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執筆者の写真香月葉子

【バークレー】美しい黒人女性の毒親ぶり?

更新日:10月26日

 社会学のブラウナー教授のクラスでひときわ目立つ女性がいた。

 20人ほどの学生が、教授を真ん中において、彼を取り囲むように席を並べていたのだが、彼女とわたしは教授をはさんでちょうど向かい合わせになる位置に腰かけていたものだから、そのつもりがなくても視線が合うことがたびたびだった。

 名はパトリシア。つい目を奪われてしまうほど品格のある黒人女性だった。

 パトリシアが誇り高く自分にも自信をもっていただろうことは、なにをするにしてもためらいを感じさせない所作にあらわれていたし、ほかの学生たちを惹きつけないではおかないパワフルな目の輝きでも察することができた。

 また、ひとりだけ、まるで大学生とは思えないほど大人っぽい存在感を放っていて、ブラウナー教授の講義中には積極的に手をあげ、落ち着いた物言いで説得力のある意見を述べる女性でもあった。

 もうひとつ忘れられないのは、肩までの長さの黒髪にいつも幅の広い真っ白なヘッドバンドをつけていたことだ。そのせいで彼女の黒い肌がいっそうきわだち、まるでアフリカの女王アミナ(Queen Amina)の肖像画から受けるような風格があった。


美しい黒人女性のAI生成画像
パトリシアを思い出させる黒人女性 prompt by Kazuki Yoko | generated by DiffusionBee

 ブラウナー教授は講義の途中で学生を名指しして、教科書の朗読をさせるのをいつも楽しみにしていたようだった。

 ある日の授業で、わたしのすぐ隣に座っていた白人女性のエレンが指名を受けたのだが、「人前での朗読は苦手だから」とそれを拒否したので、わたしが代わりに朗読することになった。なぜかと言えば、真向かいの席に腰かけていたパトリシアが『エレンの代わりにあなたが読んだら?』と言わんばかりに軽く顎をしゃくって微笑みかけてきたからだ。

 それがきっかけとなって、その学期が終わるまで、ブラウナー教授はいつも聴講生のわたしを指名してくるようになった。


 あれはたしか授業を終えたあと、カジュアルでストリートワイズで陽気な雰囲気をまき散らしているエレンとわたしがバロウズ講堂の前で立ち話をしていた時だった、パトリシアが話しかけてきて、結局3人でテレグラフ通りのカフェでカプチーノを飲むことになった。


明るく陽気な雰囲気の白人女性
エレンを思い出させる陽気で気さくな白人女性

 パトリシアは政治学科の学生でバッハが好きなのだそうだ。

 エレンはロキシーミュージックのシンガー・ブライアン・フェリーが好きで、気に入っている歌詞を小声で披露してくれた。

 わたしは日本のジャズ喫茶と呼ばれるカフェバーで、ジョン・コルトレーンの『A Love Supreme』というアルバムのサックスに浸りきってしまい、自分がどこにいるのかわからなくなって背の高い丸椅子から転がり落ち、まわりにいた客たちをあわてふためかせたことがあるというエピソードを語った。

 恥を忍んで告白したのにもかかわらず、ふたりは大笑いしていた。

 パトリシアには2人の妹と弟がひとりいて、ずっと一緒に住んでいると教えてくれた。

 妹のひとりがピザを焼くのがとても上手なのだそうだ。いちばん下の弟はまだ10歳だけど、素描画を描かせたら大人顔負けだと自慢げに教えてくれた。

 そういうわけで、次の週末、エレンとわたしはクッキー片手にさっそくパトリシアの家を訪ねることになった。


 シャダック通りをオークランド方面に歩くとアデライン通りにつながるのだが、そこからフェアヴュー通りを西に下ってほどなく彼女の家を見つけることができた。

 わたしのアパートメントからは徒歩で40分ほどの距離だった。

 住宅街なのだろう、あたりは街路樹で鬱蒼(うっそう)としていたが、木陰で湿ったようなその通りには助手席の窓や後部の窓が割れている乗用車も何台か停められていた。

 それほど治安の良いところではなかったのかもしれない。

 パトリシアの家は3つほど寝室があるくらいの小ぶりな平家だった。外壁の白ペンキはすこし剥げかけていたが、前庭は両隣りの家のものに比べると比較にならないほど手入れが行きとどいていた。

バークレー校近くの家の写真
パトリシアが住んでいた家を思い出させるハウス(from zillow.com)

 おどろいたことに、ふたりでいっしょに玄関ポーチにあがってノックをしかけたとたん、とつぜん扉が開き、3人の子供たちがいきおいよくこちらへ飛び出してきて、エレンとわたしを出迎えてくれた。

 ふたりは女の子で、いちばん小さな子が男の子だった。

 3人は行儀良くならんで自己紹介をかねた挨拶をした。すると奥からパトリシアが現れ、まさに肖像画で見た「アフリカの女王」にふさわしい自信にあふれた笑顔で子供たちに言った。

「ちゃんとお出迎えができたわね。それではみんな、わたしが教えた通りに動くのよ」

「了解。パトリシア」と3人の子供たちは同時に答えた。

 まるで小さな海兵隊員みたいでもあった。


 エレンとわたしは気軽な気持ちで遊びにきたつもりなのだが、パトリシアの子供たちにたいする言葉使いから、まるで正式な訪問客をむかえているかのような堅苦しさをおぼえた。

 授業を受けているときの彼女にはたしかにアフリカの女王のような気高さを感じていたが、子供たちへの態度からは厳格に規律を守らせようとする指揮官のような印象をうけた。

 面白いことに、その子供たちの顔立ちには共通点がなく、彼女と血のつながりがあるようには見えなかった。

 子供たちは3人ともそれぞれ肌の色もちがえば、髪の色もちがうし、鼻の形もまるでちがっていた。

 もしかしたらここにいる子供たちはパトリシアの姉弟ではなくて近所の子供たちかもしれなくて、彼女はたんに子守りをしているだけなのではないだろうか。

 そう思った。


 エレンとわたしはキレイに片づけられた温かいふんいきの居間に通され、低いコーヒーテーブルの前におかれていた大きなソファに仲良くならんで腰を沈めた。

 パトリシアは棚にならんだレコードコレクションのなかから1枚のヴィニールレコードをつまみだすと、手慣れた手つきでターンテーブルに寝かせ、カートリッジをつまんで針を落とした。

 回りはじめたプレイヤーから聴こえてきたのは、ヨハン・セバスチャン・バッハの『平均律』で、弾いているのはグレン・グールドらしかった。

 エレンもすぐにそれがわかったらしく、うれしそうに微笑みながらわたしのほうへ顔をむけた。

 パトリシアにたずねるとアルバムの表紙をこちらへむけて「正解」と言った。


 彼女が居間を出るのとすれちがいにいちばん小さな10歳の男の子エリックがやってきた。

「ドリンクは何がいいですか? 紅茶とオレンジジュースとお水があります」

「わたしコーラを飲みたい気分なんだけど」とエレン。

「我が家にはコーラはありません。健康に悪いので、パトリシアが買ってくれないから」

「そうなの、わたしの両親と同じね。じゃ、お水をもらうわ」とエレン。

 わたしは紅茶をたのんだ。


黒人少年の写真
エリックを思い出させる少年

 パトリシアがもどってきてしばらくすると、10歳のエリックが水の入ったグラスとティーカップを乗せたトレイをしっかりと両手でささえつつ、注意深い足取りで居間に入ってきて、ひどくシリアスな顔つきでそれをコーヒーテーブルへ置いた。

 パトリシアは少年の一連の動作を試験官のような目つきで観察していたが、エレンがレストランの給仕さんよりも上手だねとほめたたえると、ようやく満足そうに「すばらしかったわ、エリック」と言った。

 少年はそれでもまだ緊張が解けないようすだったが、パトリシアのほうを見たときにとつぜんなにかの合図を受けとったらしく「了解。パトリシア」とハキハキした声で言い、キャビネットへ走っていって1冊の画帳を取り出してきた。

 パトリシアはまるで母親のような口調で語った。

「何がきっかけだったのかわからないんだけど、3歳くらいの時に鉛筆と紙を持たせたら、とつぜんそこらじゅうの目に入るモノをデッサンし始めたの」

 子供が描いたものとはおもえないくらいにリアリズムの濃い素描画だった。


 エレンとわたしは感嘆の声をもらしながら画帳のページをめくっていた。そこへキッチンの方から少女の呼び声がしてパトリシアは居間から出ていった。

「姉のひとりがサラダの盛りつけ方がわからなくなってパトリシアを呼んだのにちがいありません。パトリシアの期待通りになっているかどうか心配になったのかもしれません」

 少年は肩をすくめながら小声でそのように説明した。

 10歳の男の子とはおもえない大人びた文法と構文で話すせいか、子供を相手にしているような印象はとっくに薄れていた。

 その少年に、もっとカジュアルに話してもいいのよ、とささやいたあと、わたしはさっきから気になっていたことをたずねてみた。

「ね、ご両親は、いま、お出かけなの?」

「え?」

「まだご挨拶もしてないし」

「あぁ、両親のことですか。ぼくたちに両親はいません。母は3年前までここでいっしょに暮らしてたんですけど出て行きました。パトリシアが追いだしたんです」

 それを耳にしたとたんエレンはおどろきの声を発した気がする。「ぼくは自分の父がどんな人だったのか知らないんです。会ったことがないし」

「でもあなたのふたりのお姉さんは知ってるんじゃないの?」

「姉3人のお父さんとぼくのお父さんはそれぞれ違いますから」

 エレンとわたしは無言で顔を見合わせた。

「パトリシアのお父さん、それから2番目の姉のトレイシーのお父さん、それから3番目の姉のメアリーのお父さん、それからぼくのお父さんは、みんなみんな違う人なんです」

「意味がわかんない」とエレンは小声で耳打ちした。

「でもお母さんはひとりしかいません。いつも同じお母さんでした。でも、もう、そのお母さんも姉のパトリシアに追い出されてしまいましたけれど」

「へぇ…そうだったの」

 つまり彼らは異父姉弟なのだ。

 エレンとわたしはことばを失っていた。

黒人少年の写真
絵が上手だったエリック

「だから、ぼくたちの顔、ひとりひとりみんなすごく違うでしょ?」

「で、でも、両親がいなくてどうやって暮らしてるの?」

「じつはこの家は母の兄の家なんです。でも、その伯父も母と仲が悪くて。だから、そのぶん、ぼくたちを金銭的にサポートしてくれてるのかもしれませんけど。ただ、大型貨物船の航海士だから、会えるのは1年に2度くらいです。ぼくたちはフードスタンプ(食糧無料引換券)の支給を受けてるし、パトリシアには奨学金があるし、大丈夫ですよ」

「パトリシアが一家の柱だったのね」

 そのあいだもキッチンからは強い口調で話しているパトリシアの声が聞こえていた。

 彼女のきつい言い方が気になってきたわたしたちの気持ちを察したらしく少年はつぎのように説明した。

「パトリシアにとっては料理が完成するのとほぼ同時にキッチンの片付けができていないといけないんです。だから料理の手順についてパトリシアはいつも的確な指示を出すんです」

「家庭というよりは、まるで軍隊みたいね」

「整理整頓がすべてですから。チリのひとつも許されません」

「だからフロントヤードには雑草がないのね」

「パトリシアが毎日曜日に草むしりをしています」

 少年と私たちがヒソヒソ話をしていると内気そうな13歳のメアリーがやってきて小声で食事の用意ができたことを告げた。


カリフォルニアピザの写真
シカゴピザとは対照的に生地の薄いカリフォルニアピザ

 ダイニングに行ってみるとテーブルには次女のトレイシーが焼いたピザとサラダがあった。

 ピザにはふんだんにバジルソースが使われていた。そのバジルは3女のメアリーが裏庭で栽培したものだと弟のエリックが教えてくれた。

 わたしはバジルの香りが好きだったし気に入っていた。

「生地が薄くてまさにカリフォルニアピザっていう感じ。すごく美味しいわ、トレイシー。ありがとう」


黒人少女の写真
トレイシーを思い出させるふんいきの黒人少女

 次女のピザ料理をほめたところへパトリシアがつぎのような説明をくわえた。

「生地の薄さで有名なカリフォルニアピザって、もともとはバークレーが発祥の地だって知ってた? トレイシーは放課後ピザ屋さんでアルバイトしてるの。シェフになりたいらしくてね。でも、わたしからすると、ピザ作りは趣味の範囲にとどめておいてほしいのよ。それよりは、まず、大学に行ってもらいたいし、行かせたいの。なにしろトレイシーは全学科が優秀で、成績はすべてAなのよ。でも誰にもうしろ指をさされることなしに奨学金をもらうためには全ての学科においてAプラスを取れるくらいでなくちゃダメだと思ってるわ。黒人であるということだけで優遇され、ただ黒人であるということだけで他よりも優先され、黒人であるということだけで奨学金を得ることができた、なんてだれにも言わせない。それがわたしがトレイシーに望んでることなの」

 子供たちはみなうつむいて真剣な表情で彼女のことばに耳をかたむけているようすだった。


「メアリーは何が得意なの?」とわたしは内気そうな3女にたずねた。

「なにが得意かってきかれても困りますけど」

「トレイシーみたいになにもかも得意なんでしょうね」とエレン。

「わたしは雑草でもなんでも土から生えてくるものを見ると本能的に調べたくなるんです」

 横からパトリシアが口をはさんだ。

「しかも彼女はね、ラテン語の学名をすぐに覚えてしまうの。もちろん理科系の成績はすべてにおいていつもトップ。とうぜん医者を目指してもらわなくちゃね。そのはずでしょ?」

「はい、パトリシア」とメアリーは小声でうなずいた。

 エレンはわずかに眉をひそめて言った。

「でもメアリーは本当は植物学とか勉強したいんじゃないの?」

「はい。いつかアマゾンに行ってみたいんです。熱帯雨林の植物をわたしの目で見てみたい。まだだれも発見したことのない植物にわたしの名前をつけてみたいなぁ」

「なにを夢みたいなこと言ってるの。アマゾンの密林で虫に刺されながら学問したってちゃんとした生活ができるはずがないでしょ?」

 高飛車な口調でパトリシアが否定した。

 するとエレンが自分のことのように声を強めたのだ。

「でもメアリーはまだ13歳だし、今から彼女の進路を決めつけるのはどうかとおもうけど」

「私たちにはそんな余裕はないのよ」とパトリシア。

 いつのまにかピザの味を楽しむどころではない険しい雰囲気になってきたのでわたしはなんとか話題を変えたかった。

「それにしてもいい香りよね。バジルの香りってなんとなくマリファナを吸ってるみたいな気分にさせてくれて、ほんとうに頭がフワーッと飛んできちゃった気がする」

 子供たちがクスッと笑った。

 エレンも笑った。


黒人少女の写真
メアリを思い出させる黒人少女

 するとパトリシアがいきなり「ノー!」と言って、わたしを睨みつけてきたのである。

 威嚇的な凄みのある目つきだった。

「Yoko、この子たちの前でマリファナなんてことばを出さないでくれる?」

「え? なにがいけないの? マリファナって言ったのがいけないの?」

「あたりまえでしょ。そういうことばはこの家では禁句なの」

 わたしはエレンの場合よりもさらにまずい状況を作ってしまったようだった。

 そこへエレンが助け舟を出してくれた。

「ここはカリフォルニアでしかもバークレーよ。コケインとかヘロインみたいなハードドラッグじゃないんだし。教授たちだってパーティで吸ってるじゃない。教授からすすめられたこともあるくらいだし」

「ダメよ。まだ分別のつかない子供たちの前ではぜったいにダメ。とくにここでそういうことばは使わないで欲しいの。それがきっかけになって、このあたりのギャングの口車に乗って、このあたりでひろまっているドラッグに手を出して、それがきっかけでさらに悪いものに手を出して、けっきょくそこから抜けることができなくなるのはわかりきったことよ。みんなも、それはわかってるわよね? 家から一歩外に出ると、そこは悪の誘惑に満ちているの」

「はい。パトリシア」と子供たちは口をそろえてうなずいた。

 誰ひとりとしてパトリシアには逆らえないのだろう。

 そのときエレンが目に涙をためてシクシクすすり泣きをはじめたのである。

「ど、どうしたの、エレン? だいじょうぶ?」

「この子たちを見てたら、わたしの子供のころを思い出してしまったの。物心ついたころから父は善悪の判断を押しつけてきたわ。なにしろ州裁判所の判事だった人だし。ひょっとするとわたしがゆりかごに寝かされてる時期から赤ん坊のわたしを見下ろしながら洗脳してたのかもしれない。朝起きてから夜寝るまで、物事の善し悪しについて聞かされ、秩序と規律を守るように言われつづけてきた。ベッドに入る前にはスリッパをきちんとそろえて所定の場所におかなければいけなかったし。なにしろ決められていたとおりにスリッパがおかれているかどうかを父は毎晩確認しにきてたくらいだから。スリッパの先がほんの5ミリたりともずれていたら『ちゃんと直しなさい』と言われた。でもね、そんな父に母はとうとう耐えられなくなって4年前に離婚したのよ」

 パトリシアは拍手をした。

「おめでとう。立派なすばらしいお父さまね。州の判事さんが自分の父親だったら、だなんて夢のなかでも思いつかないわ。そんな厳しいお父さまがいたからこそ、エレンもバークレーに奨学金で入れたんじゃないの? ほんとうにうらやましいわ。私やこの子たちを産んだ母親は、ヘロイン中毒で、やっと更生施設から出てこれたとおもったら、すぐに男を作って子供を産んで、ロクに世話もしないでほったらかしたまま、また別の男のところへころがりこんだり、子供たちがいるというのに男を呼びこんだりして、そのたびごとに子供を産んできたんだもの。そんな女をたぶらかしてきた相手の男たちがどんなクズだったのかわかってもらえるわよね」

 パトリシアまで目に涙をためはじめたので、わたしは子供たちの前でなにをどうしたらいいのかわからなくなってしまったことを、いまでもハッキリとおぼえている。

 彼女はつぶやいた。

「どうしても私が耐えられないのは、私にもこの子たちにも、そんな女や男たちの血が流れてるってことなの。それが、日々、この頭をよぎることなの。あんな女がわたしたちの母親だったというのが耐えられないのよ」

 エリック少年が言った。

「お母さんは何をしても怒らなかったし、なんでも許してくれました。でも、今、ぼくたちはパトリシアがいないと生きていけないんです。いまではパトリシアがぼくたちのお母さんだから」

 私はいたたまれない気持ちになった。

 食事の途中だったのにもかかわらず、エレンが立ちあがろうとしたので、わたしはそんな彼女を引きとめようとしたけれど、トレイシーに事情を説明して席を立つことにした。

 パトリシアは無言でダイニングから出ていった。

 次女のトレイシーは自分の焼いたピザの残りを包んでくれた。「今度、私が働いているピザレストランに食べにきてくださいね。これがお店の名前と住所です」

 そう言って走り書きのメモをさしだした。

 

 外へ出ると、陽はまだ高かった。

 帰り道、広々したシャダック通りに出たところでエレンが私の肩に手を回して言った。

「ね、さっきの話、わかってくれた?」

 わたしは彼女が父親とのむつかしい関係をさしているのだろうと思った。

「大変だったのね。私なんて、せいぜい門限がきびしかったくらいだけど」

「じつはさ、あれ、ウソ泣きだったの。だって、パトリシアを見てたら、父と対峙してるみたいな感覚になってきて。このままではそのうち自分の感情を抑えきれなくなってとんでもないことになるんじゃないかって、そんな自分が怖くなってたの。だから、わざと涙を見せたのよ。感情的になって爆発でもしたら、あそこにいた子供たちがかわいそうだし。私の場合はね、子供時代にああいう厳しいのが当たり前だって信じこまされてたのが悔しいの。母が離婚したおかげで父とも物理的に距離をあけることができたから、少しずつ彼にたいする怒りも薄れてきてると思ったんだけど、いきなりあんな権威的な彼女の姿を見せつけられてついつい抑えこんでいたはずの感情がわきでてきちゃって。それにしても、パトリシアの言い草には参ったわ。『おめでとう』だって」

「お見事だったとおもわない」

「たしかにね」とエレン。

 わたしは「ちょっと休んでいかない?」と彼女を自分のアパートへ誘った。彼女が間借りをしているノースバークレーのヴィクトリア朝の一軒家までは歩いて一時間くらいの距離があったからだ。

 

 パトリシアの妹トレイシーが焼いたピザを緒斗と3人で食べた。

 薄いピザの生地は冷めきったあとでも美味しかった。

 緒斗が買ってきたビールを飲みながら、3人でエレンの大好きなブライアン・フェリーを聴いた。

 彼女はどの曲の歌詞もすべて暗記していて、ロキシーミュージック独特のふしぎなメロディーに合わせて小声で歌って聞かせてくれた。


 数日後、ブラウナー教授のクラスで会ったパトリシアはいつもと変わりなく、気高く、幅の広い白いヘアバンドがとてもよく似合っていた。

 私たちはお互いに「また来週ね」(See you next week!)と笑顔で声をかけあって教室を後にしたのだった。

 

 

   1984年 秋 / バークレー



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