B-boyとバレリーナと麻薬戦争
1983年のカリフォルニア大学にあらわれたB-boyたち
はじめてこの目で、それもすぐ目と鼻の先でブレイクダンスを見たのは、カリフォルニア大学バークレー校キャンパスへの入り口にたたずむ学生会館(Student Union)の前の広々したプロムナード(散歩道)ででした。
セイザーロードと呼ばれている場所で、散歩道とはいっても4車線の道路くらいの広さがあります。
1983年のことでした。9月ころだったと思います。
モータウン25に登場したマイケル・ジャクソンのムーンウォークに感動してからそれほど時間はたっていませんでした。
最初に目に入ってきたのは、たくさんの人だかりでした。
そして、そのまんなかあたりから聞こえてきたのは、ヒップホップ・ミュージックでした。
日本にいるときとちがって、集まっている人々の髪の色がさまざまなので、『黒山の人だかり』という表現は使えません。
バークレー校の学生たちだけではなく、教授や観光客の姿もちらほら見かけました。ですから、よりいっそうの好奇心にかられて、わたしはその人の輪にくわわることにしたのです。
しつこいくらいに「Excuse Me」と「Sorry」をくりかえしながら、上背のある男性たちのすきまに身をすべりこませていくと、輪のまんなかに14、5歳の黒人の少年たちが10人くらいあつまっていました。
ステージはつぶしたダンボール箱
彼らの足もとには平たくつぶしたダンボール箱が敷(し)きつめられていて、その上で向かいあった少年ふたりが、大きなラジカセから鳴り響いてくるヒップホップの音楽をバックに、まるでおたがいにケンカを売っているかのような煽(あお)りサインを投げては返していました。
まるで手話(しゅわ)をしているようにすら見える手指と腕の動きでした。
そのうち、とつぜん、片方の少年が踊りはじめたのです。
まるで、その年に大流行した映画「フラッシュダンス」(Flashdance)のなかのストリートダンサーたちが、いきおいよく銀幕から飛び出して、そのまま現実の世界に登場したかのようでした。
つぶした段ボール箱をしきつめて作った簡易ステージの上で、すばやく足を交差させては両腕をふり、ぴょんぴょん跳ねまわっていたかと思ったら、急にオリンピックの体操選手が鞍馬(あんば)種目に出場しているかのような技を披露(ひろう)し、そのままアルマジロみたいに体をまるめたあとは、腰と背骨を軸にして駒のようにクルクルと回転したり、さかだちの状態で頭のてっぺんと首だけを軸にしてグルグルとまわったりしながら、あぐらをかくように足を組みかえたりするのです。
ふたりだけで楽しむためのダンス。
みんなで楽しむためのダンス。
みんなに何かを伝えるためのダンス。
みんなで祝うためのダンス。
相手を知るためのダンス。
相手を誘惑するためのダンス。
相手に愛を伝えるためのダンス。
たったひとりで踊る、孤独をいやすためのダンス。
たったひとりで踊る、思い出にひたるためのダンス。
心にたまっていたもの、体にたまっていたものを解き放つためのダンス。
音楽や絵画や写真を肉体の動きで表現するためのダンス。
ことばにならない物語をつむぎだすためのダンス。
そのどれでもありません。
それまで見たこともないダンスでした。
オードリー・ヘップバーンがもっとも憧れた女性とは?
わたしが女子校生だった時分には、一方ではピンク・フロイドの「神秘」や「ウマグマ」を聴きつつ、もう一方ではスタイリスティックス(The Stylistics)やビージーズ(Bee Gees)などのディスコ音楽に胸を躍らせていました。
東京で大学に通っていたころには、映画「サタデーナイト・フィーバー」でクライマックスをむかえるディスコの時代がおとずれていました。
とは言っても、父がきびしかったものですから、カリフォルニアに行くまでは、あこがれのディスコティーク(discothèque)に足を踏み入れたことは一度もありませんでした。
それだけに、はじめてサンフランシスコのスタジオ・ウエスト・ナイトクラブから鳴り響いてくる音の壁をくぐりぬけてホールに入ったときには、ほんとうに胸が熱くなりました。
そのスタジオ・ウエストでも少年たちのようなダンスをしている人は見たことがありません。
少年たちは、じっさいに拳をふりあげないかわりに、ダンスという武器でたがいに闘っているかのようにも見えました。
そのことで胸がいっぱいになったのです。
ところで、一生「わたしは女優になるつもりはありませんでした。バレリーナになりたかったのです」と言いつづけたオードリー・ヘップバーンが、バレリーナ修業時代にもっとも憧れていた女性がマーゴ・フォンテイン(Margot Fonteyn)というバレエダンサーでした。
英国のロイヤル・バレエ団のプリマ・バレリーナだった方です。
わたしも大好きでした。
それでも「白鳥の湖」とは縁もゆかりもないストリートダンサーであるB-Boyたちの動きを見ていて感動したのです。
麻薬戦争と全米最恐の都市オークランド
1980年代のアメリカは経済的バブルの時代であったのと同時に麻薬組織(カルテル)との10年戦争時代とも呼ばれています。
中南米や南米では麻薬王と呼ばれる人たちが君臨していて、米国にもたくさん麻薬が入ってきたために、それをもとに富と地位をきずいて、自分たちが住んでいる街での覇権(はけん)をにぎろうとするギャング団が数多く生まれたことは、PBS(公共放送局)で公開されたドキュメンタリー番組などで学んでいました。
そんなギャング団にそそのかされた12、3歳の少年たちが、自分たちの顔よりも大きな拳銃を手わたされて小さな麻薬売人となり、毎日、どこかの大都会のすみっこで、だれかに殺されたり、だれかを殺したりしているというニュースは、いやでも耳に入ってきました。
そんな時代に、ニューヨークを抜いて『全米で最も危険な都市』に選ばれたオークランドから、その少年たちは、平たくつぶした段ボール箱を小脇にかかえて、7キロの道のりを徒歩でバークレーまできていたのです。
見物していた白人の学生たちの幾人かがそのことを教えてくれました。
数十分前にテレグラフ通りをオークランド方面から歩いてくる少年たちを見かけた、と。
オークランドは、サンフランシスコ湾をはさんで、その対岸にあります。
アメリカのなかでもとくに人種のるつぼの街として知られている港湾都市のひとつです。
街のまんなかには、東京の吉祥寺にある井の頭池とおなじように、人工のメリット湖があり、住宅地にはビクトリア朝の建物が多く、ダウンタウンのビルディングには古いカリフォルニアの名残があって、とても美しい外観をそなえた街です。
けれども、さきほど読んでいただいたように、わたしがバークレーに住んでいたころの1980年代には、犯罪率がニューヨーク市(The Big Apple)の2倍になったとつたえられ、全米ナンバーワンの犯罪都市に認定されたこともあります。
そのオークランドの中心部から北へ7キロほど向かうと、キャンパスの広大さと美しさにおいて、全米の大学で首位の座に選ばれたこともあるカリフォルニア大学バークレー校があります。
学園都市のバークレー市(The City of Berkeley)はその広大な敷地を取りかこむようにして発展してきた街です。
隣街オークランドの中心街からはじまるテレグラフ通り(Telegraph Avenue)のつきあたりが、そのまま大学のキャンパスの入り口のセイザーロードにつながっています。
あのころは、その入り口あたりに、かならずといってよいほど中東料理『ファラフェル』の屋台が出ていました。
はるばるポルトガルから渡ってきて日本独自の変化をとげた『コロッケ』を、ちょっぴりスパイシーにしたミートボールのようなフェラフェルが流行中だったのです。
もちろん、T字の下の長い軸をテレグラフ通りとすると、その横軸のバンクロフト通りをほんのすこし登れば、メキシコ料理の定番タコスとブリトーを売っている屋台(Taco Truck)もいくつか出ていました。
けれども学生のあいだで人気のあったのはファラフェルをピタパンにつつんで提供する屋台のほうでした。
新し物好きなカリフォルニア人(Californian)らしいストリートフードの選択です。
お手玉のようなボールを足で蹴って遊ぶ「フットバッグ」もフリスビー以上に流行っていました。
でも、わたしの耳にしたところでは、黒人の少年ダンサーたちは、帽子のなかに投げ入れられたクォーター(25セント硬貨)やグリーン(ドル札)をかきあつめたあと、お洒落なフェラフェルには目もくれず、帰路の途中に待っている大きなマクドナルドのお店に立ち寄って、みんなでハンバーガーを食べていたそうです。
当時は1ドルがおよそ220円くらいでしたけれど、マクドナルドのコーヒーはたしか50セントもあれば飲むことができましたし、しかも何度でもおかわり(refill)ができました。1ドル札が一枚あれば、ハンバーガーとフレンチフライを楽しむことができたような記憶がありますけれど、ちがっているかもしれません。
銃を握るな、物語を作れ、ダンスを学べ
そんな少年たちが帰っていくオークランドというホームタウンはギャング団同士の争いがたえない街でした。
社会心理学のクラスに、そのオークランドから来ていた黒人の女子大生がいまして、彼女から聞いたところによりますと、夜の通りを歩くということはたえず命の選択を迫られるのとおなじことだったそうです。
いつ何が起こるかわからないという状況だったと語ってくれました。
「わたしの場合は、父が弁護士だから、いまバークレーの学生寮(dorm = dormitory)に住まわせてもらってるけど、まるで『オズの魔法使い』のなかの夢の国にいるみたい。わずか7キロの距離で世界はこんなにもちがうのね」
そんな暴力と麻薬と銃撃戦の日々から、できるだけ遠くへ逃げ出したい少年たちが、〈ものがたり〉をつくる才能を生かしてことばを連射するラッパー(rapper)になったり、ダンスの才能を生かしてB-Boy(Break boy)になって末はソウルトレインに登場したり、コンクリートジャングルと呼ばれる大都会の片すみでボールを奪い合いながらNBL(ナショナル・バスケットボール・リーグ)の選手を夢に見ているのだと聞かされました。
「だから詩を書くにしても、踊るにしても、バスケットボールをするにしても、ほとんど命がけでがんばってるのだと思うわ」
ことばの意味と音と韻を自由自在にあやつりながらギャングたちの物語を記録していくラッパーたちは、それだけでギャングメンバーからも一目置かれているということでした。
古代ギリシャや古代ローマでも、じっさいに戦場で闘った英雄たちのかたわらには、彼らのエピソードを記録する歴史家や抒情詩人たちがいたように、じっさいのストリートで起こっている死と愛と友情と裏切り、または恐怖や孤独を記録するラッパーたちは、ある意味で貴重な存在だったのかもしれません。
そしてブレイクダンサーのB-Boyたちは、隣町のギャングメンバーと鉢合わせしたとき、殴り合ったり、刺し合ったり、撃ち合ったりするかわりに、闘志をむきだしにしながらもダンス・バトルで決着をつけようとしたのでしょう。
アフリカでも南米でもニュージーランドでも、伝統的な戦士のダンスや戦闘ダンスには、古くからの部族間の戦いのもようが語られているようです。
もしかしたら、そんなB-Boyたちの鍛錬と修練は、ロイヤル・バレエ団やパリオペラ座バレエ団やレニングラード・バレエ団などに所属しているクラシックバレエ(classical ballet / academic dance)のダンサーたちのものと比べても、けっして引けをとらないものなのかもしれません。
とにかく、あの日、わたしはこの目ではじめてブレイクダンスというものを見て、ヒップホップ文化の一端(いったん)に、ほんのすこし触れることができたのです。
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