バークレーの美術館『Berkeley Art Museum』で見知らぬ女性に話しかけられたことがある。
ワインカントリーのナパで2年暮らしたあと、ふたたびバークレーにもどってきて、ようやく1年が経とうとしていた。
ハスキーな声の持ち主で、イタリア系にもユダヤ系にも見える彫りの深い黒髪の中年女性だった。
わたしがアルバートなんとかという画家によるヨセミテの冬景色を描いた油絵の前に30分以上も立っていたということを指摘されたので、まさか30分にもおよぶ長い時間ずっと観察されていたのだろうかと身をかたくしたのだけれども、彼女はつぎのように説明してそんなわたしの警戒心をゆるめてくれた。
ほかの展示室をぶらついて、もどってきたら、わたしがまだ同じところにいるから、なんとなく気になって声をかけてみたくなったのだ、と。
それから小1時間ほどふたりでいっしょに絵を見てまわったのをおぼえている。
不思議なことに、どんな絵を見たのかは、まったく思い出せない。
ただ、ブレアという彼女の名前に、1930年代生まれの女性の名とはおもえない、どこか先進的な音色を感じたことはたしかだった。
けっきょく、わたしは彼女に誘われるまま、美術館を出て、街路樹にかこまれた坂道を渡り、バンクロフト通りとカレッジ通りの角にある広々したオープンテラスカフェへ入った。
仰ぎ見ると、伸びほうだいになった樹々の枝々がテラス席の屋根代わりになっていて、そのすきまには北カリフォルニアの深い青空があった。
ブレアはたばこに火をつけたあと、あごをしゃくりあげ、唇をすぼめてゆっくりとけむりを吐きだした。
見ているだけでうっとりしてしまうほどのカッコ良さ(クールさ)だった。
チェスターフィールドという銘柄のたばこだったことだけはハッキリと記憶にのこっている。
「どうお?」とすすめられたので「けっこうです」と見つめ返すと、なにも言わずにそれを丸テーブルのはしっこへ置きなおした。
彼女はサンフランシスコにひとりで暮らしていて、正確にはおぼえていないし、メモにも記録がないが、たしか1950年代にこのバークレー校を卒業したと言っていた。
東部の大学に通っているひとり息子がいて、夫とは、現在、別居中なのだそうだ。
3人の娘を産んだ母にくらべると若かったが、年の差からすると、一般的にはわたしの母親であってもなんの不思議もない年齢の女性だった。
古い世代に属する女性らしく、英語学校の教師よりもクリアな発音で、しかも教科書そのもののように正しい構文をつかって話すので、聞き取れない単語やセンテンスはなかった。
女学院に通っていたころに見た『卒業』という映画のなかのアン・バンクロフトのような女性がじっさいに存在するのだということにわたしは感激していたような気がする。
話し方から身ぶりそぶりにいたるまで、まるで女優さんみたいに、自分独自のスタイルを確立していることに、驚きというよりは畏怖(いふ)に近いものを感じた。
ただ、アメリカ人にはめずらしく、初対面のわたしに、このようなプライベートな情報をもらしたことにおどろかされてもいて、その目的が見えないことに不安をおぼえてもいたが、もしかしたら、わたしが外国人で、しかも、この国で市民権を得ようとしている人間でもなく、あくまでもゲスト(客人)の立場でしかないということで、安全だと踏んでいたのではないだろうか。
どちらにしても、カフェの代金はおごりだといわれてもいたし、相手はうんと年上なので、わたしはただ黙ってブレアの話に耳をかたむけていた。
「夫は愛人と住んでるのよ。息子は大学の休みになると、夫の家には帰省するけれど、わたしの家にはほとんど寄りつかないわ。たまにお金が必要な時に電話をかけてくるだけ」
すべてに醒めきっているようなハスキーな声とすこし翳り(かげり)に染まった表情がわたしの胸に沁みたのをおぼえている。
わたしの席からはバークレーの丘に点在しているカリフォルニア独特の白っぽい家々をながめわたすことができた。
「あなたインターナショナルハウスには行ったことある?」
彼女は白い大きな建物をゆびさした。
半世紀前に建てられたスペイン植民地復古調の建築スタイルの建物だ。
「なんどか行きました」
「パーティ?」
「ええ。ついこのあいだも、知り合いになったインド人留学生の女の子に誘われて。ホールがすごく広いからおどろいちゃった」
「わたしも、ここの学生だったころ、インターナショナルハウスに住んでる留学生の友だちがいたのよ。週末が来るたびに交流パーティが催されてたから、ふたりでダンスを楽しんだわ。いろんな国から来てる留学生と知り合えるのがうれしくて、ていうか、そういうのが流行ってたのよ」
「そういうのが、って?」
「さまざまな国の人たちと友だちになるってこと。そういう友だちを持ってるってことが先進的だっておもわれてたから」
「たんなる流行だったんですか?」
「そうはおもわないわ。だっていまでもそうでしょ?」
彼女はそのころを懐かしんでいるかのように語った。そしてふたたびたばこに手を伸ばしたような気がする。
わたしはそのあいだずっと彼女のハスキーボイスに魅了されていた。
*
3歳になって、お茶を習いはじめたころだった、お茶の先生は当時50代の女性で、父の友人でもあったのだけれども、彼女も日本人にはめずらしいハスキーボイスの持ち主だった。
なぜか1本だけ爪が黄ばんでいたのが印象的だった。
お点前(おてまえ)を見せてくれたあと、居間でぼんやりとタバコを吸っているのをなんどか見かけたことがある。
それがたばこを吸う女性をはじめて見た最初の記憶だ。
彼女は異国を旅するのが趣味で、大型貨物船の船長だった年上の愛人と、海峡を見渡すことのできる丘の上の数奇屋造り(すきやづくり)の家に住んでいた。
茶室はふたつあった。
母や叔母をふくめて、自分のまわりにいる女性たちとはまるでちがう雰囲気につつまれたその茶道の師匠に、わたしは最初の日からこころを囚われてしまい、その数奇屋造りの家を訪ねるのが楽しみでならなくなった。
*
このテラスカフェでエスプレッソを飲んでいる50代の女性を前にして、幼いころに味わったことのある〈あこがれの距離感〉みたいなものが蘇ってくるのがわかった。
彼女は飾り気のないダークなワンピースを着ていた。
丈の長さはちょうど膝頭が隠れるほどだった。
いままで出会ったドレス姿の白人女性とはちがって、香水の匂いはそれほど強くなかったとおもう。
彼女が相槌(あいづち)をうつのが上手なものだから、わたしは自分の英語の稚拙(ちせつ)さすら気にならなかった。
たんに暇をもてあました奥さまの時間つぶしの相手でしかなかったのかもしれないが、見ず知らずの東洋人に話しかけてきたこの上品(シック)な装いの女性に好奇心を刺激されていたことはたしかだった。
「日本のお菓子に『Anko』が詰まってる『Mochi』があるでしょ? わたし、あれ、好きなのよ」
彼女がいきなり和菓子の話をはじめたのでびっくりした。
「日本人以外の女性で和菓子の好きな人だなんて、あなたがはじめて」
「変わったカリフォルニア人でしょ?」
「だって、カリフォルニアの人はもともと変わった人が多いから」
そんなわたしに応えて笑ったときの目尻の皺(しわ)が良かった。
学生時代、日本から来ていた留学生と友だちになったと言った。インターナショナルハウスに部屋を借りていたユリコという女性だったらしい。その女性が大学の夏休みに帰国するというので、クルーズ船に乗っていっしょにJapanへ行ったというから、きっと裕福な家庭に育った人だったのだろう。
片道ほぼ1週間くらいの旅だったらしい。
「楽しかったわ。生まれてはじめてAnkoの入ったMochiというものを食べて。たしか『Omochi』と言ってたでしょ? 日本語も学ぼうとしたのだけれど、むつかしくて、わたしにはまったく無理だった」
彼女はいまだに憶えているという日本語の単語をいくつか披露してくれた。
Tokyoのほかにも、Yokosuka、Yokohama、Ginzaなどという地名を耳にすることができた。
「ユリコさん(Yuriko-san)は英文学が専攻だった。わたしに日本の怪談話を語るのが好きだった。しかも、わたしをさんざん怖がらせておいて、『あ、もう遅くなかったから帰るわね』って言って、けろりとした顔でインターナショナルハウスに戻っていくのよ」
「ステキ(cool)な人ですね」
「そう。彼女は素敵(swell)だった。スラリとした体つきで背丈もあって、同性から見てハンサムな人だった。ユリコさんには結婚を約束させられた許婚(いいなずけ)がいたの。でも、両親が決めた人とは結婚したくなかったらしく、とても辛そうだった。時代が時代だから、どうしようもなかったし…。あ、ごめんなさいね、ついつい自分の昔のことばかり話してしまって。クルマで送るわね」
道路わきに停められていた彼女のクルマは深い赤茶色(dark red brown)のジャガーだった。
しかもコンヴァーティブルなので、わたしにとっては初めての乗車体験になった。
想像していたのとちがって、オープンカーなのにもかかわらず、スピードをあげても、あまり風を受けないのがふしぎでたまらなかった。
わたしがアパートの住所を告げると彼女はおどろいた横顔で聞き返した。
「2200 Dwight Wayって、まさかシャダック通り(Shattuck Avenue)に近い方の道の角にあるアパートのこと? あのアールデコ風のアパート?」
わたしはうなずいた。
「信じられないわ。たしか、あれ、1930年代くらいに造られた建物だったはずよね。わたし、学生時代、そのアパートに住んでたのよ」
わたしはありえない偶然に、返す言葉が見つからなかった。
彼女も同じだったらしく、しばらく沈黙がつづいたが、気まずい沈黙ではなかった。
アパートの前でジャガーを停めたとたん、彼女は「そう、ここよ、ここよ。このアパートよ。あの窓からユリコさんと通りを眺めるのが好きだった」と道路に面した角部屋の窓のひとつを指さしながら、いままでとはまるでちがう上ずった声で言った。
その窓は、まさに緒斗とわたしが暮らしていたアパートの窓のひとつだったので、わたしはとまどっていたとおもう。
「よかったら、寄っていきませんか?」
「ありがとう、でも、またにするわ」
彼女はわたしの電話番号をたずねて、ハンドバッグから取り出したメモ帳にその番号を記入すると、車から降りかけたわたしの手をとって引き寄せ、イタリア人がするように、頬を交互にふれさせる別れのあいさつをした。
あまりにも自然なチークキスだった。違和感を感じるかわりに胸がときめいた。
*
1週間がすぎたころ、彼女がアパートにやってきた。
1950年代にこの同じ角部屋を借りていたという事実は、彼女の表情とふるまいのすみずみにあらわれていた。
部屋にはいると、エントランスがあり、右がバスルームなのだが、彼女は間取りのすべてを知っていた。
「あの時となにも変わっていないわ。壁のタイルのモザイクまで同じだなんて」
彼女はバスルームの小窓を開け、吹き抜けの中庭を見下ろしながら、「敷石は煉瓦だったのね。わたしはタイルだと思ってたけど」と懐かしそうにつぶやいた。
わたしはエントランスのちょうど真向かいにある紫檀色の扉をひらいた。
「ここがわたしの部屋です」
三畳くらいの広さのウォークイン・クローゼットで、入って右がわの壁には、備えつけのデスクと大きなハリウッドスタイルのライト付き化粧鏡があり、左がわにはハンガーにかかった洋服がぶらさがっていた。
「え? ここを自室にしているの?」
フロアに積み重ねていた本の山を見おろしつつ彼女は言った。
「彼氏禁制なんです。わたし、この部屋のなかで、詩を書いたり、本を読んだりしているから」
「こんな狭い場所で?」
「クローゼットのなかにこもるのが好きなんです。子供のころに身につけた性癖みたいなもので。彼と喧嘩したら、パンとかジュースとか持ちこんで、何時間もここに籠城(ろうじょう)することにしてるし」
「困った娘さんね」
彼女は座り心地を試すかのようにして木製の椅子に腰かけた。
「この鏡もあのころと同じだけど、こっちは変わってしまったわ」
「こっち、て?」
「わたし、のことよ。いろんなことがあったし。いつのまにか年をとって、ほら、目尻にこんなにたくさんの皺ができてるなんて。もうあのころにはもどれないわね」
「時間を巻きもどすことができたらいいのに」
「それを言うのは、あなた、まだ早すぎるでしょ?」
彼女は大きなライト付き化粧鏡に顔を近づけ、口紅のにじみをチェックしているようすだった。
わたしはその姿を、彼女の背後からじっと見つめていたのをおぼえている。
かすかな指の使い方や髪をかきあげるしぐさまでもが目新しくて、異国の女性といった感じが強くなっていたせいもあるけれど、鏡のなかから、なにげなくこちらへ視線を投げたときの彼女の表情を思い出すたびに、いまでも、その場にいたときと同じように胸が熱くなるのをおぼえる。
そこに腰かけたまま「こんなこと、ほんとうに、何十年ぶり…」と言ったような気がするけれど、どういう意味だったのかたずねることもしなかったのは、どうしてだろう。
わたしが紅茶を作っているあいだ、彼女はキッチンの窓から隣の家の前庭の芝生を見おろしたり、正面の窓から通りを眺めたりしていた。
彼女は女子学生友愛クラブ(ソロリティ)のガンマ・ファイなんとかのメンバーだったらしい。
けれどもクラブに嫌気がさしてソロリティ・ハウスを出てしまい、ここに移ったのだと言った。父親の弁護士の知り合いがこのアパートの持ち主だったらしく、運良く卒業する学生がいたおかげで、すぐに引っ越すことができたのだそうだ。
「おかげでユリコとふたりきり自由に過ごすことができるようになったわ」
「で、彼女は怪談の話をしてあなたを怖がらせたあと、インターナショナルハウスに帰っていったんでしょ?」
「ま、ルーティンみたいなものね」
「緒斗とわたしは、この部屋が見つかるまで、すごく大変で」
「でしょうね。だってバークレーで部屋を見つけるのはあのころから大変だったもの」
わたしはぽつぽつと話しはじめた。いま思うと、ほとんど愚痴に近かった。
*
それまで乗っていた中古のフォードLTDを売ったあとだったせいで、ナパからわざわざグレイハウンドの高速バスに乗ってオークランド経由でバークレーまでもどってきたこと。そしてアパート探しのために安いモーテルをさがして、クルマもないのに、そこに一週間以上も泊まらなければいけなくなったこと。
最初は大学が所有しているハウジングオフィスに通いながら空き部屋情報を調べていたのだけれど、全米でも悪名高いアパートさがしの激戦地区ということで、ほとんど空きを見つけることができなかったため、こんどは2人で朝から晩まで歩きまわって、街の不動産屋へ飛びこんでは空き部屋をさがすことにした。そのため治安の悪そうなオークランド市の奥まで足をのばしたこともあったけれども、それでも見つからなかった。
しかも、猫をナパのアパートで留守番させているため、部屋のいたるところに餌と水をわけて用意してきたのだけれども、それでも心配でたまらなかった、ということも言いそえた。
そして、ちょうど1週間目の夕方、猫のためにも、明日はどうしてもナパに帰らなくてはいけないという日、疲れ切って重たくなった足取りで大学通りの小さな不動産屋に足を踏み入れたときには、ほとんど「あきらめの境地」だった。
そこは、大きな古い木製のデスクがあって、70歳くらいの銀髪で上品なふんいきのおばあさまが座っているだけのオフィスだったので、入り口をまちがえたのかとおもった。
私たちが事情を説明すると、1週間後に空くという部屋をその場で見つけてくれたので、ほとんど夢を見ているとしか思えなかった。しかも、その物件が、大学には近いし、家賃もなんとか払える金額だったので、即、契約をすませた。
*
「モーテル生活の最後の日と決めていたし、心身ともに疲れ切ってたから、目の前のおばあさまが女神さまに見えちゃった」
「良かったわね。なにがあっても希望だけは捨てちゃいけないってことね」
ところが、わたしが一所懸命に説明しているうちに、彼女はときおりくしゃみをするようになり、話が終わったころには、それがしだいに止まらなくなっていた。
どうもサティが原因のようだった。
さっそくキッチンにやってきて、彼女に甘えはじめたサティが、ふくらはぎにまといついて、彼女の足元から離れようとしないのだ。
「ごめんなさいね。ひとり息子は大の猫好きで、わたしも幼いころは猫がきらいではなかったのだけれど、第二次性徴を迎えたあたりから猫の毛に反応するようになったの」
彼女は猫アレルギーがあるらしく、わたしが、サティをウォークイン・クローゼットに隔離しようとすると、「それはかわいそうだから、どうせなら、いまからサンフランシスコのわたしの自宅に来ない?」と誘った。
*
彼女の邸宅はサンフランシスコのなかでも太平洋岸に面したシークリフという場所にあった。
全米に知れ渡っているような高級住宅地だ。
その場所からは、絵葉書そっくりな金門橋(ゴールデンゲート・ブリッジ)を目にすることができた。
以前にも見たことのあるような景色だと感じたのは、アメリカにきた年の秋、バークレーのギリシャ劇場でジェフベックのコンサートを楽しんだ夜、マスタングに乗ってサンフランシスコの街中をあてもなくドライブしている最中に、ぐうぜん、このすぐそばを通りかかったことがあったせいだとおもう。
周辺の邸宅を見まわすと、なかが見えないように、まるで外郭のような高い塀にかこまれているものもあった。
彼女の家は地中海風の家だった。
居間からは、視界全体にひろがる太平洋を臨むことができて、右手に目を投げると金門橋が見えた。
いくつもベッドルームやゲストルームがあり、わたしが迷子になりそうだと言うと、彼女はハスキーな声で笑った。
ただ、あまり人が住んでいるような気配は感じられなかった。
どこへ目を向けても、あまりにも整理整頓がゆきとどいていたし、いつ高級インテリア雑誌お抱えの写真家が訪ねてきてもいいような、まるで生活臭のない気配につつまれた邸宅だった。
奇妙に感じたのは、アメリカ人の家に招かれると、たいていどこでも目にする家族写真がないことだった。
彼女はひとり暮らしだったが、イタリア系の家政婦が毎日やってきて、家事をこなしてくれていると言った。それでも、家政婦がひとりだと、丸一日かかっても全ての部屋を掃除するのは無理そうだったので、ほかにも雇っている人がいるのだろうとおもった。
「好きなだけ、ここにいてもいいのよ」
ブレアにそう言われたことを緒斗に電話で伝えると、彼は「いい経験じゃないか。その奥さんのことばに甘えてみれば?」と言うので、わたしは特に目的を定めることもなく、偶然に美術館で出会った年上の女性の邸宅に寝泊まりすることにした。
口紅1本とアイシャドウはもっていたし、替えの下着については心配しなくていいと言われていたので、身をゆだねるように甘えることにしたのだった。
最初の夜にイタリア系の家政婦が作ってくれたのは、本格的なイタリア料理だったのかもしれないけれど、パスタとピザとカラマリしか知らないわたしには見当もつかないものばかりで、当時のメモを見ても、あいまいな記録しか残っていない。
邸宅にはひんやりした空虚な雰囲気が漂っていたので、わたしはブレアの家族について尋ねることはしなかったが、彼女のほうは、わたしと姉たちの関係を興味深そうに尋ねてくるのだった。
前にも書いたけれど、彼女はとにかく相槌(あいづち)を打つのがとても巧みだったため、わたしを尋問して、心の奥の秘密を白状させるのには最適な人物であり、もっとも効果的な声の持ち主だったかもしれない。
ブレアがあてがってくれた寝室は、太平洋の波の音が耳について、ひとりで聴くには耐えられなかった。
コンフォーターを頭から被ってはみたものの、眠ろうと意識すればするほどいっそう波の音が迫ってくるようで、わたしは震えが止まらなくなった。けれども、彼女を起こす勇気はなかったし、ためらわれたので、わたしは枕とコンフォーターを抱いたまま、忍び足で、ひとつひとつ部屋のドアをあけては、波の音の聞こえない部屋を探してまわった。
そのうち、中二階に物置のような小さな部屋を見つけた。
そこに足を踏みいれたとたん、まるで冬用のぶあつい毛布(ブランケット)につつみこまれたように、ふいに波の音が遠のいたので、わたしは安心してフロアに寝転がったのをおぼえている。
女学院時代、親に内緒で学校をズル休みして、終日クローゼットに隠れては詩を書いたり懐中電灯を片手に読書していた時期があったので、そういう狭い場所は平気どころか、ひとりきり、誰にも知られずにこもれる薄暗くて狭い場所のほうが、ほんとうは大好きだった。
広い部屋で夜中に一人で波の音を聴く恐怖から逃れることができるのなら、たとえトイレのなかでもよかったような気がする。
生まれもって大邸宅には向かない性格なのかもしれない。
*
翌朝、物置のような小部屋から枕とコンフォーターを抱いて出てきたわたしを見つけたときの、ブレアのその驚きの顔はいまでも忘れられない。
「朝食を作らせたのに、あなたがどこにもいないから、彼女とふたりで探したのよ。ベッドのそばにあなたのバックパックと靴はあるのに、枕とコンフォーターはどこにも見あたらないし」
「ごめんなさい。波の音に慣れていないので」
「でも、ヨウコは、たしか、海峡の街で生まれて育ったんでしょ?」
「海峡と太平洋とではまるで迫力がちがいますから。岸壁まで遠かったし」
「それにしてもこんな狭苦しい場所で寝るなんて」
「きっとクローゼットフェチなのかも」
「あなたって、ほんとに変わってるわね」
彼女は魅力的な声で笑った。
好奇心をそそる小動物を発見したようでもあった。
*
居間の棚にあったいくつかの写真集を手にとっていると、彼女がドライヴに誘ってくれた。
お昼前だった。
彼女がウォークイン・クローゼットのなかの引き出しをあけて選んでくれた、すこし大きめのセーターに着替えたわたしは、彼女の深い赤茶色のジャガーの助手席に腰を沈めた。
太平洋を右手にながめながら、くねくねした海岸線をドライブして、2時間あまりでモントレーという美しい街に着いた。
コンクリート道の切れ目を踏んでも、紙コップのなかのコーヒーの表面がさわがないほど、ゆれのすくないジャガーだった。
家政婦が作ってくれたサンドイッチは、風光明媚なハイウェイの展望場所にジャガーを停めて、太平洋にせりだした断崖絶壁をながめながら、シートに腰かけたまま食べた。
パストラミとアボカドのサンドイッチだったはずだけれども、わたしのメモにはその記録がない。
まったくちがうものだったのかもしれないが、バゲットをおもわせるサンフランシスコのサワーブレッド(サワドゥ)に何かがはさまれていたことだけはまちがいないとおもう。
彼女はきわめて少食で、残した分は、すべてわたしが食べることになった。
不思議だったのは、クルマをとめているときのほうが風を強く感じたことだ。
なにげなく見上げた空に、青空を引っ掻いてできた擦り傷みたいな雲がうっすらと描かれていたのが、いまでも鮮明な思い出として残っている。
「せっかくここまで来たのだからカーメルまで行ってみない?」とブレアに誘われたのだけれど、おそらく旅行者でいっぱいだろうし、緒斗に連れていってもらった時も混雑していて、おまけに何もかもが高価で、まさに旅行者狙い(ツーリストトラップ)の街だという印象を強く感じたとこたえて、その申し出をことわった。
彼女はあきらかに落胆したようすを見せたけれど、わたしがただただクルマの助手席にすわって景色をながめているだけでとても幸せな気持ちになれるから、と説明すると、すこし気分を良くしたようすだった。
「なんだか雲行きもあやしくなってきたし、そろそろ帰りましょうか」
それからの帰途、ブレアはわたしに話しかけることもなく、ひたすらステアリングウィールをにぎって黙りこくっていた。
ときおり、なにかの考えに囚われているような横顔になったり、またとつぜん大切なことを思い出したかのようにスピードを落としたりするため、しだいにブレアのことが気がかりになりはじめた。
彼女は午後から昼寝(シエスタ)をとるのが日課だったらしく、2、3時間は寝室から出てこなかった。
その間、わたしは近くの公園や浜辺を散歩してみた。
時間帯のせいかもしれないけれども、人影はあまりなく、すれちがったとしても年配の人たちばかりで、ほとんどの人が柔和な笑みを投げてくれた。
4日目には、庭園の探索をかねて、木に登ったりもして、家政婦をおどろかせた。
そのおかげで、イタリア系の彼女からバジルソースの作り方を教わることができた。
彼女は第2次世界大戦後、幼少時に、両親とともにイタリアから渡ってきたのだった。
結婚するまではニューヨークのブルックリンに住んでいたと教えてくれた。
わたしはその時初めて味わった本場のバジルソースに魅了されてしまった。
「あなたのおかげで、ブレアは本格的なリストランテやトラットリアの味を毎日楽しめて、ほんとうに幸せな人だとおもいます」
「でもね、奥さまは、最近、食が細ってきて、あまり召しあがらないのよ。作りがいがないわ」
*
5日目には朝から濃い霧が出て、その日の夕方、緒斗から電話があった。
さみしくなったらしい。その沈んだ声を耳にして、わたしは無性にうれしくなった。
*
1週間がすぎたころ、2階のテラスに出て、光に飾られた夜の金門橋を眺めていた時だった、外出から帰ってきたブレアが声をかけてきた。
「あの橋から飛び降りる人、けっこういるのよ。自殺の名所だから」
「あの高さからだったら絶対に死ねるとおもいます」
「だって、そのためにジャンプするんだもの。たしか海面から200フィート(70メートル)以上はあるらしいわ。水面まで落下するのに4秒もかかるんだって」
「4秒も…ですか?」
わたしは目を閉じて、その4秒間を想像してみようとした。
「でも、それでも3割くらいの人が生き残るらしいの」
「ええ? すごい生命力。信じられない」
「もちろん助かったあとの体がどんな状態になってるのかは知らないけど」
「そういうこと、あまり、想像したくないわ」
「だったら、ふたりで、お酒でも飲む?」
そして彼女はテラスから部屋のなかへもどるようにとうながした。
*
翌日、ブレアの運転するジャガーで金門橋を渡った。
あまり快適だと感じた記憶がないのは、その前夜に飲んだブランデーが頭に残っていたせいだとおもう。
早朝だったので、まだ空気がきれいだったのだろう、助手席に腰かけているだけで、潮の香りを嗅ぐことができて、めずらしく望郷の念にかられた。
また同時に、昨日耳にした『自殺の名所』という話が思い出され、アンビバレントな気持ちにおちいってもいた。
きっと、うっすらと霧がかかっていたせいかもしれない。
壮大な赤い橋はほとんど夢のなかで見る建造物のように幻想的だった。
クルマは太平洋岸の輪郭をえどってゆくカリフォルニア州道1号線を北に向かって走っていた。
カーブが多かった。それが楽しくて、あっという間に1時間以上がすぎていたことにも気がつかなかった。
「どこまで行くつもりなんですか?」
「さあ、自分でもわからないわ」
「さっき、道路標識があったでしょ? サンタローザだったら、行ったことがあって。でも、内陸を抜けていく101号線を使ったから、こんなに刺激的な海岸線のドライブじゃなかったし、同じ景色ばかりがつづくので退屈だった」
「いまは楽しい?」
「最高」
彼女は弱々しくほほえみ、それからまた半時間くらい走って、海沿いの崖っぷちにある小さな駐車場にジャガーを停めた。
「そういう時期になると、ここから鯨の潮吹きを見れるらしいわ」
「ね、浜辺まで降りてみませんか?」
わたしはスニーカーだったけれども彼女はパンプスを履いていたので、浜辺に降りるために作られた崖伝いの階段をおりていくあいだ、わたしは彼女の手をとって誘導(エスコート)していた。
「ありがとう」
「だいじょうぶですか?」
「ヨウコは、ヒッチコックの『鳥』という映画、見たことがある?」
「はい。子供のころに2回は見たような気がします」
「ここが、そのボデガ湾よ。ヒッチコックの『鳥』の舞台になった場所」
「鳥の大群とその鳴き声が怖かったものだから、背景になった街並みとか景色とか、ぜんぜん記憶に残ってなくて」
「だって鳥が主人公だものね」
わたしたちは強い潮風に煽られながらゆっくりと浜辺を歩いた。
たくさんのカモメが海面近くの空中に浮いてとどまっていたような気がするのだけれども、思い出のなかでその鳴き声は聞こえてこない。
ブレアはわたしの肩に手をおくと、とつぜん話題を変えて、なにかを思い出したかのように語りはじめた。
潮風のなかで彼女の手のひらのぬくみが新鮮だった。
「鹿はね、オオカミに囲まれてしまったら、じっと動かなくなるらしいの」
「野生動物をあつかったドキュメンタリーで知ったんですけど、オオカミはオオカミで、動いてるものにしか攻撃をしかけられないらしいですね」
「そうらしいわね。獲物が目の前にいるのに、獲物が動かなかったら、ただ吠えたり唸ったりするだけで、手の出しようがないみたい。鹿も本能的にそういうことをわかってるのね」
潮の香りがますます濃くなってきたように感じていたかもしれない。
「ところで、このあいだ、ある猟師が書いたものを雑誌で読んだのだけど、連れ合いを殺された鹿って、そこから動かなくなるらしいのよ。その猟師は、深雪の森で鹿を撃ち殺したのだけど、もう1頭の鹿が、殺されて倒れた鹿のそばにじっと立ったまま、いつまでも動かないんですって。だから、その猟師は、しっかりと猟銃をかまえて、じっと立ちつくしている鹿にジリジリと近づいていくんだけれど、どれだけ近づいても、その鹿は少しも動かなかったらしいの。猟師が書いているのだけれど、彼の本心は、連れ合いを殺されたその鹿を不憫(ふびん)に思って、ほんとうは殺してやりたかったらしいの。苦しませないように殺してやりたかった、と書いていたわ。そういう気持ちがあったから、生き残った鹿がとつぜん動き出さないようにと祈りながら、ジリジリと近づいていくんだけど、その鹿はそこに立ったまま、あいかわらずピクリとも動かなかったの。だから彼は、しっかりと猟銃をかまえて、ほんの目と鼻の先まで近寄って、指を引き金にかけて頭に狙いをつけたらしいのだけど、やっぱり彫像みたいに動かなかったらしくて。だから猟師はおそるおそる手をのばして触れてみたんだって。そのとたん、その鹿がすでに死んでいたことがわかったんだって」
わたしは涙があふれて止まらなくなっていた。
「その鹿は連れ合いを殺されて、みずから心臓をとめたのにちがいない、て、その猟師は書いていたわ。あら、ごめんなさい。そんなに悲しい話だった?」
彼女がなぜこんな話をわたしにするのかわからなかった。
わたしは「もう帰りませんか」と彼女に言った。
いまだに後悔の念にかられるほどひんやりした口調だった気がする。
若さは自分を守ることばかりに忙しくて残酷なものだ。
彼女は悲しげな目つきでしばらく空を見つめたあと、ひとりで階段をのぼり、そのままバークレーまでわたしを送りとどけてくれた。
クルマの中で彼女もわたしもほとんどことばを交わさなかった
バークレーにもどってからの2、3日は、なにも手につかず、なにをしていても上の空だった。
彼女のハスキーな声が耳から離れなかったのだ。
サティはわたしを無視しているかのように窓辺から離れず、静かに外を眺めてばかりいた。
1週間ものあいだほったらかしておいたので怒っていたのかもしれない。
緒斗もそんな感じだった。
彼女に電話をかけようかとも思ったけれど、なぜかためらわれて、電話機の前にこしかけたまま、けっきょく受話器に手をのばすことができなかった。
そして2週間後にブレアから手紙が届いた。
彼女の恋人だったユリコさんは、親が決めた許婚との結婚式の数日前に自殺をしたのだそうだ。そして、いま、ブレア自身は末期癌の宣告をうけていて、あと「余命6ヶ月」だと書かれていた。
けれども病状は人によってちがうから心配しなくてもいい。自分の場合は寝たきりにならずにすんでいて、いまだに日常生活が送れるし、短いあいだだったけれども、あなたといっしょにすごした数日間、青春時代がもどってきたようで、楽しく、とても幸せだった、と、そう書かれてあった。
*
その手紙は2年後にシカゴに移ることになったとき、引越しのための15個の段ボール箱のひとつとともに失われてしまった。
なんども運送会社に問い合わせたが、どこでどうなったのかわからない、のひとことだった。
1984年 秋 / バークレー
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