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執筆者の写真香月葉子

【ワインカントリー】死にかけていた子猫がゴールキーパーになった | 実話

更新日:10月6日


「どのあたりに埋めたんだっけ」

「あの木のそばよ」

 緒斗(おと)がカリフォルニア大学に編入することになり、バークレーへ引っ越しをするほんの数日前、わたしたちはナパのゆるやかな牧草の丘をのぼっていた。

 死んだ愛猫に最後の別れを告げるためだった。

 わたしは目印の木を覚えていた。

 その日、なだらかな丘には見渡すかぎり誰もいなかった。

 空は、雲ひとつなく、静かだった。


prompt by Kazuki Yoko | generated by Diffusion Bee

 丘の斜面には枝の張った1本の木が立っていて、西に面した丘のふもとには小さな湖があった。

 あの日、猫の屍(しかばね)を埋めるために、緒斗と一緒に土を掘っているとき、モトクロスに乗った少年がひとり湖畔を駈けめぐっていた。


 ツェランが死んだのは、5ヶ月前だった。

 タルキッシュアンゴラの白い猫だった。

 おとなしい猫だった。

 タウンハウス(長屋)の裏庭に迷いこんで死にかけていた猫だ。

 ナパで迎えた最初の夏で、まだ裏庭の雑草を生え放題にしていた頃だった。


ツェラン

 夕暮れが迫っていたことだけは、いまだにはっきりとおぼえている。

 北カリフォルニアの夕陽があまりにも綺麗だったので、緒斗とふたりで空をながめようと、キッチンから裏庭へ出ようとしていたとき、伸び放題の雑草の生えぎわのすきまに白いモノが見えた。


 タオルか何かが落ちているのかと思った。けれども膝のあたりまで伸びている雑草を踏み分けながら近づいていくと白っぽい猫が横たわっていた。

 まだほんの子猫だった。


 すぐそばで腰を低め、猫の鳴き声をまねてみたのだけれど、反応がないので、指先で注意深く胴体に触れてみた。

 ピクリとも動かない。

 緒斗はあまり関与したくなさそうな声色で言った。

「死んでるんじゃないのか?」

「温みがあるから、まだ生きてるとは思うけど」

「死にかけてるって状態だよね。あ〜あ、面倒くさいなぁ。このままにしておくわけにはいかないし」

 緒斗はそう言うと、白っぽい猫の腹の下へ手のひらをすべりこませ、そっと持ちあげた。そして、裏庭の平らな小石が敷きつめられた場所へ、ぐったりと死にかけたその生き物を横たえた。


 生まれて4ヶ月くらいの子猫のようだ。

 部屋の明かりのすぐ近くで見てみると、ひどく衰弱しているのがわかって、胸をしめつけられた。

 白い長い毛の猫だったのだろうけれども、いまはかなり汚れていた。

 黒ずんでいるというよりも、灰色に変わった全身のところどころが灰褐色に湿っていて、まるでボンドかセメダインをぬられたかのように固まっていた。


「あ、いま、目をあけたわ。うっすらと、だけど」

「気のせいかもしれないよ。そう思うからそう見えるってことがあるから」

「ううん、わたしのこと、ほんとうに、チラッと見たんだもの」

「捨て猫だとしても、捨てられてから、だいぶ時間がたってるみたいだな」

「この裏庭を死に場所に選んだのかしら」


 わたしたちはそんな会話を交わしながら、たぶん、お互いに対処の仕方を考えていたのにちがいない。


 家の中には1歳半のサティがいる。家に入れたら問題が起こるだろう。でも、このまま放置するわけにもいかない。だから、とにかく水とエサだけは与えてみよう。それでダメならあきらめよう。

 そういう結論になった。

 若さは、なにをするにしても、いつも、どこか、前のめりだ。


 猫はぐったりと横になったままだったが、その額を人差し指で軽くなでてやると、抵抗することもなく口を少しひらいたので、水をほんのすこし鼻にぬってみた。するとモゾモゾと口を動かして、わたしの指についた水をチロチロと舐めはじめた。

 とつぜんふくらんだ期待感にひっぱられたわたしは、こんどはツナの缶詰をあけて、その匂いを嗅がせてみることにした。

 その魚の匂いがその白猫のサヴァイバル本能をよび覚ましたのか、首をささえることさえできそうにないのに、よろよろと起きあがろうとする。

 わたしたちは目を見張った。


 緒斗はさっそく水を入れた容器と少量のツナを入れた皿を並べて、それを子猫の鼻先へおしやった。

 すると、灰色の子猫は、ためらうようすもなく、まっさきに水を飲みはじめ、ほとんど飲み終えたところで、こんどは小皿にのせたツナを食べはじめた。

 しかも皿に乗せたツナを全て食べ終えると、その皿をペロペロと舐めはじめたのだ。

 よほどお腹をすかせていたのだろう、わたしはふたたび少量のツナを皿に乗せた。

 3回目のおかわりで、ようやくお腹を満たすことができたのか、子猫は、ふらつきながらも、一所懸命に自分の汚れた毛を舐めはじめた。


「こんなに汚い毛をなめたら、バイ菌や寄生虫が体にはいってしまうんじゃないかしら」

「体力的にはちょっと心配だし、危険なことかもしれないけれど、洗ったほうがいいのかな」

 その緒斗の言葉に(この猫の面倒を見よう)という意思が感じとられたので、わたしはホッとした。

 わたしも同じ気持ちだったからだ。


 ふりかえって上を向くと、サティがキッチンの窓から、じっとわたしたちの様子をうかがっていた。


 わたしは何の抵抗もしない白猫をタオルにくるんで、サティに見られないように隠したまま、2階へ抱いてあがり、すばやくバスルームに持ち運んだ。

 緒斗はすばやくバスタブを洗い、足首がつかるあたりまで湯をためたあと、汚れた子猫の背中にシャンプーをつけ、やさしいていねいな指づかいで泡をたてはじめた。


 ロングヘアーだった子猫も、全身がぐっしょりと濡れてしまうと、その痩せほそった体の輪郭がくっきりと浮き彫りになってきた。

 文字通り「骨と皮」といっても大げさすぎるわけではなかった。


 驚いたことに、子猫はシャワーの湯水を浴びせられても、ほとんど無抵抗で、ときおり小さく「ウッウ〜ッ」と唸(うな)るだけだった。

 すべてを完全に緒斗の手にゆだねているとしか思えなかった。

「サティだったら、爪を立ててでも抵抗するはずなのに、この子は水を嫌がらないのね」

「見てごらん。蚤(ノミ)の量が半端じゃないよ。シャンプーなんて屁でもないって感じで毛の根もとをうごめきまわってる。何とかしなきゃいけないな」

「ほんとにノミだらけだわ。みんなの餌食になってたんだね。かわいそうに」

 そのあいだも、異変を感じたサティは、しきりにバスルームの扉を引っかきながら、「開けろ、開けろ」と、うるさく鳴きはじめた。


 その夜は2匹を合わせるわけにはいかないので、緒斗はサティの機嫌をとりながら、1階のリビングルームで寝て、わたしは2階の寝室で白猫のノミの除去に徹夜することになった。

 わたしは、ノミを見つけるたびに、1匹ずつ、両手の親指の爪にはさんで、プチッとつぶしていった。


 バークレーで暮らしていたころ、アパートメントのオーナーの息子さんからサティをもらい受けたとき、外猫だったサティの体からノミを取りのぞく作業に夢中になったことがあった。

 自分の毛をなめるのが仕事の猫に薬剤をつかうのがためらわれたからだ。


 でも、それは嘘で、ほんとうの理由はべつのところにあった。


 21歳の女子大生になっても、帰省するたびに、あいかわらず夕方の6時を門限としていた父や、おとなしくその門限にしたがっていた自分自身、そして、幼いころ、ことあるごとに『ネンネ』や『ノロマ』や『おバカ』と姉に言われていたこと、そして小学生のころに数学の塾の先生に抱きすくめられて頬ずりをされた恐ろしい出来事を思い出し、乗り遅れた怒りや吐き気をおぼえつつ、1匹1匹ノミをプチプチとつぶしていると、すこしずつ心がしずまるのだった。


 ノミの大量虐殺にはげむわたしは独特のオーラを発していたらしく、緒斗はそんなわたしに気がつくと、わたしのかわりに夕食の用意をしたり部屋を掃除したり洗濯をしたりして、終日、かまわないでいてくれた。


 子猫の体から取りのぞいた自分の成果を見るために、黒胡麻のような蚤(ノミ)の死骸をキッチンペーパーの上に並べて数えてみると、合計は250匹だった。

 わたしはその数をノートにつけて勝利感に酔った。

 キッチンペーパーの上の半数以上のノミの死骸には血のにじみがあった。


 翌日、ナパの電話番号帳でさがしあてた獣医のもとへ連れて行き、ワクチンを打ってもらった。目ヤニを治療するための薬と、猫の耳に寄生しているダニを除去するための薬にくわえて、おなかの中の回虫を駆除するための薬も処方してもらった。


 白人の獣医は70近い年齢で、ひどく無愛想で、こちらが質問をしても、あまり答える気力すらないようすで、けっきょく猫の種類もわからずじまいだったけれども、その子猫がオスだということだけはたしかめることができた。


 名前はわたしの好きな詩人にちなんでツェランにした。


 3日後にはじめてサティと顔合わせをさせることになった。


 サティはさっそく子猫を威嚇しはじめ、すぐにバトルが始まった。

 おたがいに、ウウウゥ〜と低くうなりながら、じっと睨みあっていたかとおもったら、新入りのツェランが逃げ腰になったとたん、先住者のサティが高速で猫パンチをくりだし、逃げても逃げても追っかけまわすので、短時間で初回ミーティングを終了させることになった。


 やはりオス同士は、なわばり意識が強いのか、難しいのかもしれないと感じた。だからわたしはツェランの体力を回復させつつ、すこしずつ2匹を会わせる時間を増やすことにした。それを続けているうちに、バトル後、ツェランがうずくまって、足でおさえつけられても、叩かれても、たとえ、うなじのあたりをガブッと噛まれても、まったく反撃をしなくなると、サティはすぐさま攻撃を中断するようになった。


サティとツェラン

 日ごとにツェランの食欲は増し、動きも敏捷さを増してきたので、ちょうど2週間がたったころ、思い切ってツェランに去勢手術を受けさせることにした。


 手術の日、例の老いた獣医に猫を預けることになった。

 手ぶらでもどると、先住者のサティは邪魔者がいなくなったとばかりに、わたしたちのふくらはぎにまとわりついて、尻尾をまっすぐに立てながら、わたしたちへの好意をつたえてきた。


 そのあとツェランを隔離していた部屋にサティを入れてやると、新参者の子猫の匂いが残っているらしく、しつこく部屋の隅々を嗅ぎまわり、いいかげんなところでやめさせようとしても、すぐに同じ場所へもどって匂いを嗅ぎはじめたりしていた。

 そのうち、夜が更けると、こんどは鳴きはじめたのである。

 どこへ向かって鳴いているのかわからなかった。

 まるで犬の遠吠(とおぼえ)のようにあごを上へ向けて鳴いていた。

 いなくなった仲間を呼びもどそうとしているかのようにも聞こえた。


 翌日、病院からツェランを連れて帰ったあと、ふたたび2階の部屋に白い子猫を隔離すると、サティは部屋の扉をカリカリと引っ掻いて、さっそく鳴き声をあげはじめた。


 新入りのツェランを出迎えているのかもしれなかったが、手術後まもない子猫をサティが追いかけまわすことだってありえるし、不安だったので、このまま数日は様子をみることにした。


 サティは翌日も同じように扉を引っ掻いて、ツェランに会わせろとばかりに、尻尾を立てておべっかを使い、足もとをくるくると回るので、翌々日、わたしは同じ部屋で2匹の猫に食事をとらせることにした。


 わたしたちヒトにとっては再会を祝うための食事だったのだけれども、猫たちがそれをどのように受けとめていたのかはわからない。


 サティが先に食べ始めると、様子をうかがっていたツェランもおずおずと食べ始めた。

 2匹は争うこともなく、きちんと横に並んで、それぞれの皿に頭をたれて、おたがいを気にとめることもなく食べていた。

 しかも、サティが少量を食べ残したままその場を去ると、ツェランは、悩むようすもなくサティの場所に移って、その食べ残しに口をつけはじめた。

 うれしかった。


 サティに比べるとツェランは鳴き声も小さく、ひかえめで、何事をするにも遠慮がちだった。


 わたしが横になると、サティは、すぐさまベッドに跳びのり、まずわたしの鎖骨あたりに体の半分を横たえ、両方の前足をわたしの胸に乗せてゴロゴロと喉を鳴らしはじめるのが常だった。

 つづいてベッドへあがってきたツェランは、わたしのおなかの上に横になろうとするのだけれども、サティが低いうなり声をたてると、しかたなさそうに目をしばたたかせながら、足元に身を置く。


 わたしの顔に一番近いところにサティ、一歩下がってツェランという身の置き方なのだ。


 サティが庭にやってきた小鳥たちに夢中になっているときなど、幾度かツェランを胸に抱き寄せて横になっていたことがあったが、じきにサティがやってきて、ツェランのおでこを後ろ足で蹴りはじめた

 まるでトイレで用を足したあと、砂をかけるかのようにして。

 そこはオレの場所だから退(の)け、とでも言いたげな風だった。するとツェランは抵抗することもなくすぐに引き下がるので、わたしはいつも心が痛んだが、猫同士の関係を平和に保つためにはしかたのないことだとあきらめてもいた。

 ヒトのわたしが介入して彼らの力関係を崩すわけにはいかない。

 それにサティを優先的にあつかうようになってツェランを攻撃しなくなったことにも気がついていた。


ツェランとサティ

 ツェランを飼い始めてちょうどひと月が過ぎようとしていたころだったか、タウンハウスの扉を叩く音がしたので、そばにいたツェランを抱きかかえたまま扉を開けると、かなり年配の白人の女性が立っていた。

 中庭をはさんで向かい側のタウンハウスの棟に住んでいる女性だった。

「あら、やっぱり、わたしの猫だわ。ときどきこのタウンハウスの前を通ったときに部屋のなかが見えてね。それ、わたしの猫だから、返してよ」

 わたしは突然の来訪に驚かされただけではなくて、彼女のあまりにも唐突な要求におどろかされた。


 ツェランはわたしの胸に抱かれたままじっとしていた。足元にはサティがやってきて、行儀良く腰をおろし、いったい何事なのかとその女性を見上げていた。

「ほんの4ヶ月にも満たない子猫だったのですが、親猫を飼っておられるんですか?」

「親猫なんていないわよ。わたしの友だちからもらったんだもの」

「見つけたとき、死にかけてました。ほんとうにむごい状態で」

「わたしの部屋から逃げ出して迷子になったのにちがいないわ」

「おっしゃってることがチンプンカンプンで、とても信じられない話です」

 それでも彼女は、ツェランはどうしても自分の猫だと言い張り、そのうちわたしを泥棒呼ばわりし始めた。

「だったら、この子をあなたがつけた名前で呼んでみてもらえますか?」

 彼女は「キティ、キティ」とほほえみかけたあと、猫の名前を言ったようだったが、ツェランの反応はなかった。

 ピクリと耳を動かすことすらしなかった。

 わたしははっきりした態度で事情を説明した。

「もういちど言っておきますけど、この子は誰かに飼われていたような状態ではなかったんです。裏庭に見つけたときは、体は蚤だらけで、耳の奥は寄生虫だらけで、やせ細っていて、ほとんど死にかけていたんですよ」

「生意気に、何よ。アジア人のくせに。その猫は、産まれたときから、わたしが大切に育ててたんだよ」

「そこまで言うのでしたら、どうぞ」とわたしは抱いていたツェランを彼女に抱かせようとした。

 とたんにツェランは彼女に爪をたて、その手首を引っ掻いたあと、わたしの胸にしがみついて唸り声をもらしたのだ。

 しかもサティまでもが同時に彼女に向かって唸りはじめた。


 その突然の威嚇するようなサティの声に驚いたのか、彼女はわたしに向かって、吐きすてるように「ジャップ女……」とつぶやくと、自分のタウンハウスへもどっていった。


 たとえ、もとの飼い主がほんとうに彼女だったとしても、わたしは最初から返すつもりはなかった。

 緒斗とわたしが雑草の中に埋もれていた子猫の存在に気づかなければ、この猫は死んでいただろう。

 ツェランがわたしたちの裏庭を死に場所にえらんだのかどうかはわからないけれども、生き返らせたのがわたしたちだということにまちがいはなかった。


 過去のトラウマに苦しむ能力を猫がそなえているのかどうか知らないけれど、たとえ裏庭につづくガラス扉を開けっぱなしにしていても、ツェランは、ほとんど外に出ようとはしなかった。ほんの数回ほどサティに付き合って、平らな小石が敷き詰められた場所まですすんだことがあったが、すぐさま引き返してきて、わたしの膝にのってきた。


 食べることが好きで家にいるのが好きだった。

 ほんとうに静かでおとなしい猫だった。

 室内楽が好きで、カセットデッキからサミュエル・バーバーの『弦楽のためのアダージョ』を流してやると、サティといっしょにスピーカーのすぐ近くに陣取って、じっと耳をすませているのだった。


ラジカセ

 ところで、ツェランは、ふたつ、おもしろい特技を持っていた。

 わたしがバスタブにためた湯に浸かっていると、必ずやってきて、バスタブの狭いフチを尻尾を立てながら歩くのだ。

 まるで曲芸を披露しているかのように。

 いちど、誤って湯のなかへ落ちた時の出来事は忘れられない。

 すぐさま抱きあげようとしたのだけれど、ツェランはあわてることもなくスイスイと泳ぎはじめた。

 わたしは驚いて緒斗を呼んだ。

「へえ、猫のくせに、水を怖がらないなんて、すごいやつだな」

「そういえば、はじめて来たとき、シャワーを嫌がらなかったものね」

「死にかけてたから、それどころじゃないって感じだと思ってたよ」

「たしか『猫の飼い方ガイド』のなかに、タルキッシュアンゴラは泳げる猫だ、て書いてあったような気がするわ」


 ツェランは、また、わたしが毛糸で作ったボールを追いかけるのが大好きだった。

 緒斗と3メートルほどの距離をあけてフロアにぺたりとすわり、そのボールを投げ合っていると、たちまちツェランがやってきて、わたしたちふたりのまんなかにすわり、しばらく真上を行き交う毛糸ボールを目で追いかけていたかとおもったら、その場でとつぜん真上に高くジャンプし、前足ふたつを使って、人間のようにボールをキャッチするのだ。

 まるでサッカーのゴールキーパーみたいに。

 しかも、まぐれではなく、それを何度でもやってのけるのだった。

「こいつ、そのうちテレビ番組に出演できるかもしれないよ。ボールをあつかう曲芸をおぼえこませたらカネになるかもね」

「バカね、なにを言ってるの」

「おい、ツェラン、もっともっと練習に励んで、貧乏学生にカネを運んでくるんだ。わかったな」

 サティも挑戦したが、ボールを片手でたたき落とすだけで精一杯だった。

 けれども、ツェランの名を呼んで、そちらへ毛糸ボールを投げると、その白い猫は、宙に跳びあがり、前足でみごとにボールをつかんだかと思ったら、それを手放すこともなく、すばやく身を反転させて着地する。

 そして「もういちど投げて」と要求するかのように、両方の前足でポンとこちらへボールをおしやる。

「こいつ、前世は、きっと、犬だったんだよ」

「そうにちがいないわ」

「おい、ツェラン。ワンと吠えてごらん」


 ただ、ひとつ、困ったことがあった。

 ツェランは、その空中ボールキャッチ遊びを、体力のつづく限りやめようとしないのだ。

 こちらがやめようとすると、わたしにすりより、胸までのぼってきて、わたしの首に頬ずりする。

 引きはがそうとすると服に爪を立てて抱きついてきた。

 だからわたしたちは、暇をみては狭い部屋のなかでボールを投げ合い、ツェランが疲れ果てるまでゴールキーパー遊びを楽しませてやらなければいけなかった。


 そのツェランがおしっこをするたびに小さく唸るようになったのが、翌々年の2月頃だった。

 2月のいつごろだったのかは、いまだにおもいだせない。

 ことあるごとにひざまでのぼってきて甘えるようになった。


 そのうち食欲旺盛だったツェランが、サティの食べ残しをすら食べなくなり、水を飲む量も減ってきて、心配になったわたしが、ツェランの大好物の蒸した鶏のささみ肉をあげると、わたしの顔色をうかがいながら無理をしてでも食べようとする。

 そして翌日の日曜日の朝、ツェランはあっけなく死んでしまった。

 わたしが寝床用に作ったカゴのなかに横になったまま、一度っきり大きな声をあげて息絶えたのだ。

 ツェランに呼ばれた気がして、あわててカゴをのぞきこんだら、目をうっすらと半開きにしていたので、びっくりして名前を呼びながらゆりうごかしたのだけれども、微動だにしなかった。

 あまりにもあっけない死の訪れだった。

 なにが起こったのか理解ができなかった。

 そのときサティがどこにいたのかすらおもいだせない。そばにきてツェランの匂いを嗅ごうとするので、なんども「向こうにいきなさい」と押しやったような気はする。

 わたしはトイレへ駆けこんで胃液をもどした。

 口をぬぐいながら、バスルームの窓を見上げたとき、その切り取られた窓の四角形のなかに閉じこめられたカリフォルニアの深い青空だけは、なぜかいまでもくっきりと記憶に残っている。

 1983年2月20日の日曜日だった。


「あのヤブ医者がいいかげんな手術をしたせいだ。あんな病院で去勢手術をしたのがまちがいだったんだ。きっと、尿毒症になったんだよ。手術のときに病原菌が入ったか、どこか別の場所を傷つけられたんだ。そうに決まってるよ」

 緒斗はその悲しみを怒りに変えることでなだめようとしているようだった。

「だってナパには犬猫病院がないんだもの。あのお医者さんだって、専門は牛と馬だって、ちゃんと看板に書いてあったし」

「ど田舎なんだよ。バークレーに連れていってやってたら、なんの問題もなかったんだ。この街のせいだよ。この街の無知な白人獣医のせいだ」


 ツェランと暮らしたのはわずか1年と数ヶ月にしか満たないのだけれども、何年もいっしょに暮らしたように感じられるのは、時の流れにおぼれることもあるヒトの心の不思議さなのかもしれない。


 さんざんふたりで泣いたあと、この子の屍をどうしたらいいのか悩んだのだけれども、たとえ法律を犯してでも、ツェランはわたしたちが愛していた風景を見晴らせるところへ埋めたい、ということに決まった。


 昼下がりになって、緒斗とわたしは丘への細い道をたどっていった。緒斗が背負ったバックパックの中には、硬くなったツェランが入っていた。

 ときおり「きゅっ、きゅっ」とバックパックの中から小さな音がした。

 まるでツェランが鼻声を立てているかのようにも聞こえた。


 なだらかな牧草地の丘にはほとんど樹々がなかったが、頂上に近いところの斜面に、大きく枝を張った木があった。


 緒斗とわたしはその木の根元に立ち、湖を見渡すことのできる場所をえらんで、時間をかけて深い穴を掘り、そこにツェランを埋めた。


 オートバイのようなバリバリしたエンジン音が聞こえてきたので、湖畔を見下ろすと、モトクロスにまたがった少年が湖のまわりを駆けめぐっていた。

 周囲の斜面に反響していたその音がいまでも耳の奥に聞こえてくる。


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「野犬に掘り返されちゃいけないからね」

「この斜面はだいじょうぶかしら」

「ここは草が茂ってて地盤がしっかりしてるからだいじょうぶだと思うよ」

「ここからだと、ツェランは、わたしたちが大好きだった湖を、いつでも見下ろすことができるわよね」

「うん」


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 わたしたちはしばらくの間、ツェランを埋めた場所に腰をおろして湖を眺めたあと、空がオレンジ色に染まりはじめたころ、牧草の丘をゆっくりと下っていった。


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 タウンハウスの中庭までもどったとき、サティの鳴き声が聞こえてきた。


 扉をあけると、いつものように、わたしのふくらはぎへすり寄ってきた。けれども、サティの好物をお皿に盛っても、ほとんど食べない。かわりに、突如としていなくなった仲間の寝床を嗅いでは、わたしの顔色をうかがいにきた。

 そのジェスチャを何度もくりかえすのを見るのがつらかった。

 そのあと、サティは窓辺に座って、いつまでも、じっと窓の外を眺めていた。


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 あれから数十年が過ぎ去ったが、いまだにすべてが昨日のことのようだし、そのときの痛みもあのときのままだ。

 時の流れはなにも解決してくれなかった。

 

 




1983年 夏 / ナパ




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