効率性という名の思考停止
- 香月葉子

- 19 時間前
- 読了時間: 5分
政治や世界情勢にかかわるモノを書くときに、ひとりの書き手として懸念していることは、わたしたち現代人が「効率性」(efficiency)というものを最優先させているという事実かもしれません。
政治や世界情勢に関する読み物の場合、ほんの数行に目を走らせただけで、この書き手は「何々派」のひとでは? とか「何々主義」を信じているひとなのでは? といった疑問にとらわれる方々がおられるようです。
ソーシャルメディアに目を通してみると、わたしたちはなんについてもすぐに答えを出したがる時代を生きていることがわかります。
あの人は何々だとすぐに決めてかかる方々も多いようです。
ヒトが「思考」するときですらタイムパフォーマンス(タイパ)が求められる時代に入ったのかもしれません。
けれども、もしかしたら、ある読者にとっては読み飛ばした箇所にもっとも大切な「おいしい」情報がつまっていたかもしれません。
なぜなら企画書や説明書だけではなく、コトバがつかわれている情報媒体全体(ニュース番組やソーシャルメディアをふくめて)についていえることですが、そのなかで説明・解説されている内容・情報の優先順位を決めているのはあくまでも書き手・作り手なのです。
そしてその優先順位はけっして普遍的で絶対的な「正・誤」にもとづいたものではありません。
あくまでも書き手・作り手の視点にもとづいたものでしかないのです。
ここにまずひとつ目の落とし穴があります。
それに、最小のコストで最大の成果をめざすという「効率性」は、見方を変えれば、ようするに「こらえ性」を失わせていく最大の要因のひとつかもしれません。
そうなると、ちょっとした先入観(色眼鏡)によって書かれたり語られたりした内容を解釈するようになりやすいからです。
これがふたつ目の落とし穴です。
つまり、効率性を高めるために、ある意味、思考を停止させてしまっているとも考えられます。
あらかじめ決められた思考の経路を通って結論をみちびきだしているのと変わりはありませんから。
このことにくわえて、手のひらのなかの小さな画面をながめているあいだ、悩みと思考からわたしたちを遠ざけてくれる便利な機械(thought deleting machine)もあります。
現在ではわたしたちにかわってAIチャットボットがさまざまな頭脳労働をしてくれます。
こういう情況が、ある意味、残念でなりません。
ヒトにとってなにかが「便利」になるということはヒトの機能のなにかがうしなわれていくということでもあります。
自動車が発明されたおかげで遠くへ楽にいけるようになりましたけれど、戦前(1945年)のひとびとのように2、30キロほどの距離をあたりまえのように歩くことができたという足腰とその常識はうしなわれたかもしれません。
また、スーパーマーケットやコンビニへいけばなんでもすぐに手にいれることができるようになりましたけれど、自分で食べ物をつくることができなくなったために物流がとまったときにはおどろくほどかんたんに餓死してしまう可能性があります。
そうはいっても、こういう「情況」がますます加速しながら拡大していくことはたしかですし、それをとめることはたぶんできないとおもいます。
ところで、いま、「状況」ではなく「情況」という漢字をつかっただけで、もしかしたら今これを書いているひとは「何々派では?」とか「何々主義者では?」と疑うような方々がおられるのではないかとおもって、じつは、わざと使ってためしてみました。
たとえば、ヒトは長くつきあった方や親しくつきあっている方にたいして「あの人はどういう人なんですか?」という意見をもとめられるとコトバにつまってしまうことがあります。
ほんの2、3の形容詞ではとても評価・判断できないことに気づかされるからです。
相手の方を知れば知るほど、距離が近づけば近づくほど、その方がいろいろな側面をもっていることに気づかされるからだとおもいます。
相手の方の複雑さと深さと変化に辛抱強くつきあってきた方ならなおさらです。
ただ、「あの人ならそういうことをしたかもしれない」とか「あの人らしい意見だとおもう」とか「あの人がそういうことを言うはずはないとおもう」などと、相手の方がじっさいに行なったことにたいする判断にはゆるぎのないものがあるようです。
ひとことで言い表わすことはできないかもしれないけれども、その方の性質というか性格の「芯」の部分だけはなんとなく理解してつかんでいるような気がする、とでも言ったらいいのでしょうか。
母親や父親が「まあ、あの子はそういう子だから」という場合には、「そういう子」という判断のなかに「先入観と期待感」や「深い理解とあきらめ」や「愛といらだち」のすべてがふくまれているはずですし、けっして客観テストの「正か誤か」というような単純な受け答えから生まれたものではないはずです。
それをわたしたちは「思いやり」と呼んできました。
または「心づくし」と呼ぶこともあったでしょう。
そう言いながらも、心の片すみでは「愛」とささやいていたかもしれません。
愛はいつも「効率性」を無視するものだということをヒトはその経験から知っているからです。
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