反戦映画『関心領域』における静寂の恐怖 | 映像の背後からあらわれてくる映像とは?
- 香月葉子
- 6月22日
- 読了時間: 8分
更新日:14 時間前
戦争は嘘からはじまり、平和は真実からはじまる。
ー ジュリアン・アサンジ ー
わたしは2024年2月5日に公開したエッセイ『戦争メモ其の4』のなかで反戦映画というのはどういうものなのかということについて書いたことがあります。
あのエッセイのなかで述べた良質の『反戦映画』の定義をそのまま作品にしてくれたような映画があれから3ヶ月を経た2024年5月24日に登場したので紹介させてもらいます。
『関心領域』という映画です。
『関心領域』(Zone of Interest)というのは『アウシュヴィッツ強制収容所』(Auschwitz concentration camp)のことです。ドイツ語に翻訳されたタイトルは『Interessengebiet』(インターレセンゲビート)で、そのまま「関心領域」という意味になるようです。
『関心領域』は第二次世界大戦をあつかった映画で、ドイツ第三帝国時代の有名な強制収容所アウシュヴィッツが舞台になっています。
アウシュヴィッツはユダヤ人を計画的にしかも機械的に大量虐殺するための『死の工場』と呼ばれた収容所でもあります。
この映画はその『死の工場』の所長だったルドルフ・ヘスと彼の家族の日常生活を描いています。

わたしたちが目にするのは平和時と変わらないようなこの家族の「静かな日々」の暮らしと出来事です。
YouTubeなどでご覧になったことのある方もおられるかもしれませんが、ひとりの独身女性の日々のルーティンとか極寒の地での車中泊による生活のルーティンを、ただ淡々と記録しているかのような動画があります。とは言っても、じっさいにああいう動画を作るのには、入念に練った撮影プランと細やかな編集作業と、それをやりとげるための労力と忍耐力が必要だとおもいます。
この『関心領域』という映画はまさにそういうものなのです。
一見すると、ストーリー性のない、YouTubeの日常ルーティン系の動画と変わらないようなふんいきで、戦争中の、しかもヒトの歴史に悪魔の爪痕をきざんだ強制収容所の所長の暮らしが淡々と描かれていきます。
戦争を感じさせるものはドイツ軍の将校や兵士たちの軍服姿くらいです。映画を通して戦闘場面などはいっさいありません。暴力的な描写もまったくありません。毎朝収容所へ出かけてそこからもどってくる軍人たちも、まるで朝になるたびに勤め先へ出勤して、夕暮れになるとそこから帰宅するひとびとのように描写されています。ですから、軍服は着ているものの、さながら平和な時代を生きているスーツ姿のサラリーマンたちのように見えたりもします。
それでも怖いのです。
最近のオカルト系ホラー映画よりもうんと怖いかもしれません。
みなさんをじわじわと恐怖の沼の底へと引きずりこんでゆく映画だとおもいます。
強制収容所の所長ルドルフ・ヘスと彼の家族は、このアウシュヴィッツ強制収容所収との薄い壁をへだてたすぐそばに邸宅をもっていました。
その邸宅を所長のルドルフ・ヘスは『楽園』と呼んでいたようです。
ところが、薄い壁をへだてた向こうがわ、つまり収容所のなかでは、囚人たちが毎日殺されているのです。多くの囚人がいっせいに全裸にさせられ、ガス室で殺されたあと、高性能の人間焼却炉で焼かれているのです。しかもそのプロセスはまるで工場の流れ作業そのものであるかのように機械的なものだったといわれています。
歴史学者さんたちによるとアウシュヴィッツだけで110万人のユダヤ人が殺害されたということです。
でも、その悲劇と残酷さはわたしたち観客の目から遠ざけられています。見ることはできません。映像として描かれてはいないからです。ただし、目で見るかわりに、その囚人たちの現実は、ミュートしたような効果音で想像することができるようにつくられています。たとえば、遠くから聞こえてくるようなかすかな銃声やうめき声、そして昼夜を問わず聞こえてくる焼却炉のごぉ〜ごぉ〜という死体を燃やしている効果音によって浮かびあがらせているのです。
ご家族や親族の方を亡くされ、火葬場に行かれた経験をお持ちの方にはおわかりだとおもいます。
遺体を焼くための火葬炉のごぉ〜ごぉ〜というあの低くうなるような音です。
それが絶え間なく聞こえてくるのです。
この映画に音楽はありません。かわりにそのような効果音だけが聞こえてきます。
つまり、『関心領域』というこの映画の身の毛もよだつ恐ろしさというのは、映像によって語られる目に見えるものではなくて、かすかに聞こえてくるものからやってくるのです。

ときには焼却炉から風に乗って流れてきた灰によって洗濯物が汚されたり、近くの川に釣りにいったときに、その河原でちいさく砕かれた骨の破片が見つかったりすることはありますけれど、主に効果音だけによって囚人たちの運命が描きだされていきます。
つまり、音によってわたしたちの想像力を刺激することで、わたしたち観客の頭のなかに囚人たちのおかれた状況を描き出すという手法がとられているのです。
見方をかえれば、映像をつくっているのはこの映画監督と制作者たちではなくて、わたしたち観客自身だということになります。
凡庸とも退屈とも感じられる日常生活の背後ですすんでゆく残虐な行為。
それを、いまの時代ではあまり使われることのない〈想像力〉という圧倒的な力で甦らされていくのです。
しかも映画というメディア以外では不可能な方法で。
それとは反対に『楽園』内での生活音はきわめて鮮明に聞こえてきます。
室内での靴音、食事をしているときのナイフやフォークの音、水を流す音、戸棚やカーテンを開け閉めするときの音、椅子のきしむ音などが、ほんとうに、観客のわたしたち自身がじっさいにそこにいるかのような生々しさで迫ってきます。
想像力を使う必要はいっさいありません。
調べてみると、ルドルフ・ヘスとその家族が暮らしたこの邸宅は、当時の資料をもとに、庭をもふくめてそっくりそのまま復元したセットだということです。
耳がそばだつほど臨場感のある効果音を作り出せたのもとうぜんかもしれません。
ところで、戦争をあつかった映画なのにもかかわらず、この映画の登場人物のなかには大きな声で話す人がひとりもいません。
静かでおだやかな人たちばかりです。
怒鳴ったりする人もいません。
たぶん、わたしたちの家族や、知り合いなど、わたしたちのまわりにいる人たちと、それほど変わりはないかもしれません。
起こることも、ほとんどが、日常生活のなかでわたしたちが経験したこと、もしくは経験していることと、それほどちがいはありません。
にもかかわらず、その日常性の背後から聞こえてくる効果音にゾッとさせられてしまいます。
この静かな生活のくりかえしが鳥肌がたつほど恐ろしいのです。
耳をとらえて離さない生活音のすきまから聞こえてくる、かすかなうめき声やタタタという機銃掃射のような音、そしてひっきりなしに聞こえてくる「ごぉ〜ごぉ〜」という死体焼却炉の低いうなり音。
いったんその背景音のほうに気をとられはじめると、なにも起こらないような淡々とした日々のくりかえしが背筋が凍るような恐怖をもたらします。
壁をへだてた向こう側で大勢の囚人が日々味わされている恐怖と苦痛と死。
それにたいするこちら側の人間たちのあまりにも『完全な無関心』(perfect apathy)がわたしたちを震えあがらせるのかもしれません。
そしてそれ以上にさらに恐ろしいのはラストシーン近くで聞こえてくる音です。
それは強制収容所所長のルドルフ・ヘスの口からもれた音なのですけれど、それもたぶんみなさんの記憶に長くこびりつく音になるでしょう。
それは彼が新たな命令を下されたあとに聞こえてくる音で、まるで地獄の口からもれた音のようにも感じられるかもしれません。
わたしたちひとりびとりの「実存」について深く考えさせられる音でもあります。
この映画をお作りになった監督さんは、第二次世界大戦中におこったユダヤ人の大量虐殺を描きながら、その悲劇を味わったユダヤ人が建国したイスラエルが、現在、皮肉にも、壁の向こうに閉じこめられたパレスチナ人を大量虐殺しているという二重の悲劇をも同時に描き出そうとしているのではないかとおもわれます。
そして、行き場のない悲しみと苦しみから生まれたこのイスラエルという国が、自分たちがされたのと同じようにパレスチナのひとびとを大量虐殺しているときに、わたしたちは、ただ黙ってそのニュースを受けいれながら、ルドルフ・ヘスの家族とおなじように、なにごともないかのように日々の生活を送るしかないというこの苦しい辛い現実に向き合わせてくれているようにも感じられました。
どうしようもないほどの無力感をもたらすこの現代社会。
そんな無力感から生まれる残酷なまでの無関心におおわれたこの世界の現在を浮かびあがらせてくれる反戦映画の金字塔ともいえるような映画だとおもいました。
『関心領域』の静けさ、つまり沈黙の部分がもたらす恐怖は、たぶん一生忘れることのできない映画体験をもたらすでしょう。
『関心領域』は映画史に残る上質な映画のひとつです。
そのことにまちがいはありません。
※註
お気づきの方がおられるとはおもいますが、これは去年2024年に書かれたものです。
もともとは『内戦』(Civil War)という映画と比較しながら書かれたものでした。けれども、あまりにも長くなり、出口が見えなくなったため筆を折ってしまいました。
そんなおり、今年2025年の5月になってAmazon Primeで『関心領域』がストリーミング公開される運びになったことを知りました。
それをうけて、すこしでも多くの方にこの映画を観ていただこうとおもい、マゾイスティックな快感がわきおこるくらいにまで筆を入れて短くしました。
その結果がこのエッセイです。
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