男性のストーカーに苦しめられたことがあります。
卒業が迫っていたころのことでした。
大学の同じ学科にいた青年だったのですけれど、話をしたことはなかったので、東京の下宿に〈速達〉がとどいたとき、その送り主の名前を見ても、だれのことかおもいだせませんでした。
なかには、便箋20枚に小さな文字で書かれた妄想めいた手紙のようなものがはいっていました。
支離滅裂(しりめつれつ)なことが書かれてありました。
『両思いなのだから、とうぜん、きみはぼくのモノです』などということばが目に飛びこんできたときには、たちまち血の気をうしなって、貧血を起こしたようにその場にすわりこんでしまったことをおぼえています。
1970年代後半のことでしたので、〈ストーカー〉ということばはありませんし、そもそも、ストーカーという概念そのものがない時代でした。
かわりに、『あそこの奥さんが顔見知りでもない男の人につきまとわれているらしい』とか『どこどこのお嬢さんがお見合いを断った相手につきまとわれて困っている』というように〈つきまとわれる〉ということばが使われていたようにおもいます。
とにかく、その日から毎日、ほんとうに毎日、妄想にあふれかえった20枚以上の手紙の入った〈速達〉がとどくようになったため、4日目からは封を切ることもせずに、父へ電話をかけてそのことを説明しました。
そんな枚数にもおよぶ支離滅裂な手紙を、毎日、欠かさずに書くというエネルギーが空恐ろしく感じられました。
そんな〈速達〉がけっきょくは段ボール箱いっぱいになるほど届いたのです。
ほんとうに恐ろしくて食事がのどを通らなくなっていました。
どのようにしてわたしの下宿の住所を知ったのかという謎も、すぐ目の前で不気味な大きな口をひらいて、わたしを脅かしていました。
東京へ来てくれた父とともに、さっそく郵便局に足をはこんで、なんとかしていただけるようにお願いしたのですけれど、問題の速達に関しては、開封しないまま〈受取拒絶〉と書いて捺印した紙を貼って、ふたたび郵便箱にもどし、そのまま局員の方に持ち帰ってもらう方法のほかには、手の打ちようがないということでした。
このあとも、得体の知れない恐怖を感じながら授業を受けていたのですけれど、父から「卒業式は危険だから帰ってきなさい」と言われて、けっきょく卒業式には出ないまま帰省し、卒業証書は郵送してもらうことになり、大学生活のおしまいを、孤独な悲しい思いでしめくくることになりました。
ところがそれからひと月もしないうちに、その謎の青年が、こんどは、とつぜん実家をおとずれて、「わたしたちは愛し合っています。お嬢さんと結婚させてください」と父に頼みこむという事件が起きたのです。
父はその人と応接間で話をしたのですが、わたしには会わせてくれませんでした。じっさいに会うのは危険だからやめたほうが良い、と言われました。
それでも足がふるえてからだがこわばるほどの恐怖を味わいました。
なんの連絡もいれずに、直接、赤の他人の家をおとずれるという行為におびえただけではなくて、なぜこちらの住所を知っていたのだろうか、という謎にもふるえあがったのだとおもいます。
その青年が帰ったあと、父は知り合いの弁護士に電話をかけました。
それから10日ばかりして、「あの青年の件に関しては、もう、なにも心配しなくていいからね。弁護士がいろいろとしてくれたので、このことはもう忘れなさい」と言われて、その事件は、そのまま終わりました。
謎の青年はそれきりあらわれませんでしたし、それ以降、手紙を送りつけてきたこともありません。
あっけない終焉(しゅうえん)でした。
父にそのことをたずねてみました。
「あの青年は海上保安庁に就職が決まっていたらしい。で、知り合いの弁護士は、あなたがこういう行動をつづけたら、このことを海上保安庁へ連絡することになるが、どうしますか、とたずねたと言うんだ。自分の将来を大切にしないと、新たに出会うだろう女性との結婚もできなくなるかもしれない。自分の未来をつぶすようなことはおやめになったほうがいいと思いますよ、とね」
それでも、わたし自身は、その青年に面と向かって決着をつけることができなかったことで、なんとも言えないわだかまりと不気味さが残りました。
ずっと顔のない存在だったからです。
謎が謎のまま記憶に残りつづけるのは気色の悪いものです。
クローゼットのなかに覆面をかむっただれかがじっと潜んでいるかのように。
ですから、両親には別の部屋にいてもらって、現実のわたしとじっさいに会って話をしたら、その青年も夢から覚めるのではないかと思っていました。
あの妄想めいた手紙の内容からすると、あの青年はわたしのことを〈自分の理想に近い女〉だと思いこんでいたのにちがいありません。
それは彼の頭のなかで作られ、彼の頭のなかでふくらんだ〈わたし〉であって、じっさいには存在しない女なのです。
文学少女といわれるオタクだったので、そういうことはすぐに理解できました。
女学院では原書で『嵐が丘』を読まされていましたし、同じく15、6歳のころ、こっそりと『ロリータ』も読んでいました。また、そのナボコフの『ロリータ』よりも30年も前に書かれていた谷崎潤一郎の『痴人の愛』は13歳のころに読み終えていました。
ですから、ひとりの男性の妄想がふくらみはじめると、ある予想外の出来事がおこって、関係者たちが、みな、不幸な結末をむかえる、という筋書きは、なんとなく理解していました。
『嵐が丘』のヒースクリフや『ロリータ』のハンバート、『痴人の愛』の河合譲治などに共通しているのは、みな頭の良いひとたちだということです。
その彼らの頭の良さが問題なのです。
その頭から不思議な理屈がわきおこってくるのです。そして、そこから生み出されたせせらぎのような理屈が、勢いを増して、たちまち一本の妄想の流れに変わり、しかも妙な方向へと流れはじめると、本人でもそれをせきとめることができなくなり、その激しい水の流れがいつしか濁流になって、おしまいには彼と彼の妄想の対象でもある女性が暮らしている世界そのものを押し流してしまうのです。
自意識とナルシシズムと独占欲の3つを映し出す鏡の間に閉じこめられた男性がいます。
その部屋のなかで無限にふえてゆく妄想のイメージを追いかけていくうちに、いつのまにかケルベロスのような多頭の怪物に変わってしまうという教訓が物語のほとんどでした。
でも、彼らが愛と誤解している独占欲にはひたむきなところがあり、頭の良さとひとつになって、胸をしめつけるような悲劇へと突き進んでゆくのをどうにも止めようがありません。
ただし、わたしの青春に入りこんできた謎の青年の文章には、そういう純粋さが感じられず、支離滅裂で、かなり狂気じみたものがあったことだけは、はっきりとおぼえています。
ところが、その事件のあとで、わたしの心を、さらにおしつぶすような事実が浮かびあがってきたのです。
大学のキャンパスで向こうから近づいてきた女の子を思い出したからです。
同じクラスを受講しているということで、お昼を誘われたり、ノートを貸してあげたりしました。
また、わたしの下宿にもなんどか遊びにきたことがあります。
ただ、当時、年上の女性と恋愛関係にあったので、この同級生とは一定の距離をおいていました。
ある日、たしかノートをもどしてくれたときだったか、とつぜん「A君はあなたのことが好きみたいよ。もう、デートとか、したんですか?」とたずねられて、おどろかされたことがあります。
あまりのおどろきに、頭がうごかなくなってしまって、つい正直に「あの彼のこと? 彼とはいっしょに渋谷へ行って、道玄坂の喫茶店でレモンスカッシュを飲んだことはあるけど」とこたえたはずです。
ふしぎなことに、その話はそれきりで、A君のことは2度と話題にはのぼりませんでした。
そのあと、夏休み前に、彼女がどうしてもわたしの実家の住所を知りたいというので教えました。
すると、帰省しているときに、東京からとつぜん遊びにきたのです。
ただし、まるでなにかを探るかのように家のなかを見てまわっていたので、もしかしたらわたしに会いたくて来たのではなくて、わたしの両親の暮らし向きを知りたかっただけなのかもしれない、とおもい、すこし悲しい思いがしたことをおぼえています。
わたしが、自分の家族のことなど、私的なことは、相手から尋ねられないかぎり、こちらからは話さないタイプだったせいか、夕食時、彼女はわたしの父に、どんな会社を経営しているのか、とか、その会社はどこにあるのか、などとたずねて、あとから父に「なかなか変わった女の子だね。自家用車の種類までたずねられたときにはおどろいたよ。新聞記者志望なのかな?」と言われました。
卒業後、しばらくして、その女の子から手紙がとどいたのです。
わたしのことを好きだと言っていたらしいA君と結婚することになった、と書かれてありました。
わたしは「おめでとう」という気持ちをこめた手紙を送りました。
そのあと数日後に、ふと心にひっかかる出来事をおもいだしたのです。
明け方まで眠れなかったことをおぼえています。
彼女の結婚の報告で、とつぜん、すべての謎に光がさしこんだような感覚がおとずれたのです。
彼女がなにをたくらんでいたのか一瞬にしてわかったのです。
そういえば、あの当時、学生のあいだで流行していた寺山修司さん主宰の『天井桟敷』(てんじょうさじき)や唐十郎さんがひきいる『紅テント』(あかてんと)などに代表されるアングラ劇(アンダーグラウンド演劇)というものがありましたし、わたしもひとりで見に行ったりしていましたが、いちど、彼女にしつこく誘われて、知り合いの青年が出演しているという演劇を見につれていかれたことがあります。
五反田の小さな狭い場所でした。
劇団の名前すらおぼえていません。たんなるつきあいだとおもっていたせいもあります。
しかたなく出かけたことだけが記憶に残っています。
なぜ、卒業した2年後にそんなことを思い出したのかといえば、あの時、あの劇場で、彼女がしきりに舞台を指さして「ほら、あの人、わかる? いま、こっちに顔を向けた人よ。わたし、このあいだ、彼と飲みにいったのよね。あの人、あなたのことが好きみたいなの」と耳打ちしたからです。
そして、じつは、あのとき、あの劇団のアングラ劇に出演していたのが、例の謎の青年、つまりストーカーだったのです。
後年、わたしはなぜかマーティン・スコセッシ監督の『レイジング・ブル』のエンディングに流れたことばをおもいだしました。
キリスト教徒ではありませんので、まちがっているかもしれませんけれど、たしか『ヨハネの福音書』からのことばで、「わたしはかつて盲目でしたけれど、いまでは見えるようになりました」(once I was blind and now I can see)ということばです。
以前わからなかったことが、いまでははっきりと理解できるようになった、という解釈もなりたつような、そんな開眼の瞬間でした。
彼女はもともとA君と結婚したかったのでしょう。でも、A君がわたしのことを好きだったことを知って(そういうふうに彼女自身からは聞かされました)、A君をあきらめさせるために、例のストーカー青年をわたしに接近させ、その謎の青年とわたしが恋愛関係にあるとA君に見せつけたかったのではないでしょうか。
ということは、支離滅裂で妄想にあふれた長文の〈速達〉をよこした例のストーカー青年は、彼の出演する演劇を見にきたくらいだから、わたしは「やはりぼくに好意をもっているのにちがいない」とかんちがいしたのではないでしょうか。
たぶん、そういうふうに勘違いするようなことを、ふだんから彼女にほのめかされていたのかもしれません。
彼女は、つまり、3人の学生を手玉にとったのです。
ある意味、ほんとうに頭の良い女性だったとおもいます。
策士(さくし)という冠をあげたくなるくらいです。
A君には、わたしが彼には好意を抱いていなくて、じつは例のストーカー青年が本命なのだ、と伝え、ストーカー青年には、わたしはA君には興味をもっていなくてあなたのことが好きなのだ、とおもわせるという手を使って、わたしから卒業式を奪い、自分が望んでいたとおりの男の人と結婚することができたのですから。
罠にはまったわたしたち3人は、けっきょく、なにも知らないまま大学生活を終えたのです。
たったひとこと、「あなたA君のこと好きなの? 結婚とか考えてる?」とわたしにたずねてくれたら、こちらも「いいえ」とこたえていましたし、なにも起こらなかったのではないか、という気持ちでいっぱいです。
そのことが、あれからずいぶん時の流れた今でもくやまれますし、ストーカー事件の底に見え隠れする〈対話の欠如〉と〈対話の不可能性〉にもつながっている気がして、いまだに解決のつかないヒトの心の闇をのぞいたおもいがしています。
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