【シカゴ】カフェラテと魔法の力が欲しくなるシカゴの極寒
- 香月葉子
- 8月25日
- 読了時間: 10分
更新日:11 時間前
いまカフェの小ぶりな丸テーブルをはさんで向かいあっているアジア系の若い女性は、わたしにとっては見ず知らずの人だったが、彼女はなぜかわたしの名前を知っていると言い、そのことばでわたしの警戒心はみるみるマックスに近づいていた。
彼女はこのカフェに入ってくるなり、深茶色のロングヘアをかきあげながら、コートも脱がずに大股でこちらへ近づいてきて、強引にもわたしが陣取っていたちいさな丸テーブルに腰かけたのだ。
シカゴのダウンタウンを南北に走る北ディアボーン通りにある東京銀行で小切手を現金に換えたあとのことだった。
シカゴの川沿いに立ち並ぶ重厚な高層ビル街をカミソリのような北風が吹き抜けていた。
通りの電光温度計へ目をやると華氏5度(摂氏マイナス15度)で、まさに冷凍庫の中にいるようだ。

にもかかわらず、こんな北風の強い日に、シカゴ大学のあるハイドパークから、このダウンタウンまで出かけてきて、しかも緒斗と以前に利用したことのあるイタリアンカフェに逃げこんだ自分を呪った。
時間を巻きもどすことのできる魔法の力が欲しい、と夢に見ていた。
そんな気分のところへこの女性があらわれたのだ。
可愛い、というよりは彫りの深いキリッとした印象で、全体的にエキゾティックな雰囲気につつまれていた。
✣
「YOKOでしょ? まちがいなくYOKOだよね」
すこしクセのある英語だったが、カジュアルな口調でそうたずねたあと、彼女はテーブルに肘をついて自信ありげにわたしを見つめてきた。
黒い大きな瞳だ。
わたしは無言のままうなずきもしなかったけれども、見知らぬ人からいきなり自分の名前で呼びかけられ、表情は石膏像のように固まっていたのにちがいない。
そのわたしの反応を目にして彼女はさらに確信を強めたようすだ。
そこへ注文していたカフェオレをウエイトレスが持ってきた。すると、そのアジア系の女性は物怖じすることもなく「美味しそうね。わたしもカフェオレにしようかな」とウエイトレスに同じものを注文した。

わたしは相手の目を見つめて、彼女を刺激しないように、できるかぎり穏やかな小声で告げることにした。
「ごめんなさい。でも、わたし、あなたのこと知らないし、同席を強いられるのは困るんです。ひとりになりたいと思ってたところなので。席は他にも空いてるし、おねがいします」
「あぁ、やっぱりYOKOだわ。その声、やっぱり、そうよ。間違いないわよ」
「わたし日本人だし、YOKOて名前は多いんです。ほかの誰かと勘違いしてるんじゃないんですか?」
「ううん、ぜったいにまちがいない。ワン・ハンドレッド・パーセント確信があるわ」
「でも、わたし、あなたのこと、まったく記憶にないんだけど」
「うん、それもわかるな。たぶん思い出せないと思う。思い出せるはずないもの」
「え? どういうことですか? わたしをからかってるの?」
すでにわたしの警戒心は頂点に達していたはずだ。
相手はどこでどんな方法でわたしのことを知ったのだろう。
「たぶん今のわたしを見ても思い出せるわけないでしょうね。たとえ名前を教えても無駄だと思う。さっき東京銀行から出てきたあなたと一瞬すれちがって『あれ、まさか、いまのYOKOじゃない? いや、YOKOにちがいない』って思ったんだけど、でも、そこで、声をかける勇気がなかったのよ。ただ、後ろ姿を見ても、やっぱりあなたに間違いないって思ってたし、いつ声をかけようかと思って悩みながらあとをつけてたの。こんな偶然は2度とありえないと思った。そして話しかけるチャンスをうかがってるうちに、いつのまにかこのカフェに入ってたってわけ」
✣
わたしは以前、東京の大学に通っていたころ、男性のストーカーに苦しめられたことがあった。彼は同じクラスで同じ授業を受けていたらしいが、わたしのほうはその記憶すらなかった。そもそも、その男性とは視線を交わしたこともなければことばを交わしたこともなかったからだ。にもかかわらず彼はわたしを『自分の女』だとおもいこんでいたらしく、そのためにわたしは卒業式に出席できなくなり、その上、父が弁護士を呼ばなければいけないような事件にまで発展したことがある。

そのことを思い出して言いようのない不安に襲われていたわたしは、目の前の女性にカフェオレをもってきたウエイトレスを見上げて、わたしだけ席を移ってもいいかと尋ねてみた。
ウエイトレスは探るような目を向けることもなく「どうぞ」と言った。
ところが、バッグに手をのばして席を立とうとしたわたしの手の甲に、とつぜん彼女が自分の手のひらをかさねたのだ。
びっくりした。
びっくりしたのは手のひらを重ねられたことだけではなくて、その指の長さと細さとマニキュアの美しさだった。
「お願い、ちょっと待ってYOKO。ね、サンフランシスコの夜、思い出して」
「サンフランシスコの夜?」
「あれからもう3年半は経つかな。たしか…ジェシカだったっけ…あなたの友だち。わたしたち3人でカストロストリートへ遊びに行ったでしょ?」
「ジェシカ? えっ?」
「そうよ。あなたとジェシカよ。仲が良かったじゃない」

サンフランシスコのカストロ地区には世界的に知れわたっているゲイ・レズビアン街がある。
女友だちだけではなく緒斗もひっぱって何度か行ったことがある。
けれどもいま目の前にいる女性とは遊びに行ったおぼえがなかった。
わたしはだれかと会ったのが一度っきりだったとしても、数時間をいっしょにすごした人の顔ははっきりと記憶していて、数年後にどこか別の街ですれちがったとしても、とつぜん声をかけてその人をおどろかせることがあった。
過去にそういうエピソードはいくつか持っていて、そのことに関しては両親だけではなく緒斗ですらもが「気持ち悪い」と眉をひそめるほどだった。
心理学者にいわせると『顔認識能力』(Face Recognition Ability)が高いのだそうだが、スパイにでもならないかぎりそれでなにか得をすることもないような気がしていた。
「ジェシカっていう名前も日本人のYOKOと同じくアメリカには多いし。わたしが知っているジェシカとあなたが言っているジェシカはちがう人だとおもいます」
「どうしよう。なにから説明したらいいのかわからない」
そうつぶやいて彼女は苦しそうな表情を向けた。
それがさらにわたしを怖がらせたのだ。
もしかしたら精神を病んでいる女性なのかもしれない。
「バークレーの心理学科に通っていたジェシカよ。忘れもしないあの夜よ。ほら、マーケットストリートに車を停めて、色々お店を探索したあと、イタリアンカフェでエスプレッソを飲んで、車を止めてたはずのところにもどったら車がなくなってたんだよね。駐車違反でレッカー移動されてて。だから3人で警察に行って、それから保管所に受け取りに行ったじゃない。たしか250ドルも支払ったんだよね。わたしの車なのに、あなたもジェシカも割り勘して助けてくれて、本当にうれしかったし、ありがたかった」
わたしの頭は完璧なフリーズを起こしていた。
あのサンフランシスコの夜に一緒だったのはジェシカとわたしと男友だちのBEAU(ボウ)だけだった。
フランス語でBEAUは『美しい・ハンサム』という意味で、赤ん坊のころから彼はそういう男の子だったのかもしれないとおもっていた。
ボウはインドネシアから来ていた留学生だ。
✣
「ね、思い出してくれた?」
わたしは目の前のロングヘアーのアジア系の彼女をまじまじと見つめた。
「もしかして、あなた、BEAUなの?」
彼女はすばやくうなずいた。そのまま嬉しそうになんどか首を縦にふりつづけた。
インドネシア系の彼女の手に目をおとすと、その指はやはり細く長く、あの時とまったく変わらない。
「やっとわかったわね」とすこし男っぽい声で笑った。
「なによ、ボウ。最初からその声で話しかけてくれたら良かったのに」
「それはいまだから言えることでしょ。もっときつそうな疑いの目で見られたとおもうわ」
✣
バークレーで暮らしていたあのころ、ジェシカとわたしに会うたびに、彼はわたしたちの仕草を動物行動学者のように観察していた。
そのことにジェシカとわたしは気がついていたが、それほど気にはかけていなかった。
もともとボウは歩き方や笑い方も女性のようだった。
いや、リアルな女というよりも、映画やアニメのなかに登場する女のイメージそのもののように大げさな女っぽさを表現していたとおもう。気色の悪い話を耳にしたときなど「ヤダぁ」と眉をしかめ唇をゆがめるだけではなく、自分の華奢な肩を抱きしめて体全体で嫌悪感を表現したし、歩くときには、それがたとえ自分のアパートのなかでだったとしても、まるで男性たちに見られているかのようにさりげなくお尻をふって歩くのだった。
だからボウと一緒にすごしているときは、まるで女3人といるようで気楽だったし、ふたりきりでいても緊張させられるようなことは起こらなかった。
そんなボウがわたしたちの唇のゆがめ方や肩のすくめ方や指の使い方などをその場で真似ることがあって、逆にそれまで意識していなかった自分の所作に気づかされることもあった。
わたしのアパートに遊びにきた彼はいつも『ヴォーグ』や『エル』などの女性月刊誌を見たがったので、彼に何度か雑誌を貸したこともあった。

彼はスーパーモデルの顔だけではなくてモデルたちの表情のつけかたに関しても好き嫌いがはっきりしていた。また、雑誌のページをくりながら、気に入った広告のキャッチーコピーを復唱しては、その一文に評価を下すのを好んだ。そしてさまざまな広告写真とキャッチーコピーを指さしながら、それらにたいするわたしの意見を聞きたがるのだった。
✣
そんなことを思い出しながら、わたしはもういちど目の前に腰かけている女性を見つめた。
薄茶色に日焼けしたような肌の色は変わりなかったが、こちらの想像をはるかに飛び越えてしまうほどの変化に、胸のなかの汚れがすっかり消えてなくなるような開放感すら与えられた。
鼻の形はまるで違っていたし、顎も削ったらしく、ずいぶん小顔になっていた。
「見ての通り、工事は完成してるのよ。現代の魔法の力のおかげだわ」
「うん、魅力的になったとおもう」
「バークレーを卒業する直前に父親が死んで、お金が入ったのよ。ひとりっ子だったから母親とふたりで相続したんだけど、かなりの額を残してくれてたの。母親は猛反対したけど、この時しかないと思って、たくさんのステージを踏んでひとつずつ手術していったの。おかげでほとんどお金はなくなっちゃったけど、もう、最高に幸せ。去年の秋まではミシガン州にいる親戚が経営していた会社で働いてたのよ。ミシガン州はわたしみたいに性別適合手術をほどこした人間の権利をいち早く認めてくれてたからありがたかったけど、職場でちょっと面倒なことが起きちゃったの。ようするに、なんていうか、わたしの好みじゃない男性から言い寄られて困ったことになっちゃって。で、バークレーを卒業した女友だちのもっていたコネを使って、いまはシカゴの広告代理店に勤めてるの」
「ファッション関係?」
「ううん、ま、いろいろよ。スーパーの宣伝とか。いまはデパートメントストアから依頼されるカタログ関係の仕事が多いかな」
「そのうち、ね」
「うん、そのうち。あ、大変だわ。ランチ・ブレークだったんだけど、急いで戻らなくちゃ」
彼女は席を立ちながら早口に言った。声はすこしハスキーがかった落ち着いた感じの女性のものだった。
「あ~あ、お腹ぺこぺこなのに、ボスに叱られるわ。あ、そうそう、緒斗は元気? わたしね、好きな人ができたのに打ちあけられなくて困ってるのよ。ホントに結婚したいし、今度、緒斗に相談に乗って欲しいわ」
『ボウ』から『ステファニー』という名に変わった彼女は、自分の電話番号を書いたメモを置き、わたしにドル札をにぎらせたあと、まだかなり残っているカフェラテのコップをあとにして、あわただしく店を出ていった。

ハイヒールを履いた後ろ姿からは女性であることを満喫しているかのような雰囲気が伝わってきた。
ふだんからウオーキングレッスンで鍛えているのではないかとおもえるような美しい力強い歩き方だ。
そんな彼女の後ろ姿を目で追いかけているうちに、横殴りの雪にかすんだシカゴの高層ビル群のすきまから、ほんの一瞬ではあるけれども、バークレー時代を思い出させるカリフォルニアの深い青空がひろがったように感じて、わたしはおもわず声にならない声をもらしていた。
1988年 冬 / シカゴ
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