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  • 執筆者の写真香月葉子

Apple Vision Proの可能性と問題点 | 空間コンピュータと仮想空間

更新日:4月8日


*この記事は2023年6月19日に公開された完全版です。



①メタクエスト用VRゲームからの視点


 アップル社が発表した空間コンピューティング・デバイス『Apple Vision Pro』もしくはXR(クロスリアリティ)デバイスにたいするメディア・サーカス(マスコミの熱狂的大騒ぎ)も、すこしずつ落ちついてきました。


 後出しジャンケンみたいな形ではありますけれど、米国社会とIT業界を俯瞰(ふかん)しつつ、『Vision Pro』というアップルの新製品をとりまく状況を、わたしなりの印象と感想をまじえて書いてみたいとおもいます。


WWDC23のロゴ写真
WWDC23のロゴ(写真はFreebiehive.comのFree PNG imageから)

 まず、アップルのWWDCが開催されるほんの数日前の2023年6月2日には、メタ社(元フェイスブック社)にとっては第3回目となる『Meta Quest Gaming Showcase(メタクエスト・ゲーミング・ショーケース)』が開催されました。


メタクエスト2の写真
メタクエスト2(Meta Quest 2)

 そして、アメリカのメディアでは、そのMeta社(元Facebook社)のCEOマーク・ザッカーバーグとApple社のCEOティム・クックとの熾烈なライバル関係をとりあげることが、ひとつのHype(ハイプ:あおり)になっています。


 メタ vs アップル、という図式です。


 ですから、メタクエスト・ゲーミング・ショーケースのすぐあとに開催されたアップルのWWDC23 Keynoteには、べつの意味でも興味をそそられていました。



②こちら側かあちら側かの米国社会


 ところでニューヨークのマディソン街はアメリカの大手広告代理店が軒をつらねているスポットとして有名です。


 そのなかでも、アメリカのメディア文化の動向を仕切っているヤング&ルビカムやオムニコムグループの子会社BBDOなどは、カント的な二元論(Kantian Dualism)でひとびとの注目をあつめる戦略を好む傾向があるようです。


 さきほど述べた「メタ vs アップル」もそうですけれど、たとえば「マクドナルド vs バーガーキング」とか「コカ・コーラ vs ペプシ」とか「ナイキ vs リーボック」とか「アメリカ vs ロシア」などはよく取りあげられる例です。


 なにもかもを、敵か味方か、悪か善か、闇か光か、と二極化させて考えるやりかたです。


 このような白黒思考について、カリフォルニア大学バークレー校で聴講生をしていた1985年のころ、ロバート・ブラウナー教授が、社会学の授業のなかでつぎのように話しておられました。


ロバート・ブラウナー教授の白黒写真
故ロバート・ブラウナー名誉教授(Professor Emeritus Robert Blauner)

 この広告戦略の底にひそんでいるのは「共和党 vs 民主党」や「保守派 vs リベラル派」という2元論でアメリカの国民を2派に分け、おたがいに反目させるという目的をふくんでいるのです、と。


 こちら側かあちら側か、それ以外に選択肢はない、とおもわせることで、アメリカの政治・経済・メディアそのものを手中におさめている少数のひとたち、つまり莫大な富を占有しているひとたちへ、国民の不満や批判の矛先(ほこさき)が向かないようにすることに成功してきたのだ、とおっしゃっていました。


 なぜなら、彼らはマクドナルドとバーガーキング両社だけではなく、コカ・コーラやペプシなど、ほとんどの大企業の大株主であり、また同時に、共和党と民主党両党の議員たち(セネター:sanator)に対して、毎年、ほとんど同額の政治献金をしている人たちでもあります。


 つまり、政治家にとっては命綱でもある選挙・政治資金を提供してくれる存在(献金者:donor)として、政治家たちを巧みにあやつりながら、自分たちが所有するグローバル企業に都合の良い法律を作らせることで、トップ1%の人間たちがお金を吸いあげることのできる現状の経済システムを維持しているのです。


 ですから、わが国アメリカの大手メディアによって、いっけん両党の意見が真っ向から対立しているかのようなニュースを目にしたときは、たんなる『まやかし(Political Theater:ポリティカルシアター)』だと理解したほうがわかりやすいでしょう。


 統治しているひとたち(rulers)にとって、いちばん有効で手っ取り早い戦略は、古代ローマの時代から『Divide and Conquer(ディヴァイド・エンド・コンカー:分割統治)』だったのです。


 もしも国民が一致団結して自分たち統治者に反対しはじめると、一晩で権力の座を追われる可能性があるので、国民それぞれがお互いに敵対するようにクラス意識をすりこみ、さまざまなグループ意識(性別や人種や政党支持や性的趣向などによる)のちがいにしがみつかせて、お互いをライバル視させることが、とても重要になってくるのです、と。


 そうしながら、アメリカは「自由と平等と民主主義」を達成したすばらしい国だ、と喧伝(けんでん/プロパガンダ)して、それがじっさいの現実とはかけはなれた幻想であるのにもかかわらず、圧政を強いることもなく、文化的に国民をコントロールしてきたのです、と教授はおっしゃいました。


 とにかく、かれらがいちばん恐れているのは、単純に頭数の差なのです。支配者というのは歴史をつうじて世界中どこの帝国や国家を見ても同じです。支配する者と支配される者との比率は、歴史を見てもわかるように、たいてい2対98のあたりにおちつきます。ですから、いったん98%のひとびとが怒りをあらわにすると、いくら護衛や傭兵や私兵に守られていたとしても、ほとんど一瞬にしてその体制は瓦解します。


 国民のデモンストレーションによって、どこかの国王や大統領や国家首脳などが、家族とともにこっそりと国外へ脱出したというニュースは、この授業を受けているきみたちもどこかで見たことがあるはずでしょう。


 それを知っているからこそ、その結果を恐れるからこそ、国民をたがいに反目させることで、自分たちの地位を守りぬいてきたのです。


 つまり、ブラウナー教授によると、彼ら統治者は国民に植えつけた二極思考によって、いつも『姿の見えない存在』でありつづけることができるのです、ということでした。



③新たな期待感


 そんなアメリカのお国事情のなかで、「メタ vs アップル」という過剰報道(Hype ハイプ)が吹き荒れてはいましたけれど、メタの「ゲーミング・ショーケース」は、わたしにとっては満足のいくものでした。


 去年発売されたハイエンドVRヘッドセットのMeta Quest Pro(16万円前後)や、今年の秋に発売予定のQuest 3といったハードウェアだけではなく、ようやくVRゲームやアプリについても充実してきたようで、すこしうれしくなりました。


 なぜかといえば、2023年に入って、メタ社のかかげる『メタバース(仮想空間)』は当初の期待を裏切るものでしかないし、SONYの『PlayStationVR2』の売り上げも、おなじように失望感を抱かせるものでしかなかった、という米国の大手メディアによる評価が一般化しはじめていたからです。


プレイステーションVR2が二台ならんでいる写真
Playstation VR2(PSVR2)

 けっきょく「バーチャル・リアリティ(仮想現実)というものは一般のひとびとの興味をそそるものではない」という意見が大多数を占めていた矢先でもありました。


 せっかくVRゲームを楽しんでいるのに、一般に普及しないまま、この仮想現実ブームはしぼんでしまうのか、と心配になっていたのです。



④米国IT業界に吹き荒れるリストラの嵐


 みなさんもご存知のように、IT業界の聖地といわれるシリコンバレーでは、昨年2022年からリストラの嵐がとまりません。


 メタ社やSONY社の株価を動かしている大口の機関投資家(financier ファイナンシア)たちが、はじめに予想していたほど短期間に大きな利益(配当)を産まなかったことにイラだっているのにちがいない、というのがわたしの受けた印象でした。


 わずか数時間というあいだに何十兆円という資産を動かすことのできる富豪や投資家やヘッジファンドのマネージング会社にとっては、たとえマージン(利鞘:りざや)で稼いだとしても、その額はわたしたちの想像をはるかに超えるものになるはずです。


 そういう機関投資家(financier)や株主(stockholder)のひとたちからしたら、「2年間待ったけれど、メタ社はわれわれに約束していた利益(配当)をもたらさないではないか」と業を煮やし、メディアをあやつってマーク・ザッカーバーグのお尻を叩いたり、「大規模なリストラをおこなって自分たちに利益(配当)をよこさなければ投資から手を引く」とおどしたりしたのでしょう。


 その結果が、今年2023年の5月までにメタ社がおこなった21,000人にもおよぶ社員のリストラ(レイオフ)なのでしょうし、おなじようにAmazonでもテック・ワーカー(大卒技術職)の方たち27,000人以上の大規模な解雇がおこなわれ、Googleは今年の3月までに12,000人をリストラしなければいけなくなったことにもつながっているのでしょう。


 2022年のはじめから今年にかけて、すでにIT関連やハイテク産業部門でのリストラは200,000人を超えています。


 じつは、コロナ禍の2年間、ロックダウンによって巣ごもりするしかなかったわたしたちだったのですが、街の中の店舗が消えてゆくなか、インターネットを媒介とするAmazonなどのリーテイラー(小売業者)は大躍進し、メタを筆頭とするVRヘッドセットも売れに売れて、新たに技術者たちを補充しなければいけなくなりました。


 ところが、コロナ禍が終わったとたん、メタの売上は落ち、Googleの広告収入は低迷し、あのAmazonですらもが赤字に転落してしまったために、増やした頭数をけずらなければいけなくなったのです。


 というのがリストラ(レイオフ)のための表向きの理由になっているようです。


 その陰で、自社株買いと、歴史最高と言われる株主にたいする配当金の支払いがつづいています。


 どちらにしても、ビッグテックのGAMA(グーグル・アップル・メタ・アマゾン)が大変なことになっているのはまちがいないでしょう。


 なにしろ、今年にはいって、シリコンバレーの屋台骨(やたいぼね)とも言われるシリコン・バレー銀行と、近隣のサンフランシスコに拠点をおくファースト・リパブリック銀行がともに破綻してしまいましたし…。


 このファースト・リパブリック銀行の破綻は、2008年に破綻したリーマン・ブラザーズに次ぐ、史上2番目の規模の銀行破綻となったようです。


 アメリカの株主資本主義は、東京大学の鈴木宣弘教授がおっしゃった『今だけ、金だけ、自分だけ』の典型的な例のひとつだという方々がいらっしゃいます。


 ある会社が成長していくのを長い目で見つめるというような姿勢はどこにもなく、やることなすことが、すべてラスベガスやモンテカルロの賭博場でギャンブルをしているのと変わらないような市場になっているとおっしゃる方々もいます。


 1980年代のバブル時代に生まれた『カジノ資本主義(Casino Capitalism)』とや『縁故資本主義(Crony Capitalism)』いうことばも復活しているようですし…。


 ほんのわずかな人数の株主(stockholder)や機関投資家(financier)たちの欲と気まぐれひとつで、全世界の経済、つまり、この極東のはしっこの島国で暮らしているわたしの日常生活までもが翻弄(ほんろう)されてしまうということに、くやしさをおぼえずにはいられません。


 ところで、ほんのさきほど、クエスト2のことを「VRヘッドセット」と呼んだのですが、いちおう周囲を見ることのできる「パススルー用のカメラ」も内蔵していますので、ぼんやりしたモノクロ映像ではありますが、30%くらいは「MR(複合現実:Mixed Reality)」を体験できるヘッドセットとも言えるのではないでしょうか。


 そのMeta(元Facebook)のイベントが終わったかとおもったら、日本時間6月6日の午前に開催されたAppleの2023年WWDC(Worldwide Developers Conference)が開催されました。


 そして、5、6年前からずっと待ち望まれていたAppleのMRヘッドセット(じっさいにはこのことばは使われていません)が、ついにその姿をあらわしたのです。



⑤私的アップル事情


 この『Apple Vision Pro』と呼ばれる空間コンピュータ(もしくはクロスリアリティ・デバイス)の登場は大ニュース、いえ、大事件でした。


アップルビジョンプロの写真
Apple Vision Pro(写真はFreebiehive.comのFree PNG imageから)

 まさにテック・カーニヴァルとでも呼べるようなお祭りでした。


 ほとんどの方々が褒(ほ)めちぎっておられました。


 わたしにはとても手のとどく価格(50万円するそうです)ではありませんけれども、ワクワクドキドキしながら、Appleならではの戦略的で洗練されたプロモーションビデオを、興味深く、見せてもらいました。


 そのテクニカルな詳細については、Apple社が提供している『Apple Vision Pro』のWebページをごらんになってください。


 また、最新デジタルガジェットの紹介をすることで、わずか6時間ほどで50万回を超える再生回数を達成するようなテックYouTuberの方々のビデオがたくさんアップロードされていますし、最新テクノロジーに関する専門家による素晴らしい紹介記事を掲載しているテック関連のWeb雑誌なども数多くございますので、ネット上でお探しになってお読みください。


 わたしはちょっとちがう角度からお話ししたいとおもいます。



⑥Appleが口にしなかったことば

 おもしろいことに、「23WWDC Apple Keynote」のうちの45分間をうめつくすほど力のこもった『Apple Vision Pro』のプロモーションだったのですが、最高経営責任者のティム・クックをはじめとして、アップルのエグゼクティブたちがひとことも口にしなかったことばがいくつかあります。


Mixed Reality(ミクスト・リアリティ:複合現実


Augmented Reality(オーグメンティド・リアリティ:拡張現実


Virtual Reality(ヴァーチャル・リアリティ:仮想現実


Artificial Intelligence(アーティフィシャル・インテリジェンス:人工知能


Metaverse(メタバース:メタ社のかかげた仮想現実空間のなかの社会


 これらがそうです。


 読者のみなさんはすでにお気づきになっているとおもいますが、これらは、すべて、過去数年間のあいだ、もっとも注目されてきたことばと概念ばかりです。


 けれども、Keynote(キーノート)のプレゼンテーションに耳をかたむけていると、おどろくことに、これらのことばは1度も使われていないのです。


 だれの口からも、まったくゼロです。



⑦空間コンピュータの登場


 それらのことばを使うかわりに、まず最初にティム・クックが強調したのは、2003年にサイモン・グリーンウォルドが定義した『空間コンピューティング(Spatial Computing)』ということばでした。


 ウィキペディアの説明ではわかりにくいところもあるかもしれませんが、トム・クルーズ主演の名作SF映画のひとつ『マイノリティ・レポート』のこの場面をごらんになったら、空間コンピューティングというものが、だいたいどういうものなのかがおわかりになるとおもいます。


 もしくは『Iron Man 2』で描かれているトニー・スタークと「Just A Rather Very Intelligent System(ほんのちょっぴりかしこいシステム)という名のAI「J.A.R.V.I.S(ジャーヴィス)」とのやりとりをごらんになれば、だいたいの見当はつくかとおもわれます。


 ところで、この空間コンピューティングというものは、そのことばが使われていなかっただけで、『Meta Quest Pro』がすでに実現していたものでもありました。


メタクエストプロの写真
メタクエストプロ(Meta Quest Pro)

⑧没入型の環境


 さて、つぎにアップルが使ったことばはなんでしょうか。


 VR(ヴァーチャル・リアリティ:仮想現実)ということばを使うかわりに『没入型の環境(Immersive Environment:イマーシヴ・インヴァイロメント)』ということばを使っています。


 ご存知のように、「immerse(イマース)」という動詞は、お風呂に「つかる」とか、なにかに「没頭する・夢中になる」という意味なのですけれど、それにくわえて、ときたま海外の映画で目にする「浸礼(immersion:イマージョン)」の場面でも使われることばです。


 キリスト教徒になるための洗礼を受けるときに、白衣に身をつつみ、全身を水のなか(川や池や湖や海やプールなど)に沈められる場面を見たことのある方もおられるかとおもいます。


 あれも「immerse」という動詞をあらわす行為のひとつです。



⑨機械学習


 でも、わたしがもっともおどろかされたのは、いま、メディアを熱狂的に騒がせている『AI(人工知能)』ということばが1度も使われなかったことです。


 かわりに、AIによる『機械学習:マシン・ラーニング(Machine Learning)』について語っていました。


 しかも、その「機械学習」ということばのみを強調し、親である「AI」ということばにはいっさい触れないでいることに、すこし疑問を感じたりもしました。


 このマシン・ラーニングというのは「学習したデータをもとに先読みをすること」です。


 みなさんは、ふだんからスマートフォンを使ってメールをやりとりしたり、LINEなどで文章をやりとりなさっていることとおもいます。


 そのときに、みなさんの文章やことばづかいのクセを学んで、「もしかしたらあなたが書きたかった単語とか文章はこれじゃない?」というふうにスマートフォン側が勝手にほかの選択肢を提示してきます。

 あれがマシン・ラーニングの結果です。


 ようするに「自動入力(autofill)機能」みたいなものです。


 またアマゾンや楽天などで、「いままでのあなたの好みや買い方のパターンからすると、もしかして、いまはこういう製品をさがしているんじゃない?」というふうに勝手にさまざまな製品を宣伝してくるとおもいます。


 あれも単純なマシンラーニングの結果です。


 たとえば、いま話題の「ChatGPT」も、いっけんヒトとおなじような意識や感性をもっているかのように感じられますけれど、その根本にあるのは、たんに先読みのための自動入力(オートフィル)を高度に進化させたものでしかありません。


 そのために、兆単位の膨大なデータを読みこませ、さまざまなパターンを学ばせているわけです。


 では、どうしてアップルは「MR」や「AR」や「VR」や「AI」や「Metaverse」ということばには触れないでいたのでしょうか。


 すでに他で使われていて、しかもライバル企業がすでにひろめていることばだから、というのも、その理由のひとつだとおもいます。


 つまり、他社の製品と「比較」されることを拒んだのでしょう。


 それと、もうひとつは、これらのことばが、もしかしたら近い将来、社会的にネガティヴな意味をもちはじめるかもしれない、という懸念があったのかもしれません。


 もしくは「新たな製品と新たな視点によって、それらのことばをネガティヴなことばに変化させることこそが、われわれアップルの仕事なのだ」というアップルならではのプライド、というか、傲慢さ(hubris)によるものだとも考えられます。



⓾スピーチライターの苦悩


 1984年からずっとスティーヴン・ジョブズのスピーチライターをつとめていた方々のなかに、有名な広告マンSteve Hayden(スティーヴ・ヘイデン)という方がいます。


 アップル社が定期的に開催しているKeynoteなどのプレゼンテーションにおいて、例の独特な「Intelligence with Wit」(機知に富んだ知性)を感じさせる話し方の基礎を作った方です。


 つまり、ステージに立っているときのスティーヴン・ジョブズが話す内容は、すべてこの方が書いていたわけですが、現在も残っている原稿によると、なんと間(ま)の取り方や強調の仕方までもがていねいに指示されていたということなので、言うなれば、Apple社のブランド・パーソナリティ(社風)をつくりあげた人でもあります。


 また、Apple社のなかにスピーチライター部門を創設し、幹部の方たちのプレゼンテーションやプロモーションに数多く貢献してきて、現在は詩人になられたJayne Benjulian(ジェイン・ベンジュリアン)という方もいます。


 そのお二人のインタビュー記事を読んでみますと、Apple社のスピーチライターとしてCEOやエグゼクティブのためのプレゼンテーション用の文章を書くときには、米国大統領のスピーチライターの方々とおなじような緊張を強いられた、と語っておられました。


 アップルの場合、ライバル企業は、自分とおなじく、SONYやSamsung(サムソン)やマイクロソフトやメタやGoogleやHuawei(ファーウェイ)といったグローバル・コーポレーションばかりです。


 それに1年以上も前から新製品に関するさまざまなウワサがたちます。


 また、内部情報などがもれたりすることもあります。


 おまけに世界中にいる狂信的なまでのファンの期待を裏切るような内容ではダメです。


 しかも圧倒的に革新的だと感じさせることばづかいと落としこみが必要となります。


 それにくわえて、Appleの株主(ストックホルダー)や大口の機関投資家(ファイナンシア)などがいます。


 彼らはWWDC Apple Keynoteを注意深く見守っています。


 そこでの新製品の発表の良し悪しと、大手メディアやテック評論家やソーシャルメディアでの評価によっては、これから先の投資動向が大きく変わる可能性があるからです。


 Appleほどのグローバル・コーポレーションですから、もちろん多くのインフルエンサー(サクラ:提灯持ち)の方たちを雇ってアストロターフィングをおこなっているのは当然のこととはおもいますが、それでもけっきょくは一般のひとびとの気分そのものがどちらに動くか、というのがいちばん重要な目安になるようです。


 もとはといえば、そのためのインフルエンサー(サクラ)なのですから。



⑪Apple Vision Proの可能性とメタクエスト2


 とにかく、今回、アップルが強調したかったのは、『空間コンピュータ(Spatial Computer)』ということばに代表されるように「生産性」と「効率」を上げるためのお役にたつデバイスですよ、ということのように見受けられます。


 ちょっと考えてみただけでも、たくさんの可能性があることはたしかです。


『アイアンマン2』のトニー・スタークのように、ご自分のお部屋のなかに浮かんで見えているWebブラウザやアプリを使って、プロモーションビデオそのままに、立ったり歩いたりしながら仕事をすることが可能になります。


 じっさいにメスをにぎる前の医学生たちに、さまざまな手術の仕方を、立体的に、まるでその場にいるかのようにして学ばせることだってできるでしょう。


 また、たとえば、建築家や自動車のデザイナーの方々にとっても、作ったモデルを、さまざまなサイズで、さまざまな角度から、立体的に確かめることができますので、とても効率的(わたしの苦手なことばのひとつです)で経済的だとおもいます。


 スマートハウスなどにお住まいの方でしたら、家電や監視カメラをすべて『Apple Vision Pro』でコントロールすることができるでしょうし、ドローンや家族の方が乗っている電気自動車のカメラが見ている風景を、そのまま映し出すことだって可能でしょう。


 それにくわえてAppleが強調したかったのは、『没入型の環境(immersive environment)』ということばでした。


 そのことばが示しているのは、片目4Kの画質(解像度は3840x2160)で、どこにいてもIMAXなみの大画面でお好きな映画を観れます、ということでもありました。


 ところで、『メタクエスト2』では片目が2K(解像度は1832x1920)なので、映画を観るときの画質はいちおうフルHD(解像度1920x1080)どまりですけれど、それでもフツーに問題なく画面はきれいですし、自由自在にスクリーンの大きさを変えることもできますので、IMAXとはいかないまでも、おなじように映画館の大画面で映画を楽しんでいるような没入感はじゅうぶんに得られます。


 しかも、50万円の価格のついた『Apple Vision Pro』とおなじく、わずか47,300円で手にすることのできる『Meta Quest 2』も、そのリフレッシュレートは90です。


 しかも、メタクエスト2の場合は、60/72/90というリフレッシュレートを選択できて、また、Windowsマシンにつないだ場合、なんと120Hzというリフレッシュレートにまで上限を引きあげることができますので、よりいっそうなめらかで高品質なVR体験を楽しむことが可能になっています。



⑫メタクエスト2による映画体験


『Apple Vision Pro』を褒めたたえている海外のYouTuberの方々のなかには、メタクエスト2の映画体験はひどいもので、とくにAmazonの『Prime Video VR』アプリで映画を観ると、画像の質の悪さだけでなくバグの多さからも吐き気をもよおした、とまで言っている方がいます。


 でも、クエスト2をお使いの方なら、どなたでも「プライムビデオVR」アプリはダメだクズだ(ごめんなさいね、Amazonさん)ということはご存知のはずです。


 それに、映画を観るだけの目的でしたら「Skybox」というアプリを使うのがいちばんです。

 わたしに3D映画の凄さとすばらしさを教えてくれたのもこのアプリでした。


 いったん3D映画にならされてしまうと、平面ディスプレイで映画を観ようという気がおこらなくなります。


 まさに「感性の革命」といった体験だったのかもしれません。


 映画の楽しみ方はほかにもいろいろあります。


 超人気の「Bigscreen VR」ゲームのなかに入り、仮想現実空間に作られたさまざまな趣向をこらした映画館へ出かけていくこともできます。


 そこで、自分好みの席を見つけて腰かけ、世界中の方々と仮想現実のポップコーンを投げ合ったり、オレンジジュースをじゅるじゅるとすすったりしながら、無料映画を楽しむか、「Bigscreen VR」に無料で割り当ててもらった豪華なお部屋に友だちを招いて、みんなとワイワイガヤガヤ話しながら試写会を楽しむという手もあります。


⑬Apple Vision Proの視線追跡とハンドジェスチャ


 そのことにもつながるのですけれど、まず、わたしにとって、いちばん大きな驚きは、Apple Vision Proが(いまのところは)VRゲーム機ではない、ということでした。


 それに、今回のWWDCを見るかぎりでは、さきほどご説明したように、Apple社はこのデバイスをVRゲーム機としては売りこんでいません。


 また、AR/VR機ではありませんし、またMR(ミクスト・リアリティ)用のデバイスとも言ってはいません。


 じっさいにはMR用(複合現実用)デバイスと言える仕様なのですけれど、あくまでも空間コンピィーティング用デバイス(XRデバイス)という位置づけです。


 この『Apple Vision Pro』は、視線の行方を正確にとらえることで、PC用のマウスやVR用コントローラーでポインターを操作するのと同じことができます。


 また、ひとさし指と親指で「OKサイン」を作るような、とてもシンプルなハンドジェスチャと、ほんのわずかな手首の動きだけで、クリックやダブルクリック、もしくは画像の拡大・縮小・回転、そしてドラッグにいたるまで、いま、みなさんがMacOS環境で使っておられるマウスやトラックパッドで可能なことは、ほとんどすべて、同じようにできるようです。


 このハンドジェスチャによる操作は、Meta社の「Quest Pro」のプロモーションビデオをごらんになった方にはおなじみのものですけれど、これからのVRゴーグル・ヘッドセットにおいては、視線追跡とあわせて、標準機能のひとつになるのかもしれません。


 もともと視線は、願望の指先、みたいなものだとおもいます。


 ヒトの脳に直接つながっている眼球がもたらす大切な情報のひとつでもあります。


 つまり、無意識の心の動きをすら視線から読みとれるわけです。


 また、『Apple Vision Pro』のように、視線の動きだけではなく、瞳孔を大きくしたり小さくしたりするための虹彩の動きをすらモニターできるということは、ヒトの感情の起伏を読みとることすらできるということです。


 このような視線追跡から得られる個人情報が、これから先、どのような目的に使われるのか、気になるところでもあるので、注視していきたいとおもいます。


 とにかく、わずかな遅れ(ラグ:lag)もなく、ただ望んでいるものへ目を向けるだけで、自由自在に、すばやく、しかも正確にその対象物を選択できるという機能は、じっさいに試された方々が口をそろえて「magical(魔法みたい)」という表現を使わずにはおれなかったのも、とうぜんかもしれません。



⑭触覚フィードバックの重要性


 ただし、VRゲーム機ということになりますと、話はすこしちがってきます。


 どうしてもコントローラの類(たぐい)が必要になるのです。


 コントローラがもっているバイブレーション機能が、VRゲーム機にとっては、とても大切な要素のひとつだからです。


 VRゲームの世界では「ハプティック・フィードバック」(触覚フィードバック)がなければ何もはじまりません。


 なにかを選択したときや、仮想現実空間でなんらかのアクションをしたときに、その結果や成果をバイブレーションやその他の電気的刺激で伝えてくれるからこそ、その幻想の世界で起こったことが、まるでほんとうの現実の世界で起こったことのように感じとれるのです。


 仮想の世界での出来事を、まるで現実の世界での出来事のように信じるためには、なんらかの刺激を体に伝える方法がいちばん手っ取り早いのです。


 体感なしには、夢は夢のままでしかありません。


 仮想空間のなかで指先に蝶々がとまったとき、なんの刺激もなければ「あ、これって、やっぱりたんなる仮想現実の世界なんだ」と夢から覚めてしまいます。


 蝶々がとまった瞬間、ブルッと手がふるえたりすることで、夢の世界が現実に起こったことのように錯覚されるのです。


 つまり、CGで描かれた蝶々が、じっさいに指先にとまったかのように感じとれるのです。


 また、VRゲームの野球や卓球やバスケットやボーリングで遊んでいる時、たとえば、野球のボールを受けたときや、それをバットで打ったときに、ブブッというような振動がつたわってこなければ、すべてのアクションはまさに「絵に描いた餅」になってしまいます。


 このような意味で、VRゲームの世界では触覚フィードバックをもたらしてくれるお道具がかならずと言っていいほど必要となるのです。



⑮エリートVRプレイヤーとクエスター


 話はかわりますが、「Occulus Rift(オキュラス・リフト)」や「HTC Vive」、「Valve Index」、そしてわが国が誇る「Playstation VR」で、2016年のころからVR世界で遊んでこられた方々がおられます。


オキュラス・リフトのヘッドセット写真
オキュラス・リフト(Occulus Rift)

 VR世界で「エリートVRプレイヤー」と呼ばれている方々です。


 ですから、たとえオタクでハードコアでニッチ市場などと批判されても、その世界はその世界なりの歴史と奥深さをもっているのです。


Valve Index ヘッドセットの写真
ヴァルヴ・インデックス(Valve Index)

 たとえば、わたしのように、ようやく2021年からMeta Quest 2でVR世界へのデビューを果たしたプレイヤーなどは、ほんとうに新参者で、VRのSocial Game(ソシャゲー)で有名な「VR Chat」や「Rec Room」などに入って遊んでいるときでも、いわゆる『Quester(クエスター)』と呼ばれるタイプに分類されているようです。


 差別されているわけではありません。


 それなりに丁寧な「あたらずさわらず」の対応をされることはあります。


 そういう「エリートVRプレイヤー」の方たちは、たいてい高性能なWindowsマシンにケーブルでつながった状態でVR世界を楽しんでおられるので、スタンドアローンで遊んでいる状態のメタクエスト2のスペックでは、どうがんばっても追いつけないところがあるからです。


 とくに「VR Chat」などでは、可愛らしいアニメ風アバターをはじめとして、考えられる限り多種多様なアバターを使っているプレイヤーのみなさんがいて、そういう方々は、自分のアバターの手足すべてを自由自在に動かすことのできるボディトラッキングを身につけておられるので、わたしたちのように腰から下だけが奇妙な動きをみせる『クエスター』にはすぐに気がついてしまうようです。



⑯仮想空間と視覚の体験化


 このような仮想空間の内部では、架空のアバター同士が互いに握手をしたとき、じっさいの現実世界でもその触感を味わえるように、さまざまなハプティック・グローブ(触覚手袋)を使っている方たちがいます。


 また、仮想空間での戦闘ゲームをプレイ中に、相手から殴られたり蹴られたり、または銃弾を受けたりしたときに、殴られた箇所や弾を受けた箇所に、それなりの電気的な刺激を発生させるようなハプティック・ベストや全身用ハプティック・スーツなども売られています。


 つまり、スティーヴン・スピルバーグ監督が制作した『Ready Player One』というSF映画に描かれていたようなVR体験と仮想現実空間に、あと数歩で追いつくかも、というようなところまで進化してきたのが、現在のVRゲームプレイヤーの世界なのです。


 いちどでもヘッドセットをつけてVRゲームをなさった方ならわかってくださるとおもいますけれど、Playstation用コントローラーやNintendo Switch用コントローラーのHD振動が大切である以上に、仮想現実空間でのゲームには触覚フィードバック(Haptic Feedback)がとても重要な鍵をにぎっているとおもいます。


 とはいっても、『Apple Vision Pro』は驚くほど正確に手の位置をトラッキングすることが可能だということですし、しかも、その手指のジェスチャを正確に反映したアクションを、なんの遅れもなく起こすことができるらしいので、わざわざ他社の製品に似通ったコントローラーを作る必要はないとおもわれます。


 なぜなら、さまざまなパターンのバイブレーションを発生させることのできるリング、もしくはリストバンドのようなものを手首にはめるだけで、そのまま触覚フィードバックを得ることが可能になるでしょうから。


 あとは、さまざまな手指のジェスチャに応じて変化するバイブレーション・パターンを発生させれば済むことだとおもいます。


 みなさんご存知の『Beat Saber(ビートセイバー)』で、前方から向かってくるブロックを切った瞬間に手首がブルッとふるえたり、『ピストルウィップ』で銃を撃つたびに手首がズンッとゆれたり、仮想現実空間のなかで見かけたお化け屋敷のドアをあけるときに、ブブブゥ~と手首がふるえたりすれば、それなりに『Immersive Experience(イマーシヴ・イクスペリエンス:没入型体験)』を味わえるのではないかとおもいます。



⑰アバターと性の多様性


 つぎに、VR世界の、とくに『VRChat』や『Rec Room』、『PokerStars VR』や『Bigscreen VR』などの、いわゆるソーシャルゲームで大切なのはアバターです。


 アバターになりきる楽しさは、Apple社のプロモーションビデオで自分の顔をスキャンするのとは正反対に『まったくの別人になれるからこそ楽しい』というひとことにつきます。


 たとえば、わたしが、20歳前後の超イケメン青年のアバターになりきって『VRChat』の仮想現実世界を徘徊(はいかい)しながら、あきらかに自分の生(ナマ)の声を使って話しているとおもわれる少女を見つけて、彼女を誘惑することが可能な世界。

 それが仮想現実空間でのアバターの楽しさなのです。


 現実の自分とはちがう自分になれる。どんなモノにでも変身できる。

 これです。


 道の向こうから背丈が2メートルほどのゴジラが歩いてくるから、なんだろうとおもって「こんにちは」と声をかけてみると、16歳くらいの少年のかぼそい声が「あ。どーも。はじめまして」と返ってきたり、セーラー服姿の可愛らしいアニメガールに近づいていったら、落ちついた中年男性の声が「わたくし、このVRChatの世界でコンビニを運営しているオーナーの◯X▽□です」と返してきたり、仮想現実空間で美しい桜並木を歩いているとき、腰に刀をさしたサムライ姿の男性を見かけたので、さっそく話しかけたら、ちんぷんかんぷんの外国語が返ってきて、なんとか英語で話せないかとお互いに苦労したあとに、ようやく相手の方がノルウェーのプレイヤーだということが判明したり…。


 ようするに『アバターとは、もとからノンバイナリー(性別不明)で、年齢不詳で、国籍も人種も問われない存在』だったのです。


 そこがアバターのアバターらしさですし、アバターがあたえてくれるスリルと快感のルーツなのだとおもいます。


 そのいちばん肝心な部分をアップルは削りとっていました。


 無視したわけではないとおもいます。


 たぶん、アップルは、そのような仮想現実におけるソーシャルゲームを徹底的にリサーチしたときに、その世界がいかにオタクっぽいもので、不思議で奥深く、閉鎖的ではないにしても、一般人から見たら、かなり特殊な世界であることには、とうぜん気がついたはずです。

 そしてアップルの立ち位置とブランディングの質を考慮にいれて、かなり悩んだのではないでしょうか。


 つまり、アップルの製品を好む、ちょっぴり気取ったプチ・ブルジョア指向のひとびとで、自分を先進的だとおもってはいるけれども、モラル的にはちょっぴり保守で、じっさいにみずから革新的な技術の製品や部品を見つけてきてカスタマイズしたりすることはせず、どちらかといえば性能(パフォーマンス)よりも見た目(デザイン)のほうが大切で、いつもきちんとお利口さんにアップルが供給してくれる新製品を待つ、といったタイプの消費者(これもわたしが苦手なことばのひとつです)を想定したとき、このようなひとびとを、すでに確立している『VRChat』のような仮想空間へつれていくには、よりいっそうの資金力と人材と時間が必要となるかもしれない、という懸念を抱いたのかもしれません。


 わたしは、1994年に発売された「Macintosh LC 575」からずっとAppleのデスクトップコンピュータを使ってきて、2008年には、iPhone 3G を使いたいがために、長くお世話になってきた AU を去って、まだはっきりとした姿の見えないソフトバンクと呼ばれる会社に乗り換えたりもしましたので、いわゆる盲目的にApple社の製品を崇拝する「Apple信者」ではないにしても(Huawei のタブレットなども使っています)、ほぼ上記の消費者のひとりにふくまれることはまちがいありません。


 とにかく、Appleファンだけのために、『VRChat』に取って代わるような、しかも、明るく健康的で友好的で、ちょっぴり保守的でもあるソーシャルゲームをサードパーティに作らせるためには、それなりの地盤が必要となってくる、ということにアップルは気がついたのではないでしょうか。


 社会学では常識となっている20-80%ルールというものがあります。

 80対20の法則とも言われているようです。


 20%の原因から80%の結果が生まれる、という法則です。


 たとえば、インフルエンザの流行が終わったあとでも、まだみんながマスクをしているときに、勇気をふりしぼってマスクをはずすひとがいるとします。


 その方たちが2割になるまでには、そうとう長い時間がかかりますけれど、不思議なことに、ひとびとの群れのなかの2割の方がマスクをはずすところまでくると、残りの8割の方たちまでもがいっきにマスクをはずしてしまうという現象です。


 10人のうちの2人がマスクをはずすまでには6か月かかったのに、いったん2人がマスクをはずしたとたん、残りの8人がマスクをはずすのにはわずか1週間ですんだ、というような現象です。


 つまり、わたしたちヒトという生き物が、社会の中で何か新しいことをはじめるとき、人口の2割を占めるひとびとにそれがひろまるまでは長い時間(年月)がかかるけれども、いったん2割のひとびとがその新しいことをはじめたら、そこからはあっという間に残りのひとびと全員にひろまる、という法則です。


⑱仮想空間への入口に立ちはだかる高い壁


 ところが、これがVR(仮想現実)の世界ではそうもうまくいかないのです。


 うまくいかないからこそ、オタクっぽい独特な楽しい世界が繁栄しているのかもしれません。


 とは言っても、仮想空間の世界にくわしいYouTuberの方たちは、いつでもわたしたち一般人を大歓迎してくれます。


 たとえば『メタクエスト2』が2000万台の売り上げを達成したときに、いちばんよろこんでいたのは、うんと前から「オキュラス・リフト」や「VIVE」や「Valve Index」や「PSVR」を使っていたYouTuberの方々です。


 一般のひとびとが入ってくればくるほどVR市場は豊かになり、すばらしいゲームが生まれ、ソーシャルVRゲームもにぎやかになり、よりいっそう安価で高性能なAR/VR機なども作られるようになり、自分たちのYouTubeビデオの再生回数も上がるだろう、というのがその理由でした。


 それでも、機関投資家や株主との問題とは別に、あるひとつの、どうしようもない壁が立ちはだかっているようにおもえてなりません。


 その壁とは、VRゴーグルと呼ばれるもの、VRヘッドセットと呼ばれるもの、そのものが抱えている問題です。


 拡張現実(AR)や仮想現実(VR)、もしくは複合現実(MR)を楽しむためには、脳(視神経や視覚脳など)に直接電気的刺激を与える方法を選ばないかぎり、どうしてもメガネっぽいものが必要になる、というのが大きな壁なのです。


 その技術を活かすための道具そのものがネック(障害)なのです。


 WWDCから10日以上もたって、ようやく、今回アップルが口をつぐんでやりすごそうとしたヘッドセットの重さが、もしかしたら500gを超えているのではないかという情報が出てきました。(※2024年2月3日の時点で、じっさいに購入したYouTuberの方々の情報によりますと、重さは650gだそうです)


 他の会社の製品は、ヘッドセットを軽くするためにプラスティックを使っていますけれど、アップル社のものは、デザインとしての美しさを追求しているせいで、ガラスとアルミニウムを素材にしています。


 重たくない、と言ったらウソになるでしょう。


 しかもフロント部分がすべてガラスで仕上げられているということなので、とうぜん重さは顔、とくに鼻と頬骨にかかってきます。

(※2024年2月7日の時点でわかったことは、真っ黒なフロント部は合わせガラス(ラミネートガラス laminated glassで作られていて、プラスチックの表層部がその内側のガラスを守っているのだそうです)



アップルビジョンプロのヘッドセットを装着した黒人女性の写真
Apple Vision Pro(写真はFreebiehive.comのFree PNG imageから)

 またガラス製ですので、いちど床に落としたら、一瞬にして粉々になってしまうでしょう。


 50万円とはまた別に、かならずAppleCareのプランを購入しておかないと、おそらく、とんでもない修理代を請求されるはずです。


 でも、これらはアップルだけの問題ではありません。


『メタクエスト2』にしても、上体を起こしたまま2時間以上装着していたら、かなり首すじが痛くなってきますし、顔にはヘッドセットの輪郭のアトがついてしまい、しばらく時間をおかないと、外へ出かけられないような気分になります。


 ほとんど重さのないような水中眼鏡ですら、それをつけたままPCの前にすわって2時間ほど仕事をしてみてください、と言われたら、ほとんどの方々はうんざりするはずです。


 わたしだって例外ではありません。


 ゴーグルやヘッドセットをつけたときの、あの閉塞感、が耐えられないのです。


 すでにお気づきになっている方もおられるかもしれませんが、『マイノリティ・レポート』のトム・クルーズも、『アイアンマン2』のトニー・スターク役で知られるロバート・ダウニー・ジュニアも、空間コンピューティングをおこなっている場面で、顔にゴーグルのようなものをつけたりはしていません。


 にもかかわらず、わたしは、なぜ、いまだに、仮想現実のゲームを楽しんでいるのでしょうか。


 好きなゲームを遊んでいるからです。


 英語を学ぶために留学するのではなく、興味のあることを学ぶために留学するのでなければ、けっきょく英語は上達しません、ということばを耳にした方は多いのではないでしょうか。


 おなじことはVRのヘッドセットとソフトウェアについても言えます。


 そのVRヘッドセットでなにをしたいのか、どんなゲームをしたいのか、どんなふうに「みんな」とつながりたいのか。


 それがわかっていないと、どうしようもありません。


 それがわからなかったり、興味をもてなかった方たちは、そろって三日坊主で終わってしまうでしょう。


 つまり、いままで見たこともない別世界へ連れていってくれるはずのVRヘッドセットも、ぜんぶタンスの肥やしになってしまうはずです。


⑲Apple Vision Proの未来


 今回、WWDCに登場した『Apple Vision Pro』は思い出の映像を3Dで残せるようです。


 また、映像化された自分の部屋を見ながら、その空間に仮想のディスプレイを配置して、ネット検索したり、動画を見たり、メールを送ったり、文章を書いたり、絵を描いたり、FaceTimeを使って家族や友人や恋人とコミュニケーションをとったり、さきほど説明させもらいましたように、大画面で映画を観たりすることもできます。


 それを4Kの画質で行えるのですから、ほんとうにすばらしいことだとおもいます。


 でも、これだったら、もしかして、iMacやMacBookやiPhoneやiPadでもじゅうぶん可能なことじゃないの?


 そうおっしゃる方がいても不思議ではありませんし、50万円を支払うのだったら、8Kの大型テレビと高級オーディオシステムを購入したほうがいいや、とおっしゃる方だっていらっしゃるでしょう。


 結論を申しますと、現在、市場に出まわっているVRゴーグルやVRヘッドセットを使うかぎり、それを顔に装着して、みなさんがふだんPCやラップトップやスマートフォンで行っているのと同じような仕事ができるとはおもいません。


 いまの技術では、たとえそれがMR用のヘッドセットであっても、一般の方たちがそれを顔に装着して「生産性」と「効率」をあげるためのお仕事をするとは、とうていおもえないのです。


 プロフェッショナルな方たちが業務用に使用する、ということをのぞいては。


 それがわたしの正直な感想です。


『Pokemon Go』を作ったNianticのCEOにとっては、じっさいの現実社会で他者とのつながりを作ろうとしないVRゲームなどは、悪夢的な未来(ディストピア)を予見させるものでしかない、ということになるらしいのですけれど、発売された当初から、いまにいたるまで、ずっと『Pokemon Go』が大好きで、楽しませてもらっているわたしですら、そうはおもいません。



⑳仮想空間の楽しみ方


 VRの良さは3つあります。


 いままでのIT機器では味わうことのできなかった360度の仮想現実世界を見せてくれるというのが、ひとつ。


 みなさんの目が(つまり脳が)過去に味わったことのない刺激を受けることができるはずです。


 仮想空間のなかに入りこんで、行ったこともないし、行くこともできないだろう海外の街並みや、この世に存在しないような湖畔の風景をながめているだけでも、ずいぶん幸せな気持ちになれます。


 作られた現実にも、虚構(きょこう)なりの真実があるのかもしれません。


 ただ、このVR体験も、たとえばYouTubeなどで、2次元の平面ディスプレイによるプロモーションビデオをごらんになっているだけでは、つかみにくいのです。


 じっさいにVRヘッドセットをつけて、その世界をのぞき見た方でないと、それがどんなものなのか、まず絶対と言っていいほど想像しにくいものなので、これも一般の方たちへの普及をはばんでいる壁のひとつかもしれません。


 なにがなんでも、じっさいに体験してみなければわからない世界、なのです。


 でも、それだけに、いちどでも体験なさった方は、良いにつけ、悪いにつけ、まさに感性の革命とでも呼べるような驚きと衝撃を味わうことができるだろう、と信じています。


 ふたつ目は仮想空間で他者に出会うことができる楽しさです。


 仮想空間には仮想空間の社会体験と対人関係があります。


 地理的な距離感がゼロの社会で、国とことばのちがうひとびと出会って、さまざまなコミュニケーションの方法を学ぶことができるのではないかとおもいます。


 近づいてきた吸血鬼のアバターに話しかけたら、アメリカのアリゾナ州に住む高校教師だったり、可愛らしいカエルキャラのアバターと握手したら香港のプレイヤーだったりするのですから、国際電話というものが古代人の使っていたサービスにおもえてしまいます。


 そして三つ目は、なにがなんでも、VRのゲームで遊ぶこと。


 ついさきほど「ゲームで遊ぶこと」と言いましたけれど、VRゲームによっては、有酸素運動と、ダイエットのためのエクササイズを楽しめるものがあります。


 また、エクササイズのために特化したゲームともなると、目の前にあらわれたエクササイズコーチにしたがって楽しく体を動かしているだけで、ほんとうにハァハァと肩で息をしながら汗びっしょりになってしまうほどです。


 頭にVRヘッドセットをかむったまま、本気で痩せることだってできます。


 このゲーム&エクササイズ両方の楽しみ方は、いままでのPCゲームやスマホゲームでは不可能なことでした。


 そして、いまのところ、これらの要素だけが、一般の方たちを複合現実(MR)の世界に呼びこむために、もっとも効果的なものではないかと信じています。


 けれどもアップルは、わたしの目にはもっとも大切な要素だとおもえるゲームにも、また、仮想現実空間における社会体験(ソーシャルゲーミング)にも、今回は、まったく触れてはいません。


 たぶん、ゲームは、アップルの得意とするところではないからです。


 ほとんどの有名なPCゲームやVRゲームは、例外なくWindowsOS用、もしくはアンドロイドOS用のものばかりです。


 メタクエスト2も中身のOSはアンドロイドです。


 また、PCゲームやPCソフトウェア、そしてストリーミングビデオのダウンロードサイトとして有名な『Steam』や『SideQuest』はMacOSのプラットフォームとは縁遠いものです。


 ためしにネットで「MacOS用ゲーム」と検索してみてください。


 iMacとM1MacBook Airを使っているわたしは、いつも、その結果を見るたびに、落胆のため息をもらしてしまいます。


 でも「惰性」から、やっぱり明日もMacを使いつづけていくのだとおもいます。


 もともとMacOS用にゲームを作ってくれるようなソフトウェア会社がすくないのは、世界におけるiMacやMacBookのシェアを見ればうなずけますから文句は言えませんけれど、それでも、なんとか『Half-Life: Alyx』や『Cyberpunk 2077』くらいはMacOS用に移植してもらいたいと願っています。


 ところで、2024年初頭に販売予定の『Apple Vision Pro』の初回オーダーは、当初の販売目標の100万台にはほど遠い15万台だったようです。


アップルビジョンプロと専用の充電器の写真
Apple Vision Pro(写真はFreebiehive.comのFree PNG imageから)

 その後は、年に5万台ほどの生産台数になるのでは、という情報もあって、全世界にちらばっているオシャレな『Apple Store』では、1店舗に1台という販売方法に落ちつくのでは、とも見られているようです。


 はっきり言って、きびしい苦しいスタートを切ったアップルですけれども、めざしたところはとても高い地点だということはたしかだと感じられました。


『Apple Vision Pro』はその名の通り、プロフェッショナル向けのデバイスなのでしょう。


 つまりゲーム制作者やアプリの制作者の方たちに使ってもらうための業務向け仕様のデバイスなのだとおもいます。


 まさにDevelopersのためのお道具という位置づけです。



㉑Apple Vision Proの真のライバル


 その点を考慮にいれてみますと、アップルがライバルとみなして、追い越そうともくろんでいた相手が浮かんできます。


 たぶんフィンランドのヴァルヨ社(Varjo)が世界に誇る『Varjo XR-3』なのではないかとおもいます。


 両者とも性能と価格帯はほぼ同じですし、しかもプロフェッショナル向けのハイエンド・マシンです。


Vario XR-3 ヘッドセットの写真
Vario XR-3(株式会社エルザジャパンのWEBページより)

 ただし『Vario XR-3』のほうは2020年にすでに販売が開始されていますし、しかも「ボルボやアウディ、ボーイングなどの自動車・航空機メーカーへの導入も進んでいます」(MoguraVRのWebページより)ということなので、アップルはすこし出遅れたのかもしれません。


 わたしの願いとしては、製造業関連のグローバル・コーポレーションに買ってもらったあとは、とにかく、『Apple Vision Pro』の廉価版(iPhoneSEみたいな)を作って、Appleファンのなかのより多くの方々をMRの世界に呼びこむか、さらにヘッドセットを改良して、当初、みんなが予想していたような、モーターバイク用のゴーグルか、もしくは、せめてBigscreen Beyondくらいの大きさのものに進化させて欲しいのです。


 でないと、ほんのごく一部の方たちのタンスの肥やしになりそうな予感はしています。


 いちばんの懸念は、本体の売れる数がすくないために、ゲームやアプリなどのソフトウェアを作る方たちまでもが及び腰になって、アップルのエコシステムに参入してこない結果になると、こんどは、ゲームやアプリがすくないために本体そのものが売れない、という悪循環におちいっていくことです。


 この逆の流れになればアップルにとってもゲームやアプリ制作者にとっても好都合で、まさに「win-win」なのですが、もしも悪いほうにまわりはじめたら、ほんとうに予想外の大失敗(unexpected flop)にもなりかねません。


 つまり、この『Apple Vision Pro』は、いまのところ、わたしたちをユートピア(理想的な未来)へつれていってくれるデバイスにはならないだろうし、また、アップルに批判的な方々を不安がらせるようなディストピア(悪夢的な未来)を生み出すデバイスにもならないような、そんな気がしてなりません。







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