【バークレー】子猫騒動
- 香月葉子

- 15 時間前
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犬のように吠えるオス猫を飼ったことがある。
その猫は助けを求めるときに「ワッオォ~ン」と吠えるのだった。しかも狼が仲間を呼ぶときのように、まっすぐ真上を向き、細く口をすぼめて。
渡米後、カリフォルニアのバークレーに住みはじめてまもなく、わたしが借りているアパートメントのマネジャーに押しつけられた猫だった。
そのマネジャーは同じアパートメントの1階に住んでいた。
彼はバークレー校のビジネススクールに通っている学生で、しかも、アパートメントのオーナーの息子だった。
猫の飼い主になることを5日であきらめた青年でもある。
彼が言うには、先週から彼の部屋の前に見知らぬ子猫が姿をあらわし、小鳥がさえずっているかのような声で鳴きつづけていたらしい。
その鳴き声があまりに可愛らしいので、何ごとかとおもって扉をあけると、その小さなハンサムな顔で彼を見あげ、彼が部屋のなかへ招き入れるまで、熱っぽい訴えかけるような目つきで、じっと見つめたのだそうだ。
そんなわけで、彼はとうとうその子猫を飼うことにしたのだが、その猫がとにかく甘えん坊で、彼の勉強のさまたげにもなってきたので、わたしに譲りたいと、わざわざ3階にあるわたしの部屋へ訪ねてきたのだ。
しかも、すでに獣医に診察してもらったあとで、予防接種まで済ませていると聞かされた。
わたしのほうは、先の見通しも立たない留学生で、動物を飼うことにかなり躊躇したが、その猫に出会った瞬間、小鳥がさえずるような可愛い声とわたしを見つめる瞳に一目惚れしてしまい、その猫を引きとることにした。
あとで思ったのだが、アパートメントの住人は他にも十数人いるのにもかかわらず、わたしに押しつけてきたのは、わたしが、よほどお人好しの日本人に見えていたのにちがいなかった。
とにかく、その生後4ヶ月の子猫は、もらいうけた日から、わたしのアパートメントの部屋の中を駆けずりまわり、わたしの足に体をこすりつけ、朝のまだ暗いうちから寝室の扉をひっかいて早く朝食を作れとせがみ、食べ終えるとこんどは遊んでくれといわんばかりにわたしの読書を妨害するのだった。
甘えん坊で、自己中で、しかもアスリート・キャットの見本のような猫だった。
そんな猫の気持ちを鎮めさせるために、犬のように首輪にリードをつけて散歩に連れて行くことにしたのだが、猫は犬のようにうまくは一緒に歩いてくれなかった。
まだ移動用のペットケージを持っていなかったこともあって、大学近くの公園まで連れていくためには、抱きあげてなだめたり、路上に降ろして歩きはじめるのを待ったり、逆に子猫に引っぱられたりを繰り返すしかなかった。
やっとのことで公園でたどりついて、わたしがリードを首輪からはずすと、案の定、猫は檻から脱走したチーターのように走りまわりはじめた。
疲れきっていたわたしは公園の大きな樹の根っこに腰を下ろした。
そのとき、走りまわっていた子猫が、すさまじい速度でこちらへ駆けよってくるなり、わたしが腰をおろしていた樹の幹を、まるでリスのように駆けのぼっていったのだ。
子猫が走ってきた先へ顔を向けると、公園わきの歩道を散歩中の大型犬が目に入ったので、おそらくそれに気がついてびっくりしたのだろう、とおもった。
しばらく大型犬とその飼い主を目で追っていたが、けっきょく彼らは公園の中には入ってこなかった。
見上げると、猫はすでに7メートルくらいの高さに張り出している枝に抱きつくような姿勢で横たわって、そのままじっと動かなくなっていた。
わたしは気にしなかった。そこで居眠りでもしてくれた方が楽だと思った。

それから1時間くらい経っただろうか、わたしは立ちあがって、樹から降りてくるように子猫に呼びかけた。
ところが、猫はじっとこちらを見下ろしているだけで、まったく動こうとしない。
樹の上から人間を見下ろすことがよほど気に入ったのかと思い、ふたたび樹の根っこに腰を下ろしたわたしは本を開いた。
すると、いきなり頭上から「ワッオォ~ン」という大きな呼び声が聞こえてきたのだ。
初めて耳にする声だった。
まるで犬の吠え声だ。
おどろいたわたしは子猫の名を呼んですぐに降りてくるように手招きをした。
けれども猫は四肢をのばして枝の上に立ったまま、さながら命の危険を感じたかのような必死な差し迫った声で「ワオォォ〜ン」と吠えつづけている。
大型犬におどろいて樹に上ったのはいいが、まさか自力で降りれなくなったためにSOSを発しているのだろうか、と不安になった。
しかも、わたしが上って、救助できる樹の高さではなかった。
そばにハシゴがあるわけでもないし、救助の方法が頭に浮かばなかった。
悪戦苦闘しながら坂道をのぼり、やっとの思いでこの公園まで猫を連れてきたのに、こんなことになるなんて想像すらしていなかった。
猫を散歩に連れだした自分の行為がくやまれて泣き出した気持ちだった。
子猫は鳴きつづけた。犬のように吠えつづけた。
その声はあたり一帯に響きわたり、じきに人々が集まってきた。
子猫にやさしく呼びかけ、なだめようとする人がいた。小鳥を呼ぶように「チッ、チッ、チッ」を舌を鳴らす人がいた。
「この高さじゃ、うちのハシゴを持ってきてもダメだな」
「おまえ、そんなに犬みたいに立派に鳴くことができるんだったら、こっちめがけてジャンプしてみろ。オレが受けとめてやるから」
「なんだ、猫か。犬が吠えてるのかと思ったよ」
そうつぶやいて帰っていく人もいた。

そのうち、だれかが連絡してくれたのか、ポリスカーがやってきて、状況判断した警察官が無線で消防車を呼んでくれた。
子猫は完全装備に身をつつんだ消防官には抵抗できなかったようだ。
ふいに鳴きやみ、品評会で金メダルを獲得したかのような気取った顔つきで、ハシゴを降りてくる大柄な消防官におとなしく抱かれていた。
まだ子猫で、抱かれるのに慣れていなかったし、強く抱きしめられるのは嫌がる時期だったのに不思議でたまらなかった。
消防官から猫を受けとったわたしは、そのとき消防官の制服の胸のあたりがうっすらと濡れて光っていることに気がついた。
子猫はお漏らしをしてしまったのだ。
消防官は「抱きあげたとたんにやられてしまったよ」と言ってほほえんだ。
失禁したせいで猫としてのプライドを失ってしまい、それでおとなしくなったのだった。
1980年 秋 / バークレー
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