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  • 執筆者の写真香月葉子

【バークレー】コロンビア産の大麻(マリファナ)を吸わされて

更新日:2023年9月5日

 渡米して間もない、まだ英語学校に通っていたころ、その彼女と知り合った。

 バークレーボウルという場所でだった。


 緒斗(おと)とふたりで暮らしていたアパートメントから、学園都市バークレーの背骨ともいえるシャタック・アヴェニューへ出て、その大通りを15分ほど歩いていくと、そこからすぐひとつ裏の通りに不思議な外観の建物があった。


 窓が隙間なく板切れでふさがれていて中が見えないため、その前を通るたびになにかの倉庫なのだろうと思っていたら、ある日、となりの窓に一枚のチラシが貼ってあるのが目にとまり、両開きの扉に鍵もかかっていなかったため、なんだろうと思って入ってみると、そこは〈バークレーボウル〉という巨きな市場(supermarket)だった。


 天井が体育館のように高いので、照明の光がとどかず、昼間だというのに薄暗かった。

 けれども、広々としたロフトスタイルの市場のなかには、水揚げしたばかりのような魚や、畑や果樹園からそのまま運ばれてきたような野菜や果物がならんでいて、いたるところに裸電球がぶらさがっていたため、陳列棚は明るかったし、レジには長い行列ができていた。


 街を散策してきたせいで、おなかがペコペコだったせいか、焦げた玉ねぎのような香ばしい匂いにつられて、いつのまにか、パン売り場に来ていた。

 そこではじめてドーナッツ型のパンを目にしたのだ。

 ドーナッツではなかった、ドーナッツ型のパンだった。

 まさに素材そのもののようにあっさりした見かけのものから、芥子(けし)の実をまぶしたもの、また、焦がし玉ねぎがトッピングされたようなものまでもが、それぞれ大きなウィッカーバスケットのなかに山積みになっていた。


 どれを買おうか悩んでいると、すぐ耳もとで「ここのベーグルは、けっこう美味しいわよ。このあたりに重ねてあるのは、ぜんぶ、焼きたてだと思う」と焦がし玉ねぎのベーグルをすすめてきたのがリヴだった。

 こちらが笑みを返すと向こうはさらに明るい笑顔でこたえてくれた。だから、彼女が指さしているパンの山からひとつを選んで、1個用の白い紙袋に入れた。

 手にすると、その紙袋からは、まだ焼きたてのベーグルの温みが伝わってきた。

 すぐにでも食べたかったので、彼女に礼を言い、小走りにレジへ向かった。すると彼女が追いかけてきたのだ。その手にはおなじようにベーグルの入った紙袋があった。


 どんなことを話しはじめたのかおぼえていない。果物や魚に関する雑談だったような気がする。

 楽しかった。


 初体験のベーグルは生地の目がぎっしりと詰まっている感じで、ドーナッツとはまるでちがう重さがあり、おどろくほど硬く噛みごたえのあるパンだった。ユダヤ人が生み出したというこのパンは、牛乳や卵を使わずにこねた生地を茹でてからオーブンで焼くのが特徴なのだそうだ。


 リヴは冗談めかして言った。

「大学のキャンパスの屋台でベーグルにクリームチーズをはさんだのが売ってて、寝坊したときは、それを買って食べながら教室にいくのよ。わたしね、あなたと彼氏がふたりで歩いているところを、部屋の窓からよく見かけることがあって、いつかじっさいに会って話をしてみたかったの。誤解しないでね。窓辺の猫みたいに、ふだんからじっと通行人を観察してるわけじゃないから」


 わたしは彼女といっしょに市場を出てベーグルをかじりながら歩きはじめた。

 リヴは、緒斗が志望しているカリフォルニア大学のバークレー校の学生だった。社会人類学が専攻だと言った。

 上背があった。

 長い黒髪に、下唇がぽってりしているのが、魅力的だった。

 食べるのが遅いわたしは、ヘイスト通りにある自分たちのアパートメントの前まで来たところで、ようやくベーグルをひとつ食べ終えることができた。


「ね、この週末、土曜の夜に仲間とパーティすることになってるの。よかったら、彼といっしょにこない?」

 わたしは喜んで誘いに応じることにした。


 その土曜日が待ち遠しかった。

 ようやく夜がきて、出かけてみると、彼女は同じヘイスト通りの、しかも2ブロックしか離れていないところに住んでいることがわかって、すこしおどろいた。

 屋根裏部屋のある白いビクトリア朝の家がそのまま学生用のアパートメントとして使われていた。

 彼女がいっしょに住んでいる2人の女性もバークレー校の学生だった。

 パーティにきている人たちは、男性も女性もみな学生だった。

 キャンドルの炎がゆらめく壁にもたれているふたりの女性、床や椅子の上であぐらをかいている男性や床に寝そべっているカップル、肘掛け椅子で瞑想(めいそう)にふけっているような女性もいて、まだヒッピー文化が残っているかのような自由な雰囲気にあふれていた。


 このパーティに来ているのはユダヤ系の学生が多いみたいだね、ほら、あそこにボブ・ディランそっくりなのがいるよ、と緒斗がささやいた。


 東洋人はわたしたちふたりだけだった。


 緒斗はチャールズという金髪の青年と興奮したようすで話しつづけていた。父親の話をしているうちに意気投合したらしい。ふたりとも、第二次世界大戦をくぐりぬけた厳しい父親のもとで育った体験談を、ブラックユーモアたっぷりに語りあっていた。

 チャールズは「つぎの休みにサクラメントの実家に帰る予定なんだけど、それまでには、この肩まで伸びた髪を切らないと家に入れてもらえないだろうな」と肩をすくめた。


 ところでこちらはジェーンという名の金髪の女の子から逃れられないでいた。

 

 彼女は油絵を描くのだそうだが、絵画の話をしているうちに、なぜかヒットラーの話になってしまった。そのうち、こんどは、わたしの「ヒットラー」という発音が正しくないと言いはじめ、しつこいほど何度も何度も言いなおしをさせられた。

「ヒットラー?」

「ちょっとラーの音がちがうわ」

「ヒットラー?」

「ううん、そうじゃなくて、もうすこしアゴを使ってヒットラー」

「もうじゅうぶんよ。やめましょ」と言って席をうつっても、すぐにそばにやってきて「もういちどヒットラーと言ってみて」と要求する。

 ユダヤ系の女の子なのかもしれないという気がした。

 あまりにもしつこく繰り返されるので、まわりにいた学生たちが怪訝(けげん)そうにふりかえるほどだった。

 この女の子はヒットラーに対する思い入れが強すぎるのではないかという思いが募(つの)ってきた。

 心のどこかがこわれてしまっているのだろうか、という疑いすら持ちはじめていた。

 だんだん口とアゴが疲れてきた。

 喉も乾いてきて、不愉快になりはじめたところへ、リヴがやってきて、彼女からわたしを引き離してくれた。


 リヴはソファに腰かけていた女子学生たちのすきまにわたしを座らせた。

 コロンビア産という言葉が飛び交っていたので、コーヒーの話をしているのかと思ったら、それは大麻のことだった。

「マウイ産よりも質はだいぶ落ちるけどね」とリヴがささやいた。


 ボングと呼ばれる水パイプでコロンビア産の大麻(pot / grass / weed / cannabis)を吸わされた。

 ガラスの筒のまんなかあたりに開いている穴を指先でふさいで、マウスピースから煙を吸いこむと、底にためてあった水のなかをポコポコという音とともに白いねっとりした煙が通りぬけてのぼってくる。

 その煙を、できるかぎり長く肺にためこむようにと教えられたのだけれど、じきに喉がひりひりと痛くなって咳き込んでしまった。

 けれども、何度か我慢して吸っているうちに、スッと肩の力がぬけて、背すじが溶けるような感覚とともに、観葉植物の葉っぱが異様にくっきりと見えはじめた。

 天井の明かりやフロアランプが目に入るたびに、頭の奥のほうで、熟した果実が破裂したかのような衝撃が感じられた。

 それが心地良いものだから、長く目をとじておいて、いきなりパッと明かりを見上げたり、ゆっくりとまばたきをくり返したりして、それまで味わったことのない不思議な感覚(sensation)をたのしんだ。


 そのうち、わたしと肩を触れ合わせている女の子たちのやわらかい雰囲気と、その肌のぬくみと、誰かが奏でていたフォークギターの生の音に眠気がさしてきて、気がついたときには、リヴから聞かされていた屋根裏部屋のベッドに横たわっていた。

 そこが彼女の部屋なのだ。

 きっとだれかがわたしをここまで運んでくれたのだろう。


 早朝の清潔でやさしい陽射しが部屋中にあふれていた。

 床のいたるところに本が重なりあっていて、デスクの上のタイプライターには書きかけの原稿がさしてあった。


 身を起こしてドアをあけると、ビクトリア朝の家のなかは、まだ寝静まっていた。

 音を立てないように階段を降りていった。すると居間の長椅子にリヴが寝ていて、わたしの気配に身を起こすと「あなたの彼氏、先に帰ったわよ。よろしく、だって」と伝えてくれた。

 こちらの住所と電話番号をメモに書いて、それを彼女の手に握らせてから帰った。


 リヴはその日の昼下がりにさっそくわたしを訪ねてきた。そして緒斗とわたしをバークレー大学のキャンパスの北側にある〈ラ・ヴァルズ〉というピザ屋へ誘ってくれた。

 そこまで行くために、はじめてバークレー校のキャンパスを横切ったのだけれど、あまりの広大さにおどろかされた。

 いくつもの大きく重厚な建物のあいだを歩き、ユーカリの林をぬけ、せせらぎにかかった橋をわたり、芝生の丘をのぼっていくと、こんどは大きな図書館があらわれ、その先にようやく北側の街の景色が見えてきた。


 目に入るすべてが未知だった。

 北側の通りまで到達するのに15分はかかっただろうか。そのあいだ、リヴと緒斗は景色を楽しむどころか「この世に真実はあるのか」という問題をずっと議論し続けていた。

 もしこのふたりが一緒に暮らしたとしたら、墓に入ってもずっと討論をし続けるのではないかと思われるほどの熱っぽさだった。


「なにはともあれ、人間はみないつか死ぬのだ、という事実だけは変わらないと思うわ、それを真実と呼べるのかどうかはわからないけれど」と彼女が締めくくった。

 ピザ屋にきてすでに2時間がすぎたころだった。

 わたしはチーズたっぷりのペパロニピザと赤ワインを楽しんだが、緒斗とリヴはピザのかわりに議論の味を楽しんだのだろう。




1980年 夏 / バークレー




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