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  • 執筆者の写真香月葉子

セックスの欲望と快楽のプライバシー

更新日:2023年10月26日


ヤンチャで自己中なのは〈欲望〉という名の子供?


 セックスしたくなったとき、体の奥に生まれる、あの、コトバが追いつけない変化。


 セックスやマスターベーションをしたときに、体のすみずみにまでひろがっていく、あの、コトバをうしなってしまうほどの高まり。


 あのときの性欲と快感が、ぜんぶ〈脳〉によって作り出されているのだとおもうと、なんとなくふしぎな気持ちになります。


 シャワーを浴びる前に、湯しぶきの熱さを指先などでたしかめるとき、太陽のまぶしさ、そして薔薇や金木犀(きんもくせい)の香りを感じるとき、わたしたちの感覚器官(目や耳や鼻や舌や皮膚など)が受けた刺激=情報は、すべて脳につたわって、熱さや冷たさやまぶしさや特定の香りとして解釈=処理されます。


 それが〈知覚〉というものだと、子供のころ、教科書で学びました。


 性欲は男性ホルモンや女性ホルモンが脳にあたえる影響に左右されるそうです。


 また、性感は、脳のなかの体性感覚野という場所で理解されるそうです。


『けっきょく、すべての出来事は、頭蓋骨のなかで起こっている出来事なのかも』という考え方が成り立つのも、とうぜんかもしれません。


 でも、そんな考えを抱くことができるのもヒトだけです。

それだけに、ヒトの脳は、類人猿の脳とはちがって、とても好色(erotic)です。

 そもそも、自分たちがセックスしているところを鏡で見たり、VRヘッドセットをつけてマスターベーションをしたり、あこがれの人の持ち物にふれたり匂いをかいだりすることで高ぶったりできるのは、動物のなかでもヒトだけですから……。


 動物園のお猿さんがそんなことをしてたら、さすがにびっくりしてしまいます。


 映画『猿の惑星』シリーズに出てくるシーザーみたいに、そのうちヒトのことばを話しはじめて反乱をくわだてるのではないかと不安になってしまうかもしれません。


 わたしたちの頭のなかには、とつぜん姿をあらわして、なにをしでかすかわからない、ヤンチャで自己中の〈欲望〉という名の生き物がいて、その子は、仏教で五欲とよばれている財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲を満足させたくて、いつもウズウズしているのです。


 その子がわたしたちの性欲と快感をあやつっているのです。


 その子のせいで、自分を満足させてくれる楽しいことだけではなくて、自分をはずかしめること、困らせること、そして自分のまわりの人たちまでをも悲しくさせるようなことまで起こしてしまうのが、わたしたちヒトというものです。


 いまわたしが、欲望のことを〈その子〉と子供あつかいしたのは、欲望には〈理性〉がそなわっていないからです。


 その子が「もっともっとお金が欲しい」とか「もっともっとお酒を飲みたい」とか「もっともっとみんなの上に立ちたい」とか「もっともっといやらしいことをしたい」とダダをこねはじめると、おさえこむのが大変で、理性はいつも苦労させられます。


からだの力ではなくてオツムの力?


 つまり、〈性欲〉も〈性感〉も、ともにわたしたちの脳によってあやつられ、つくりだされ、受けとられているわけですから、ヒトという生き物がつくりだした物語の数とおなじくらいに、また、ヒトがつくりだしたメロディーの数とおなじくらいに、あるいは、絵の種類とおなじくらいに、セックスにもあらゆる種類の楽しみ方があるのがとうぜんだとおもいます。

 もしもヒトの想像力には限界がないのでしたら、性欲をそそられる相手(対象=Object)と性感を得るための方法だって、たぶん無限にあると考えられるのではないでしょうか。


 つまり、ヒトの性欲は、ただただ子孫を残すための、本能的で、ほとんど無意識におこなわれる動物的な交尾(copulation)とはべつに、長い年月のあいだに、高度な想像力とからみあった自由で洗練された欲望のひとつに変化してきたのではないでしょうか。


 つまり、ヒトの性欲についていえば、生き物がそれぞれの種の保存の目的のためにそなえている本能だけではなく、そこからちょっぴりズレてしまっているのがおもしろいのです。

「おもしろい」と書かせていただいたのは、物語や絵画や楽曲や映画などをつくりだすクリエイティヴな仕事についている方たちにとっては、ヒトの性欲が多くの材料とアイデアを提供してくれるはずだからです。


 相手のうなじや耳たぶや腋の下というメジャーな部位だけではなく、歯ならびや鼻の穴に性欲をそそられる人がいたり、くしゃみの音に興奮させられる人がいたり、イモムシの動きがセクシーでたまらないと感じる人がいても、ちっともふしぎではありません。

〈欲望〉と〈想像力〉が手をつなぐとき、ヒトは発明家にもなれます。

 なにがなんでも鳥のように空を飛びたい、という欲望が、どんな道具をつくったら空を飛べるようになるのだろうかという想像力とひとつになったとき、空飛ぶ機械がうまれました。


 欲望が想像力に背中をおされながら、自由に駆けまわるとき、ヒトには不可能がないようにすら見えます。


 性欲もおなじです。

 いったん想像力と手を組んだら、あとは『限界なき快楽追求の旅』に出かけるだけです。



もしも弱肉強食がほんとうだったとしたら?


 そのような、もともとは自由奔放で、なにものにも縛られないヒトの〈性欲〉に、なんらかの限界があるように見えたときは、たいてい家族や村落や国家などの共同体が『それはさすがにダメでしょ』とタブー(禁忌)標識をかかげたときに限ります。


 それでも、個人が頭のなかでなにを考えているのかをリアルタイムにのぞき見ることができない限り、どんな禁忌も規制も役には立ちません。


 なぜなら、個人がひとりになったとき、あるいは互いの性欲を満足させることのできる相手といっしょにいるとき、その脳がどんなエッチなことを想像しているのかを知ることはできないからです。


 くどいようですけれど、ヒトという生き物に関しては、セックスを楽しむ相手との組みあわせ、また、その相手の性別や年齢、そして相手の体型や顔つきの好みには、まったく決まりがありません。


 もしも、動物的な生殖本能だけに支配されているのでしたら、セレブというイメージに興奮したり、相手の社会経済的地位にひかれたりするのは、ちょっとおかしいのでは、ということになるはずなのです。


 そうではなくて、あくまでも、生き物の健常さをあらわす左右対称の顔つきと体つき、女性(メス)をひきつける声や体臭、そして、どんな状況下でも生き抜くことのできるタフさをそなえた男性(オス)がもとめられるでしょうし、女性(メス)にも、おなじように健常さをあらわす左右対称のゆがみのない顔つきと生殖本能をそそる体つき、男性(オス)をひきつける声や体臭、そしてより多くの子供を産むことのできる体力など、どんな環境下でも生き残ることのできるタフさがもとめられるはずです。


 そうなると、群れのなかで選ばれたごく少数の男性(オス)とごく少数の女性(メス)しか生殖行為には向いていないというようなことになってしまいます。


 動物の世界(Animal Kingdom)をあつかったドキュメンタリー番組などで、社会進化論の提唱者ハーバード・スペンサーが造りだした〈適者生存〉という考え方から、いつのまにか〈弱肉強食〉というふしぎな考え方までもが飛び出してきました。


 多くの学者さんたちの意見では、スペンサーが生きていた19世紀の資本主義社会を映し出している考え方で、とくに資本家に都合のよい考え方だからこそ、彼の思想がひろめられ、もてはやされたらしいのです。


 けれども動物の世界でも、強いとおもわれていたものが滅び、弱いとおもわれていたものが生きのびて種をふやすということは、いたるところで見られていますし、もしもこの世がほんとうに『強いものが常に勝ち残る世界』なのだとしたら、極端なことを言わせていただくと、陸にはライオン、空にはワシ、海にはサメばかりが増えているはずです。


 すべての動物が、ライオンの子供のように、病におかされたり、ケガをして不具になったものはおきざりにされ、ほかの捕食動物に殺されることもなく生き残ったものだけが子孫を増やしていくということであったら、生き物はこれほど多様性のあるものになったでしょうか?


 じっさい、チーターやライオンなどの捕食者も、ヒトのせいで自然のバランスがくずれたせいもありますけれど、その数のすくなさから、より絶滅危惧種になりやすいとされています。


 アリやミツバチや猿などの社会性をとりあげて、その社会行動を人間社会にあてはめるようなドキュメンタリーは、もう、さすがに見なくなりましたけれど、ヒトとヒト以外の動物の差はあまりにもひらきすぎています。


 なぜなら、そのように他の動物を観察して、ああいうところは似てるな、ああいうところはちがうな、などと自分たちの社会とくらべ、そこからさまざまなことを学んだりおもしろがったりするというような〈脳〉をそなえているのはヒトだけですから……。


 〈火〉をおこすことのできる文明と〈ことば〉でコミュニケーションをとることのできる文化をつくりあげた生き物はこの地球上でヒトだけです。


 そして、わたしたちひとりびとりは、野生の自然そのもののなかではなく、先祖がつくりあげてきた、その〈文明〉と〈文化〉のなかに生まれてきたのです。


 ですから、自分たちのセックスプレイを動画撮影して楽しんだり、たとえば、先生と女生徒という役割を演じて興奮したりできる生き物でもあるのは、とうぜんかもしれません。


 その根底にあるのは、もちろん生殖行動です。


 わたしのように、そのプロセスばかりを楽しんで、その結果としての子供を産まなかった女は、わたしがたずさえている遺伝子を未来に残すこともなく、このまま滅びることになります。


 それはそれでわたしはぜんぜんかまいません。


 それに、わたしひとりが、先祖からうけついできた遺伝子を未来に伝えなかったからといって、ヒトという種全体にとっては、ちっともたいしたことではありません。


 ある種にとって、その種の保存のためであったら、何億というさまざまな個体の遺伝子を冷凍保存した宇宙船で、どこか遠い宇宙の彼方にはこんでいって、そこでふたたびもとの生き物として繁殖させることになったとしても、なんの不都合もないはずです。


 いえ、それほどたくさんの数は必要ないかもしれません。


 さまざまな種のオスとメスを、それぞれ繁殖可能な数だけあつめて、どこか生存可能な惑星にはこんでいけばいいわけですから。


 すでにお気づきの方もいらっしゃるでしょうけれど、ようするに〈種の保存〉をもくろむとき、これって、けっきょくは『ノアの箱舟』とおなじアイデアにおちついてしまうのかもしれませんね。



ヒトがヒトなのはなんでも試してみたくなるから?


 とにかく、わたしたちはすばらしい多様性を得ましたし、ひとりびとり、ここまで個性的です。


 わたしたちヒトは千差万別(せんさばんべつ)なる生き物なのです。

チョコレートの詰め合わせ化粧箱を開けたときのように、あらゆる肌の色と顔つきと体型があって、すばらしい生き物だとおもいます。

 そんなヒトという生き物にとって、セックスを楽しむ相手との組み合わせは無限ですし、また、セックスプレイの種類もほとんど無限なのです。


 そして、ヒトの性的な欲望と快楽は、肉体や環境の条件にしばられない自由さをもっているため、勇気ある冒険心と創造的な実験の精神がなくならないかぎり、あらゆるセックスプレイと性の楽しみ方をおもいつくのがヒトという生き物だとおもっています。

 爆弾が落ちてくる戦時下でもヒトは愛し合うことができるし、たとえ体が言うことをきかなくなっても、相手を見つめるだけで、または相手の声を聞くだけで、もしくは相手の持ち物の匂いをかぐだけでもオーガズムを得ることのできる生き物がヒトというものです。



どうして性欲は〈禁断の果実〉なの?


 いつのころからかわかりませんが、セックスは、まさにアダムとイヴが味わった〈禁断の果実〉そのものになりました。


 つまり、先ほど述べたように、ヒトという種を保存するためにおこなっていた動物とおなじような生殖行為から、その行為が同時にふしぎな快楽をもたらすということを〈脳〉が学びはじめたのではないかと考えられます。


 というか、そのような快楽を味わうことのできる〈脳〉を、ヒトは長い歴史のどこかで手にいれることができたのでしょう。


 そのあとにはさらなる変化が待っていました。


 そこからさらに先にすすんで、文明のようなものがあらわれはじめたときには、すでに性的な好みも、さまざまな性的指向(異性愛や同性愛や両性愛や無性愛など)とつれだって、多くの種類に枝分かれしはじめたようですから。


 古代のひとびとが残した神話を手にとってみると、そのことがおわかりになるとおもいます。


 近親相姦、同性愛、両性愛、少年愛、自己愛など、ほとんど「なんでもあり」です。


 これは〈脳〉そのものがもっている自由さをあらわしていて、とても大切で美しいことのようにおもわれます。

ヒトの性の好みはなにをどうしても束縛できないし、その行為はなにをどうしても正常位だけにとじこめてはおけないものです。その正常位にしても直立二足歩行ができるようになって後に可能になったと言われているようですし、そうなると、何百万年という長い時の流れの中をさまよいながらうまれてきた欲望の形なのかもしれなくて、すごいことだとおもいます。

 でも、「束縛できない」とはいっても、この世界には宗教や法律や規律や慣習などがあります。それらは集団におけるヒトとヒトとの関係をととのえるという意味では、なくてはならないとても大切なものです。


 けれども、セックスに関するかぎり、それによって社会がくずれてしまうとか国がダメになってしまうというのは、どこかに大きなウソがあるようにおもえてなりません。


 セックスの欲望によって、家庭がこわれたり、親と子との関係がこわれたり、それぞれの職業にそなわっている権威が地に落ちたりすることはあっても、それはあくまでも当事者だけのことであって、そんなふうに〈反道徳的〉なことをする人たちがふえたら社会全体が崩壊(ほうかい)するというような考えは、あくまでもそういう考えをもっている人たちのなかにひそんでいる生理的嫌悪感や恐怖心、そして支配欲のあらわれであって、その人たちがもし強い法的権限や社会的影響力をもっている立場にあった場合には、ちょっと困ったことになります。


 たったひとり、もしくは、わずか数人の個人的な好み(personal preference)によって、社会に生きるわたしたちひとりびとりの、いたってパーソナル(わたくしごと)でプライベート(人目につかないもの)であるはずの性欲と快楽までもが、こうでなくちゃいけないこうしなければいけない、なんて言われて、いつのまにか狭い箱のなかにおしこめられてしまうかもしれないのですから……。


 もともと、セックスというものは、それをたがいに楽しむ人たちのあいだでだけ通じるルールでなりたっていて、その楽しみを共有していない人には関係のないことなのです。

 不倫のようにおたがいの家庭に問題をもちこむような行為にしても、あくまでもその家族の方たちの問題であって、社会全体にひろがるような問題ではありません。


 ですから、そのように、当事者にしかわからない性的なことがらを取りあげて、社会がどうのこうのと、とやかく言うときには、なにか他の目的があるように感じられてなりません。


 セックスプレイは、けっきょく、それをシェアする人たちが、おたがいに納得ずくで楽しんでいるのであれば、しかも傷つけられたと感じていないのであれば、わたしたち一般人から見て、たとえ目をそむけるような残酷さや汚穢(おわい)にみちているとおもえる行為でも、そのよろこびを理解できない者にはなにも言うことはないはずなのです。

見たくなければ見なければいいし、聞きたくなければ聞かなければいいし、話題にしたくなければ話題にしなければいいのですから。

 いまどこかでクリトリスにピアシングをしようとしている女の子がいたとしても、わたしがその痛みを感じるわけではないし、どこかのバスタブで浣腸プレイを楽しんでいるカップルがいたとしても、わたしがその後始末をするわけではありません。


 あくまでも部外者なのですから。



プライバシーの気品あるエロティシズム


 プライバシーということばにはある高潔さがふくまれています。


 これはわたしのプライバシー(他のだれにも邪魔されない自由)です、という人も、そして、あなたのそのプライバシーを尊重します、という人も、ともに、ある気高さをもっているように感じられます。

 なぜかといえば、それは、おたがいの個人の自由を尊重する、という考えのあらわれのひとつだからです。


 その自由を守るための法律を生み出すところまでヒトという生き物が進化してきたこと、また、そこに到達するまでの歴史をヒトがつくりあげてきたということに頭が下がり、胸がいっぱいになります。


 セックスの楽しみ方はしょせん当事者だけにしかわからないものですし、セックスのよろこびは当事者だけのものでしかありません。


 それでも、わたしたちは、有名人たちのベッドルームをのぞきたくなりますし、他人の性的関係に好奇心をそそられ、そのことに意見したり批判をしたりしたくなります。

 セックスがあまりにもパーソナル(わたくしごと)でプライベート(人目につかないもの)だからです。


 いまでは、電子ブックや、インターネット上の動画や、YouTuberといわれる人たちなどから、セックスのテクニックやセックスを楽しむための道具などについても、簡単に学ぶことができますけれど、そうはいっても、じっさいに経験してみないことにはなにもわからないのがセックスというものです。


 本から学んでも、友人から聞いても、両親や学校の先生から教えられても、インターネットで調べてみても、ダンスを学んだり運転を学んだりするようなわけにはいきません。


 そもそも、いちばん身近にいる両親の性的行為ですら秘密のベールにつつまれているのですから、いくら動画を見ても、マスターベーションをおぼえても、自分以外のだれかとじっさいに体験してみないかぎり、なにが起こるのか、どういうものなのか、まったくわからないのです。


 だれもがいつかは通る道なので、どうしても知りたいし、〈みんな〉とおなじようにフツーにできるかどうかわからないという不安でいっぱいなのは、とうぜんでしょう。


 その点は〈死〉とまったくおなじです。ただ〈死〉の場合は、体験したあとに、もとの人生にもどってこれないのが、ちょっぴり困ってしまいますけれど……。

とにかく、それを体験した者と体験していない者とのあいだに、これほど大きな差が生まれる体験は、病(やまい)とセックスと戦争くらいではないでしょうか。

 少女たちや少年たちだって、たいして興味がなさそうな顔や、なんでも知っているような顔をしているだけで、こと恋とセックスに関しては、その小さな胸のなかのドキドキがおさまらないはずです。



好奇心という媚薬


 ところで、わたしたちは性欲の強さを、肉体の立派さや面立ちの美しさや精力剤と呼ばれる食べ物や飲み物などにもとめて、それが〈脳〉によるものなのだということを、ついつい忘れがちになります。


 たしか澁澤龍彦さんでしたか、「もっともいやらしいのは紳士です」というようなことをおっしゃったように記憶しています。


 わたしは「もっとも性的に自由なのは知性人たち」だと思っています。


 その昔は王族や貴族のひとたちがそうだったとおもわれます。

ヒトの生存に欠かせない食事と睡眠が安定してあたえられるにつれて、または安定して得られる立場にいるヒトたちのあいだから、セックスプレイの実験と冒険がはじまったのはとうぜんだといえるかもしれません。

 王族や貴族など、支配階級にいた人たちは、法や宗教を作る側の人たちなのですから、法に縛られる側ではないのはとうぜんのことだと思っていたでしょうし、寝室やそれ以外の場所でもかなり自由で冒険的で奔放なセックスを楽しんでいたのではないかとおもわれます。


 歴史をふりかえってみるとわかりますが、じっさい、もっとも性の快楽に自由で貪欲(どんよく)だったのは、たいていそういう階級の人たちでした。


 アメリカで社会心理学の授業を聴講していたとき、セックスにたいする精神の自由さは学歴の高さに比例する、という調査結果を教えられました。


 けれども、統計というものは、調査する人の先入観やデータのあつかい方で、その数字がずいぶん変わってくるものだということは、統計学の授業のほうで学んでもいましたので、あくまでもセックスにたいする姿勢を決めるのは、学歴ではなく、ひとそれぞれ(individual difference)がもっている好奇心の質と出会いによるものだとわたしは思っています。


 ただし、育った環境によっては、自分の性器を汚いものだと教えられたり、セックスは恥ずかしいことだと信じこまされたり、不妊の方法を教えてもらえなかったりして、セックスの楽しさをじゅうぶんに味わうことがむつかしくなることだってあるかもしれません。


 女の子だけではなく、男の子の場合も、幼いころからマスターベーションに親しんでいなければ、セックスの快楽がどんなものなのか、その感覚を知ることはできないし、その心地よさを体におぼえこませることさえできないでしょうから……。

 ところで、さきほど述べましたように、いまのこの時代、わたしたちは、ついつい有名人たちのベッドルームをのぞきたくなりますし、他人の性的関係に好奇心をそそられ、そのことに意見したり批判をしたりしたくなります。


 もちろん、他人のセックスを盗み見たり、もしくは盗み聞いたりするのは、エロティックでセクシュアルな刺激になりますし、ストレスの解消にもなります。


 また、有名人の方たち本人だけではなく、その方たちが所属しているエージェンシーやプロダクションの広報の方たちも、話題の中心にいつづけるために、さりげなくそういう情報を流すことだってあるでしょうし……。


 けれども、セックスがどんなものなのか知りたいがために、そういう人たちのプライベートライフに興味をもつという時代は、とっくに過去のものになってしまいました。


 なぜかといえば、セックスに関する情報は、すでに述べてきたように、いくらでもインターネット上で見つけることができるからです。

 わたしたちがそのような話題に興味をそそられるのは、このグレーな日常生活のなかで、ときにはピンク色の性的刺激が欲しくなるというだけではなくて、どうもそれとは別の理由によるものではないでしょうか。



快楽と自由とプライバシーの込みいった事情


 ひとことで言えば『わたしたちが知らないあいだに、だれかがどこかで楽しいことをしているのでは』ということを知りたいのだとおもいます。


 ほかの人はどこかでこっそり快楽を味わっている、という情報に、ついつい乗せられて引きずられてしまうのは、わたしたちが自分のことをあまり幸せだと感じていないせいなのかもしれません。

自分が幸せで、自分の愛する人と快楽をわかちあうことができていれば、たぶん他人のことなどはどうでもいいはずなのです。

 若い恋人たちをごらんになったら、それがおわかりになると思います。


 恋する人たちの、他人に対する無関心さ、世界の情勢に対する無関心さをごらんになったら、うんざりするほどはっきりとおわかりになるでしょう。


 ついでに、わたしたち自身の若き日々をおもいだしてみたら、その意味がいっそう深くつたわるかもしれません。


 性の自由さはゆるせない。

〈正常な〉 行為からはずれたセックスは取りしまらなければいけない。

 乱れた性行為は社会を乱す原因となる。

 そのように、ヒトに欠かすことのできない楽しみを禁じることは、その楽しみをこっそりと裏の世界で提供している人たちを富ませるだけでしかありません。

 みなさんもご存知のように、米国のマフィアがあれほど大きな力を得ることができたのは禁酒法のおかげです。


 性欲や飲酒欲など、依存症を起こすほど強い欲望を禁じるのは、そういう裏の世界の人たちを儲けさせるだけのことですけれど、それでも性の自由はゆるせないという考えが受けいれられるのは、もしかしたら、『ほかのだれかがわたしの知らない快楽を味わっているのはゆるせない』という感情にねざしているからではないでしょうか。


 わたしたちは、いつのころからか『幸福はタブー』(Happiness is taboo)という社会をあたりまえのこととして受けいれるようになってきました。


 人に好かれるために、わざわざ自分の不幸を売り物にする方たちだっているくらいです。


 けれども「他人の幸せそうな顔に嫌悪感をおぼえる」とか「他人の不幸や苦しみや悲しみを見聞きしたら喜びを感じる」という反応のしかたは、動物としてのヒトの本来の姿ではありません。


 ヒトは知性を得るようになって笑うことをおぼえたそうです。

笑顔は、安全であることの信号であり、敵ではないという証であり、仲間とのきずなを強める道具でもあります。

 そんな笑顔にねたみをおぼえるようになったとしたら、わたしたちは、たぶん、自然なヒトの姿から、大きく逸脱(いつだつ)してしまったのかもしれません。


 その原因は、わたしたちがつくりあげてきたこの社会の仕組みのせいなのか、それとも今のこの時代が要求するモノの見方や考え方のせいなのか、それはわかりませんけれど、わたしたちの心がいびつにゆがんでしまったような気がしてなりません。


〈愛〉 ということばと〈幸福〉ということばは、宣伝文句につかわれているだけで、じっさいの生活感性のなかでは、いまや死語になりつつあります。


 ほんとうに悲しいことです。


 それだけに、快楽は大切だとおもうのです。


 とくにセックスの快楽は大切なものだとおもっています。


 そして、その快楽を知っている方たちは、幸せな方たちだとおもいます。


 また、それ以上の快楽を、仕事や趣味など、セックス以外の行為のなかに見出している方たちは、さらに幸せな人生を楽しんでおられる方たちかもしれません。


 ここまで書いてきて、人の人にたいする優しさは、自分への自由と快楽を尊重することからはじまるのではないかと、ふと考えさせられてしまいました。










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