ずいぶんとこのごろ、ソーシャルメディア(Social Media)ということばを耳にすることが多くなりました。
『社交のかけ橋』のようなものだと思っています。
いつだって会えるひと、まだ会ったことのないひと、しばらく会うことのなかったひと、会いたくても遠くにいて会えないひと、あまり会いたくはないのだけれどおもしろそうなひと。
そんなひとびとでいっぱいです。
もしかしたら、まだ会ったことのないひとはみんな〈架空のだれか〉を演じているだけなのかもしれません。男の人だとおもっていたら女の人だったり、初老の女性だとばかり思っていたら男子高校生だったり。
けれど、たくさんの方々が、ご自身を、それぞれ、おもいおもいのイメージにくるんでさしだしています。つまり、ご自身を〈作品〉にしておられるのです。そんなみなさんと、じっさいには見えない橋の上や広場やお部屋のなかで、おしゃべりしたいときにおしゃべりできる、そんな社会が目の前にあって、そんな社会を生きています。
じっさいにそこでたがいに手をとりあうことはできませんが、手をとりあったようなきもちにさせてくれることばがあります。じっさいにそこで相手の方のお顔を見つめることはできないけれど、イメージがあります。じっさいにそこで相手の方の声を聞くことはできなくても、かわりに、プログラムのことばでつくられた音や、回線をながれてくる音で、その方のものらしき声を聞くことはできます。
ただし、わたしたちが恩恵を受けているこの『社交の架け橋』は、あくまでもSNSと呼ばれる架空の世界のなかでの架け橋なのです。
以前とは〈つながる〉という意味あいがすっかり変わってしまいました。
このブログもソーシャルメディアのひとつです。
はじめての出逢いが、いま、あなたがこれを読んでくださっているこの瞬間にも、手のひらの上、デスクの上で、たくさん生まれているのにちがいありません。
〈速度は快感〉ということばを耳にしたことがあります。
あっという間につながる、という出来事は、たしかに快感のひとつかもしれません。
そしてSNSはまさに速度の快感そのものです。
わたしはなんでもゆっくりとたのしむほうが好きですけれど。
よく「食べるのがおそい」と姉にしかられていました。
でも、とにかく、なにかがジェット戦闘機のように速くても、たとえ山奥を走るバスのようにのろくても、ひとはみな心地よいことがうれしい生きものではないでしょうか。
女の子はとくにそうだとおもいます、だなんて書くと、性差別者(sexist)と言われそうですけれど、わたしをふくめて、友だちや知りあいを見ていても、女は心地よいことに貪欲(insatiable)な生きものではないかしら、とそんな気がしています。
ただ、ひとそれぞれ、心地よいと感じることがちがっているだけで。
サディズムとマゾヒズムということばのもとになったマルキ・ド・サド侯爵やマゾッホ博士でしたら、いまのわたしの意見に、きっと、とうぜんのようにうなずいてくださるはずです。
もし、サド侯爵やマゾッホ博士がいまの時代を生きていたら、やはりSNSという『社交の架け橋』を利用して、たくさんのお相手を見つけていたかもしれませんね。
さて、ソーシャルメディアのなかには、ごぞんじのように、TikTokやLineやFacebookやTwitterやInstagramやYouTubeなど、いろいろなものがありますけれど、それらすべてが、クモの巣のようにはりめぐらされたSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)によって、みなさんとわたし、あなたとわたし、をつないでくれます。
そのむつかしい仕組みはわかりませんけれど、その仕組みから恩恵をうけることはかんたんです。
たいして努力をすることすらありません。
指をうごかしてさえいればなんとかなります。
ありがたいことだとおもっています。
インターネットということばに胸をときめかせてから30年以上はたったでしょうか、ついこのあいだ、なにげなく海外のドキュメンタリー映画をみていたら、トロール漁業のようすが描かれていました。
大きなトロール網(あみ)を大きな機械でまきあげていくのですが、その大きな網のなかに、大きな水泳プールをいっぱいにしてしまうほどのお魚がぎっしりとつまっていました。
ちょっとギョッとしました。
いいえ、けっして語呂合わせではありません。
一網打尽(いちもうだじん)ということばがありますが、まさにそういう印象をうけました。
ネットというのは網のことですから、わたしたちは、もしかしたら、ソーシャルネットワーキングによって〈一網打尽〉にされたお魚でもあるのかもしれませんね。
見ていて、ほんのすこしドキッとしました。
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