【バークレー】公共トイレの恐怖
- 香月葉子
- 5月25日
- 読了時間: 4分
更新日:6月2日
大学の地下トイレはだだっ広く静まり返っていてわたしのほかには誰もいなかった。
ひとつ咳をしただけで女性用トイレのすみずみにまで自分の声が反響する。
ただでさえひっそり閉ざされたような孤絶感があるのに、それがいっそう濃くなって、背すじに鳥肌がたつような悪寒が走ったことをおぼえている。

カリフォルニア大学バークレー校心理学部のトールマンホールにある地下トイレは特に広く、どの時間帯でも人気のないことでよく知られていた。
なぜ人気がないかと言えば、その人気のなさがなんとも言えない恐怖をもたらすために、それが理由でさらに人気がなくなるという悪循環のせいだということは耳にしたことがある。
ただ、アメリカの公共トイレの個室(ブース/ストール)は扉の上下に空間があるし、扉が未使用時には開いているので、空きを見つけるのは簡単だった。
わたしはいつものように奥をめざして壁にいちばん近い側の個室に入った。
すると1分もしないうちに、誰かがトイレに入ってくる気配がして、足音が近づいてくると、すぐ隣で扉を閉じて鍵をかける音がしたのだ。
他にも空いてるところがいくつもあるのに、よりにもよってわたしのすぐ隣を選ばなくてもよいのにと思った。
安心感につつまれたプライベートな時間と空間を奪われたような気分にもなった。
こちらの音が筒抜けになってしまうことも気になっていた。

なるべく音をたてないように済ませて、便座から立ちあがろうとした時だった、ふいに男性の声のような低い声が隣から聞こえてきたのだ。
びっくりして体がこわばり、中腰になったまま、おもわず息をひそめた。すると板の仕切りをへだてた隣からは「ファック」ということばを連発する男性的な低い声がとどき、それがおさまると、こんどはくぐもったかすれた低い声で何かひとりごとを喋りはじめた。
しかもかなりの早口で同じことばをくりかえしたりする。
わたしは身をかがめ、息苦しくなるほど速まってきた鼓動を感じながら、隣との仕切りの下のすきまから、恐る恐る相手の足もとをうかがった。
履いている靴で男女を判別することができるかもしれないと思ったからだ。
けれども相手は普通のスニーカーでしかもジーンズをはいていたため性別はわからなかった。
早くここを出たほうが良いと判断したわたしは、すばやく水を流してドアの鍵に手をのばしかけた。
そのときだった、とつぜん今度は女の子の声が聞こえてきたのだ。
わたしは背すじに戦慄が走るのを感じた
誰かもうひとり別の学生が入ってきたのかと思い、ふたたび扉の下のすきまからちらりと隣を覗き見たが、見えたのはさきほどと同じスニーカーだけだったし、また向かいにずらりと並んでいるトイレットブースの扉がすべて開いているのも下のすきまから見ることができたので、新たにこの地下トイレに入ってきた者がいないこともわかっていた。
ゾッとしたのは、聞こえてきたのが、女子大生の声というよりも、どちらといえば少女の声に近かったこともある。
耳をすましても、早口でスラングが多く、完全に理解するのはむつかしかったが、どうも父親への憎しみを込めた言葉をつぶやいているようだ。
とつぜん現実世界が裏返しになってしまうかのような不気味さにつつまれ、息ができなくなるほど喉が狭まるのを感じた。
もしかしたら、隣にすわっている女性は乖離性同一性障害を病んだひと、つまり多重人格障害者で、この場でとつぜん別人格があらわれたのかもしれない。
そう感じた。
なぜならスニーカーの大きさとデザインからして少女が履いているものとは考えられなかったからだ。
しかも最初に聞こえてきたのが男っぽい低い声だったこともその疑いを強めることにつながっていた。

ところで隣の個室にいる人物はわたしの存在を意識しているのだろうか。
好奇心をそそられたが、その正体を知りたいがためにこのまま個室に居つづけるほどの勇気はなかった。
わたしは思いきって扉を開けた。すると隣の扉がほとんど同時に開かれる音がしたのだ。ドキッとしたけれども、そのままわたしは足早に洗面へ向かった。するとその鏡に映ったわたしの背後にひとりの女性が近づいてきたのだ。ビクッとして、すばやくふりむくと、30代前半くらいの背の高い女性だった。
赤毛の髪に眼鏡をかけていたとおもう。
彼女は「驚かせてごめんなさいね」と微笑むと手も洗わずに出ていった。

後日、この出来事を女ともだちのジェシカに話すと、その女性はときおりトールマンホールの地下トイレに出没する人物で「うわさでは劇作家志望の人らしいわよ」と教えてくれた。
「もしかして多重人格障害者だと勘違いしたんじゃない? あのトイレで彼女に遭遇した学生たちはたいていそう思うらしいから。それにしても、わざわざ大学の心理学部の建物のトイレにまで来てセリフを練ることないのにね」
1984年 秋 / バークレー
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