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執筆者の写真香月葉子

【ワインカントリー】オーガズムの風に吹かれて

更新日:10月26日

 父がオートバイ(単車)を買ったのはわたしが生まれた年だった。メグロというバイクで、彼はすでに38だった。

 20世紀の半ばのことだ。

 会社を持っていたため、3番目で最後の子供も女の子だったことに落胆したかもしれないが、彼からそういうニュアンスのことばを聞いたことはなかった。けれども寝室で母とふたりきりになったときに、そういうグチをこぼしていたのにちがいない。なぜなら、わたしが男の子でなかったことを口惜しむ気持ちを、母がときどき漏(も)らすことがあったからだ。

 わたしはただ(生まれてきてごめんなさい)と無言で頭を下げるしかなかった。


 いまでは、生まれてくる子供の性別を決めるのは、あくまでも男性の精子が持っている染色体なのだということはわかっているけれど、20世紀の半ばにはまだ一般には知られていなかったと思う。

 家をつぐための男の子を産むことができなかったという理由で、肩身の狭い思いをしている女性がいたことは、ときどき耳にはいってきたし、それが理由で離婚させられたというような話も、テレビドラマや映画のなかだけではなくて、叔母たちからも聞かされたような記憶がある。


 建物や乗り物や洋服やファッションはどんどん変化していくけれど、あくまでも家父長制という体で呼吸している国のひとつなのだということは、女に生まれてくると、物心がついたころから日々感じないではいられなかった。

 それでも上の姉ふたりは、養子をむかえることもなく、早くから家を出てしまった。

 残されたわたしは日本そのものから出た。


「目に入れても痛くない娘」とは言っていたけれど、わたしの出生にたいしての父のほんとうの気持ちはどういうものだったのだろう。

 父が死んだあと、夢のなかで再会したことはあるけれども、夢のなかでもたずねる勇気がないのはどうしてだろう。

 ふたりで、ほかに誰もいない海辺のベンチにこしかけて、それぞれ、ぼんやりと遠くを見つめている。

 なにか言い残したこと、聞かずにいたことがあるような気がして、胸のあたりにぽっかりと穴があいた夢。


 父が機械の美しさに魅せられるタイプなのだと気づいたのは、わたしが中学にあがったころだった。読書に没頭するようになっていたころで、まだブラをつける必要がないころだった。

 彼はイタリア製のコーヒーメーカーをながめるのが好きだった。少年のように顔を輝かせてハーレーダビットソンのカタログ写真集をめくっていることがあった。音楽そのものよりも、ビクターのステレオ電蓄のボリュームつまみや、プレーヤーのアーム部分の角度などに目を細めたりしていたような姿が印象に残っている。


 メグロからBMWに乗り換えたとき、彼の欲しがっていた型のBMW(ベンベ)が日本に数台しかなかったため、わざわざ東京の輸入元まで足をはこんで話をつけなければいけなかった、とずいぶん後になって聞かされたことがある。


 戦争によって失われたなにかを40代で取りもどそうとしていたのだろうか。


 家族のために、トヨタと日産の乗用車を3、4年周期で乗り換えるようになるまでの、ほんの短い青春だった。


 2、3歳のわたしにパイロット用のゴーグルをつけさせ、メグロのガソリンタンクの上に座らせて走ることがあったらしい。

 その写真は残っているけれども、わたしの記憶に残っているのは、幼いころのわたしの顔が切ってゆく、あの風の強さだけだ。


 そのせいかどうかわからないけれども、わたしは風を切るのが好きなのだ。

 顔で風を受けるのが好きだ。

 同じ場所に立っているだけなのに、目を閉じて強い風に吹かれていると、なぜか走っているような気持ちになれる。

 ただ風に吹かれているだけなのに、鳥肌が立つようなスピード感がやってくる。

 ここからどこか遠くへ走り去ることができるような錯覚をあたえてくれる。

 娘時代もそうだったし、半世紀以上たったいまもそれは変わらない。


 カリフォルニア州のナパにいたころ、葡萄畑ではたらくメキシコ人の季節労働者が入居者の7割を占める2階建ての長屋(タウンハウス)のひとつで暮らしていた。

 となりにも東洋人の女性がいたが、彼女は日系3世で、白人の男性と暮らしていた。

 ふたりとも20代半ばで、半年前に結婚したばかりだと言っていた。

 夜が深まると、2階のクローゼットの奥の壁あたりから、かすかではあるけれども、彼女のあのときの声が聞こえてきた。

 ほとんど毎晩のことだった。

 わたしは、クローゼットのなかに忍びこみ、壁に耳をつけて、こっそりと彼女のその声を盗み聞いたことが何度かある。

 高まってきても、大声になってかすれることもなく、春風が流れてくるようで、わたしは好きだった。

 天井を見つめながら、いつまでも聞いていたくなる声だったけれど、緒斗はそんなことにはおかまいなく、彼女の声が合図だったかのように、わたしのかたわらでのっそりと上半身をおこすと、とつぜん捕食動物のような目つきになってわたしを見おろすのだった。

 理性そのものだった生き物が、あっという間に肉体そのものの生き物に変化するのを目(ま)のあたりにして、最初のころはいつもおどろかされた。

 男の変化にくらべたら女の変化などは人工的で儀式的なものなのかもしれない。

 そのうち、わたしは、彼女の声が聞こえてくるのを、待ち望むようになった。


 そのタウンハウスから自転車で10分ほど走ると、ナパ市の開発事業から取りのこされたような、こぢんまりしたショッピングセンターがあった。

 自動車20台分ほどの駐車場をかこむようにして店が4、5軒ならんでいた。

 すぐ背後には山焼きされたばかりの山がひかえていて、1車線のほそい田舎道はそのまま急な峠の坂道へとつながっていた。そして、その先にひろがっているのは、カリフォルニア北部の深い青空だった。

 ショッピングセンターには、恐怖映画『悪魔のいけにえ』(Texas Chainsaw Masacre)に出てきそうな、大きな肉の塊のぶらさがった肉屋と、壁一面にさまざまな種類の包丁が飾られている金物屋にはさまれて、小さなスーパーマーケットがあった。

 サイクリングのかたわら、緒斗とふたりで、月に2回ほど、そこへ買い物をしに行ったのをおぼえている。

 ケロッグの大きなシリアルの箱と、大きな3リットル入りワインボトルの肩に、うっすらとホコリがかむっているのが印象的だった。

 どの店に足をふみいれても、店主はたいてい初老の白人男性で、レジに立っているのも中年の白人男性だったので、スーパーマーケットの果物売り場でプラムをならべていた中年の女性店員を見つけたときは、なぜかホッとした。


 彼女はわたしたち東洋人カップルに気づいて、一瞬とまどいの表情を見せたが、わたしが「ハーイ!」と声をかけると、「いい天気ね」とほほえんでくれた。

「日本人?」

「ええ」

「ここにはパイロットになりたい人たちが日本からたくさん来てるわよ。知ってる?」

 彼女は日本航空のナパ運航乗員訓練所のことを言っているのだった。

 ナパカレッジへの道すがら、大型バスを埋めつくした東洋人の団体を目撃したことが2、3度あって、カレッジの教務部の職員のひとりにたずねると、飛行機の操縦訓練を受けにきている日本航空のパイロットの卵たちなのだと教えてくれた。

「ここのカレッジに通ってるの?」

「通ってるのはわたしの彼で、わたしは聴講生だけど」

「そりゃたいしたもんだわ。あたしもときどきカレッジへ出かけるのよ。詩の朗読会がある夜にはね。デイブ・エヴァンスって名の教師がいてね。知ってる?」

「ええ。こんどその先生の授業を受けようと思ってたから」

「あの先生が声をかけたら、東海岸にいる有名な詩人たちが、顔をそろえて、このカリフォルニアのこんな田舎くんだりまで来てくれるんだからね。ほんとにたいしたもんだわ。先生はゲイリー・スナイダーとも仲がいいのよ。知ってる?」

「ええ。ゲイリー・スナイダーは日本人には馴染み深い詩人だし」

「へえ、そうなの? たいしたもんだわ」


 彼女は50年代のアメリカでもっとも高い視聴率を誇っていたというホームドラマ『アイ・ラブ・ルーシー』のルシル・ボールそっくりの髪型をしていた。

 そのせいか、そのスーパーマーケットに立ちよるたびに、タイムマシンで時空を超えたかのようなふしぎな感覚におちいった。


 ほんのすこしの買い物をして、そのこぢんまりしたショッピングセンターを後にすると、急な峠が待っていた。


 緒斗とわたしの自転車はドロップハンドルで、変速機もついていたけれど、乗ったまま登っていくのはムリな坂道だった。

 緒斗が教えてくれたようにジグザグ走行でのぼるのさえムリな勾配(こうばい)のきびしさだった。

 だから、いつも、ふたりで自転車を押してのぼっていった。

 押しながら坂を登っていくのは楽しかった。

 いちばん上までいけば、そのあとは下り坂が待っている。その下り坂が楽しみだった。

 

 上までくると、すぐ足もとから下り坂がはじまるのだけれど、それはローラーコースターのコースのなかでも3番目くらいに急な傾斜に見えた。

 坂道のいちばん底に到達したとたん、道は二手にわかれていた。

 ひとつは急な左カーヴ、もうひとつは牧場の柵にそった脇道へとつづいていた。

 急カーヴのほうは、この1車線の道の延長だから、道もキレイだし、ある程度の広さはあったけれど、わたしの運転技術では曲がることができないのはわかっていた。

 しかも、わたしたちは、この坂をくだるとき、いっさいブレーキをかけないことを慣(なら)わしにしていたのだ。

 言い出したのはわたしで、いつのまにか儀式のひとつになっていた。

 だから、残されたルートは、右へゆったりしたカーヴを描いてつながっていく脇道しかなかった。

 ただ、その道が、心細くなるほどの狭さなのだ。いちおう舗装はされていたけれども、まるで畦道(あぜみち)のような細さだった。しかもゆるやかな上り坂になっていた。


 わたしは緒斗と目を合わせて肩をすくめた。

 ふたりのほかにはだれもいない坂道だった。

 自動車や耕運機とすれちがうことすらなかった。

 この風景すべてがふたりだけのもののように感じられた。


 ところで、数ヶ月前、はじめてその峠の頂(いただき)に立ったとき、最初におりていったのはわたしだった。


 緒斗からカーヴの切りかたの説明を受けたあと、なんの合図もせずにペダルを踏みこんだせいか、背後から緒斗が大声でなにか叫んでいるのが聞こえてきた。

 後になって知ったのだけれど、ブレーキをかけろと叫んでいたらしい。

 でも怖さはなかった。不安もなかった。

 自転車の運転にもあまり慣れていなかったため、なにが危ないのかわからないくらいに無知だったせいもあるかもしれない。

 自転車はとんでもなくスピードを増していったけれども、わたしはいちどもブレーキをしぼらなかった。


 ただただ風を感じたかった。

 顔にあたる風の強さが空気の厚みと硬さをつたえてくるのを感じたかった。

 髪は肌を打ちたたくほどに乱れ、Tシャツのすそがはためいているのも、この背中ではっきりと感じとることができた。

 わたしは、坂のなかほどにさしかかったとき、目をとじていたと思う。

 あまりのスピード感に、このまま空へ向かって上昇していくのではないかという錯覚をおぼえたことを、いまでもはっきりと思い出す。


 ハンドルがこきざみに震えはじめたところで分かれ道にさしかかった。

 わたしは、緒斗に教わったとおり、すぐ間近を見るのではなくて、数十メートル先の、狭い脇道のなかほどへ目を向けていた。

 すると体が勝手にかたむいて、猛スピードではあったけれど、なんの問題もなくそちらへ自転車が曲がっていったのだ。

 1本道から畦道のように狭い脇道へとすべりこんでいったときの達成感には鳥肌がたった。

 と同時に、とつぜん、あのときの感覚がやってきたのだ。

 風を受けて宙を漂っているかのような幸福感だった。

 一瞬、風景全体がぼやけたかと思ったら、どこにいるのかわからなくなって、同時に、頭の奥が、ずぅ〜ん、としびれるのを感じた。


 よほどのスピードだったのだろう、4、50メートルはあろうかと思われる脇道のなかほどまで、それがゆるやかな登り坂だったのにもかかわらず、カーヴを切ったときのいきおいだけで到達することができた。

 いちどもペダルをふまずに……。

 そのあいだ、ことばにならないほどなめらかな上昇感が、ひそやかにつづいていた。


 追いついてきた緒斗が頬を紅潮させているのが見えた。そして、わたしの運転を褒めたたえ、こんなに度胸のすわった女性だとはおもわなかった、と感心していた。

「怖かったよ。きみが大怪我をするのじゃないかと思って、ほんとに怖かった」

 わたしはそのすべてが不思議でならなかった。

「顔が火照ってるよ」と緒斗。

「スリル満点だったんだもの」

「とんでもないスピードで下っていくもんだから、見ていたこっちは、ほんとうに、恐怖で足がふるえちまったよ」

「ごめんなさい。ブレーキをかけるの忘れてた」

「あのスピードでよく曲がれたね」

「たいしたものでしょ?」

 緒斗は深くうなずいた。


 世界の流れから取り残されたような牧場のそばの田舎道で、わたしたちは、しばらくのあいだ、ふたりきり、じっと青空を見上げていた。

 北部カリフォルニアの青空はまるで夜空のように深かった。

 姿は見えなかったが、どこかから、牛のムォ〜ムォ〜という、低いのんびりした声が聞こえてきた。

 緒斗はなにも言わず、ときおり、ためらいがちにこちらをふりかえっては、不思議なほほえみを投げてよこした。

 わたしはいまでも彼のそのときの表情をおぼえているし、おぼえていられることに感謝している。





1981年 秋 / ナパ



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