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【バークレー】クリスマスに犬がやってきた

  • 執筆者の写真: 香月葉子
    香月葉子
  • 4 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:2 日前



 考えごとをしながらうつむきかげんに歩いていたと思う。危うく白い犬に正面衝突しそうになった。犬が地面からふいに現れたような錯覚をおぼえて一瞬めまいを感じた。

 母の誕生日がクリスマスイヴだったので、グリーティングカードをテレグラフ通りにある郵便ポストに投函した後、アパートまでのゆるやかな長い坂道を下っていたときのことだ。

 犬はスピッツで、クリスマスまでにはまだ日があるのに、その頭には三角帽をかぶせられていた。

 首輪はなかった。独り歩きをしていた犬なのだろうか。

 その白い中型犬は立ちどまってこちらを見あげていた。

 その犬と目が合ったときからわたしは動けなくなっていた。

 その瞳がわたしをとらえて離さなかったのだ。

 犬を見つめ返しているうちに、ある記憶がよみがえってきた。


prompt by Kazuki Yoko | generated by Diffusion Bee
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 小学2年生のクリスマスイヴだった。

 冬休みに入るので、うれしい気持ちで学校から帰ってくると、庭の犬小屋にいるはずの愛犬のスピッツがいなかった。

 母に尋ねると、父が『あの犬は吠えないから番犬にはならない。この家には必要ない』と言って、その日の朝に父の友人宅に届けたというのだ。友人の息子さんが、犬を欲しがっていたから、ちょうどいいクリスマスプレゼントになっただろうということだった。

 わたしはあまりのショックでワッと泣きだした。


 何匹も犬を飼っているような犬好きの伯父から生後3ヶ月でもらってきたスピッツだったが、1歳の成犬になっても吠えなかった。

 散歩で他の犬と遭遇しても、吠えることはなかった。

 人懐っこい性格だったのかもしれない。

 けれどもそれが父にとっては一番の問題で、彼にしてみれば『役立たずの犬』だったのだ。

 ときおり父が犬に向かって「おまえは、吠えることができないのか?」と問いただしているのを見たことがあるが、母はたいてい「おっとりした性格なんでしょう。吠えるのが好きではないのかもしれませんよ」と父をいなしていた。

「どうしようもない奴だな、おまえは」

 父は吠える犬を望んでいたのだ。


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 可愛がっていた犬と無下にひきはなされたわたしはシクシク泣きつづけていたのを憶えている。

 夕食時には父と母の顔が鬼に見えていた。

 親の仕打ちに打ちのめされ、食事を喉に通すことさえできなくなった。

 わたしの気持ちを無視した両親に腹を立てていた。いや、憎かった。

 父はいつもとおなじ顔つきだった。母はわたしと目を合わさなかった。


 そんな数日間を過ごしたあとだった。

 家に赤犬がやってきた。

 塞ぎ込んだわたしを見かねたのか、高校生だった姉が、犬好きの伯父の家からもらってきてくれたのだ。

 姉は塾をサボり、バスにも乗らずに4キロの道のりを往復し、生後4ヶ月の赤い柴犬を抱いて帰ってきたのだった。

 姉は怒られると思ったのか生真面目な表情をくずさなかった。「疲れた」とも言わなかった。

 両親は彼女を叱るどころか、ただただおどろいていた。


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 ふわふわの白い毛のスピッツと違って、赤茶色の犬はショートヘアで大きめの耳がピンと立っていて、スレンダーな体軀だった。

 姉の胸から下ろされると、その犬はわたしを見つめて吠えた。

 きっと水を欲しがって吠えているのだと直感的に理解したので、水を用意すると、赤犬はいそがしく尻尾をふりながら飲みはじめた。

 飲み終えるとわたしのふくらはぎに胴体をすりつけてきた。

 突然の出会いだったが、犬の反応にうれしくなったことを記憶している。

 父は「いい犬だ。これこそ犬だ」と言ってわたしの肩をたたいた。


 とにかく吠えて、要求をする犬だった。それに応えてやると、必ず、わたしの顔や手を舐め、体をすり寄せてきた。散歩も餌やりもすべてがわたしの日課となった。そのうちスピッツの思い出は私の頭から消えていった。


 赤犬が家にやってきて2年が経った頃だったか、港町だったので、外国の貨物船が停泊する岸壁まで散歩することがあった。

 赤犬は岸壁の直線コースを走るのが好きだった。リードを持ったまま赤犬の思うがままに走らせるのは大変だったが、赤犬は嬉しそうだった。

 犬に引っ張られながら走っているとき、3人の大人の男性に行手を阻まれたことがあった。

 赤犬が彼らに向かって挑みかかるように吠えはじめたのでわたしはなだめるのに一所懸命だったとおもう。

 そのとき彼らのうちのひとりが「美味そうな赤犬だな」と言ったのだ。

 わたしは自分の「愛犬」に対して「おいしそうな」と言われたのが理解できなかったが、彼らはお互いに顔を見合わせながら赤犬に向かってしきりにあごをしゃくりはじめた。

 なにかの合図に見えたのでわたしは恐怖に陥った。

 愛犬を奪われるのではないかと感じたのにちがいない。

 わたしは犬の名を呼び、リードをおもいきり手前に引き寄せて方向転換させると、もとの道を駆け足でもどっていった。

 なにも考えず、うしろを振り返ることもせず、思い切り、ときには赤犬を追いこすほど、ひたすら走りつづけた。



 家にもどり、母にその出来事を話した。

「岸壁は危ないから行ってはダメよ。いつもそう言ってるでしょ?」

「おいしそうな犬だって」

「犬を食べる国の人もいるし、猫を食べる国の人もいるし、ウサギや鹿を食用にしてる人たちもいるのよ。あなたやおかあさんも牛や豚を食べるでしょ? 伯父さんは戦争中、南方で、蛇や猿を食べたそうよ。だって、食べるものがなければ仕方ないでしょ」

 わたしは一瞬身を引いたが、そばでお座りをしている愛犬に向かって言った。

「おまえ、おいしそうな犬なんだって」

 愛犬は、わん、とひと声あげ、うれしそうに尻尾をふった。


赤い柴犬 (https://mofmo.jp/article/22347 さんのウェブサイトより)
赤い柴犬 (https://mofmo.jp/article/22347 さんのウェブサイトより)



  1984年 冬 / バークレー




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