ふたまたのクロスロードだった。
あの分かれ道で右の方角を選んだのがいけなかったのだと後悔しはじめていた。
あの分かれ道にさしかかるまでは、白いフォードLTDの後部座席の窓からカリフォルニアの深青い空を見上げたり、どこまでもつづく葡萄畑をながめたりしていたのに、一瞬にして、なにもかもが変わってしまった。
ロマンス映画を観ているはずが、物語のまんなかあたりから、いつのまにかホラー映画を観ていることに気づかされたような不思議な感覚だ。
地図をもたずに旅をするのが好きなわたしには、いまだにこういうことが起きてしまう。
それがアクシデントなのか、それともアドベンチャーなのか、それはいつも後悔の度合いによって決まる。
もとはといえば、緒斗がナパカレッジに入学することになったので、ガールフレンドのリヴを誘って、3人でいっしょにナパという街を下見してみよう、という計画がきっかけだった。
サンフランシスコやオークランドの地方紙などで『ワインカントリー』ということばが散見されるようになったころのことだ。
ソノマ郡もそのひとつに数えられていたが、ナパのほうがより広く知られていたとおもう。
3人が乗っていたのはバークレーの英語学校で知り合った韓国系日本人のチョー君から1500ドルで買った真っ白なFord LTD。
1974年型の中古で、8気筒の大型車。
片道1車線の道幅いっぱいに低く「べったり」と広がってしまうかのような、まさに当時日本で『アメ車』と呼ばれていた自動車の典型だった。
1970年代に米国で使われていたポリスカーのほとんどがこれだったらしい。
緒斗はステアリングウィールをにぎり、リヴとわたしはその大きな『アメ車』の後部座席で窓を全開にして初夏の乾いた風を浴びていた。
右手のなだらかな丘には白いスペイン風建築の家々が点在し、左手にひろがる海面のきらめきの彼方には、まるで蜃気楼のなかの未来都市のようにサンフランシスコがゆらいでいた。
バークレーを後にして、湾岸に沿った国道80号線を北上してゆくと橋があらわれる。その橋を渡ってヴァレーホの街をかすめつつさらに北上し、大きく左へカーヴを切ったあたりからとつぜん道幅が狭くなる。そこからさらに狭いカリフォルニア州道29号線へとすべりこんでいくと、もうナパ郡だ。
片側1車線の道路で、地図と道路わきの標識だけがたよりのドライブだった。
すれちがうクルマがみるみる少なくなってくる。
そのうち、ナパのダウンタウンに到着した。
街のなかをぐるぐるまわったあと、わたしたち3人とも「ま、べつにどうってこともない田舎町だね」「観光地っていう雰囲気もないし」「繁華街って呼べるところもないみたい」という印象を受けたので、早々に街を後にすることになった。
そこから10分くらいは走っただろうか、気がついたら、セントヘレナという街へ向かうためのクロスロードにさしかかり、そのときに、緒斗がわたしのほうをふりかえって軽い口調で「どっちに行きたい?」とたずねた。
わたしは迷うこともなく腕をのばして「右」と言った。
理由などはなかった。そのときは、ただ、そういう気分だった。
地図をもたずにドライブをするのが好きだったので、ダウンタウンとナパカレッジを見学したあとは、郊外を探索したかっただけなのだとおもう。
リヴもわたしに賛成してくれたので、緒斗は右の方へ車を進めた。
まだ昼下がりだった。
クルマはじきに鬱蒼(うっそう)とした森へ入っていった。細い舗装路は雨上がりのように黒く湿っていて、生い茂った樹々の枝はアーケード街の天井のように青空をさえぎっていた。
あまりにも木々の密度が高いせいか、ところどころにうっすらと木漏れ日が射しこんでいるだけなので、真昼だったのにもかかわらず、緒斗はカーヴから対向車があらわれたときのためにヘッドライトをつけなければいけなかった。
センターラインのない1車線の道はゆるやかな蛇行をくりかえし、暗い森の奥からは、まるでせせらぎが流れているかのような葉騒ぎが聞こえていた。
ずっとこんな不気味な道が続くとは思えなかったので、3人で冗談を交わしながら不安な気持ちを打ち消しあっていた。けれども「こんな道でガス欠したら困るな」とつぶやいた緒斗のことばには冗談半分のニュアンスは感じられなかった。
フォードLTDはリッター4キロも走らない燃費の悪い『アメ車』の典型だ。
リヴとわたしはほぼ同時に後部座席から身を乗り出してガソリンメーターを見た。
針はすでに赤い部分にさしかかっていた。
緒斗が急ブレーキをかけたのはちょうどそのときで、リヴとわたしは前につんのめったあと、反動でこんどは後部座席のシートに背中を打ちつけられた。
なにごとかと思って前方へ目を向けると、およそ10メートルくらい離れた暗く湿った道路の上に黒い巨きなかたまりがある。
それが完全に道をふさいでいるのだ。
岩だろうか、と想像して、すぐに思い直した。
ここは深い暗い森のなかだ。どこにも崖はない。ということは、落石で道がふさがれているはずがない。それに、あれほど大きな岩を運ぶことのできるトラックがあったとしても、それを荷台から落としたらとうぜん気がつくはずだ。
「いったいなんなんだよ、あれ」
吐き出すように言って、緒斗が憔悴しきったように外へ出たので、わたしたちもドアをあけて彼につづいた。
ところが、近づいていったわたしたちは、3メートルほどの距離まできたところで、おもわず足をとめてしまったのだ。
道をふさいでいたのは巨石ではなくて巨獣だった。
黒い雌牛だ。耳に札がつけてあるので畜牛なのだろうが、じっさいに間近で見ると迫力がちがう。
ゆうに1トンを超すほどの体格だった。
驚きの声すらもらすことができなかった。恐怖に体をがんじがらめにされ、足がこきざみにふるえて動けなくなった。
緒斗は「しぃ~」と指を立てたあと、うしろへ下がれという合図を送ってきたので、わたしはようやく我にかえって、その大きな生き物が放っている臭いを嗅ぎながら恐る恐るあとずさりをはじめた。
巨獣は前足を折りたたみ、腹ばいになって頭をもたげてはいたが、目は閉じていた。まるで巨大な彫像のようでもあったけれど、大きくふくらんだ腹がかすかに動いていたので、まちがいなく生きていることはわかった。
緒斗は忍足で黒牛に近づき、巨獣が神経質そうに耳と尻尾を動かすたびに足をとめながらも、なんとかその獣のまわりを一周して、ゆっくりとこちらへもどってきた。
「どこにも撃たれた痕はなかったよ」
ただし、なにかの病気にかかっているのか、ただ道路の真ん中で昼寝をしているだけなのか、判断はつかなかった。
「牛に尋ねるわけにもいかないしね」とリヴ。
緒斗がクルマにもどってクラクションを鳴らしてみようかと言ったとたんリヴが大反対した。
「そんなことをして牛を驚かせたら、目をさますだけじゃなくて、こちらめがけて突進してくるかもしれないわ。いくら大型車でもどうなるかわかったもんじゃないでしょ?」
緒斗はあきらめたように肩をすくめて見せた。
わたしたちは、いったんクルマにもどって、待機することにした。たとえこの細い道でUターンして、来た道をもどったとしても、ガソリンスタンドがないことは確認済みだ。
ま、そのうち、対向車か後続車が来れば、この辺りの情報を得ることができるだろうし、ガソリンスタンドの位置も教えてもらえるだろうから、と緒斗。
携帯電話のない時代のことだった。
ラジオをつけることもなく、1時間以上、3人でとりとめのない会話をかわしてその場をやりすごした。それでも状況に変化はなかった。巨獣は目を閉じたままピクリとも動かない。しかもクルマは1台もやってこなかった。
ハリウッドのホラー映画でたびたび使われるシナリオに、地図にない道に迷いこんでしまって文明から切り離され、だれにも気づかれないまま恐ろしい殺人鬼や怪物に襲われて逃げ惑うというのがあるけれども、まさにああいうシチュエーションなのではないかという、なんともいえない妄想にかられて気分が悪くなってきた。
おまけにリヴがトイレに行きたいと言い出したのだ。
怖かったけれども、わたしは彼女につきあって、暗い森のなかへ足をふみいれ、クルマを視界に入れたまま、ふたりでならんで用を足した。
クルマへもどりつつ、セントヘレナの分かれ道で私が右の方角を選んでしまったせいだ、と悔やみはじめて胸をおしつぶされるような感覚におそわれた。
後部座席で私はふたりにあやまった。
「Yokoのせいじゃないわよ。だれかが自分の責任を逃れてあなたに選択させたからでしょ」
「それ、どういう意味だい」
「わかってることを聞かないでよ」とリヴ。
「きみも右へ行きたいって賛同したじゃないか」
「したわよ。で、あなたは反対した? え?」
「ああ、わかったよ。ぜぇ~んぶおれのせいだよ」
「わたしのせいよ」
「Yoko。この国では、ごめんなさい、てあやまったほうが負けなのよ。運転しているのはOttoなんだから」
「リヴ、もうやめよう。おれたちの仲なのに、なんで、こんな話になるんだよ」
するとリヴはとつぜん前のめりになって緒斗のほおにくちづけし、そのままこんどはわたしの唇にキスをして「わたし、たぶん悪魔に憑依(ひょうい)されてたんだとおもう。さっきまで誰が話していたのか、なにを話していたのか、何もおぼえてないもの」とささやいて、わたしたちを笑わせた。
「もうどうしようもないから、セントヘレナの街まで戻ることにするよ。ずっと下り道がつづくから、ガソリンはすくないけど、転がしていけばなんとかなると思う」
緒斗はフォードLTDを始動させ、葉騒ぎのなかでじりじりとバックさせたあと、大きくハンドルを切り、ギアをドライヴにいれた。そのとき、横たわった黒牛の大きな背から、さらに大きな馬にまたがった2人の白人男性が姿をあらわしたのだ。
ふたりともカウボーイハットを被っていた。
牛の前後からこちらへまわりこんだあと、ひとりが馬から降りて近づいてきた。
鞍にさしこんでいたライフルを抜いて肩にかけるのが目に入ったので、一瞬、ドキッとした。
緒斗が窓を降下させると、カウボーイハットのツバをつまんで軽く会釈したその年配の男性が「ハロー。グッドアフタヌーン」とていねいな物言いで挨拶し、ライフルを背中へまわしながら後部座席のわたしとイヴに微笑を投げてよこした。
50代半ばくらいだったろうか。
「みなさんはサンフランシスコからですか?」
「いえ、バークレーからです」
「バークレー?」
「サンフランシスコの対岸にある学生街です」
「失礼ですが、あなたは中国の方?」
「いえ、日本人です。旅行者です」と緒斗は平然と嘘をついた。
「それはそれは」と相手の物腰はさらにやわらかくなった。
イヴはちらりとわたしのほうを見て(緒斗はなかなかやるわね)とでも伝えたかったのか、わざとらしく眉を吊りあげてみせた。
その年配の白人男性はあの黒牛の持ち主だった。
ちょっと変わった牛で逃走癖があるのだそうだ。
森を抜けたところにせせらぎがあるので、と彼はそちらを指さして「たぶんあそこで水を飲んで、ここまで来たところで眠くなったんだろうね」と言った。
「道路が好きな牛なんですね」とわたし。
するとカウボーイハットをかむった男性は軽く笑った。
「そんなこと今まで考えたこともありませんでしたよ。たしかに、発見したときは、いつも道のまんなかでしたね。たぶん舗装路の感触が気に入っているんでしょう」
もうひとりのカウボーイはまだ30代くらいで、その年配の男性の馬の手綱と自分のものとを両方にぎりしめたまま牛に声をかけていた。
立たせようとしているようすだ。
「この辺りには蛇が生息しているから気をつけたほうがいいですよ」
「北カリフォルニアに蛇がいるんですか?」
「もちろん。ガラガラ蛇もいます。ただ、どの蛇も、こちらが刺激しなければおとなしい連中ばかりですがね」
「灰色熊とか狼もいますか?」と緒斗。
「さあ、ね。生まれてこのかた出会ったことはないですがね」と年配の男性は笑った。
ここから少し走ったところで道がふた手に分かれていて、右に行くと彼らの牧場、左を選んで2、3分も走れば、ちいさなガソリンスタンドがあって、そのまま走るとカリストガに到着する、と教えてくれた。
リヴは身を乗り出すようにしてたずねた。
「ミネラルウオーターで有名な、あのカリストガ?」
「温泉も有名ですから3人で楽しんできたらいい」と微笑み、彼はふたたびカウボーイハットのツバをつまんで会釈してみせた。
黒い巨獣は2人のカウボーイに誘導され、大きな尻を向けたまま、尻尾をふりつつゆっくりと去って行った。
その後ろ姿からは、まるで家出少年がイヤイヤ家に連れもどされるかのような重たい雰囲気が伝わってきた。
「あの牛、屠殺されるかもしれない運命なのかな」と緒斗がポツリと言った。
そのせいで、ガソリンスタンドに着くまで、イヴとわたしは、まるで怒りを押し殺しているかのように、ずっと無言をつらぬいていた。
1981年 初夏 / ナパ
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