあらわした。
夫婦からは息子のニックだと紹介された。
彼はランチを食べにきただけで、じっさいには、このカントリーハウスで親と同居しているわけではないらしい。
どっしりした体格の両親とは反対に、食べることには興味がなさそうなほどスレンダーな青年だった。
冷蔵庫をあけて、小ぶりなバドワイザーのビール瓶をつかみとったニックに、父親が吐きすてるように小言を言いはじめた。
もとから酔っていたのか、アイリーンのとなりに腰かけて、まるで恋人であるかのように馴れ馴れしく振る舞うので、こんどは母親が眉間にシワを寄せた。
わたしはそんな状況のなかで皮膚にピリピリとした痛みを感じさせられるほど困惑していたのをおぼえている。
食事を終えたあと、親子が口争いをはじめたので、アイリーンとわたしは散歩に出かけた。
「あのご夫婦、とてもいい人たちで、自分の本当の親だったらよかったのに、と思うほどだけど、わかるでしょ? あのニックがちょくちょく訪ねてくるようになって、なにもかもぶちこわしよ。ついこのあいだなんて、酔って、ノックもせずにわたしの部屋に入ってきたのよ。片手にビール瓶をにぎったまま。だから、ご夫婦におねがいして、さっそく鍵をつけてもらったわ。わたし、離婚調停中だから、彼につきまとわれるとまずいのね。いままで、あのご夫婦にはほんとうにお世話になったけど、少し貯金もできたから、そろそろアパートを探さなくちゃ、て思ってるところなの」
アイリーンは草を食(は)んでいた裸馬に近づいていくと、馬に優しく声をかけ、長い首を軽くたたいたあと、撫でさすりはじめた。
馬も彼女には慣れているようすだった。
そこへバドワイザーのビール瓶をにぎったままニックがやってきた。
「ふたりとも仲がいいなあ」とうすら笑いを浮かべつつ。
アイリーンは目を伏せた。酔った彼を嫌悪しているかのようにも見えた。
「Yoko、そいつに乗ってみるかい」とニック。
「でも、わたし、いちども馬に乗ったことないから。日本で両親と観光地へ旅行したときも乗馬レッスンを受けたいなんておもわなかったくらい」
「だったら、いい機会じゃないか」
「乗ってみたいけど、不安だわ。馬のことなんて、ほんとうに、なにも知らないんだもの」
「そいつはやさしい馬なんだ。だれにでも乗れるさ。たとえはじめてでも」
「鞍(サドル)なしでも? 足はどうしてたらいいの?」
「慣れてない人間があぶみ(スターラプ)に足をひっかけてたら、なにかあったときに外れなくて、よけいな怪我をするから」
「ね、わたしとふたりで乗ってみる?」とアイリーンがわたしの肩に手をまわしてきた。
「最初からふたりで乗りたかったんだろ? な、そうだろ、アイリーン」
ニックはわたしたちが楽しそうに会話をしているのに嫉妬していたのかもしれなかった。
迷ったあげく、しかたなくうなずくと、ニックは「じゃ、Yokoから」とわたしの左足を支えて持ち上げてくれたので、教えられた通り、馬の首と背のあいだの少しふくらんだところに左手をつき、おもいきり右足を振りあげて、ひと息で馬にまたがることができた。
それからわたしは、アイリーンがしていたように、馬の首を優しくたたいて、撫でさすってみた。
じっさい、背中にまたがってみると、馬の首は胴体にくらべてきわめて幅が狭く、まるで太刀魚(タチウオ)みたいだとおもった。
次にアイリーンがわたしの後ろにまたがり、わたしの胸の真下へ腕をまわして手綱を持ち、ゆっくりと引き寄せた。
背後からきつく抱きしめられる感覚とともに、彼女の乳房の柔らかさと温かさがわたしの背中に伝わってきた。
緊張していたせいか、馬の背中が、自分のお尻に、かなり硬さのあるものとして感じられたのをおぼえている。
アイリーンがわたしの耳もとで「どうお?」とささやきかけてきた。
「まるでバスに乗ってるみたいな高さなのね。ドキドキする」
わたしは感動していた。
野原を見わたすと、200メートルくらい先にも馬がいた。白っぽい馬だった。のんびりと草を食(は)んでいた。
ニックがわたしたちの馬の首にふれ、その耳もとで何かをつぶやいたとたん、馬はゆっくりと歩みはじめた。
わたしは体がこわばっていたせいで、あやうくのけぞりそうになった。
なにをどうしたら良いのかわからなかったが、わたしを背後から抱きすくめるように腕をまわしたアイリーンは、慣れた手つきで手綱をさばいていた。
「アイリーンは乗馬をするの?」
「ここにきてニックに教わったのよ。でも、まだ数回くらいしか乗ったことないけど」
「わたしたち2人を乗せて、馬は重たく感じてるかもしれない」とわたしは馬のことが気になりはじめた。
「大丈夫よ」とアイリーンはわたしに耳打ちしたが、すぐそのあとから馬がとつぜん足を速めたのだ。
どんどん速度があがってきた。その揺れでわたしのお尻はみるみる右のほうへずれてきた。
アイリーンは一所懸命にわたしを中央へもどそうとするが、体を安定させてくれるあぶみはないし、つかまるものすらないわたしは、ほとんどずり落ちそうになっていた。
彼女はそれでもわたしのジーンズの腰のあたりをつかんだままだ。
わたしは馬の立髪をにぎりしめてはいたが、はげしく揺さぶられながら、さらに体は斜めにかしいでいた。
胸が痛くなるほど鼓動は速まり、大地が、すぐ真下を、まるで小川のように流れていくのが見えた。
アイリーンが大声で言った。
「Yoko、体がもうしこし低いところまでずり落ちたら、立髪から手をはなして、そのまま飛び降りるのよ」
「えっ」
「今よ。そのまま落ちなさい」
アイリーンがわたしのジーンズから手を放したとたん、馬はさらに速度をあげてわたしを振り落とした。
大地に肩のほうから激突したとたん、強い衝撃を受け、胸がつぶれて息がとまりそうになったのと同時に、体がゴロゴロと回転して気を失いそうになった。
ようやく体がとまったときも、30キロの米袋に胸をおしつぶされているようで、なかなか呼吸がもどってこなかったのをおぼえている。
なんとか頭をもたげてまわりを見ると、さっきの馬が、そのまま暴走して、広々した牧草地にいた白っぽい馬へ向かっていくのが目に入った。
アイリーンは反対側へ飛び降りたようすだ。
わたしは体を起こしたあとでドキッとした。
頭のすぐそばに雑草で表面が半分ほど覆われた岩があったからだ。
もしも落下地点が数センチずれていたら、はげしく草地を転がったわたしは、その岩に頭を打ちつけていたかもしれない。
わたしは髪のなかへ指を走らせ、血が出ていないかどうかを、なんども確かめた。
それからやっと「アイリーン、大丈夫?」と彼女に声をかけたような気がする。
「落馬したとき、後ろ足で蹴られなくて助かったわ。だけど、手をついた時に手首を痛めたかもしれない。Yokoはだいじょうぶ?」
「体中が青あざになりそうな気がするけど、骨は折れていないみたい」
わたしたちはよろけながら近寄り、そして抱き合った。
「ごめんなさいね。わたしがうかつだったわ。ニックに言えばよかった。さっきの馬は発情期だったのにちがいないわ」
ビール瓶片手に近づいてきたニックを、アイリーンは無言でにらみつけていた。
彼女とわたしは、カントリーハウスめざして、ゆっくりと歩いた。
右肩と腰のあたりがズキズキとうずいていた。
ニックの両親はことの次第をアイリーンから聞き終わるまでもなくニックを叱責しはじめた。
アイリーンは左手首を捻挫したようだった。
看護師だったというニックの母親が、彼女の腫れた手首を湿布薬で手際よく手当てするのを見つめながら、熱いカモミールティーを飲んでいたことだけは、あざやかによみがえってくる。
アイリーンが捻挫をしたこともあって、ニックがかわりに運転して、わたしをタウンハウスまで送ってくれることになった。
彼のクルマの後部座席の床には、ビールの空き瓶がゴロゴロと転がっていた。
出がけにアイリーンが駆けよってきて同乗することになった。
ニックひとりにわたしを家まで送らせることが心配になったのにちがいなかった。
クルマは密室だからなにが起こるかわからないと彼女はささやいた。
空き瓶はカーヴを切るたびにカチンカチンと音を立て、そのたびに後部座席のアイリーンはニックをののしった。
「発情期だった馬をYokoにすすめるなんて」
「ごめん、ごめん」とニックは笑いながら肩をすくめた。
「その態度はなによ。大怪我をしたかもしれないのよ」
ニックはひたすら謝まっていた。
タウンハウスに着いて、わたしがクルマから降りると、アイリーンに声をかける間もなく、ニックはすぐさまクルマを発進させた。
「おかえり」
と緒斗は心配そうにわたしの顔をのぞきこんだ。
「いったい何があったんだ?」
わたしのひじには擦り傷があり、ジーンズのパンツには薄く穴があいていた。
落馬の話を聞かされた緒斗は、かなり衝撃を受けたらしく、わたしたちの冷戦はその夜に終結した。
それから2、3週間が過ぎたころだったか、夕食後に2匹の猫を遊ばせていると、ニックがとつぜん訪ねてきたのだった。
ニックと緒斗は初対面だった。
ニックはわたしたちに見せたいものがあるから、いまから彼の実の姉夫婦のところへ私たちふたりを連れて行くという。
あまりにも思いがけないことだったので、とまどっていると、ニックはこのように説明した。
そこに間借りをしてはいるけれども、部屋代はきちんと支払っているから、4ベッドルームの家を買ったばかりの姉夫婦にとっては、住宅ローンの返済もすこしは楽になっているはずだし、なんの問題もないよ、と。
ニックの姉夫婦は、わたしたち日本人とこうして話をするのは初めてだと言っていたが、人見知りをするどころかとてもフレンドリーだった。
みんなと一緒に軽食を楽しんだあと彼らは寝室に消えた。
不思議なことに、なにかを食べていた記憶はあるのだけれども、そのスナックがどんなものだったのかはおぼえていない。
ニックが見せたがっていたのはライフル銃のコレクションだった。
彼は狙撃兵になりたくてサンディエゴ郡にある海兵隊のベースキャンプに入隊志願したのだけれど、きびしい訓練についていけなくて、わずか2ヶ月で除隊したのだそうだ。
最低50回の腕立て伏せができなかったせいだとも言っていた。
彼はライフル銃を10丁ほどベッドの上に並べて見せてくれた。そのあと、彼は自慢そうに1丁ずつ手にとり、講釈を垂れはじめたのだ。
緒斗の伯父は狩猟が趣味だったので、子供のころは、伯父の家を訪ねるたびに散弾銃やライフル銃の使い方を教わっていたらしく、そんな緒斗がニックの講釈に相づちを打つたびに、ニックはうれしそうに白い歯を見せた。
わたしはライフル銃の話にはついていけなかったので、ニックの本棚に見つけたドストエフスキーの『死の家の記録』を開いて、英訳をぼんやりと眺めていた。
読みづらい英訳だと感じた記憶がある。
ライフル銃の自慢話が尽きたのか、ニックがわたしに声をかけてきた。
「Yoko、アイリーンが消えたんだ」
消えたという意味が理解できなかったので、わたしは少しのあいだ、返答ができなかった。
「彼女、先週からいなくなったんだ。もうカレッジにも出勤していなかったらしいよ」
「そういえば、最近、ナパカレッジのキャンパスでは見かけなかったわ」
ニックが言うには、カントリーハウスに手紙を残し、早朝に荷物をまとめて出て行ったらしい。
「おふくろは俺が原因で出て行ったんだって責めたてるんだけど、話はどうも違ってたみたいなんだ。昨日、例のカウントリーハウスに、ミネソタ州のミネアポリスから刑事がやってきて、ちょうどオレもそこにいたんだけど、地元ナパの警察官を2人も連れてきてさ。なんと、アイリーンには捜索願いが出てたらしいんだよ、一緒に住んでた男と共に」
「男って…旦那さんじゃ、ないの? わたしは彼女がDVで離婚調停中だって聞いてたけど」
「おれの両親も同じことを聞かされてたらしい。なんでも男とアイリーンは職場に休暇をとって、モンタナ州のグレイシャー国立公園にハイキングに出かけたらしいんだけど、帰ってくる予定日をだいぶ過ぎても連絡が取れないから、その男の弟さんが心配になって家を訪ねたら、帰ってきてる様子がうかがえない。しかも職場に電話をすると、職場にも連絡なしで、無断欠勤が続いていて、アイリーンの方も同じだったらしい。ひょっとすると、場所がモンタナのグレイシャーだけに、熊にでも襲われたんじゃないかというわけで、捜索願いを出したらしいんだよね。どこに宿泊していたのかもわからないままだったし。ところが、一ヶ月前に断崖絶壁の底で男の白骨化した死体が発見されたわけだよ。遺留品でアイリーンといっしょに出かけた男の身元がわかったらしい。ふつう、恋人が崖から落ちたら、なんらかの助けを呼ぼうとするよね。なにかあったときのために森林警察だって待機しているだろうし。となると、アイリーンだけがカリフォルニアにいるのは、おかしいよね。つまり、その恋人の男は事故で死んだんじゃなくて、もしかしたら、彼女に突き落とされて殺されたんじゃないのか、て刑事たちは考えてたようなんだ。おれたちにはわかんないけど、ほんとうは、そういう証拠もちゃんと集めて持ってたのかもしれない。なにしろ彼女は自分の過去を偽って俺の両親の家で暮らしてたわけだから。でもさ、やっぱりナパのカレッジで働いてたせいで、けっきょく社会保障番号から割り出されたんじゃないの? それにしても何か事情があったに違いないんだよな。いい女だったのに。俺に本当のことを話してくれたら何とかしてやれたのに。男の死体が熊の胃袋にでも消えてたら、あいつの身元も割れずに、自分の過去から逃げたりしなくても済んだだろうになぁ」
アイリーンが自分の恋人だった男性を殺した?
ニックからその話をきかされたあとも、そんなことはぜったいにありえない、とわたしはおもっていた。
そんなテレビドラマのなかの殺人事件みたい話を信じられるとでもおもってるの?
たとえそれがドキュメンタリー番組になったとしても、あの小柄できゃしゃな彼女が、ひとりの男性を断崖絶壁から突き落とすシーンなんて、どうしても目に浮かばなかった。
わたしはニックの話を耳にしながら、なんともいえない深い怒りのようなものを感じていたようにおもう。
そして、数年後に帰国してからも、聖母マリアのようにいつもやさしく微笑んでいたアイリーンのイメージだけが記憶に残っていたし、そのイメージはいまだに消えていない。
1982年 春 / ナパ
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