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執筆者の写真香月葉子

戦争メモ 其の3 | 戦争についての覚書 | 軍隊と戦場と学徒出陣

更新日:11月5日





啓蒙主義を代表するフランスの哲学者で作家のひとりヴォルテールのことば。

 彼はつぎのことばを残しています。

「あなたが誰に支配されているのか知りたければ、批判することがゆるされない人々を見ればいいのです」



軍隊ってどんなところだったの?

 そういえば、太平洋戦争当時の軍隊について、父の友人がこんなふうに語ってくれたことがあります。

「軍隊というところには、ふしぎな平等主義がありました。学徒出陣(がくとしゅつじん)で駆り出された人たちと大学生活とは縁のなかった人たちが、みんないっしょに集団行動をとるわけです。出身も学歴も問われずに、みんないっしょに丸坊主にされて、みんないっしょにスタートラインにならばされるわけです。お金持ちの坊ちゃんがいるかとおもえば、貧しい農家から来た人もいるし、作家の卵や画家の卵がいるかとおもえば、漁師の息子や修行僧もいましたね。とにかく、明けても暮れても、上官から殴られました。敬礼がきちんとできてないとか、毛布のたたみかたの悪い仲間がひとりでもいれば、全員が上官からぶん殴られました。個人なんてのはどうでもいいわけです。「班」や「隊」がすべてですから。なにをやってもすべては全体責任です。軍靴(ぐんか)の磨き方ができていないやつがいれば、ぼくたち全員が整列させられ、直立不動のまま、順番にひどい平手打ちをくらわされる。ときには革のスリッパでたたかれたり、ベルトでぶたれたりしたこともありました。下手な上官にやられて鼓膜がこわれ、片耳が聞こえなくなったやつもいましたよ。寝具はきっちり全員が同じ大きさにたたまなければいけませんし、端っこはきちんとそろっていなければいけない。ほんのちょっとのズレもゆるされない。もちろん軍靴は一点のくもりもないように磨きあげないといけない。三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)にいたっては、点呼(てんこ)のたびに冷や汗が出ました。ですから、不器用なやつは寝る時間も惜しんでがんばってましたが、こんどは整列したときに眠気がさしてきて、行進がきちんとできない。で、けっきょくわれわれ全員がぶっ叩かれる。ま、そのくりかえしでしたね。こんなことをやってて敵に勝てるのだろうか、という疑問が頭をもたげはじめたころには、すでに戦況が悪化していたようでした。上官が貧しい家から来た人だと、学徒出陣で駆り出された学生あがりの兵隊には、けっこう厳しかったような気はします。でも、もちろん逆に、そういう苦しい家からやってきた人で、すばらしく人間味のある方もいました。ぼくはとにかく行軍訓練がいやでした。2、30キロある装備を背負わされて、三八式歩兵銃(さんぱちしきほへいじゅう)をもたされ、隊列をくずさずに2、30キロという距離を歩かされるわけです。人間は歩きながら寝ることができるということをはじめて知りました。意識がなくても足は勝手に動いてます。ただ、いきなり「ぜんたぁ~い、とまれ!」という声がかかって前のほうから足がとまると、眠りながらうしろを歩いていた連中が、急停車したクルマに追突するみたいに、つぎからつぎへとぶつかってきて、その鉄兜(てつかぶと)が背中の装備にぶつかる音がうるさかったのをおぼえていますよ」


太平洋戦争当時の日本軍兵士の写真
旧日本軍の兵士たち

ヒトとチンパンジーとの差はほんの1パーセント?

 人間とチンパンジーとの全遺伝情報(genome:ジーノム or ゲノム)の差はわずか1.23パーセントだといわれています。でも、そのちがいによって、ヒトは孔子やモーツァルトやビートルズやピカソを得ることができましたし、また同時に、信仰のちがいを理由に何万人、いや、あるときは何十万人というひとびとを惨殺することのできる生き物にもなったのは、ほんとうにおどろくべきことだとおもいます。



戦場における日常性と非日常性について教えてくれた作家がいました。

 たしかアンドレ・ジイド(1869-1951)だったとおもいます。彼は20世紀初頭から中盤までフランスの知性を代表する作家のひとりだったのですけれど、戦争についても『日記』のいたるところに書かれていて、10代の中ごろに読んだおぼえがあります。

 彼は、一生、日記を書きつづけた方で、膨大な数のノートを残しておられます。天井までとどくような書棚をびっしりと埋めつくした日記帳を背景に撮影されたジイドの写真を見たおぼえがあります。

 50歳に近い年齢で第一次世界大戦を体験し、70歳をすぎた老年には第二次世界大戦の辛酸をなめながらも、反ナチ・反ファシズムをつらぬいた方です。

 感情に流されない透徹(とうてつ)した目は彼の『ドストエフスキー論』をお読みになればおわかりになるとおもいます。

 優れた文芸評論家の方たちが備えておられるという、なにものにも動じない『爬虫類の目』というものをお持ちの方であることはまちがいないようです。



うらおぼえの記憶から紡(つむ)ぎ出したものです。

 だいたい、つぎのような内容だったように記憶しています。

「戦場に足をふみいれると、最初に目につくのは、とうぜんのように死体なのですが、近代の戦争では、砲弾や『戦車』と呼ばれる恐るべき新兵器のせいで、道ばたに見かける肉の塊が家畜のものなのか、それとも人間の屍(しかばね)なのかどうかを見分けるのがむつかしくなりました。そのくらいにバラバラに吹き飛ばされたり圧しつぶされたりしています。

 木の枝や、崩れた農家の屋根などには、腕や足、あるいは内臓の一部などがぶらさがっていたりもしました。また、小川のなかには腐敗して何倍にもふくらんだ牛や豚の屍とともに、おなじようにガスでふくらんだ人間の死体も浮かんでいました。

 けれども、そういう光景には2、3日もあれば慣れてしまいます。慣れなければ神経がもたないので慣れてしまうのでしょう。それが人間というもので、どんな環境におかれても順応できるようになっているようです。戦争そのものがいつのまにか日常生活の一部になってしまうのです。そして、それができない人間はただ頭がおかしくなるだけの話なのです。

 それでも困るのが腐臭でした。

 あの臭いになれるのはすこし時間がかかります。

 けれども、たとえ嗅覚を一時的にシャットダウンして、慣れたとおもっていても、民家や納屋(なや)などに足を踏みいれたときなど、山のように折りかさなった屍を目にした瞬間、とつぜん臭いがもどってくるときもあります。


戦場の兵士の写真
戦場の兵士

 ある日、こんなことがありました。小銃の音も複葉機のプロペラの音も、また機銃掃射の音も聞こえてこない、とてものどかな日でした。あたりには負傷した兵士たちがいたのですが、すこし離れたところに、ひとりの兵士が座っているのが目に入りました。ちょうど塹壕(ざんごう)のふちに腰かけるかたちで、こちらに背を向けて遠くをながめているようでした。

 ひどい戦闘のあとだったのに、彼の軍服はそれほど汚れてもおらず、きちんと鉄兜(てつかぶと:鉄製の戦闘用ヘルメット)をかむり、そばには小銃がきちんとおかれていました。

 わたしはいっしょにタバコでも吸おうとおもって近づき、うしろから声をかけたのですが彼は黙っていました。

 ですから、となりに腰かけて、彼にタバコを1本さしだしたのです。とたんにわたしは悲鳴をもらしていました。ほんとうにひさしぶりの叫び声でした。

 顔がなかったからです。

 その兵士の顔はごっそりと吹き飛ばされていたのです。

 にもかかわらず、ほかの部分には損傷がなく、姿勢もくずれていないという事実にわたしはだまされ、おどろかされたのでした。

 いつのまにか戦争の酷さ(むごさ)に馴れてしまったときに、戦場では見かけないような汚れのない彼のうしろ姿、つまり平和なときと同じような姿につられてそばにやってきたとたん、顔があるはずのところに、ぽっかりと大きな穴があいていたという戦争の酷さに出くわしたのですから。

 その瞬間、わたしは教えられたのです。

 顔を失っているということが、ほんとうは戦争においての日常であるはずなのに、いつのまにか、わたしにとっては彼の汚れのない軍服と自然なうしろ姿という、戦場ではありえない非日常性に誘われて近づいてゆき、そこでふたたび戦争という残酷な日常性をつきつけられることになったのでした。

 その日常性と非日常性の裂け目が「馴れる」ということの怖さをわたしに教えてくれたのです。

 たしか、そういう意味のことが書かれてあったようにおもいます。

 ずいぶん昔に死語となった『文豪』(ぶんごう)という冠(かんむり)の似合う方だったのかもしれません。


 でも、いまの戦争では、希望と絶望を経験し、人間の命とはなんなのかということを学ぶような時間すらありません。

 ヘリコプターやドローンから発射されたミサイルで、何十人もの兵隊さんが瞬時に黒焦げになり、ひとつの町内全体が一瞬にして火の玉につつまれ、ちいさな肉片になって飛び散ったヒトの形跡が残るだけなのですから。

 たぶんヘミングウェイだとおもいますけれど、戦争は人間の一生を数週間に凝縮して見せてくれるような場所だ、なんていうことを書いていたようにおもいます。

 おぼろげですが、わたしの記憶にはつぎのように刻まれています。

「味方の兵士たちのひとりびとりがどういう連中なのか、また、この自分自身とはどういう人間なのか、何年もつきあった後に、ようやくその本性が見えてくるというのが平和な生活のなかでの時間の流れかもしれないが、戦場では、それがわずか数日間、いや、ときには数時間で見えてくることもある。なにもかもが、ごまかしようもなく露わになってしまうんだ。自分は臆病者なのか、勇気のある人間なのか、徳のある人間なのか、それともこすっからいずる賢い人間なのか、自分でもおどろくほど鮮明に見えてくる。戦場での1年はたぶん平和な日常生活を送っているときの10年に匹敵する体験をもたらすのではないだろうか」



『戦争と平和』の作者トルストイのことば。

「戦争は不正義で醜い行為であり、戦争をおこなう者はみずからの心のなかに聞こえている良心の声を押し殺さなければいけません」

「人類の歴史を見たらおわかりのように、すべての戦争はみな政府によって企てられたものばかりです。それ以外の戦争は存在しないのです。戦争はかならず政府だけが関与し、国民の思いや利益とはまったくかかわりなく行使され、それがたとえ勝利に終わろうとも、国民にとってはまったく有害きわまりないものなのです」



1970年代のジャズ喫茶でこんな会話がありました。

 五味川純平の書いた『戦争と人間』が映画化されてすこし経った1970年代の中ごろ、わたしは東京で女子大生をしていました。ちょうどそのころ、ジャズ喫茶などで、女友だちや男友だちなどと、大音量に負けないように、おたがい耳打ちするようにして会話をしていたとき、どうしても理解できないことがありました。

 トルストイが述べているように、政府のくわだてた戦争に参加させられるという境遇を、敵国とみなされている異国の国民もおなじように味わわされているわけです。

 そこがふしぎでならなかったのです。

 では、どうして戦争になっちゃうのか、だれが戦争をしたがっているのか、という疑問が浮かんできて、みんなといっしょに頭をかかえたことがあります。

 だって、外国人と知り合って、彼女や彼と友だちになったり恋人になったり家族の一員となったりもするひとたちもたくさんいるはずなのに、その人たちが生まれた国を相手に戦わなければ「向こうにやられるぞ」とおどされたり、「戦争反対・平和がいちばん」なんて騒いでる連中の頭は現実の厳しさを知らない「お花畑」で「考えが甘い」と批判されたりするのですから、いったい何がどうなっているのか、さっぱりわかりませんでした。

 経済制裁や経済封鎖などのせいで資源が届かなくなり自国の経済がしめつけられる、というような仕打ちを他国からされたとき、はたして、むこうの国民が、その国を治めているひとたちと同じように、ほんとうにわが国にたいしてそのようなことをしたがっているのだろうか、ということが納得できなかったのです。

 また、それとは逆に、彼らの国の経済が苦しいとき、その原因はわが国のせいなのか、それともその国を治めているひとたちに責任があるのか、そのあたりのこともわからなかった気がします。

 わざわざ国民の目を外へ向けさせなければいけない理由とはなんなのだろう、と考えずにはおれなくなるのです。

 つまりわたしの外国人の友人たちも、その政府と報道機関におなじようなことを言われてお尻をたたかれ、戦場へ行かされ、わたしたちを殺さなければいけないようなことにもなってしまうのでしょうし…。

 ようするに「アメリカは」とか「日本は」とか「中国は」とか「フランスは」というように統治者と国民と国家形態をぜんぶ一緒くたにしてあつかうような語り口を、あらゆるメディアや書き物から消し去って、「アメリカを治めているエリートたちは」とか「中国の党首たちは」とか「フランスの議会を動かしている人たちは」どのような考えをもっていて、自分たちの地位の保全と利益のために、どのような政策を取ろうとしているのか、などと、もっと具体的(specific)に語るようにすればいいのだ、というような意見も出ました。

 そうすれば世界の仕組みがより鮮明に見えてくるだろうから、と。

 いや、そうではなくて、たとえば、わが国の企業が他国の企業にいじめられたら、多くの労働者をリストラ(1970年代には整理解雇・合理化と呼ばれていました)しなければいけなくなり、けっきょく、わたしたちひとりびとりの生活にハネ返ってくるから、という意見も出ました。たとえば、ある大企業にかかわりのある下請けまでのすべての雇用者数を計算すれば、日本の屋台骨(やたいぼね)ともいわれるような大企業が転んじゃったり利潤を得る道をふさがれたりすると、わたしたち国民全員の生活に多大な影響をおよぼすからだ、という意見も出ました。

「国民の10人に2人か3人はあの大企業と関係のある仕事についている、なんてこと、どこかで聞いたことがあるけど」

「でもさ、そこまで巨大な企業なんて、じっさいにはありえないよね」と誰かが言いました。

「そもそも、その利益はだれのふところに入るわけ?」とだれかがたずねました。

 まだ『お金の流れを追いかけると真実が見えてくる』(Follow the money)ということばすら知らないころの話です。

 そのうちだれかが「とにかく、家計が苦しくなるのと、自分の父親や兄貴を殺されるのと、どちらを選びたい?」ということばをもらして、たいてい、そこから話が先に進まなくなるのです。

 みんなで経済的に耐えるのと死ぬのとどちらがいい?

 みんなで別の道をさがすのと殺人者になるのとどちらがいい?

 そういう意見が出はじめると、大きなスピーカーからあふれでてくるジョン・コルトレーンのソプラノサックスの嵐につつまれながら、みんないっしょに「う~ん」とほおづえをついてしまうのでした。


戦争の被害者のイラスト
戦争と国民

 会ったこともない異国の人に殺されたり、会ったことも話したこともない異国の人を殺すよりは、みんなで国の経済と家計をうまくやりくりして、なんとか別の道をさがすほうがいいよね、というところに落ちついてしまうのです。

 すると、そんな甘ったるい世間知らずな夢みたいなことを言ってるあいだに、向こうの連中が攻めてきて、きみの両親や友人たちを皆殺しにして、きみは強姦され輪姦され無惨に殺されるか、敵兵のおもちゃにされるのがオチさ、ということを言う男の子がかならずいました。

 からかい半分だということはわかっていました。

 だってすぐに「あなたも世間知らずのひとりじゃない?」と女の子にやりこめられてしまうのはわかっていたからです。

 また、べつの男の子からは「おまえ、そもそも、それって、自分だけは戦場に行かなくてもいい、ていう立場からの発言だよね。ただ、彼女の考えは『ぬるくて』ダメだと言いたいだけでさ。だったらまずおまえが戦場に行ってこなくちゃね。つぎに、おまえの両親や兄弟から先に戦場に行ってもらって、そのあと、おまえの意見がどうなるのか、どう変わるのか、それとも変わらないのか、ま、それからの話だよね」といなされて終わってしまうのです。

 とにかく、そのあたりの事情がどうしてもクリアに理解できなくなくて困りました。

 そんなふうに悩んでいたわたしや、わたしの友人たちは①『政治に無関心』(apolitical)で、なにもかもに②『しらけ』(apathetic)ていて、③「わたしって、だれ?」という問題(identity crisis)に頭をぶつけながら、いつまでも社会人になりたくない④『モラトリアム人間』(Peter Pan Syndrome)、つまりオトナ社会へ同化することを拒んで、いつまでもだらだらと青春時代を引きのばしている若者たちばかりだ、といわれた世代のひとりでした。

 でも、なにかについて話しはじめると、みんな真剣にそのことについて考え、そこからなにかを学べるような気持ちになっていたことだけはたしかだったはず、とおもえるような思い出はたくさんもっています。

 ただし、あのころは、まだ若く、社会を知らず、勉強不足でもあったので、政治や経済やメディアの仕組みがわからなかったこともあり、教科書で学んだ通りの見方しかできませんでした。

 姉からいつも言われていたように「ノロマ」で「ネンネ」だったせいもあるとおもいます。

 考える速度がカタツムリのようにおそいせいなのです、きっと。




コメディアンは宮廷道化師みたいなもの?

 コメディアンとは、シェークスピアの劇中に登場する宮廷道化師(Jester:ジェスター)とおなじように、一般のひとびとの側に立って権力を批判し、笑い飛ばしながら、真実を語るのが仕事だったはずだ、という方がいます。

 それでも王様から断首の刑を受けなかったのだから、なかなか良い職業だね、と米国のコメディアンのひとりジミー・ドレ(Jimmy Dore)という方がYouTubeで言っていました。

 つい最近は、こんなジョークでみんなを笑わせています。

「われわれはウクライナを死守しなければいけない。でなければロシアはヨーロッパまで進行していき、民主主義そのものが危険にさらされるだろう。政府のお偉いさんやら大手ネットワークニュースに登場する解説者たちは、そんなことを声高に呼びかけて、ぼくたちを恐怖のどん底に追いやり、目が飛び出るほど巨額の助成金(エイド)、つまりぼくたちの税金を、どこか遠い国の政府や軍部にプレゼントしてるけれど、ぼくたちアメリカの国民なんて、いきなり世界地図を見せられて、この国をたすけることは民主主義を救うことになる、なんて言われても、そもそもウクライナがどこにあるのか指さすことすらできないし、お偉いさんがいつも旗印(はたじるし)にしている『民主主義』とやらがいったいどんな顔をしてるのかハッキリわかってる人なんて、おそらく、いま、この会場に来てくれてるぼくのファンの人たちだってわかっていやしないだろうし、それに、コロナ禍のあとでぼくたちの生活がさらに苦しくなって、しかも、わが国の借金が天文学的な数字になっているときに、耳にしたこともない異国の国民や軍隊にぼくたちの年金の数十倍という額の助成金と武器を提供するなんて…ま、ある意味、マジに、われらアメリカは、まだまだ、余裕だってことかな? それに、武器を製造してる巨大企業とその関連会社、そしてメディアで代理戦争(proxy war)を鼓舞(こぶ)している国防総省やCIA出身の「スピン・ドクター」たちのふところには、われらの血税が湯水のように流れこみ、ボーナスだけで50億円以上をもらってるエグゼクティブたちの上には、なんと100億円近くを吸いあげているCEOもいるって数字があがってるくらいだから、そういう方たちがわれらから吸いあげた金をバンバン使ってくれたら、トリクルダウン効果ってやつで、みんなが「うるおう」って寸法さ。の、はずだよね? そういう理屈を聞かされてきたこと、おぼえてるかい? だったら、どうして世界一リッチと言われてるわがアメリカの国民の65%は、緊急時に必要な現金600ドル(10万円)すら持っていないって数字が出てくるのかわかんないんだよなぁ。すべては借金、すべてはクレジット。みんながみんな農奴(serf)にされてしまったってことなのかな? とにかく、まずは、ちかごろ敵国とみなされはじめた中国から借りている莫大な借金を返してからだったら、どこの国とも戦争できるようになるさ。そうは言っても、借金返済にあと何十年かかるかわかんないのが問題だ。ま、借金を踏み倒しておいて、その相手に喧嘩を売るってのも、なかなか賢いやり方だとおもわないかい? 貸してくれた相手を病院に送りこめばすむことだからね。マフィアがいつもやってる手口だから、うん、なんの問題もない。さすがわがアメリカを支配している賢いエリートと、彼らを飼っている金持ちたちが考えそうなことだよ。みんなを煽っておいて、またまた防衛費をあげ、武器製造会社にわれらが血税を横流しして、その会社の株をもってる機関投資家や政治家たちのふところへ…て、こんな同じ話のくりかえしじゃみんなも飽きただろ? いまじゃ、世界中のひとびとが、われらアメリカは世界一のRogue Nation(ローグ・ネーション:ヤクザ国家)だって陰口をたたきはじめたらしいけど、ま、われわれのメディアの宣伝力とハリウッド映画の影響力をもってすれば、すぐに正義の国アメリカ、民主主義の守護人アメリカ、世界の警察アメリカっていうイメージはとりもどせるから心配はいらない。それに、われらの米軍基地は世界中に600近くもあるのだから安心だ。この世はけっきょく腕力にモノを言わせればなんでもできるのさ。いくらカネがあっても、「殺すぞ」と脅されたら、だれでも、こちらの言いなりになる。ねじふせて、黙らせて、脅迫すればどうにでもなるのさ。ここはやはり、われらがローマ帝国! いや、ちがう。われらがナチスの第三帝国! いや、そうじゃなくて。われらがヤクザ国家! いやいや、これもちがう。そうじゃなくて、われらが民主主義国家アメリカ! この名に恥じない行動をとるべきだろうね」


米軍の兵士と落下傘部隊の絵
米軍の兵士と落下傘部隊

英国の哲学者バートランド・ラッセルはつぎのようなことばを残しています。

「戦争の目的は母国のために死ぬことではありません。母国のために敵国の連中(the other bastard)を殺すことにあるのです。平和な時代に汗水たらして努力した人は、そのぶん戦争で血を流すことはより少なくてすむでしょう。戦争はだれが正しいのかを決めるものではなく、だれが生き残るのかということだけを左右するものなのです」



義理の父と学徒出陣。

 21世紀を前に亡くなった義理の父は、東京の大学を卒業したあと、太平洋戦争の局面が悪化してきたため、学徒出陣に駆り出され、雨の日の明治神宮で行進した方たちのひとりでした。そのあと四国に配置されていた海の特攻隊のひとつ震洋隊(しんようたい)に配属されました。1人乗りのモーターボートに爆弾を積んで敵国の戦艦に体当たりするという任務をおびていたのだそうです。

 今回は、そこへ配属させられる前のエピソードをご紹介します。


空母赤城から発艦する零式艦上戦闘機の写真
空母赤城から発艦する零式艦上戦闘機

「特攻隊というと零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)が有名で、きみもテレビドラマや映画などでよく知ってるとおもいますが、当時は敵国が使ってることばは使えなかったから、ゼロ戦なんてことばは大っぴらには使えませんでした。それでも仲間内では『ゼロセン』とか『ゼロ』なんて言ってましたけどね。たとえば、アメリカから渡ってきた野球をやるにしても、審判はストライクを『正球』そしてボールは『悪球』と言わなくちゃいけなかった。英語は敵性語(てきせいご)でしたからカタカナが使えない。知り合いで、東京の大学で教師をやってた男がいるんですが、そいつの親父はベートーヴェンが大好きで、戦時中も近所に聞こえるような音でレコードをまわしていたらしい。東京が空襲を受ける前のことですよ。ある日、憲兵(けんぺい)がやってきて、彼の親父に『きさまは、いい年をして、敵国の音楽を聴くなど言語道断(ごんごどうだん)、もってのほかだ』と怒鳴りながら家にあがろうとしたらしくてね。親父さんは真っ赤な顔で『馬鹿者! これはわれらが同盟国独逸(どいつ)の作曲家が作った曲だ』とこたえて追い返したらしい。なかなかの人物だと感心させられました。わたしたちがそれぞれ配属させられる前、その親父さんに招かれて、数人の仲間たちとお邪魔したことがあります。お別れの会みたいなことをしてもらったんだけど、なにしろ戦時中で、なにもかもが配給制だったんで、たいした食材もないのに、奥さんがとても美味しい料理を作ってくださってね。いいおもいをさせてもらった。で、いよいよ別れの盃(さかずき)を飲み交わす段になったとき、仲間のひとりが小声で『あれ? これ、水じゃないか』とささやいたんだ。その親父さんの耳にも入ったらしくて、一瞬、ムッとした顔になったのには気がついたけれど、あの人はなにも言わなかったな。内心は、無粋(ぶすい)なやつだ、と思ってたのかもしれないが…。ま、その夜が出征前(しゅっせいまえ)の『今生の別れ』(こんじょうのわかれ)になるかもしれないから、黙ってたんでしょう。とにかく、あのとき、もう、酒なんてものは、手に入らなかったんだね。そのあと、わたしたちは、まるで特級酒をなめているような顔で『さ、どうぞ、もう一杯』と、おたがいにさかずきをかたむけながら、水を飲みましたよ。まさに〈水盃〉(みずさかずき)をかわしたわけです。もちろん、おいしくもないし、まずくもないが、感謝の気持ちでいっぱいで、顔には出さなかったが、みんな、胸のなかでは、静かに泣いてたんじゃないのかな」






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