「旅は人生からの途中下車」だと言ったのは誰だったのか、もう忘れてしまいました。
旅をするためにはお金が必要です。
それは生活に必要なお金とはすこし別のものです。
定住生活をしていれば、お金が入ってくる先も出てゆく先もおおよその見当がつくでしょうけれど、たとえ行き先が決まっている旅行だったとしても、それが遠く離れた場所でしたら、なにが起こるかはわかりません。
生活費と旅費。
なにげないこのふたつのことばにだって、もしかしたら、「束縛(そくばく)vs自由」とか「閉塞感(へいそくかん)vs解放感」といったニュアンスがふくまれているのかもしれません。
わたしたちが生きているこのデジタル世界のなかでは、スマホひとつあれば、自分がどこにいるのかすぐにわかります。
行方不明になることはまずありえません。
また、いつでもどこからでもお金の出し入れができます。
それでも、偶然がもたらす不都合な出来事から自由になれるとはかぎりません。
デジタル世界が作りあげたネットワークのおかげで「安全圏」が格段にひろがりました。
冬山で道に迷っただけで「死」の可能性と向きあわなければいけなかった時代とはまるでちがう現実を生きています。
危険に挑む冒険家になったつもりでいても、昔の人たちが味わった危険度にくらべると、まるで箱庭のなかで遊んでいる子供と変わらないのかもしれません。
GPSがなかった時代の探検家や冒険家が、地図すらないアマゾンの密林を縦断していくとき、または、木の葉のように小さなヨットでたったひとり太平洋を横断しているとき、彼らがどんな気持ちで自然と向きあっていたのか、いまでは想像することすらできません。
「遭難」(そうなん)や「漂流」(ひょうりゅう)ということばは遠い昔のものとなりました。
ところで「外国を楽しむには旅行者としてそこへいくのがいちばんだよ」ということばを耳にされた方は多いとおもいます。
わたしもアメリカの友人たちにそう言われたことがあります。
「旅」は人生があたえてくれる貴重な贈り物です。
「旅」は日々の暮らしからテイクオフ(離陸)するための翼をわたしたちにあたえてくれます。
ほんのすこしのあいだ生活から自由になるための解放感を味わわせてくれる翼でもあるのかもしれません。
でも、わたしはカリフォルニアのいくつかの街とシカゴという街で生活したことはありますけれど、スーツケースをたずさえて出かけるような旅行をしたことはありません。
でも、いま生活しているこの街から遠く離れた場所で数日間すごす機会はもてなくても、日々の暮らしを楽しむことはできました。
なぜなら、わたしの場合、生活の場所そのものが海外だったという利点があったからです。
朝、目をさまして、窓の外へ目をむけると、外国の街景色がひろがっていました。
道ですれちがうひとびとやスーパーマーケットのレジにならんでいる方たちは、さまざまな髪の色と目の色をした人種や国籍のちがう方たちでした。
たとえ日本で見なれていたチェーン店に入っても、メニューは外国語ですし、看板もネオンサインも日本語ではありません。
近所の小さなスーパーマーケットに足をふみいれても、日本では目にしたことのないお菓子や、シリアルや、チーズやクラッカーやパンや果物やドリンクがならんでいました。
書店に入ると、あたりまえのことですけれども、すべてが洋書で、なぜか店内の匂いまでもがちがって感じられました。
立ち読みする時間を得ることができただけで胸がおどりました。
なにげなく足をふみいれたブティックには、当時の日本のマーケットに入りこんでいた有名ブランドとはまるでちがう、それまで見たこともないようなファッションブランドの服や靴やバッグや下着などがところ狭しとならんでいました。
映画館の前を通るたびにおどろかされたのは、アメリカではこんなにたくさんの映画が作られているという事実でした。
じっさいに制作された映画の本数と、じっさいに日本に輸入される外国映画の本数にとんでもない差があることに、はじめて気づかされたのです。
もちろん、アメリカで公開される邦画の数にいたっては、ため息がもれるほどのすくなさでした。
いまでは、アマゾンプライム(Amazon Prime アマプラ)やネットフリックス(Netflix ネトフリ)、もしくはフールー(Hulu)やディズニープラス(Disney+ ディズプラ)などが提供している動画のストリーミング配信サービスを使えば、海外で暮らしているのと変わらない数の映画やTVドラマを、自国にいながら楽しむことができます。
ですから、いまの若い方たちにとっては、すでに「洋画」という概念そのものがバカバカしいこと(ナンセンス)なのかもしれません。
さきほどの話にもどりますと、じっさいに町を離れて旅をするお金がなければ、その町での暮らしのなかに、また別の楽しみ方を見出さなければいけません。
いくら生活の場が外国だったとしても、暮らしのパターンとリズムは全世界、どこの街でもそれほど変わらないでしょうから。
資本主義という思想を土台にして、その考え方から作られたシステムで動いているいわゆる「先進諸国」のなかで生きていくために、わたしたちヒトがしなければいけないことは、だいたい決まっているからだとおもいます。
「旅」は、未知との出会いを求めるための手段のひとつです。
それは「未知」との出会いをさがすための方法のひとつでもあって、たとえみじかいあいだでも生活から自由になった解放感を味わわせてくれる機会でもあります。
ただし、なにかあったときには、相手が「未知」のものなのですから、それなりのお金をもっていなければ困るでしょう。
では、お金に余裕がなくて、「未知」との出会いのチャンスがない場合には、どうすればいいのでしょうか?
日々の生活を「旅」に変えてしまえばいいのです。
毎日、わたしが通っているこの道を、東京以外の場所からおとずれた旅行者が歩いたとしたら、この街はどんなふうに見えているの?
はじめてこの町に来てアパート住まいをはじめたとき、わたしはどんなふうにこの町を感じていたの?
この通りが「見なれた風景」になるまでに、どのくらいの時間がかかって、いつからそうなったの?
もしもわたしが宇宙人で、いま、通りを行き交うヒトという生き物を観察していたとしたら、オトナと呼ばれる生物とおなじように両手両足をそなえてはいるけれども、体全体からするとすこし頭が大きめのコドモと呼ばれる生物がいて、そんな彼らが群れになって道をわたっていくのを見たとき、どんな印象をもつのかな?
オトナのミニチュア版にしか見えないコドモと呼ばれているあの不思議な生物は、ずっとあの大きさのままなのだろうか、と宇宙人日記に書きこむのだろうか?
…と、そんなことを空想したり想像することで、みじかいあいだかもしれませんが、「旅」をしているような解放感を味わうことができたりします。
その感覚が3分から30分、30分から3時間、3時間から3日間、3日間から30日とつづいていくようになるにつれて、こんどは、いつのまにか、自分の目に見えるものや聞こえてくるものが、ふしぎなほどもの珍しく、また、目新しいものに感じられてくるかもしれません。
いま目の前にある現実は、いっけん大きな岩のように堅牢(けんろう)で微動(びどう)だにしないものに見えてはいるけれども、もしかしたら、人生とおなじく、「旅」の途中で出会った未知のものかもしれないし、新しく発見したもののひとつなのかもしれません。
もしかしたら、1日として「見なれた空」はなくて、ここもほんとうは異国の地なのかもしれません。
そんな目でいつもの街やいつものひとをながめてみたら、たとえ、お金によゆうはなくても、もしかしたら、毎日が移動遊園地に変わることだってあるのではないでしょうか。
つまり、どこへも行かずに旅をする気分を、こっそりと楽しむ方法のひとつになるかもしれません。
ゴア・ヴィダル(Gore Vidal 1925年 - 2012年)という作家のどの本だったのか忘れてしまいましたけれど、たしか、巻頭句(かんとうく)に、大昔のアラビアの賢人の次のようなことばが引用されていたような記憶があります。
Life is, but, a pastime.
人生は、しょせん、気晴らしさ。
そんなふうにこの現実を見ることができて、そんなふうに日々の生活と向き合うことができたら「どれほど心が楽になるだろう」と思い、そんなふうに生きてみたいと願ったことがあって、いまだにそう願いつづけている毎日です。
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