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サンフランシスコのレズビアン&ゲイ事情 : LGBTQ+の聖地カストロ地区(The Castro)

  • 執筆者の写真: 香月葉子
    香月葉子
  • 2 日前
  • 読了時間: 10分

更新日:24 時間前



 とにかくカリフォルニアの女性たちにとって肌の露出度が高い服を着るのはあたりまえのことでした。


 夏になると、カリフォルニア大学バークレー校の学生たちのなかでも、レズビアン同好会に属しているような女の子たちはとくにそうでした。


 乳首が見えるか見えないかくらいのオフショルダーのアウターを着た彼女たちは、下はジーンズのホットパンツなのですが、はたしてショーツをはいているのかどうかわからないほど大胆な装いなので、4, 5人でオープンカフェの椅子を占領して、向かい合わせでランチタイムを楽しんでいるときなど、目のやり場に困りました。


 夏とはいっても、暑くて最高摂氏24度くらい、冬は寒くても最低摂氏10度前後くらいで、一年を通じて平均気温がだいたい18度前後というパラダイスだったせいもあるかもしれません。


 東部のニューヨーク市やニュージャージー州から来た学生だけではなく、中西部のシカゴや南部のニューオーリンズから来ていた学生たちのなかには「ここに住みはじめたら二度と故郷にはもどりたくなくなる」と言うひとが多かったのですけれど、それほどカリフォルニアの気候は快適だったのかもしれません。


 夜空のように深い青空の下、当時人気のあったのは、シリアスなヨガと、それとは真逆なクラブ系ミュージックシーンにつながるエアロビクスでした。


 そのふたつが同時に流行っていました。


 どちらにしても、日々のエクササイズによって、みごとなボディを作りあげている女性たちが多くて、「おへそ丸見えルックス」でジョギングしている女性にしても、二の腕は引きしまり、おなかはフラットで、しかも腹筋はきちんと分かれていました。


 まだ〈ボディコン〉ブームの始まっていない1980年代初頭の日本では、まず見ることのできない〈引き締まったおなか〉だったせいもあって、わたしの目にはかなりインパクトがありました。



 同性だけれども「寝てみたくなる女」がまわりにゴロゴロいたわけです。


 ヘルシーボディはメイクラブの時間の長さにつながる、と言われていた時代でしたから、とうぜんこちらの妄想はふくらみますし、期待感はほとんどレッドゾーンにふりきれてしまいそうでした。


 サンフランシスコではレズビアンSMが流行のきざしを見せていましたし、アメコミ誌の表紙からぬけだしたみたいなポリスウーマンのコスプレをしているレズビアン女性にも人気がありました。


 ところが、そういうボディばかりに目がなじんでくると、筋肉を鍛えていないやわらかそうな日本の女の子が逆にかわいらしく見えたりもして、人間ってほんとうにやっかいな生き物だな、と自分のことをいとわしく感じたこともあります。



 出るところは出て、締まるところは締まり、美しい筋肉をそなえた女の子たちは当時『ハードボディ』と呼ばれていました。


 セクシーで大人の魅力にあふれた雰囲気の女性を『Foxy Lady』(フォクシー・レディ)と呼ぶのは、あのころでも年配の人に限られていましたが、もともとは天才ギタリストの呼び名も高いジミー・ヘンドリクスの1967年のアルバムのなかの『Foxy Lady』(もしくはFoxey Lady)という曲によってさらにひろまったらしく、ハードボディと呼ばれるワークアウト系女子とは一線が引かれていました。



 ところで、キツネ(fox)は、魅力的な女性を表現するときにだけに使われるものではなくて、男性にも使われます。


 たとえば、年配の男性でセクシーな魅力をそなえた白髪まじりの人を「Silver Fox」(シルヴァー・フォックス)と呼びならわしていたように。



 男性のほうには〈マッチョ〉という概念がひろまり、筋骨隆々のボディをおしげもなく披露しながらジョギングしているひとたちがほとんどでした。


 そういう人たちは、上半身が裸だと感じさせないほど美しく筋肉を整えていて、サングラスをかけていました。


 風景をながめるみたいにさりげなく目を向けると、向こうもさりげなく「はぁい」と笑顔を返しながらすれちがってくれるので、〈気まずい〉思いはしたことがありません。


 そういうところが開放的というかアメリカ的異国情緒にあふれていたような気がします。


 また、そういう男性とすれちがったとき、汗の匂いではなくてオーデコロンの香りが流れてくるところは、とてもカリフォルニア的だと感じました。


 香水をまとってサングラスをかけるのは、外出時に靴をはくのと同じくらいにあたりまえのことだったのでしょう。


 わたし自身についていえば、オーデコロンやパルファムなどの香りものはあまりつけたことがありません。


 ただし自分が使っている石鹸とシャンプーにはこだわりをもっていました。



 北カリフォルニアの夏はふしぎでした。


 とくにサンフランシスコをふくめてオークランドやわたしが暮らしていたバークレーなどの近隣都市での夏は奇妙でした。


バークレー市からながめたベイブリッジと対岸のサンフランシスコ市
バークレー市からながめたベイブリッジと対岸のサンフランシスコ市

 日本の夏にあるはずのものが、ここにはないからです。


 日本の夏とは切っても切り離せないものが、ここにはなかったのです。


 それはセミです。セミの鳴き声です。


 どこからもセミの声が聞こえてこないのです。


 北カリフォルニアに蝉はいませんでした。


 サンフランシスコの緯度は仙台市とおなじなのに、近隣都市のオークランドにもバークレーにも、なぜか蝉がいないのです。


 ミーンミンミンもジージージリジリもカナカナカナもいっさい聞こえてきません。


 もしかしたら、あの独特な夏の環境音が欠落していたせいで、カリフォルニアの夏がいっそう涼しく感じられたのかもしれません。


 いえ、それはたぶん、「夏といえばセミの声」という文化に染まった日本人だからこそ味わうことのできた、ある種の特権みたいなものだったのかもしれません。



 女は女、男は男。


 性差を強調するかのようなファッションが多かったようにおもいます。


 というよりも、まさにその生物学的なちがいをめざしてワークアウトやエクササイズにはげむ、といった空気がありました。


 レズビアンやゲイの世界でもそんな感じでした。


 とくにゲイの人たちは大変だったみたいです。


 わたしがつきあっていたゲイの男性たちは「筋肉を鍛えていないとモテないし美しくないとモテない」という〈見た目がすべての時代〉がつらいとグチをこぼしていました。


 トランスジェンダーの人たちにたいしては、まだまだ社会的な差別がひどくて、医学的なサーヴィスを受けるのにも危険がともなうような酷い時代だったようです。


 一般の、とくに保守的な人たちからは「faggots/perverts」(おかま/変態)と呼ばれてイジメにあうことが多かったし、じっさいに暴力をふるわれることも多かった時代だったと、後年、アメリカの大手新聞の記事で目にしたことがあります。


 ただ、ドラッグクイーンと呼ばれる人たちは元気だったし、サンフランシスコにあったその手のクラブは〈ストレート〉な観光客で埋まるほど盛況だったようです。


 じっさい、1990年代にはいって映画『プリシラ』や『3人のエンジェル』などドラッグクイーンを主人公にした「ちょっと馬鹿馬鹿しいところはあるけれど派手派手しくてユーモアたっぷりで楽しい」キャンピーな映画が生まれるきっかけとなった熱量は、サンフランシスコの近くで暮らしていたせいか、肌のすみずみで感じとることができました。



 バークレーみたいな学生街ではなく、サンフランシスコのビジネス街などでは、会社通いの女性たちが大きな肩パッドのはいったスーツを着ていました。


 日が暮れてディスコやクラブへくりだすときには、おなじように肩パッドのはいったドレス姿だったようにおもいます。


 それが1970年代からつづいたユニセックスの流れをくむものだったのかどうかわかりません。


レズビアン雑誌『On Our Backs』(オンナワバックス:エッチしようよ)
レズビアン雑誌『On Our Backs』(オンナワバックス:エッチしようよ)

 ニューヨークやロサンゼルスやシカゴやサンフランシスコなどの大都市で、女性たちの社会進出がどんどん進んでいくにつれて、肩パッドファッションがひろまっているというニュース記事を目にしたことはおぼえています。


 その〈社会的進出〉と〈肩パッド〉の流行とのあいだにどのような関係があったのかということについてはまったくおぼえていません。


 ただ、サンフランシスコで生まれた有名なレズビアン雑誌『On Our Backs』の表紙をかざっていたハードボディの女性(あきらかにブッチ)がおなじように肩パッド入りの革ジャンをはおっていたことだけは鮮やかな思い出のひとつになっています。



 ゲイの男性たちのあいだで大流行したヴィレッジ・ピープルの曲『Y.M.C.A.』は1980年代に入ってもまだまだ元気いっぱいで、バークレーのKBLXやサンフランシスコのKQEDなどのラジオ局からはたびたび流れてきました。


「若者よ、そんなに落ちこむことはないさ。せっかく新しい街に来たんだから悲しまないで。きみの居場所はあるんだから、お金がなくたってそこにいたらいい。たっぷりステキな時間をすごせるさ」



 こんな内容の歌詞だったはず。


 この歌詞を耳にしたらすぐにピンとくる方もおられると思います。


 5ブロックごとに教会があるようなアメリカ中西部の田舎町で暮らしているクローゼットゲイの男の子やクローゼットレズビアンの女の子にとって、自分の「好み」を知られたら、隣人や同級生だけではなく、両親そのものですら敵にまわすおそれがあります。


 とくに1980年代初頭では、男性同性愛者というだけで集団リンチにあい、命を奪われるような事件もあとをたちませんでした。


 そんな彼らにとって、サンフランシスコはレズビアン&ゲイタウンであり、「安全地帯」(サンクチュアリ)でもありました。


 とくにカストロストリート一帯は、レズビアン&ゲイのひとたちにとっては自由都市みたいな位置づけで、そこで何をしてもだれからも文句を言われるすじあいはないよ、というような地区(ディストリクト)でした。


 いまでは世界的に有名なLGBTQ+の聖地になっていますが、1980年当時からすでにミネソタやカンザスやオハイオなどの田舎から出てきたクローゼットレズビアン&ゲイの少女や少年にとっては《夢の国》だったはずです。


 The Castroとも呼ばれていて、お洒落なブティックが軒をつらねているかとおもえば、お昼間に歩いても開かずの扉ばかりのゲイバーやゲイクラブがたちならび、その入り口にはさまれてチューイングガムよりもよく伸びるモッツァレラチーズを使った本格的イタリアンピッツァハウスが顔をのぞかせていました。


 お昼間から歩道のすみっこでフレンチキスを楽しんでいる男性のカップルが目にはいります。


 30代くらいの女性カップルも互いの腰に腕をまわして堂々と歩いています。


 当時はすれちがった相手のお尻のポケットもしくはベルトに視線を飛ばすのがあたりまえのことでした。


 そのどちら側にハンカチーフもしくはバンダナをはさみこんでいるかでトップ(男役)とボトム(女役)を伝えていたからです。


 それが目印でした。


 たしか左側からハンカチーフをのぞかせているのがトップで右側はボトムだったような記憶があります。


 レズビアンの女の子たちも同じやりかたでハンキー・コード Hanky Code(ハンカチによる目印)を使っていたようにおもいます。


 鍵であればなんでもかまわないのですけれど、それをチェーンにつけて、ジーンズの左側か、もしくは右側からぶらさげることで、さりげなく自分の好みを伝えるための目印にするときも、おなじやりかただったとおもいます。


 左はトップ(ブッチ)、右はボトム(フェム)だったはずです。


世界的にも有名なレズビアン&ゲイ地区『カストロ・ストリート』
世界的にも有名なレズビアン&ゲイ地区『カストロ・ストリート』

 ゲイであることを公表していて、しかも米国ではじめて公職につくことのできた元サンフランシスコの市議会議員だったハーヴェイ・ミルク氏が1978年に暗殺され、そのために何千人ものゲイやレズビアンの人たちが通夜の夜にカストロストリートにつどってキャンドルライトをかかげたことでもよく知られています。


 また、その同じ夜にはサンフランシスコの対岸に位置する学生街バークレーでも数多くのキャンドルライトが灯されました。


 とても静かで厳粛なデモ行進だったことをおもいだしています。


 無言の愛に引きよせられるような夜でした。


 いまではその日がLGBTQ+コミュニティーにとって大切な遺産(レガシー)のひとつになっています。


『ハーヴェイミルクデー』としてうけつがれ、サンフランシスコだけではなくロサンゼルスのウエストハリウッドなどでも、毎年5月22日、さまざまな祝典がもよおされているようです。






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