毎年ハロウィンが来るたびに、『死者の日』の思い出がよみがってくる。
アメリカに渡って2年目のハロウィンだった。家々の庭先には妖しく光る大きなカボチャのデコレーションがあって、夜道の住宅街は人通りがなく、不気味な雰囲気が漂っていた。
ダウンタウンにある映画館でハロウィン2を観たあとだったので、樹々の陰にマイケル・マイヤーズが潜んでいるかもしれないと想像しながら、映画の余韻に鳥肌をたてつつ楽しんでいたかもしれない。
その翌日の夕方、タウンハウスの窓辺から外をながめていた飼い猫のサティが鳴き出したかと思ったら、玄関の扉をノックする音が聞こえたので、カーテンの隙間から外をうかがうと、骸骨顔のメイクをした6歳くらいのロングヘアの少女が立っていた。
ハロウィンはもう終わったはずだけど、と首をかしげながらも、扉をあけて『トリック・オア・トリート? Trick or Treat?』とたずねると、少女は弱々しく首を横にふってわたしを困惑させた。
いったいなにごとだろう?
けれども、その茶色に緑色を混ぜたようなヘーゼルナッツ色の瞳を見たとたん、すぐさま『あの子だ』と記憶のなかから少女を特定することができた。
中庭をはさんで向かいにならんでいるタウンハウスには葡萄畑で働いているメキシコ人の家族が3、4組ほど住んでいたのだが、中庭に設置されたランドリールームで、時々、この内気そうな少女をつれた若い母親に遭遇することがあった。
とても人なつっこい女性で、洗濯機に衣類を入れながら、彼女とはよく世間話をした。
骸骨顔の少女はわたしの手をとり、カタコト英語で『ママが呼んでる』と言ったので、わたしはとりあえず緒斗に声をかけて外へ出た。
そのタウンハウスの扉はあらゆる人々を迎えいれようとするかのように開かれていた。
少女に手をとられて足をふみいれたわたしは、骸骨メイクをほどこしたメキシコ人の男女に、明るくにぎやかに歓迎された。
このタウンハウスで暮らしている全員が親族であるかのようなふんいきに溢れかえっているせいか、見知らぬ国のカーニヴァルのまっただなかに迷いこんでしまったような錯覚をおぼえた。
そういえば、数日前に少女の母親に英語まじりのスペイン語で話しかけられたのだが、曖昧にオーケーと返事をしてしまったことを思い出した。どうも、この招待はそのためらしかった。
居間には日本の雛壇を思わせる祭壇(アルター altar)があって、最上段にはマリーゴールドの花が並べられていて、その中央に少年の遺影が飾られていた。その下の数段には大小のカラフルな髑髏(どくろ)の置物やパンやお菓子がたくさん置かれていた。
少女の父親が今日は『ディア・デ・ロス・モルトス(死者の日)』なのだと教えてくれた。
ハロウィンとは一線を画しているメキシコのアステカ文明が起源の伝統的なお祭りなのだそうだ。
故人の魂がこの世にもどってくる日で、祭壇に死者の好物を飾って楽しくお迎えするらしい。
いくつもあるシュガースカルと呼ばれる髑髏の置物は、奥さんたちが砂糖とメレンゲで時間をかけて作って、独自のデコレーションで仕上げたんだよ、と言った。
遺影の少年は彼の息子さんで、国境を越えてそれほど日がたたないうちに病死したらしい。
それを語りかける彼の顔には髑髏メイク(どくろめいく)がほどこされ、にぎやかな雰囲気の、しかも極彩色に飾られた部屋の中だったものだから、息子さんの死の物語がまるで神話のひとつのようにも感じられた。
わたしは死者の日に食べるという、丸い形の『死者のパン』に手をのばした。パンの上部は四本の骨や心臓のモチーフでかたどられた生地で焼かれていた。オレンジの香りがして、甘かった。ちまきにも似たタマレスは毎日食べたくなるようなオヤツの味わいだった。
途中から誰かが呼びにいってくれたのだろう、緒斗も加わった。
少女の父親が緒斗にテキーラを飲ませたかったらしい。なぜなら死者の日は、メキシコからやってきた男たちにとって、ゆいいつ自分の妻たちからテキーラの飲み放題を許される日でもあったのだ。
彼らは普段は安いビールしか飲めず、自国メキシコが世界に誇るテキーラには手が出せないのだと聞かされた。
「それに、たとえ葡萄畑で働いていても、その葡萄畑から生まれたワインはあまりにも高価で買えないからね」と肩をすくめて日焼けした顔で苦笑してみせた。
そんな彼が息子を失った悲しみから解放される『死者の日』にはテキーラで酩酊(めいてい)できるのだ。
それに便乗して緒斗もわたしも酩酊することにした。
はじめてのテキーラだった。
ご主人が大きな皿にもられた6分の1くらいの大きさに切られたライムを手にとって、その果肉に塩をふりかけ、それをかじってはショットグラスのテキーラを飲みほすというやり方を見せてくれたので、わたしたちもその通りにした。
ライムは酸っぱかったけれど、テキーラの口あたりはなめらかで、これだとストレートでもだいじょうぶだと思った瞬間、喉から胃にかけての粘膜が、いっきに燃え盛るような刺激をうけて耳たぶまでもが充血するのを感じた。
奥さんの手作りのハラペーニョピクルスを齧りながら、骸骨のメイクアップをほどこした旦那さんの「骸骨顔」に勧められるままアルコール度数40度のテキーラをショットグラスで数杯飲んだ。
周りにいる人々の顔も、また、棚に並んでいる様々なオブジェも、何から何までがすべて、日本の『わび・さび』とは対極にあるかのようにカラフルな骸骨顔ばかりだった。
そんな異国の伝統行事を間近で体験させてくれた彼らに、翌年、フォードLTDを売ることになった。
学園都市バークレーに引っ越す直前のことだった。
あの少女がわたしたちの8気筒の白い巨きな『アメ車』に乗りたかったそうなのだ。
彼らはそれまで使っていた古いピックアップトラックを200ドルほどで隣人に売り、その翌日、わたしたちには20ドル紙幣50枚を手渡してくれた。
1000ドルの買い物を20ドル札で支払ってくれたのだ。
トラックを売ったお金だけでは足りなかった。
葡萄畑で働いて手にした現金を貯めたものだったのかもしれない。
わたしが愛した1974年型のフォードLTDも彼らに買われてきっとよろこんでいるのにちがいない。
そう思った。
1981年 11月1日 / ナパ
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