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  • 執筆者の写真香月葉子

LGBTQとは何か? | セックスとジェンダーの関係

更新日:3月27日



興味はあるけれど【LGBTQ+】ということばがよくわからない


 なにげなくTVニュースを見たり、街をぶらぶらしたり、ネットで調べものをしたり、Twitter や Line や TikTok や YouTube を楽しんだりしているときなど、ふいに「LGBTQ」とか「LGBTQ+」(エルジービーティーキュープラス)ということばが目にはいってくるのではないでしょうか。


 レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クィア、もしくはクエスショニングという頭文字からできあがったことばで、おしまいのプラス+は「まだほかにもいろいろな性のあり方があるだろうから……」という意味でつけくわえられているプラスです。


 多様化する性のあり方をいちいちイニシャルにしてつけくわえていくと、とんでもなく長いことばになってしまうからという理由で、その他のバリエーションやこれから先にあらわれてくるであろう新たな性のあり方については、すべてひっくるめて「+」で表現されています。


 最近では、インターセックス intersex(身体的な特徴が女・男のどちらにもあてはまる人・どちらにもあてはまらない人)やアセクシュアル asexual(だれに対しても恋愛感情や性的欲求がわかない人:無性愛者)をくわえた「LGBTQIA」ということばを見かけることもあるくらいです。

 もともとは「LGBT」という4文字イニシャルからはじまったことばでした。


 1988年ころから使われはじめて、2000年ころからひろまりはじめたとされています。


 いまでは、そのLGBTにクィアやクエスショニングのQとプラスがつけくわえられ、いまではアクティヴな行動と自分の性のあり方にたいするプライドを呼び起こすための力強いイメージもくわわって、一般にも広く知られるようになりました。


 「Q」のクィア(queer)は「おかしい」とか「奇妙な」とか「異常な」といった意味で、昔は一般的な異性愛者(ヘテロセクシュアルのことでストレートとも呼ばれている人々)とはちがうふんいきを持ったひとびとをさげすむことばでした。


 でも、いまでは「なんとなくおかしい」とか「ちょっぴり変」といった軽いニュアンスでつかわれ、性的少数派といわれる人々すべてを包みこむことばになっています

つまり、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックス・アセクシュアル・トランスセクシュアルなどの人たちすべてがこの「クィア」にふくまれます。

 ですから、たとえば、レズビアンやゲイの方々の恋愛映画を「クィア・ロマンス」と呼ぶことはできますし、また、トランスセクシュアル(外科的な手術によって、持って生まれた性別を、自分がほんとうに望んでいる性別へと変えようとしている状態)の方の小説やドラマを「クィア・ストーリー」と呼ぶこともできます。


 わたしはバイセクシュアルですからLGBTQの「B」のイニシャルに属している性的マイノリティのひとりです。

 つまり「クィア」のひとりでもあります。

 この「クィア」にふくまれないのは ①異性愛者(このなかには異性に恋愛感情は抱くけれども性行為には興味がないというヘテロロマンティックの方もふくまれます:同性愛の関係にも使えるプラトニックラブとはちがいます)で、かつ ②シスジェンダー(女もしくは男に生まれて、しかも、自分が女性もしくは男性であるということになんの疑いも抱いていない方)で、しかも ③一夫一妻主義(monogamy)の方たちです。

 この3つの条件を満たしている方たちは「クィア」ではありません。「ノンクィア」(nonqueer)と呼ばれています。


 いまご説明した「クィア」と同時に、この「Q」というイニシャルは「クエスショニング」という立場を意味することばでもあります。


「クエスショニング」とは、女もしくは男に生まれて戸籍の上でもそうなのだけれども、そんな自分が女性なのか男性なのかそのどちらでもないものなのか決められないし決めていないし、また、自分が好きになる相手は異性なのか同性なのかそれ以外なのかも決められないし決めていないという状態をさしています。


 そして、その「LGBTQ+」のイニシャルとともに、ちかごろでは〈デミジェンダー〉とか〈バイジェンダー〉ということばも、いろいろなところで乱舞しています。


 さまざまなメディアをとおして、いろいろな方たちが、それらのことばを説明してくださっていますし、それらの定義を教えてくださっていますけれど、それでも「頭が混乱してぐちゃぐちゃになりそう」と感じておられる方がいらっしゃるのではないでしょうか。


 わたしも、そのなかのひとりです。

 その〈わかりにくさ〉は、説明してくださっている方たちに責任があるのではなくて、「LGBTQ」ということばそのものがふくんでいる〈あいまいさ〉のせいかもしれません。

なにがメインで、なにがサブなのか、わかりにくいのです。

 木にたとえると、なにが幹(みき)で、なにが枝葉(えだは)なのかがわかりにくいのです。


 たとえば、生物学でつかわれている分類法(タクソノミー:taxonomy)によれば、わたしたち「ヒト」はもっとも大きな区分のなかでは動物界(vs植物界vs菌界など)に属していて、そのなかでも脊椎動物亜門(せきついどうぶつあもん)に属しているとされています。

 その脊椎動物亜門のなかでは哺乳綱(ほにゅうこう)に属し、哺乳綱のなかではサル目(さるもく)に入れられています。

 また、そのサル目のなかではヒト科に属し、ヒト科のなかではヒト属で、そのヒト属のなかにふくまれているのが、いま地球上で生活をしているわたしたち人類で、ホモサピエンスという種である、というふうに分けられています。


 そのように、大きい区分から順に、小さく枝分かれしていくものを分類できたら、すこしはわかりやすくなるのかもしれません。


 たとえば、りんごとみかんのちがいを魚をひきあいにだして比べたり、鶏肉の味に似ているというカエルの味とブドウの一品種であるマスカットの味とをくらべて、「どちらがお好みですか」とたずねたりしても、あまりピンとこないのではないでしょうか。


性別に〈セックス〉と〈ジェンダー〉という2種類のことばがあるのはどうして?


 セックスとジェンダーはともに〈性別〉と訳されてはいますけれど、それぞれちがうものです。


 外来語のセックスとジェンダーということばを輸入したのはいいけれど、欧米とちがって、そのことばのちがいを肌で感じるための社会的・文化的な背景がなかったために、どちらのことばにも〈性別〉という訳をあてるしかなかったのではないかと考えられているようです。


 米国の医学誌の定義によりますと、〈セックス〉とは女・男・インターセックス3者におけるそれぞれの身体的なちがいのことです。

 生物学的にもって生まれた性のことで、出生時に診断され、あてがわれた性別のことでもあります。

 さきほどインターセックスとは「身体的な特徴が女・男のどちらにもあてはまる人・どちらにもあてはまらない人」と申しましたが、正確には女と男それぞれがもつ生物学的特徴のさまざまな組み合わせをもって生まれてきた人をさしています。

 女と男のどちらでもあり、またそのどちらでもない身体的特徴をもって生まれた方のことです。


 つまり、〈セックス〉は「体によって決められた性別」のことだとお考えになったらいいかもしれません。


 それに反して〈ジェンダー〉とは、それぞれの社会や文化圏によってつくられた女性・男性(女らしさ・男らしさ)についての考え方とイメージからくる役割、行動様式、そして特質などによるちがいのことです。


 そこから生まれてきたのがジェンダー・アイデンティティ(性自認)ということばで、みなさんひとりびとりが、ご自分のことを、女性・男性・そのどちらでもない性、のどれにご自分をあてはめておられるかという自己認識をさしています。


 つまり「こころが決めた性別」とでも言えばいいのでしょうか。

 つまり、ジェンダーとは社会的・文化的につくられた性別であるのと同時に、〈性自認〉 Gender Identity と呼ばれる心理学的性別の元にもなっているのです。


 もともと心理学用語として生まれたジェンダーということばは「それぞれの社会や文化圏によってブランド化された男らしさ・女らしさのこと」と言ったほうがわかりやすいかもしれません。


 けれども、わが国では、欧米のように「男女のちがいはそれぞれの社会や文化圏によってもつくられる」という考え方はありませんでした。

女と男のちがいは「自然」なことであり、「そうなるべくして成った」ことなのだから、「しかたのないこと」だし、「変えることはできないもの」なのだ、という考えが、わたしたちのモノの見方に大きな影響をおよぼしていたのではないかとお考えになる学者さんもいらっしゃいます。

 ですから、ジェンダーということばにも、セックスとおなじ〈性別〉という訳をあてたのだろうとみられているようです。


『どちらも似たようなものだ』というふうに誤解してしまったのかもしれません。


 そのせいで、わが国では、ジェンダーについて語っているときですら、男女のちがいは「自然」で「あたりまえ」なものであって、もって生まれた「とうぜん」のちがいだというニュアンスがまといついてくるようになったのではないか、とおっしゃる学者さんがいらっしゃいます。


 これが〈性別〉を考える上での誤解や混乱を引きおこすきっかけであり、また、そのせいで、わが国ではいまだに女・男のちがいは「自然からあたえられたもの」だとおもわれる原因にもなったのでは、と指摘されているようです。


 ところで、みなさんのなかには、いままでふしぎに思ってきた方がいらっしゃるかもしれませんが、セックスということばには、もちろん〈性行為〉の意味もふくまれています。


 けれども、ここでは、あくまでも、女・男・インターセックス3者それぞれの生物学的なちがいをあらわすための〈性別〉という意味としてだけつかわせてもらっています。


〈ジェンダー〉という社会的・文化的につくりあげられた性別のことをもっと知りたい


 さきほど、ジェンダーとは、それぞれの社会や文化圏がうみだした「男らしさ・女らしさ」と述べました。


 ご両親から「女の子なんだから・男の子なんだから」そうしなければいけない、そんなことをしてはいけない、そういう考えでなければいけない、などと言われた方がいらっしゃるのではないでしょうか。


 わたしはそうでしたし、たぶん、わたしの世代のほとんどの方々はそうだったとおもいます。


 それは、このわたしと同じように、わたしの両親もまた、祖母や祖父から言われて学んだ社会や文化圏によるジェンダーについての考え方によるものなのです。

そういう日々の教育の連鎖(れんさ)という歴史の「つらなり」のなかに文化がかたちづくられていくということはみなさんも学校で学ばれたことだとおもいます。

 さすがにこれはちょっぴり古くさいイメージかもしれませんけれども:


①女の子は髪をのばし、ピンク色の服を着て、お人形を抱いて、ままごとをするもの。


②男の子はざんぎり頭で、青色の服を着て、棒切れや玩具のピストルをふりまわしながら、かけっこやとっくみあいに夢中になるもの。


③女の子は家のなかでお料理やお裁縫を学び、母親のしてきたことから学ぶもの。


④男の子は外に出て、キャッチボールをして遊び、昆虫採集をしたり、木にのぼったりして、父親の後ろ姿を追いかけるもの。


⑤女の子は可愛く、やさしく、繊細で、包容力があって、涙を流すことがゆるされている存在。


⑥男の子は決断力をもち、勇敢で、闘争心に燃えていて、涙を流すことはゆるされない存在。


⑦女の子は相手からの要望を受け入れる立場で、男の子は自分からはたらきかける立場。


⑧女の子はプレゼントを受けとる側、男の子はプレゼントを贈る側。

 これらはほんとうに古くさい女性・男性という性別(ジェンダー)による行動様式と役割分担ですけれども、このように、ある社会や文化圏では、女らしい(フェミニン)とはどういうものなのか、男らしい(マスキュリン)とはどういうものなのかが、しぐさや言葉づかい、服装やメイクの仕方、他人とのつきあい方から受け答えのしかたにいたるまで、どこかに法律や規律があるわけでもないのに、おどろくほどこと細かに決められていて、しかも「世間の目・世間の声」という力で、そういう行動様式を強制することができます。

 

 それと同時に、わたしたちひとりびとりの心の中にも「そうしなければいけない」とか「そうすることがとうぜんであたりまえ」という、心理的な規制がはたらくようにもなっています。

だれからも強制されていないのに、なぜか「そうしなければいけない」という自主規制にもとづいて行動しているときが、そういう状態なのだとおもいます。

 また、小説や絵画や映画や音楽、そしてTVドラマやCMやソーシャルメディアなども、あるときは計算ずくで、あるときは知らず知らずのうちに、女性・男性というジェンダーのちがいによるモノの見方やふるまいを利用しながら、結果としてそのちがいを認める役割を担(にな)っています。


 そして、そういう性的役割分担や性別による固定観念(ステレオタイプ)からハズれたことをすると、白い目で見られたり、社会からのけものにされたりすることがおこります。


 ここに、社会的文化的にかたちづくられた性別(ジェンダー)の、とても深い意味と秘密が隠されているのだとおもいます。


〈セックス〉という生物学的性別のことをもっと知りたい


 さきほど説明させてもらったのですが、〈セックス〉とは女と男とインターセックスの3者それぞれの生物学的・身体的なちがいのことで、生まれもっての性別のことです。


「男に生まれたきた・女に生まれたきた・その両方でありそのどちらでもないものに生まれてきた」というのが身体的な性別です。


 別の言い方をすれば「からだによって決められた性別」のことですし、日本では出生時に診断されて戸籍(米国では出生届や出生証明書)に記載(きさい)されている性別のことでもあります。


 英語圏で「あなたのSexは?」という項目のある書類を手にお取りになったときは、ご存知のように、他の動物にも使うFemale(メス)もしくはMale(オス)とお答えになるとおもいます。


 では、女の子と男の子の生物学的なちがいとはなんでしょう?

 ヒトの場合は、それぞれの〈外性器〉と〈内性器〉と〈性染色体〉と〈性ホルモン〉などをくらべることによって男女のちがい(性差)がわかるとされています。


外性器は見てわかるちがいです。

 クリトリスと陰唇がついていれば女の子で、ペニスとその下に陰のうがついていれば男の子だと判断されます。

内性器は体のなかにあって見ることができません。

 膣と子宮と卵管があれば女の子で、前立腺と精嚢(せいのう)と精管があれば男の子だと判断されます。


性染色体については、すでに高校時代に学んでおられることとおもいます。

 わたしたちヒトの場合、ひとつの細胞のなかには46本の染色体があるのですけれど、そのなかの44本の常染色体をのぞいた、残り2本が性染色体です。女の子はX染色体を2本(つまりXX型です)そなえていますし、男の子でしたらX染色体が1本にY染色体が1本で合計2本(つまりXY型です)をもっています。

 よく知られているように、XXが女の子、XYが男の子、です。


性ホルモンには女性ホルモンと男性ホルモンがあります。

 女性ホルモンの主なものはエストロゲンとゲスターゲンで、男性ホルモンではテストステロンです。

 それぞれの血中濃度で女の子・男の子を判断していますけれど、なかなか一筋縄(ひとすじなわ)ではいかないようです。

 ここでなぜ女の子・男の子だけのちがいを述べさせてもらったかといいますと、インターセックスの場合は上記の4項目にあてはまらないケースが多く、だからこそインターセックスというカテゴリーに分けられているというのが理由です。


セックスとジェンダーとテストステロン?


 ところで、ご存知のように、テストステロンは、オリンピック競技でも、ドーピング問題にひもづけされて、たびたび話題にのぼります。


 男性だけではなく、女性の選手でも、テストステロンを補充することで活力が増し筋肉を増強できるということで、オリンピック競技大会では、公平さを保つために、競技前には血液検査をおこなって、禁止されている薬物を使用しているかどうかをたしかめるようになりました。


 検査がはじまったのは1968年のことですから、それからもうずいぶん年月がたちました。


 テストステロン値の測定もそのなかのひとつです。


 2004年からはトランスジェンダーの方で、①性別適合手術(性転換手術)を受けている、②法的に性別移行が完了している、③適切なホルモン治療を2年間以上受けている、という3つの条件を満たした方は参加できるようになっていたのですけれど、2015年以降は、たとえ性別適合手術を受けていない方でも参加できるようになりました。

 このことで、国際オリンピック委員会は、性の多様性について一歩をふみだしたとされて、高い評価を受けたらしいのですけれど、そのいっぽうで、競技の公平性については、とてもデリケートでむつかしい問題が生じてもいるようです。


 たとえば、どこからどうみても生物学的には男性にしか見えないようなムキムキ筋肉マンの選手が、小柄で細身の女性選手たちのなかにまじっているのを見たら、彼女たちのご両親やコーチたちが眉をひそめるのもしかたのないことかもしれません。


「どこからどう見てもオトコとしかおもえないあの選手が、歯をくいしばってここまでがんばってきたわが娘のとなりで女性として競技に参加できるのはおかしい」と。

つまり、みんなでフェアなゲームをしているときに、だれかひとりが〈チート行為〉をしているのと変わらない、とおもわれる可能性が出てくるのです。

 国際オリンピック競技大会ではありませんけれど、2022年3月には、米国の女性水泳競技大会で、じっさいにそういう問題がおこり、さまざまな論議がかわされて、TVニュースをにぎわせていました。


 セックスとジェンダーにかかわる問題のむつかしさがスポーツ競技の世界であらわになってきたのです。


 このような特殊(とくしゅ)な例もふくめて、選手の性別確認をするための方法につかわれているのが、テストステロンという性ホルモンの血中濃度であることは、みなさんご存知だとおもいます。


 そしてまた、このテストステロンやエストロゲンという性ホルモンは、わたしたちが第二次性徴をむかえたときに、声変わりをしたり、初潮がはじまったり、胸がふくらんできたり、ペニスが成熟したりと、体つきそのものにも変化をもたらすような、ようするに女の子と男の子の〈見てわかるちがい〉を作りだす引き金にもなっています。


あなたはシスジェンダー? トランスジェンダー? それともノンバイナリー?


 性のあり方についてのさまざまなカテゴリーが誤解をうんだり、わたしたちを混乱させるのは、さきほど説明させてもらった身体的性別(からだによって決められた性別)と性自認(こころが決めた性別)という考え方にくわえて性的指向(好きになる性別)とジェンダー表現(ふるまい方)いう考え方をも視野にいれなければいけないからです。

 つまり、その4つの関係を理解していないとわからなくなるほど、性の多様性を認める社会になってきた、と言えるのかもしれません。


〈身体的性別〉Sex とは、さきほど説明させてもらったとおり、出生時に診断されて戸籍に記載されている生物学的・身体的性別(セックス)のことで「からだによって決められた性別」のことです。


 これはみなさんの体の外がわと内がわの両方によって診断・判断することのできる性別です。

 つまり、女に生まれてきた・男に生まれてきた、ということです。


〈性自認〉Gender Identity とは、その生物学的・身体的性別とはかかわりなく『あなたはあなた自身の社会的・文化的につくりあげられた性別(ジェンダー)をどのようにとらえていますか』ということです。


 つまり、あなたはあなた自身を女性だと思っているのか、それとも男性だと思っているのか、もしくは、そのどちらにも当てはまらないものだと思っているのか、ということですから、別の言い方をすれば「こころが決めた性別」のことです。


 さて、ここまで読んでくださったら、〈トランスジェンダー〉と〈シスジェンダー〉それぞれがもっている考え方のちがいを、よりハッキリと理解していただくことができるかもしれません。


 まず、〈トランスジェンダー〉とは、出生時にあてがわれた戸籍上の性別は「女」だけれども、わたしは自分を「男性」だとおもっている、とか、出生時に「男」と診断されてはいるけれどもわたしはわたしのことを「女性」だとおもっている、というふうに身体的性別(セックス)と性自認(ジェンダー・アイデンティティ)が一致していない、しっくりこない、違和感をもっている、という方たちのことです。


 べつの言い方をしますと、男として生まれたけれど、ぼくは自分のことを女性だとおもっている、とか、女として生まれたけれど、わたしは自分を男性だとおもっている、という方たちがトランスジェンダーというカテゴリーに入ります。


 いつか性別適合手術を受けようとおもっている方も、また、将来にわたって手術をするつもりのない方も、両者をふくめてトランスジェンダーと呼びます。


 じっさいにホルモン療法や性的適合手術をのぞんでいる方たちはトランスセクシュアルと呼ばれています。


 では、出生時に「男」と診断されてご自身も「男性」だとおもっている方や、出生時に「女」と診断されてご自身も「女性」だとおもっている方はどうなのでしょうか。


 そういう方たちは〈シスジェンダー〉と呼ばれています。


 ちょっと待って、それって、つまり、「あたりまえ」ていうか「フツー」ていうか、ようするに「ノーマル」なひとたち全員のことじゃない?


 なぜ〈シスジェンダー〉なんてことばを使うの? 「フツーの人」で良いのじゃない?


 たしかに、そんな意見が出るのは、とうぜんかもしれません。


 多数派、つまり、大多数の方々の意見でしょうから。

 けれども〈トランスジェンダー〉にたいして、身体的性別と性自認が一致している人たちを「ノーマル」だと考えるとすれば、トランスジェンダーの方たちは「アブノーマル」な人たちであり「あたりまえではない」人たちであり「フツーではない」人たちだとみなす考えが生まれてくるかもしれません。

つまり、わたしは「ノーマル」だという考えをもっていると、知らず知らずのあいだに、あの人たちは「アブノーマル」だという差別意識がうまれる可能性が高くなるかもしれないのです。

 そのため、出生時の性別(セックス)と、自分が思うところの性別(ジェンダー)が一致している多数派の方たちを〈シスジェンダー〉と呼ぶようになりました。


 ただし、シス(cis-)というラテン語は「こちら側」という意味で、トランス(trans-)というラテン語は「むこう側」という意味をふくんでいますので、たしかに〈ノーマルvsアブノーマル〉にくらべると、いくぶん毒がうすめられてはいますけれど、まだ、なんとなく危なかしい印象があります。


〈性的指向〉Sexual Orientation とは、最初のふたつ、身体的性別と性自認(からだによって決められた性別とこころが決めた性別)とはかかわりなく、ただ「あなたはどんな性を好きになりますか」ということだけをさしていることばです。


 あなたの恋愛・性愛対象はどんな身体的性別と性自認をもっている人なのですか? ということです。


 別の言い方をすれば「好きになる性別」のことでしょうか。


 たとえば、女に生まれてきて自分を女性だとおもっているシスジェンダーの女性で、しかも異性である男性だけを好きになる女性はヘテロセクシュアル(異性愛者)と呼ばれています。


 つまり、彼女はシスジェンダー女性で、異性愛者(ヘテロセクシュアル)です。


 それでは、女に生まれ、自分を女性だとおもっていて、好きになる相手は同性の女性だけ、という女性はどうでしょう?


 彼女は、シスジェンダー女性で、同性愛者(レズビアン)です。

 では、男に生まれてきたけれども自分は自分を女性だとおもうので、すでに性別適合手術をうけて女性に限りなく近い体を得た。そして、好きになる相手はきまって女性だけだという方はどうでしょう?


 彼女はトランスジェンダーのなかでもトランスセクシュアルといわれるカテゴリーに入る女性でMtF(Male to Female:男から女へ)と呼ばれる同性愛者(レズビアン)です。


 さいごに、身体的性別と性自認がともに女性で、しかも、恋愛感情・性愛感情をいだく相手は女性と男性の両方だという人はどうなのでしょうか。


 この彼女はシスジェンダー女性で、両性愛者(バイセクシュアル)です。


 けれども、ここに述べさせてもらった例は、あくまでも好きになる相手の「性別」を意識している方々であって、「好きになる相手の性別は問わない」という〈パンセクシュアル〉の方はまた別のカテゴリーにはいります。


〈ジェンダー表現〉Gender Expression というのは、とてもわかりやすいものです。


 ある社会や文化圏で〈男らしさ・女らしさ〉とか〈男っぽさ・女っぽさ〉とされている服装や髪型、しぐさや物言いなど、外見にあらわれる性別(ジェンダー)のちがいを、自分はどのように表現したいかということをさしたことばです。


 つまり、わたしはわたしが考える女らしさ・男らしさを、もしくは男・女のどちらでもない「らしさ」を、外見にあらわれる服装や髪型やしぐさや物言いなどで、どんなふうに表現したいかということです。


 このように、現在、セクシュアリティの問題は、まるで迷路(ラビリンス)のように入り組んだものになってはいますけれど、大きなちがいを理解しておくだけでも、多様化した性のあり方をよりクリアに見分けることができるのではないかとおもいます。


まとめの時間になりました


 すこしずつですけれど、はじめに述べた「わかりにくさ」が、わたしにもわかるようになってきました。


 ところで〈ノンバイナリー〉は、いまのところ、「LGBTQ」のなかに、まだ、その「N」のイニシャルを見つけることはできません。


 ノンバイナリーの方たちは、女に生まれてきた、とか、男に生まれてきた、という身体的性別にはかかわりなく、自分はそれぞれの社会や文化圏によってつくられている女性・男性というジェンダーの二項対立には当てはまらないし、当てはめられたくない、という方たちのことです。


 つまり女性・男性という性別を意識した〈性自認〉そのものに否定的な方たちなのです。

 このノンバイナリーについてはまた別のエッセイでくわしく述べたいとおもいます。


 では、いままで説明させてもらったなかの、〈身体的性別〉と〈性自認〉と〈性的指向〉の3点について、おおまかにまとめさせてもらいます。


●性的少数派 Sexual Minority (日本では人口のおよそ3%から10%を占めているそうです)

クィア Queer


A: シスジェンダー Sex = Gender 性別にたいする意識がある

身体的性別(♀・♂)と性自認(女性・男性)が一致していること、そのことに違和感を抱かない人。

つまり、からだによって決められた性別(♀・♂)とこころが決めた性別(女性・男性)が一致していること、そのことに違和感を抱かない人。

↳女の体に生まれてきて自分でも自分を女性だと認めている。

↳男の体に生まれてきて自分でも自分を男性だと認めている。


①レズビアン(女性の同性愛者)➡︎女のからだに生まれて自分を女性だと認識しているシスジェンダーの女性に恋愛・性愛感情を抱くシスジェンダーの女性。

②ゲイ(男性の同性愛者)➡︎男のからだに生まれて自分を男性だと認識しているシスジェンダーの男性に恋愛・性愛感情を抱くシスジェンダーの男性。

③バイセクシュアル(両性愛者)➡︎女・男のからだに生まれて自分を女性・男性だと認識しているシスジェンダーの両性にたいして恋愛・性愛感情を抱くシスジェンダーの女性・男性。

④トランスヴェスタイトもしくはクロスドレッサー(異性装者)➡︎女・男のからだに生まれて自分を女性・男性だと認識しているシスジェンダーの女性・男性だけれども自分の性別とは異なる服装を身につける人。


B: トランスジェンダー Sex ≠ Gender 性別にたいする意識がある

身体的性別(♀・♂)と性自認(女性・男性)が一致していないこと、そのことに違和感をおぼえる人。

つまり、からだによって決められた性別(♀・♂)とこころが決めた性別(女性・男性)が一致していないこと、そのことに違和感をおぼえる人。あくまでも性自認がそうなのであって性別適合手術やホルモン療法を望んでいるかどうかとはかかわりがない。

↳女の体に生まれてきたけれど自分は自分を男性だとおもっている。

↳男の体に生まれてきたけれど自分は自分を女性だとおもっている。


トランスセクシュアル➡︎からだによって決められた性(身体的性別)とこころが決めた性(性自認)に違和感をおぼえていて、ホルモン療法や性別適合手術を受けることを望んでいる状態、もしくは、すでにそのような手術を受けた状態。


①FtM(Female to Male)➡︎女の体に生まれてきたけれども男性として生きることを望んでいる人。

②MtF(Male to Female)➡︎男の体に生まれてきたけれども女性として生きることを望んでいる人。


C: ノンバイナリー Sex ≠【Gender?】 性別と性別への意識そのものに否定的

女・男のからだに生まれてきたけれども、こころは女性・男性のどちらにも当てはまらないし当てはめられたくないという考えをさしています。

ただし、もちろん、からだによって決められた性は女か男かインターセックスの人たちです。

➡︎女・男に生まれたけれど、女性とも男性とも決められないので、〈性自認〉については態度を保留にしておきたいという立場。

➡︎自分は女性にも男性にも当てはまらないし当てはめられたくないし、そもそもそういう「女性か男性」という二項対立をつくりだした社会的・文化的・歴史的な見方と考え方(パラダイム)そのものを認めたくないという立場。

➡︎ただし、恋愛・性愛の対象はかならずしも同性ではなく、自分の身体的性にたいして異性の場合もあるという立場。なぜなら、自分の性別は決められないけれども、〈性自認〉と〈性的指向〉とは別物だから、という立場。

➡︎ですから、女に生まれてきたけれどもノンバイナリーを表明している方が、男性とつきあっているときには、性的多数派の異性愛者となんら変わらないように見えてしまうでしょう。つまり、言ってることは「ノンバイナリー」だけれども、生き方そのものは「性的マイノリティ」には入らないとおもわれる場合もあるかもしれません。


①デミジェンダー

女・男として生まれてきたけれども、自分のこころのなかのある一部は女性もしくは男性かもしれない、という性自認のこと。

↳デミガール:自分のなかの一部を女の子・女性とおもっている。

↳デミボーイ:自分のなかの一部を男の子・男性とおもっている。


②バイジェンダー

女・男に生まれてきたけれども、自分のこころは〈女性・男性・そのどちらでもない性〉すべてを同時にとりこんでいて、それがひとつにまとまったのが自分の性だとおもえるという性自認。


●性的多数派 Sexual Majority(日本の人口の90%から97%を占めているそうです)


ノンクィア Non-queer


女・男に生まれてきた自分が女性・男性であることに違和感をおぼえず、自分が属している社会と文化圏が認めている性的指向とジェンダー表現の主流(メインストリーム)のなかにいる人々のこと。

はじめに説明させてもらったとおり、次の方たちが「ノンクィア」です。

①異性愛者(このなかには異性に恋愛感情は抱くけれども性行為には興味がないというヘテロロマンティックの方もふくまれます:同性愛の関係にも使えるプラトニックラブとはちがいます)で、かつ ②シスジェンダー(女もしくは男に生まれて、しかも、自分が女性もしくは男性であるということになんの疑いも抱いていない方)で、しかも ③一夫一妻主義の方たちのこと。



性的少数派が少数派なのはなぜ?


 性的マイノリティ(少数派)について調べていくと、多様化する性のあり方や、いままでご説明してきたさまざまなカテゴリーを目にされるでしょうし、ここでは取りあげられていませんけれど、社会のなかにおける性的多数派の方々の無理解からうまれるさまざまな差別にたいする問題点などがあげられているとおもいます。


 それにしても、なぜ、みずからを「クィア」(ちょっと変な人)と呼び、なぜ世間からも「なんとなくおかしい人」とおもわれているのでしょうか?


 なぜ性的マイノリティは差別の対象になったりするのでしょうか?

 その、いちばんかんじんな質問が、「性的マイノリティ」について語るときには、たいてい取り上げられていません。


 あまりにも「あたりまえ」で「とうぜん」の答えが待っているからです。


 わたしはバイセクシュアルで、子供を産まなかった女ですから、その答えはすぐに見つかります。

わたしたち性的少数派が少数派なのは、ヒトの生殖活動に参加していないからです。

 つまり、自分と同じ種をふやすという、ほとんどすべての動物に見られる活動、「子を産んで親となる」という活動に参加していないからです。


 そのことに無関係な生き方を選んでいるからです。


 性的マジョリティ(多数派)の方々は、女・男に生まれて、自分が女性・男性であることにはなんの違和感もおぼえず、そういう自分が異性を好きになって結婚して子供を産むのはこの社会ではあたりまえでとうぜんのことだ、と考えておられます。


 その根っこには種の保存をささえる生殖活動があって、そこから婚姻制度ができあがり、家族や親族や血族という考えから生まれてくる家父長制度や遺産相続にかんする法律などもつくられてきたのでしょう。


 この社会をかたちづくっている考え方や枠組みの、そのいちばん奥にある骨格の部分は、この生殖活動というものがなくては成り立たないとおもいます。


 そもそも、性的マイノリティといわれる、たとえばレズビアンやゲイやバイセクシュアルやトランスジェンダーの方々にしても、性的多数派でヘテロセクシュアル(異性愛者)の方から生まれてきたはずですし、そういう多数派がいるからこそ、レズビアンの女の子やゲイの男の子やバイセクシュアルの男女やトランスジェンダーの子がこの世には生まれてきて、わたしたち性的マイノリティの恋愛・性愛対象になってくれるのですから。


 もちろん人工授精という手段はありますけれど、やはり、その、いちばんかんじんな「仲間をふやす」という活動に、あまり貢献をしていないということはたしかなのです。


 そして、このあたりの事情が、かなり「ビミョーでデリケートな問題」(sensitive problem)を投げかける原因になっているのかもしれません。


みんなと同じじゃない人は〈おかしな〉人?


 ところで、子供のとき、小学校で、ある女先生からこんなことを教わりました。


 箱のなかに100個の〈みかん〉があって、あなたはそのなかのひとつだと言われたとき、あなたはみんなとおなじ〈みかん〉であるということに疑いを抱いたり悩んだりはしないかもしれませんけれど、自分が〈みかん〉であるとはどういうことなのか、〈みかん〉の特徴とはどういうものなのかは、〈りんご〉がまざることではじめてわかるのですよ、と。


 それと同じように、〈りんご〉も、もちろん〈みかん〉に出会って、はじめて自分が〈りんご〉だということがわかるのです。


 もし〈みかん〉が98個で〈りんご〉が2個しかないときに、〈りんご〉は色も形も味もちがうからフツーじゃない、〈りんご〉はなにがなんでも〈みかん〉にならなければいけない、とは言えません。


 なぜなら、木になったときから〈みかん〉は〈みかん〉だし、〈りんご〉は〈りんご〉なのですから、どんなにがんばっても〈みかん〉は〈りんご〉になれないし、〈りんご〉は〈みかん〉になれないからです。


 しかも〈みかん〉とはどういうものなのかを〈りんご〉は教えてくれるし、〈りんご〉とはどういうものなのかは〈みかん〉が教えてくれるのですから、とてもありがたいことですし、おたがいに感謝しなければいけません。


 ふたつは、たんに〈ちがう〉だけで、その箱のなかで数が多いからといってフツーで正しいとか、数がすくないからといって〈りんご〉はフツーじゃないとかまちがっているとは言えません。


 もし、反対に、みなさんが98個の〈りんご〉が入っている箱のなかの、たった2個の〈みかん〉のひとつだったらどうでしょうか?


 それぞれ異なる色と形と味をもっている〈みかん〉と〈りんご〉があるからこそ、みなさんもふたつのちがう味を楽しむことができるのですから、とてもありがたいことだと思いませんか?

 たしか小学校の高学年だったとおもいますけれど、あのときの女先生のお話は、いまだにおぼえています。

みんなが同じで似た者同士の集団のなかにいるときには、自分たちがどういう者なのかほんとうはわかっていないし見えていない。でも、その集団に〈異種の者〉がはいってきたとき、はじめて、自分たちがどういう者なのかがあらわになって見えてくる、という寓話(アレゴリー)だったのでしょう。

 いまふりかえってみると、あのときの先生は、もちろん、いまの世の中で話題になっている性的マイノリティについて語っていたわけではありません。


 なにしろ20世紀半ばすぎのことでしたし、太平洋戦争が終わってからまだ20年もたっていないときだったのですから。


 いま青春を生きておられる若い方たちからすると、みなさんが生まれる半世紀近くも前の出来事ですものね。


 きっと、先生は、ご自身が幼いころに味わった戦争というものが、どのように国の骨格と人々の考え方を変えてしまうのか、そのことについて、わたしたちになにかを伝えようとしていたのだと、この年齢になって、ようやくわかりかけてきました。


 そして、この『性的マイノリティと多様化する性のあり方』を書きながら、ふいにあの日の授業を思い出したことを、とてもうれしくおもいました。







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