【サンフランシスコ】OLの不倫事情
- 香月葉子
- 5月5日
- 読了時間: 9分
更新日:6 日前
彼女は同じアパートメントに住んでいた。
バークレーのドワイト通りの角にあるアール・デコ風のアパートだった。
1階と2階にはそれぞれ4部屋があり、地下には留守番電話取次業の事務所があった。
彼女の名前はスーザン。
わたしよりおそらく5歳くらいは年上の白人の女性だった。
ロングヘアーで女性から見てもかなり魅力的だった。
アパートの玄関で、ちょうど愛犬を連れて散歩からもどってきた彼女と遭遇すると、たいてい声をかけてくれた。

あの日はたしか土曜日の昼下がりで、わたしがはじめて犬の名前をたずねた時だった。茶色のロングヘアーの犬はリトリーバーより太めで大きく、顔はパンダのようだった。
『ジェダイ』と聞こえたので、『スターウォーズの?』と聞き返すと彼女はうなずいた。
「ということは、すごいフォースの持ち主なのね」とわたしが言うと「でも、この子は声が出せないけど」と意味深なことを言った。
そのことでわたしが怪訝な顔をしたせいかもしれないが、彼女は「わたしの部屋でお茶を飲んで行かない?」と誘ってくれた。

彼女はサンフランシスコにある建築設計事務所に勤めていて、毎日ベイエリアの4郡をつないでいる高速鉄道BARTで通勤していると教えてくれた。
そして留守のあいだアパートメントの部屋を守ってくれているのがこのパンダ顔のジェダイなのだそうだ。
以前は保護犬だったという。
『声が出せない』理由は、施設から引き取った時には、前のオーナーによってすでに声帯を除去されていたからなのだそうだ。
つまり、手術後、ジェダイは無言犬になったのだ。
そのことで心が痛んだせいと、この愛嬌のある顔が気に入って、前の夫と暮らしていた家にジェダイを迎え入れたのだが、その後スーザンは夫と別居することになり、けっきょく彼女が犬を引き取ることになった。
このアパートに入居できたのもジェダイが声が出せなかったおかげらしい。
「どうして?」とたずねると彼女は皮肉っぽく笑った。
「ペットがいるのがバレちゃうでしょ? 特に犬は吠えるのがお仕事だから」
「このアパートはペット禁止なの? ぜんぜん知らなかった。わたし猫を飼ってるのに」
「心配しなくても大丈夫よ。わたしを除いて、ここのアパートの住民はほとんど全員猫を内緒で飼ってるから」
「そうだったの?」
「みぃ~んな内緒で飼ってるわよ。猫は静かだしね。特に去勢手術を施されてる猫はそうだものね」
「でも、大丈夫かなぁ。わたし追い出されたくないわ」
「ここを管理してる不動産屋さんのおばあちゃんはゆる~い人だし、たまに建物のメンテにやってくるジェスも見て見ぬふりだからだいじょうぶ」
「そういえば、このあいだジェスがキッチン下のパイプ修理に来てくれたんだけど、わたしの猫が彼にすり寄っていったら慣れた手つきで撫でてたわ。彼も猫好きだったのね」
そんな話をしているうちに電話が鳴りはじめ、スーザンの顔が曇った。「ちょっとごめんね」と断ったあと彼女は受話器をとった。

短く受け答えをしたあと彼女は受話器を置いて「困ったものだわ」とため息をついたので、わたしは「そろそろおいとましようかな」と帰ろうとしたところ「ダメよ。せっかくだからまだいてちょうだい。それとも誰かと約束でもあるの?」と懇願するかのようにわたしを引き留めた。
そのときのまなざしにはすこし不安そうな翳りが見えた。
わたしがジェダイの背中に手をのばしかけたところに、また電話が鳴りはじめた。
とたんにジェダイは口をあけ、小さなかすれた声を発した。吠えているつもりなのだろう。もしかしたら飼い主であるスーザンの心模様を察していたのかもしれない。
スーザンはうんざりした顔つきで受話器へ手をのばしたあと、苛立った態度でそのコードを指にまきつけながら見えない相手にうなずいていた。
さきほどかけてきた相手と同一人物のようだった。
スーザンの受け答えから察したところ相手はどうも女性らしい。
「いいえ、彼はここにはいません。わたしといま一緒にいるのは女友達のYokoだけです。そんなに疑うのでしたら彼女に電話口に出てもらいましょうか?」とさらに苛立った口調で言ったあと、わたしにすばやくあるセリフを耳打ちして、「ごめんね。お願いだから」と押しつけるように受話器をこちらに手渡した。
わたしは見知らぬ相手にいま教えられた通りのセリフを言い、昨夜からスーザンとずっと一緒に過ごしていると嘘をついた。
とたんに相手は電話を切ったのだ。ガチャッという乱暴な音が聞こえたくらいの切り方だった。
スーザンはわたしの目を見つめてしきりに謝った。
電話をかけてきたのは彼女が働いている建築設計事務所のボスの奥さんなのだそうだ。
自分の夫がスーザンと浮気をしているのだと思い込んでいるらしい。

「ほんとにそうなの?」とわたし。
「じつはね、昨日の夜、彼から『食事につきあってくれ』と頼まれたの。でね、サンフランシスコのイタリアンレストランで食事をしたの。ただ、それだけのことよ。実は、その前の週末にも誘われて食事につき合ったことは確かだけど。だって、相手は事務所のボスでしょ? 断れないわよ」
「おつきあい、大変ね」
「もともと事務所の同僚たちは既婚者も含めて、お互いそれぞれみんな肉体関係があるし。ま、実社会に出て、オフィスに入ったら、こういうのは、ほとんど当たり前のことだから」
わたしは驚きのあまり言葉をうしなっていた。
彼女があまりにも淡々と、まるでそういう不倫行為のほうがより正常なのだと言わんばかりの口調で語ったからだろう。

「だったら…スーザン、あなたもみんなと?」
「まあね。まだ女同士は経験ないけど。事務所のだれがだれとこの週末にファックしてるかを図に描いたらかなり複雑なものになると思うわ」
「そうなの? でも…あなたのボスとは、ほんとうに食事だけだったんでしょ?」
「嘘じゃないわよ。世間話とか、わたしの家族の話とか、ま、いろいろ聞いてくれたわ」
「きっと、スーザンは気に入られてるのね」
「そういうわけでもないと思うけど。そのくせホテルに行きたいわけでもなかったみたいだし」
「だったら時間外のミーティングみたいなものね」
そんな話をしているうちに、また電話が鳴り始めた。
ジェダイはきちんと「おすわり」して、その独特なパンダ顔でじっと飼い主の顔をうかがっている。
今回はボスの奥さんとは別の人からの電話らしかった。
先方が一方的に話しているようすだ。
彼女はなにかについての同意を求められているようで、ついさきほどまでとは打って変わったように「はい…はい」と従順そうな声色でうなずいていた。
そして「はい、そのようにします」という言葉をつぶやいたあと受話器を下ろした。
そのまましばらくぼんやりと白昼夢を見ているような横顔をしていたが、ふいに好奇心と不安の挟み撃ちにあっていたわたしに気がついたらしく、思い返したように皮肉っぽい笑みをよこして肩をすくめてみせた。
「いまの電話、ボスからだったの。今度、彼の奥さんが電話をかけてきたら、昨夜は彼と一緒に過ごしたって言って欲しいらしいのよね」
「ええっ?」
「わたしもよくわからないんだけど、けっきょくまた嘘をつかなきゃいけなくなったってこと。もちろん、ボーナスをはずんでくれるらしいから、ま、いいかなって感じ。きっと、だれか本命の女がいるのか、ほかにも隠さなきゃいけないようなことがあるのか…ま、そういうことじゃない?」
スーザンが電話の内容を事細かに報告してくれるのも、そうやって話すことで何かしらの不安を消したかったのかもしれないし、またわたしが外国人で部外者であるせいだったのかもしれない。
すくなくともわたしが彼女に必要とされていることだけは確かなようだ。
「じつは彼の奥さんのお父さまがこの事務所の創設者だったのよ。もう亡くなってずいぶんになるけど。あのね、ボスの奥さんは一人娘なの。だから誰か優秀な男を娘の婿にして会社を継がせようと考えてたと思う。そういう気持ちは理解できるわ。で、いまのボスに白羽の矢があたったってわけ。わかるでしょ? 彼らの息子さんはいま東部の大学にいるって聞いたわ。ボスに似ていてハンサムよ」
「会ったことあるの?」
「彼のデスクには家族の写真が置かれてるから」
そんな会話をしているうちにジェダイは身を起こして部屋のなかを歩きはじめていた。ハードウッドフロアなので犬の爪はカチカチと音を立てていた。
「お腹が空いたの、ジェダイ?」
スーザンがキッチンへ向かうとパンダ顔の犬は尻尾をふりながら彼女についていった。
そのときふたたび電話が鳴ったので、わたしはその音に驚いてビクッと肩をふるわせたと思う。
スーザンはあわててキッチンからもどってきたが、そのくせ、十数回呼び出し音が続いても受話器をとらなかった。
もしくは取ることを躊躇しているかのような緊張が伝わってきた。
予想通りボスの奥さんからの電話だった。
スーザンは何度も謝罪していた。そしてボスから頼まれていたセリフを言った。つまり電話をかけてきた女性の夫とサンフランシスコで一夜を過ごしたという内容だった。
いま思い出しても、その瞬間のわたしは両手で耳をふさいで目を閉じてしまいたかった。
ところが、おそるおそるスーザンの横顔に目をやると、その表情は拍子抜けしたようにゆるんでいたのだ。
「だいじょうぶ?」とわたし。
「なにもかも変なのよ。びっくりしたわ。なんだかキツネにつままれたみたい。わたしが奥さんになんて言ったか聞いてたでしょ? 『じつは昨日あなたの旦那さまといっしょに夜を過ごしました』ってセリフ、聞いてくれてたでしょ? 言いながら心臓が止まりそうだった。ところがね、ボスの奥さんったら、とつぜん嬉しそうな声をして、こんなことを言うのよ。『ありがとう。それが真実だったのね。あなたが一緒だったのね。一夜を過ごした相手はアンソニーじゃなかったのね、ほんとうにあなただったのね』だって。そう言って電話を切ったの。わたし、頭が真っ白になっちゃったわ。あのね、アンソニーって、つい数ヶ月前から事務所で働きはじめた新入りなの。まだ20代半ばくらいの青年で」
「わたし頭が混乱してるんだけど」
「ようするに、わたしたちのボスはゲイかもしれないって噂は、本当だったみたいなの。わたしと食事したあとアンソニーと忍び逢いを楽しんだのにちがいないわ、きっと」

「奥さんにとっては旦那さんの不倫の相手が女性よりも男性の方が痛いってことなのね?」
すると彼女は頬を紅潮させながら言った。
「とうぜんでしょ。HIV(ヒト免疫不全ウイルス)のこともあるし。不安にならないほうがおかしいかもしれない。とにかく無事に解決して良かったわ。なにが解決したかよくわかんないけど」
「わたしも」
「ただ、奥さんがなんども確認の電話をかけてきた理由だけはわかった気がするわ」
スーザンとはこの事件のおかげで、レコードを貸しあったり、得意料理のお裾分けをしあったりする仲になったが、その日から半年ほどして、彼女は事務所をやめることになり、ジェダイと共に引っ越していった。
わたしに慣れていただけに、さりげなくふりむいてはこちらを見つめるパンダ顔の犬の後ろ姿が忘れられない。
犬は何度か口をあけて吠えたつもりなのだろうが声は出なかった。

1984年 秋 / バークレー
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