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  • 執筆者の写真香月葉子

【シカゴ】アメリカの怖い、哀しい、素敵なタクシードライバー

更新日:3月12日



 わたしは酔っていたし、クレアも酔っていた。


 彼女が無事に中間試験を終えたのがちょうど金曜日だったので、誘われるままシカゴのノースサイドの繁華街にある女性のためだけのバーにたどりついたのだけれども、そのときはすでに夜の8時をまわっていた。


レズビアンバーのカウンターの写真
レズビアンバーのにぎわい

「また、来てくれたのね」

 女性バーテンダーは、あきらかに酒でソーダ水を割ったとしかおもえない味のジントニックを作ってくれた。

 気をよくしたわたしたちは、ホールを埋めつくした女性たちにまじってダンスし、テーブルにもどってきてはその濃いジントニックをあおり、ふたたび踊りにいくということをくりかえし、気がついたときには、すでに午前0時をまわっていた。


ライムの入ったジントニックの写真
ジントニックwithライム

 店を出たとき、クレアはすこし足もとがおぼつかなかったため、わたしは彼女の腰に手をまわして歩くことにした。


 バスも電車も終わっていたので、タクシーをひろうために街を彷徨(ほうこう)しながら、ときおり手をつないだりもした。


 それ以上に不安だったのは、二人の財布の中身を足しても、はたしてハイドパークまでのタクシー代が払えるかどうかという問題だったが、乗ればなんとかなると言ったような安易な考えもあった。


高架鉄道の下の夜の街景色の写真
高架鉄道「シカゴ・L」下の夜の街景色

 大通りに出ることができたときに、ちょうどチェッカーマークに縁取られたシカゴのタクシーが目に入った。

 対向車線を走っていたのだが、わたしがすばやく手をあげると、タクシーはゆっくりとUターンしてこちらへ向かってきた。


シカゴのタクシーの写真
シカゴのタクシー

 わたしはクレアといっしょに後部座席へ乗りこんだ。

「ハイドパークまでおねがいします」

「ハイドパーク?」と運転手の男性はこちらをふりかえった。

「はい」

「シカゴ大学のあるハイドパーク?」

「ええ」

 ふっくらした顔つきの、インド系にみえる運転手だった。

 彼は助手席に腕をあずけ、クレアとわたしをかわるがわる見ながら言った。

「ふたりとも、楽しそうですね。フライデーナイトを満喫したんでしょ? お酒をいっぱい飲んだって感じだな。てことは、きっと、いま、お腹、すいてるんじゃないですか?」


 運転手は穏やかな口調で話しかけてきたが、見知らぬ乗客を相手にしているにしては、なんとなく愛想が良すぎる気がして、もしかしたらなにか下心のようなものがあるのではないかと不安になり、おなじように眉をひそめたクレアと顔を見合わせたあと、こっそりと指をからませることで、その運転手に対する警戒心を確かめあった。


夜のシカゴの街景色の写真
夜のシカゴの街景色

「いや、ほんとうに、うらやましいね」

「あのぅ、とにかく、ハイドパークまで行ってもらえませんか?」

 けれども彼はいっこうにタクシーを発進させようとはしない。

「若いっていいねぇ。ちょうど、僕は仕事を終えたところだったんですけどね。でもね、そんなとき、あなたたちふたりが、ちょうどこの僕に手をあげて止めてくれたってことは、もしかしたら、これもなにかの縁なのかなぁ、なんて思ったりしてね」

 ときどき英語のアクセントの位置が逆になるような、でも、アイルランド人のなまりともちがう、インドから渡ってきた人々に特徴的ななまりのある英語のように感じられた。

「急がせてるようで、ごめんなさい。でも、もう、わたしたち、けっこう疲れてて、早く帰りたいんです」

「もちろん、いいですよ。さぁ、出発しましょう」

 運転手はようやく車を走らせはじめた。


 クレアは睡魔に引きずりこまれたらしく、わたしの肩に寄りかかり、その小さな顔をあずけていた。

 彼女の金髪のひんやりした感触がわたしは好きだった。


 シカゴのノースサイドの夜の通りには窓明かりがなく、街は寝静まっていた。


シカゴの裏通りの夜の写真
寝静まったシカゴの危険地帯

 わたしは、ひとり、車窓からの街景色を楽しんでいたが、ふいに、通りの雰囲気がちがうことに気がつき、うしろを振り返ると、ジョンハンコックセンターの超高層ビルが遠のいていくのが目に入った。

 とたんに、みるみる動悸が激しくなってくるのをおぼえた。


夜のジョンハンコックセンタービルの写真
ひときわ目立つジョンハンコックセンターの高層ビル

「ちょっとごめんなさい、でも、見たところ、ハイドパークには向かってないような気がするんですけど、どういうことでしょうか」

「え? なんですか?」

「ジョンハッコックセンターが後方にあるってことは、逆方向に向かって走ってるとしか思えないんですけど、わたし、まちがってますか?」

「へぇ、すばらしい。旅行者だと思ってたのにそれがわかりますか?」

「え? それ、どういう意味でしょうか?」

「このあたりを女性2人がこんな時間に歩いてたんで、てっきり旅行者だとばかりおもってたんですけど、けっこう、シカゴにはくわしいんですね」

「ええ? なにを言ってるの?」

「僕、じつはおなかがペコペコなんですよね。ちょっとドライブスルーでフライドポテトを買おうかな、なんて思ってて、ほんのちょっと寄り道をしていこうかと…」

「ちょ、ちょっと、待ってください。どういうことですか、それ?」


 とんでもないタクシーに乗り込んでしまったらしい。

 うなじの毛が逆立つのと同時に、唾液をのみくだせなくなった。

 わたしは、もう、すっかり、酔いからさめていて、クレアを肘でこづいて、揺さぶり起こし、ハイドパークから遠ざかっていることを耳打ちした。


「その場合、料金はどうなるんでしょうか?」とわたし。

「最初に言った通り、僕は仕事を終えたところだったんですよ」

「でも、わざわざUターンして、わたしたちを乗せてくれたのはあなたです」

「それはまちがいありませんね。だって、あなたたちふたりは、いま、わたしのクルマの後部座席にすわっているんですから」

 運転手は嬉しそうに笑って言い足した。

「だって、さっきから言ってるように、こんな時間にあのストリートを女の子ふたりで歩いているのは危険ですから」


放置された建物の写真
危ない夜のストリート

 わたしはすばやくクレアと目を合わせたが、彼女がすがるような視線を返したので、ここはわたしがなんとかしなければいけないという気持ちになった。


「もう、このあたりで、じゅうぶんです」

「は?」

「ここで、降ろしてもらえませんか?」

「いやいや、それはできない相談ですね」

「え? どうしてですか?」

「ちょっとそれは困るなぁ」と運転手はひとりごとのように言った。

「どこでもいいんです。たとえば、あそこの曲がり角あたりで止めていただいて、かまわないんですけど」

「さっきも言いましたけど、僕はお腹が空いてるんです」

「え?」

「わかってもらえますよね。仕事を終えてもどるところだったのに。あなたたちが手を上げたから」

「だったら、私たちを無視すればよかったのに。止まらなかったらよかったのに」

「ま、そう言われれば、それも一理ありますけどね」

「そうでしょ?」

「でも、目に入ったものはしかたがないじゃないですか。危ない目にあうかもしれないし。さすがに放っておけませんよね」


 わたしは困惑していたが、クレアにたいする一方的な責任感のせいで、なんとか冷静でいられたとおもう。


 クレアがフランス語なまりの英語で「止めて。わたし、降りるわ」と言うと、彼は「Okay。Good」と言って、スピードを落とした。けれども、徐行をしつづけているだけで、いっこうに車を止めるつもりはないようすだった。


 そのうち、ひときわ明るいマクドナルドの看板が近づいてきて、ホッとしたのだけれども、タクシーはドライブスルーに乗り入れるわけでもなく、そのまま通り過ぎていった。


夜に撮影されたマクドナルドのドライブスルーの看板の写真
夜のマクドナルのロゴ看板

「え? マクドナルドに寄るんじゃないの?」とわたし。

「もう、いいんです。僕はもう食べたくなくなってきました」

「でも、おなか、空いてるんでしょ?」

「もう、そんな気分ではなくなってしまいました」

「とにかく私たち、降りたいんです。お願いですから、車を止めてもらえますか?」

「いやいや、いくらお願いされても、こんなところであなたたちを降ろすわけにはいきませんよ。ここも、まだまだ治安が良くないところですからね。かなり危険な区域ですから」

 とたんにフランス語で「メルダ」(shit)と叫んだクレアにおどろいて、わたしはおもわず彼女の肩を抱きよせていた。


「へぇ、あなた、フランス人なんだね?」とタクシー運転手。

「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」とクレア。

「メルダ、なんてことばを使って。そんなに感情的にならないでもらえませんか? 僕には僕の都合があるんですから」

「メルダ」

「女性がそんな言葉を使っちゃいけませんよ」

 クレアは彼のことばを無視して、髪を乱暴にかきあげ、窓の外へ顔を向けたまま言った。

「もうハイドパークまで行かなくてもいいです。とにかく、わたしたちをピックアップしたところまで引き返してくれてもいいし、もしくはミシガン通りの美術館あたりで降ろしてくれてもいいし。とにかく、あなたのこのタクシーから降りたいんです」

「おねがいします」とわたし。


 彼がダウンタウンまでもどってくれれば、あとはヴァン・ビューレン駅から始発の電車に乗れば帰れる。

 クレアとおなじく、とにかくこのタクシーから降りたかった。


「わかりました」

 彼はようやく交差点の手前でUターンした。


 しばらくしてジョンハンコックセンターの超高層ビルが進行方向に見えてきた。

 けれども、安心しているところへ、しばらく沈黙していた運転手が、ふたたび話しかけてきたのだ。


ジョンハンコックセンタービルの写真
シカゴ名物「ジョンハンコックセンター」

「あの100階建ての黒いビルの設計者、だれだか知ってますか?シカゴ名物のジョンハンコックセンターを設計した人です。じつはね、僕と同じ東パキスタン、つまり、バングラデシュ出身の天才なんですよ。ご存じでしたか? 高層建築の構造エンジニアの先駆者でね。僕が子供のころから憧れていたファズラー・カーンという人です。アメリカ人はだれも気にかけないようですけどね、数年前、52歳の若さで、心臓発作で亡くなりました。僕の父親もカーン氏の父親と同じ数学の教師をしていました。とは言っても、それ以上にはなれなかったんですけどね。そういう僕も、こうやってアメリカまでやってきたのに……。僕の人生は、あーあ、僕の人生は……あの1971年の、あのサイクロン(台風)のせいで狂ったんですよ」

「そのサイクロン、わたし、子供のころ、フランスのニュース番組で見たの、おぼえてるわ。ものすごくたくさんの人が亡くなったって……」

 クレアが同情するように言った。

 声色もいくぶんやわらかくなっていたかもしれない。

「父と母、そして3人の姉も、あのときにみんな死んで、僕だけが生き残ったんですよ。屋根がこわれて、その下敷きになってたんですけどね。僕が可愛がっていた猫が、ちょうど僕の頭に乗っかっていたおかげて助かったんだと思ってます。かわいそうなことに、ぼくの頭が傷つくかわりに、猫のほうがおしつぶされてしまいましたけど。僕はかろうじて助かったんです。僕ひとりが死んで、ほかのみんなが生き残った方が、どんなによかったか」

 そこで彼は声を詰まらせた。


 いつのまにか、美術館も通り過ぎて、タクシーは湖岸ハイウェイへ入り、シカゴ大学のあるハイドパークへと向かっていた。


シカゴの湖岸ハイウェイの写真
シカゴの湖岸ハイウェイ(Lake Shore Drive)

「生き残ったあとは、しばらく叔父の家にやっかいになったけど、内戦のせいで、けっきょく叔父は西パキスタン軍に拷問されて殺されてしまったんです。だから僕は叔母さんといっしょにインドへ逃げました。叔母はよくできた人で、自分の子供たちは誰ひとり助からなかったのに、僕のことだけは、ずっと面倒を見てくれて。血のつながりもないのに」

「その叔母さんと一緒にアメリカに渡ってきたの?」とわたし。

「叔母さんの知り合いの家族がアメリカに移民するっていうので、僕をその家族に託したんですよ。僕は成績がよかったですから。とくに数学が得意でね。だけど、イスラム教信者(ムスリム)という理由で、アメリカの高校ではみんなにいじめられました。いじめられたけど、成績はトップだったので、奨学金をもらえて大学では工学部に入ることができたんです。カーン氏みたいになりたくてガムシャラに勉強しましたよ。でも、3年目に大学の寄宿舎(ドミトリー)でルームメイトと喧嘩になり、とんでもない大怪我をさせてしまったせいで、放校処分になったんです。ルームメイトの恋人だった白人女にはめられたんですよ。僕がいつも部屋で勉強しているもんだから、アレを楽しむことができない、ていうのがその理由だったとおもうんです。で、けっきょく僕は、奨学金を返すために、こうしてタクシードライバーをしているわけなんですけどね…」

 彼は声をふるわせながらそう語った。


 後部座席の暗がりで彼の身の上話を聞きながら、わたしたちは返すことばもなく車窓からの景色を眺めていた。


 ミシガン湖の湖面にきれいな満月が映っていたので、今夜はめずらしく風が吹いてないんだなぁ、とおもった。

 そんなささいなことが、妙に鮮明によみがえってくるのは、どうしてだろう。


 見慣れたサウスサイドのマンション群が見えてくると、わたしの心はようやく緩みはじめた。


シカゴの湖岸ハイウェイのヘッドライトとテイルランプの写真
シカゴの湖岸ハイウェイの夜の景色

 わたしは後部座席から身を乗り出し、運転手の耳もとに口を近づけて、小声で言った。

「あそこから湖岸ハイウェイをおりて、そのまま53番街に入ってもらえますか?」

 彼は返事をすることもなく、すすり泣きながら、何かをブツブツ言っていたが、高架鉄道の真下でクルマを停止させた。


「おいくらですか?」

 そのときはじめて、タクシーの料金メーターは下りたままで、運賃が表示されていないことに気がついたのだった。


高架鉄道の下の写真
高架鉄道の下

 つまり、彼はいっさい運賃をとるつもりはなかったのだ。


 わたしたちは、ふたりとも、その瞬間まで、いちばん肝心なことに気がつかなかったのだ。


 クレアとわたしはすばやく互いの目を見て、確かめあい、バッグのなかから財布を取りだした。


「ごめんなさい。わたしたち、これだけしか持ってないんです」

 クレアとわたしはドル札を差し出した。

 彼はふっくらした顔に、泣き笑いしたような微笑をうかべて言った。

「それでじゅうぶんです。ありがとう。残業代ですね。あなたたちが、僕のクルマに手を上げなかったら、こんな個人的な話を聞かされずに済んだのにね」

「ううん、わたしたち運が良かったんだとおもう。ラッキーだった」

 クレアはそう言い残してタクシーをおりた。

 

 

 



 1989年 10月 / シカゴ





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