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執筆者の写真香月葉子

「しかたがない」と「やるしかない」 | 日本とアメリカの文化の違いとその背景

更新日:10月27日



海外を知るには3日でじゅうぶん?

 カリフォルニア大学バークレー校を卒業した小説家でエッセイストで脚本家のジョーン・ディディオン(Joan Didion 1934年 - 2021年)が書いていました。

「異国について書くつもりなら、ほんの3日くらいの滞在が一番かもしれない。長く過ごすと、深く知りすぎて、書けなくなるだろうから」

 まさにアメリカ人らしい実践的(プラクティカル)で現実的(プラグマティック)なアドバイスでした。

作家ジョーン・ディディオンの写真
作家ジョーン・ディディオン

 わたしはすこしちがう考えをもっています。

 3日以上すごして、そのうち、なにを書きはじめても別のなにかにつながってなにも書けそうにない、と頭を抱えるほど異国ですごしたあとに、勇気をふるいおこして、そのわかりにくさを書いてみたらいい、とおもっています。



国と文化のちがいについて語るのはムリ?

 ご存知のようにアメリカには現在50の州があり、ことばもちがえば、ダイエットも気候も法律もそれぞれちがっていて、まるで国がちがうように、それぞれの特徴があります。

 また、人種のちがい、移民としての民族的なちがいなどにくわえて、経済的なクラスのちがいで大きな差が出てきます。


 たとえば支配層(the ruling class)に属している人たちだけを見ても、建国後の早い時期から大富豪にのしあがった鉄道王のヴァンダービルドや火薬製造によってのしあがったデュポン家、南部で黒人奴隷をつかいながら大農園を営んでいたジャック・ロマン一族のような旧家(Old Money)と、石油王と呼ばれるロックフェラーや小売業で巨大な富をきずいたウォルトン家のような新興(New Money)の人たちとでは、アメリカという国の姿勢にたいする考え方と運営のしかたも微妙にちがっています。


 アメリカ人は…、と書きはじめたときに、どこの国から渡ってきて、どんな経済的クラスに生まれ、どこの州のどこの街で育って、どんな宗教をもっているか、というこのわずかな要素をつかった分類方法によっても、アメリカ人ひとりを理解するのですら、どんなにたいへんなことかおわかりになるとおもいます。


 日本人は…、と書きはじめて、たとえば関西や関東や東北のひとの、それぞれのちがいをおもいうかべてみれば、そのように「日本人は…」とひとつにくくることのむつかしさはおわかりになるとおもいます。

 

 でも、そんなことをこまかく言いはじめたら、なにもはじまりません。

 けっきょく、「書く」という行為は、自分を知るということにつながるものなのですから、たとえまちがっていても、それを恐れないで書いてしまうことなのでしょう。

 そうすれば何がまちがいだったのかも学ぶことだってできるでしょうし。

 そんなことをおもいながら書きはじめています。

 


「重み」と「軽み」の文化のちがいって?

 1980年代、アメリカの大都市、たとえばシカゴやサンフランシスコの目抜き通りを歩いているとき、まわりの建物からうけた印象は、ずっしりとした「重み」とぎっしりとつまった「密度感」でした。


シカゴの街の写真
シカゴの街の景観

 俳句の世界で「重み」というのは、わざとらしく、むつかしいことばを使い、どことなく抽象的で「つくりもの」の感があり、わたしたち一般人の生活からかけ離れた新奇な題材をあつかっているということなのですけれど、ここでは、ただ、見た目から受けた街の外観の印象について話しています。


サンフランシスコのビルディングの写真
サンフランシスコのビルディング

 わたしにとって、サンフランシスコの高層建築群と、東京の新宿西口に林立する高層建築の風景は、まるでちがっていました。


 サンフランシスコの場合、街景色そのものに圧倒されるような、なんともいえない威圧感のようなものがあって、それがわたしのアメリカ体験の根っこにひそんでいるような気がしています。



西新宿の高層建築群の写真
西新宿の高層建築群

 当時から、日本の大都市には、世界の最先端をいく建築技術によるお洒落なデザインの高層建築がたくさんありました。


 すべてがガラスだけで造られているのでは、という錯覚をおぼえるほどに未来的(futuristic)な建物もたくさんありました。


 それにくらべると、アメリカの大都市の建造物は、どれもこれもが古くて、つくられた時期が近いのか、街そのものになんともいえない統一感があります。


 日本に目をうつしますと、それとは逆に、さまざまな時代の特徴をそなえた建物が、いちように街路に勢ぞろいしていて、過去と未来とが同じステージの上に並ばされているようでもあり、まるで異なる時代そのものの品評会をしているみたいです。

 こういうポストモダンな景観は、たぶん、世界でもほかに類を見ないものではないでしょうか。

「美しき混沌」とでもいうような。


 ただ、意地悪な方でしたら、日本の家々はまるで映画のセットみたいな軽さがあって、指でトンと押すとパタっと倒れてしまいそうだとおっしゃるかもしれません。


新宿の夜の街の写真
夜の新宿

 でも、日本は地震大国ですので、重たい建材はあまり使えないということがあります。

 地面がゆれたらビルディングもいっしょにお豆腐のようにゆれるというような、新しい建材とすばらしい建築技術でつくられていますので、アメリカの大都市の建造物にくらべると、逆に、大地に根をはった感じがうすくて、未来的ではありますけれども、なんともいえない「軽み」(かるみ)を感じさせられる建築物なのかもしれません。


 さきほど俳句の世界での「重み」についてお話したのですが、この「軽み」ということばも、ともに松尾芭蕉によってつむぎ出されたもので、わざとらしさのない、だれにでもわかる平易なことばで、日常的な題材をあつかいながら人生と自然の深みを伝えること、という意味のことばだと考えられています。


 みなさんがふだんから使っておられる「かんたんなことをむつかしく言うのはかんたんだけれども、むつかしいことをかんたんに言うのはむつかしい」ということばも、このあたりから来たのではないかとおもったりもしています。


 とにかく、この「重み」と「軽み」という印象のちがいは、アメリカと日本をくらべたときに、さまざま文化のちがいにもあらわれているような気がしてしかたがないのです。


映画『七人の侍』のポスターの写真
映画『七人の侍』のポスター
『お茶漬け文化』と『ステーキ文化』のちがいって?

 たとえば『天国と地獄』という映画をお作りになった黒澤明監督はこんなことを語っています。

「日本映画は要するにお茶漬けサラサラでしょう? もっとタップリ御馳走を食べさせて、お客さんにもうこれで堪能したと言わせるような映画を作ろう。これが『七人の侍』のはじまりですね」


 別の機会ではつぎのような言い方もなさっています。

「サラサラとしたお茶漬けでなくて、お客にたっぷりとしたご馳走を食べさせたい。ビフテキ(ステーキのこと)の上にバターを塗って、その上に蒲焼(かばやき)を載せるような、誰も食べたことのないようなご馳走をね」

 まるで「軽み」と「重み」について話しておられるようで不思議な気持ちになります。



比較文化論ブームのはじまりは?

 ところで、土居健郎(どいたけお)の『「甘え」の構造』やイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』に代表されるように、1970年代は比較文化論が大流行していました。

 あのころは、お国柄のちがいをくらべて、それを指摘して楽しむのがトレンドのひとつだったのです。


 それよりもうんと前に日本人と日本の文化を海外に紹介したものには、1906年(明治39年)に岡倉覚三(岡倉天心)が気品のある迷いのない見事な英文で書いた『茶の本』(The Book of Tea)があります。また、日本学(Japan Study / Japanology)を勉強している海外の学生さんたちが必ず読まされるという文化人類学者のルース・ベネディクトの1946年の著書『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword)がありますし、また1930年に刊行された九鬼周造(くきしゅうぞう)の『「いき」の構造』(The Structure of Iki)もよく知られているとおもいます。


日本刀の写真
日本刀

 1960年代にジェット旅客機が登場したおかげで、ヒトは燃料をあまり使わずに遠くへ行けるようになりました。そのぶん、海外への空の旅の費用もおさえられるようになり、一部のお金持ちの方たちだけではなくて、だれでもが飛行機に乗れるようになり、そのぶん海外旅行が身近になってきました。

 比較文化論ブームの背景にはそういう技術革新がもたらした経済の変化、つまり旅客機の大衆化時代がおとずれたという事実があったのかもしれません。


 それよりすこし前の1950年代には、たとえば、原田康子さんの『挽歌』という小説とその舞台となった北海道への旅行を、出版社と広告代理店と国鉄(現在のJR)が一体となって、つまり、いまで言う「タイアップする」かたちで推してゆくという新たなマーケティング手法が出てきたのですけれど、それに通じるものがあるのかもしれません。


 ところで、もちろん、そのようなマーケティングにはかかわりなく、『挽歌』(ばんか)はすばらしい小説だとおもいます。

 川端康成氏がたえず気にかけていた「わたしの書くものはどうしても暗く哀しくなりやすい」ということばにこめられた、当時の日本の小説の「暗さ、哀しさ、湿っぽさ」というものから自由になり、オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』で描かれたアン王女をおもわせる、お茶目で反抗心があり、かつ、いちずな心をもったキャラクタを、感傷的(おセンチ)になることもなく自己憐憫(self-pity)にとらわれることもなく、あれほどみごとに日本の若い女性に移植できたのは、彼女の才能と技術のたまものではないでしょうか。

 女学院に通っていたころ、母の書棚からこっそり『挽歌』を盗んで読み終えた瞬間「日本のフランソワーズ・サガンだ」なんて心のなかで叫んだおぼえがあります。



比較文化論ブームのせいで劣等感?

 とにかく1970年代には比較文化論が流行っていました。

 その比較文化論ブームの特徴としては、海外にくらべて日本はこういうところが遅れている、日本人のこういうところが恥ずかしい、という意見が多く書かれていて、もっともっと西洋文化に追いつき追いこす努力をしなければいけません、とわたしたちのお尻をたたいているような内容のものが多かったようにおもいます。

 そのことで、日本人であることに、なんともいえない劣等感をおぼえて、心が傷ついた方もおられたのではないでしょうか。


 わたしたち日本人はみんないっしょに「群れて」まわりを気にしながら行動する、と言われました。

 ハリウッド映画のなかで、日本のビジネスマンや観光客が、みんないっしょにゾロゾロと移動して同じ角度でおじぎをする、というステレオタイプで描かれはじめたのは、たぶん、1980年代に入ってからだとおもいます。

 つまり日本人には「主体性」がない。みんなと同じように考えて行動しようとする傾向がある、なんていうイメージでひとくくりにされることが多くなったのです。


 けれども団体旅行ではそれがあたりまえの光景ですし、カナダ旅行を楽しんだアメリカの友人や、欧州の米軍基地に駐屯していた海兵隊の知り合いに言わせると、アメリカ人はみんないっしょに「群れて」行動して、ドイツやフランスやイタリアにいるというのに、みんなでいっしょにいつもハンバーガーやホットドッグばかりを食べに行っていた、と話していました。


 とはいっても、これなども、わたし個人の経験でしかないものをムリヤリに一般化(overgeneralize)したものであって、文化のちがいを語るときに用いられるもっとも安易なやり方だとおもいます。



なぜ日本人には『主体性』がないって言われたの?

 また、日本人はみんな自分と同じに考えて行動するはずだから、たとえば夏に招かれたらとうぜん「麦茶」が出てくるはずだ、とか、わざわざ口に出して言わなくても、こういうシチュエーションのときにはとうぜんこうするのがあたりまえだ、とか、ある映画の場面を見たときにはとうぜんこのように考えたり感じたりするはずだ、と他人に期待する「甘え」があるのは、自分たち日本人を「純血」な同一種だとみなしていることからきている、と言われたりもしました。


 どういうことかと言いますと、日本人というものは「日本独特」の文化をシェアしていてそれを理解して身につけているからこそ「日本人」なのであって、そういう意味でみんながみんな「日本人」として同一のアイデンティティを持っているはずだと思いたがる、というようなことでした。


 たとえば、春にはお花見、夏には花火と盆祭り、そして秋には紅葉を楽しみ、正月には初詣(はつもうで)をするのが「日本人」であり、そのときに感じる「日本人であること」の感じ方は、そこにきているひとびととわざわざ口に出して確かめたりしなくても、とうぜんのようにみんなも同じように感じているはずだ、という「甘え」をもっている。

 だからつまり日本人には「他者性」というものにたいする自覚がないのだ、と。

 ようするに、他人も自分とおなじように考え感じて行動しているはずだ、とおもいこんでいる、なんて言われたりもしました。


 わたしたち「日本人」と呼ばれる民族は、じっさいには朝鮮半島からわたってきた北方系や南の島々からわたってきた南方系のひとびとなど、さまざまな民族がやってきては、それぞれ異なる民族のあいだでの混血がすすんでできあがったということは、すでに現在の遺伝子研究からわかってはいますけれど、1970年代にはまだそこまではわかっていなかったとおもいます。


 たとえば、これはアメリカでの事例ですけれど、犯罪捜査の過程でDNAの分析結果が物的証拠のひとつとして裁判所に提出されるようになったのは1986年からですし、ご存知のように、ヒトの細胞の核のなかにあるDNAの文字列の遺伝子情報のすべてを解き明かそうという『ヒトゲノム計画』(The Human Genome Project)がスタートしたのは1990年のことですから。



日本人が「内気」なのは「農耕民族」だから?

 とにかく、日本人は自分たちが同一(ホモジーニアス:homogeneous)のひとびとで成り立っている社会だとおもいこんでいるところがあって、アメリカのように、じっさいにさまざまな国々からの移民があつまってつくった異種混淆(ヘテロジーニアス :heterogeneous)な社会ではないため、個人としての主体性が低く、自分とはまるで異なる「他者」というものにたいする認識が薄いと言われていました。

 それが逆に「異種」のものに出遭ったとき、必要以上に警戒心や嫌厭感や恐怖心をひき起こさせる元になっているのではないか、とも考えられていたはずです。

 つまり、自分と共通点のある者(たとえば同国・同郷・同族の人間など)とは異なる「他者」(よそもの)に出遭ったときに日本人が「内気」(シャイ)「対人恐怖症」的になるのはそのためではないか、とも言われていました。

 それこそが外国人が苦手(ゼノフォビア)になっている原因である、と。

 つまり自分たちとはちがう者に慣れていないのだ、と。


 でも、とくに大阪の人など、俗に「関西人」と呼ばれる知り合いのいる方などは、ほんとうに日本人全体が「内気」で、すくなからず「対人恐怖症」的な民族集団なのかどうか疑問に感じる方もいらっしゃるのではないでしょうか。


 大阪の居酒屋や大衆食堂などで、ひとり席について、静かでプライベートな食事をしたりお酒を飲んだりすることを期待しても、たぶん裏切られるとおもいます。

 大阪には「社交的」な方が多いですから。

 たとえ高級ブランド品をあつかっているお店でも、中近東のマーケットで見かけるように店員さんなどと気軽に値段の交渉をするところを見た方もおられるとおもいます。


 値切るのも対話のはじまりです。

 ただ黙って「おカネ」をわたして商品を受け取って去るというプロセスには、その商品をあつかっている人の存在がありません。


 昔は、よその家におとずれたときだけではなくて、お店に入ったときや、店員さんを呼ぶときにも「ごめんください」と声をかけるのが礼儀でしたけれど、1970年代あたりから「こっちは金を払ってるんだから」とか「金さえ払えばそれでいい」という考えがひろまりはじめるにつれて、そういう人と人との出逢いにおけるあたりまえのマナーが消えはじめたように感じておられる方も多いとおもいます。


 いまでは「ありがとう」ということばもなく、まるで「ことば」そのものを失ったかのように、ただ黙って支払いをすませるというのがあたりまえのようになってきました。

 まるでスーパーマーケットのセルフレジのように、無言でおこなわれる客と店員とのやりとりなどは、まさに「海外」ではなかなか見られないユニークな風物かもしれません。

 それとは逆に、海外から来られて日本で暮らしている方たちのほうが「ありがとうございます」や「失礼します」や「すみません」ということばを使い慣れておられるようです。


 すこし脱線してしまったかもしれませんが、とにかく「関西人」とみなされているそういう「西」の方たちからしてみれば、東京よりも「北」や「東」は農村文化が根強いせいで、あまり社交的ではなく内気で対人恐怖症を病んでいるヒトが多いと感じているかもしれません。

 

 とにかく「よそもの」に慣れていない国民性というものを説明するために「農耕民族 vs 狩猟民族」なんて分け方も流行したことがあります。

 農耕民族であるドイツ人と日本人は、個人ひとりびとりよりも、家族や村落や会社や国家などの共同体のほうが大切だと考える傾向にある、なんていう見方も一時期にぎわいをみせたようです。

 その性質がファシズムを産みやすい土壌をつくっている、なんていうとんでもない理屈をこねる学者さんたちもいたようです。

 そのときには、たいてい、イエ、ムラ、カイシャ、クニ、というカタカナ表記で語られることが多かったように記憶しています。


 ところで、いまでは、海外から来られた方たちにたいして特に親切なのがわたしたち日本人だ、というふうに見られているのがほんとうではないでしょうか?

 もちろん、旅行者としてではなくて、じっさいにこの社会に入りこんで生活をはじめたときには、それがどう変わるかわかりませんが。

 それは他の国でも同じだとおもいます。



アメリカ人は「社交的」ってホント?

 ところで、アメリカ人は「社交的」というステレオタイプで語られることが多いのですが、ミネソタ州やイリノイ州などドイツ系移民の多い地域で暮らしてみると、西海岸のサンフランシスコやLAやサンディエゴなどの都市部のひとびとが「はぁ〜い」と笑顔で声をかけてくるのとはまるでちがって、たとえシカゴのような大都市でも、東洋人や、その他の見慣れないひとびとに出遭ったときには、必要以上に警戒した顔つきで、しかもジロジロとこちらを観察してくるようなひとたちが多かったように記憶しています。


 向こうは向こうで、トウモロコシ畑と教会に支えられた村落からシカゴを訪れていたひとびとだったのかもしれませんけれど、「異種」の者にたいしてはそれほどオープンではなかったようにおもいます。


 とくにウィスコンシン州から来たひとびとは、他州のひとびとからたびたび「かっぺ」(田舎兵衛)と呼ばれて小馬鹿にされるのですけれど、じっさいそういうタイプのひとびとが多かったように記憶しています。


 それとは逆に、カリフォルニアというのは、ローラースケートをはいたマクドナルドの女性店員さんがテーブルにスーッとやってきて「Would you like a refill?」(コーヒーのおかわりはどうお?)と満面の笑顔でたずねてくるような場所ですから、「保守的」だといわれる中西部や南部のひとたちからすると頭のおかしいひとびとが住んでいる場所だとおもわれていたようです。


 いえ、彼らだけではなく、自分たちを「革新的」だと誇っていたニューヨークの若者たちに人気だったコメディバラエティ番組『サタデー・ナイト・ライブ』においてすら「カリフォルニアってのは、はっきり言ってアメリカの州のひとつじゃない。へんてこでぶっ飛んだカリフォルニア国だ。足でお手玉をしはじめたり、サーフボードに帆をくっつけて遊ぶなんてことをおもいついたりする。なにしろピンク色の豆腐というものがあるくらいだから」と笑われるような州でした。


 ところで、おもしろいことに、わたしたちにくらべて、一見すると個人主義(individualism)のかたまりみたいにおもわれているアメリカ人でも、たしかフランスの哲学者サルトルでしたか、米国に招かれて国内をさまざま旅行したあと「アメリカ人が誇りにしている『個人主義』など高(たか)が知れていて、フランス人の自分から見たら、みんなが『右へならえ』の金太郎飴的な画一主義(conformism)に毒されているとしかおもえない」という印象を、たしか1945年ころに書いていたはずです。


 つまり、お国がちがえば「受け取り方」もちがう、ということなのでしょうか。


 それとは逆に、お国がちがっても考え方はよく似ている、ということだってあります。



「みんな同じ」だから「右へならえ」ってことなの?

 たとえば、こんな経験をしたことがあります。


 イリノイ州シカゴはアイルランド系移民が多くて、シカゴ大学のあるハイドパークで暮らしていたときに知り合った学生たちのなかには、父親だけではなく祖父や叔父や従兄弟のほとんどが警察官だという学生たちが多かったのをおぼえています。また、ミネソタ州やウィスコンシン州などから来ていた学生たちは、たしかにドイツ系移民が多くて、フリードランダーとかヴェーバーとかワイズナーなんていうファミリーネームをよく耳にしました。そんな彼らのなかには奨学金にたすけられている学生が多かったのですけれど、ある週末、ニュージーランドからおとずれていた文化人類学専攻の大学院生カップルとパーティを楽しんでいたとき、こんな話題でもりあがっていました。


「高校時代に、野球部にとんでもなく優秀なピッチャーがいて、つぎからつぎへと三振をとれる実力の持ち主だったのだけど、コーチから、今回の試合はライバル校のある地元で行われているので、おたがいが不愉快なおもいをしないように、なるべく同点にもっていくために、みんなで協力しなければいけない、なんて肩をたたかれてしょげていたよ。ゲームなんだから勝負は時の運もあるし、やっぱり勝ち負けがすべてのはずだ、なんて思ってても、社会っていうのはそんな簡単なものじゃないんだね。やっぱり隣町とのハーモニー(和:wa)を乱さないようにしなくちゃいけない、ということらしかったんだ。それとは別に、学校だけじゃなくて、会社でもそうだけど、やっぱり『出る杭は打たれる』ということはしょっちゅうあるし、『みんなと足並みをそろえなくちゃいけない』と言われることもしょっちゅうだった」

 このようにニュージーランドからやってきた大学院生が話題をふると、ウィスコンシン州の田舎からはるばる大都市シカゴへ学びにきていた学生たちも「こっちもまさにそういう感じだよ。すごくわかる、すごく似てる。田舎ってことなのかなぁ」なんて首をかしげたり、うなずいたりしていました。


観衆の全員がミッキーマウスのマスクをかむっている写真
みんなでミッキー

 でも、こんな例は、もちろん科学的でもなんでもなくて、もちろん学問に役立つものではありませんが、ヒトがそれぞれの共同体のなかで生活をしているときに得られる感覚としては「とてもよく理解できてしっくりくる」ということはあるのではないでしょうか。

「外国の話だけど、たぶん、どこもそんな感じなのかな」ていうみたいな。



比較文化論ってご近所のおばあちゃんのお話しみたいなもの?

 臨床心理学や社会学や人類学など、文系(Humanities)の場合、ヒトの心や社会の謎を紐解く(ひもとく)ときに、どうしても一般社会で日常的に使われているこの「ことば」(natural language)というあいまいきわまりないお道具にたよるしかなくて、理系(Natural Science)、とくにハードサイエンスに属している数学や物理学やコンピュータサイエンスなどのように専門的で抽象度の高い「記号化されたことば」(symbolic language)によってさまざまな現象を説明することができないために、たえず「ご近所さんから聞いた話」(nighborhood tales)と変わらない、とか、「おばあちゃんの世間話」(grandma's tales)の範囲を出ない、というような批判をうけるのはしかたがないことなのかもしれません。


 とにかく、「群れる」ということで「個人としての主体性」が低い国民性だとか、いろいろと言われたのですけれど、海外に出たときのアメリカ人の集団行動にも共通点が多いということも1980年代後半あたりから指摘されはじめたことをおぼえています。


 さすがに、日本人は「群れる国民だ」という「迷信」というか「都市伝説」みたいな非科学的なことを信じている方は、いまの日本にはいないとおもいますけれど、向こうの日本学の教授たちのなかには、いまだにそう考えている方もおられるようです。


 また、逆に、われわれ日本人はほかの国のひとびととはちがうし文化も独自のものをもっているという「日本人および日本文化ユニーク」説(Japanese exceptionalism)が邪魔だとおっしゃる方もおられました。


 とくに、日本文化、たとえば能楽や歌舞伎など、日本の古典芸能を理解するには、日本に生まれ育ち、早くから日本の文化に染まっていないと理解できないし、それを理解する感性が育たないので、海外のアーティストや学者たちにはある種の「壁」があるというような言い方をされるのが不愉快だと述べる方たちもおられました。


 そういう意見も、いまの時代でしたら、別の意味で、とてもよく理解できます。


 たとえば、京都の祇園祭と芸妓について学ぶために米国からおとずれている関西弁ペラペラの文化人類学専攻の大学院生と日本人の若いラッパーが友だちになったとき、どちらがアメリカのヒップホップ音楽の歴史にくわしく、どちらが日本の古典芸能にくわしいでしょうか。


 わたしは「壁」なんていうものはないとおもいます。

 茶道でも花道でも、それなりの先生に習えば、どこの国から来た方でもそれなりに習熟できるでしょうし、もしくは、文化のちがいを経験しているがゆえに、伝統芸術に新しい息吹をふきこんで、日本生まれ日本育ちのひとよりもさらに深みのあるものにしてくれる可能性だってあるかもしれません。


 ですから、とうぜんアメリカ例外主義(American exceptionalism)についても眉にツバをつけながらほんのすこし肩をすくめてやりすごすようにしています。


 中学校の学級委員だって、他のクラスの学級委員たちと会議をしているときには、やっぱり自分のクラスが一番だし特別だって言いたくもなるでしょうし、それはひとつの集団がべつの集団に出合ったときに見せる反応としてはごく自然なことではないでしょうか。

 英国のサッカーファンみたいに殴り合いの喧嘩にまで発展して、まるで中世の氏族間の対立を地でいくようなありさまですけれど、高みの見物をしている側からすれば、ストレス発散にもなるでしょうし、けっこうな余興(よきょう:エンタメ)かもしれませんね。



アメリカ人らしさ日本人らしさって、何?

 さきほどの「他者性」にたいする自覚の欠如という話にもどりますと、もちろん、アメリカ人のなかにも「アメリカ人だったら、とうぜんこういうときはそう感じてそんなふうに考えてそのように行動するのがあたりまえ」だと言うひとはいます。

 ハリウッド映画やアメリカのTVドラマがつくりあげた「アメリカ人気質」や「アメリカ主義」をホンキで信じて、その影響をうけているひとたちにとっては、そう考えるのが「あたりまえ」なのかもしれません


 そもそもドイツからわたってきた家族の子孫とイタリアからわたってきた家族の子孫、もしくは中国やベトナムからわたってきた家族の子孫が、いつのまにかみんなどことなく似ている考え方と行動様式と感性をそなえた「アメリカ人ぽい」人間になるのは、どうしてなのでしょうか。


 そして、たとえば、新たに渡ってきた移民たちの第2世代や第4世代のひとびとなどに、以前からいるアメリカ人よりも「アメリカ人っぽい」ふるまいを発見して、あれこそ白人が作りあげたアメリカという「ホストの文化」に過剰なまでに同化しようとする態度のあらわれだ、なんてアメリカの社会学者さんたちが鬼の首をとったように指摘するのですけれど、その社会学者さんたち自身が「他人にはきびしく自分には甘い」というご自身の弱点を意識していないのかもしれなくて、他国から来たひとびと(とくに欧州圏以外から)の思考や行動様式に関しては重箱の隅をつつくように批評眼を向けるけれど、自国アメリカの、たとえば中西部や南部で暮らしているひとびとについてはほとんど無知といった場合が多いようにおもう、と批判する文化人類学者さんもいました。


 自国とほかの国とを比べるとき、まず浮かぶのが「ココにはないのにアソコにはあるものは? ココにあるのにアソコにないものは? ココにもアソコにもあるものは? ココにもアソコにもないものは?」というような質問だとおもいます。


 たとえば「先進国」がもたらした資本主義的な経済とそのシステムの影響を受けることもなく、ユニークで独立した集団としてケニアで暮らしていたころのマサイ族やカナダ北部で暮らしていたころのイヌイットの生活と文化を比べたときには、ほんとうに驚くほどのちがいが見つかるとおもいます。

 環境があまりにもちがいますし。

 それでも、わたしの頭のなかに誰かがささやきかけてくるのです。


「ココにあるものはアソコにもあり、ココにないものはアソコにもない」


 こんなことを言ったら、大学の先生方に大笑いされるか、「それでは始まる前に終わってしまうよ」と叱られてしまうかもしれません。

 また、このエッセイを書いてきた意味もなくなってしまうかもしれません。

 ほんとうに元も子もなくなってしまいますけれど、でも、文化を比較するときの心のどこかに、なんとなくそういう思いをたずさえておくほうが、なにかとまちがいをおこさなくてすむのではないかとおもっています。


 とにかく比較文化論にわいていた時代、日本人であることが、なんとなく恥ずかしいように感じていたひとは、すくなからずいたのではないでしょうか。

 でも、それは、もしかしたら、西欧文化を研究してきた学者さんや、日本と海外を自由に行き来できるような経済的クラスに属している方たちが、ようやく日本のだれでもが海外へ出かけることのできる時代になったとき、同じ国民にたいして「マナーがなってない」とか「個人の意識がない」(とくに『農協さん』などがやり玉にあげられていました)なんて言いはじめたことがきっかけで、たんに、ちょっぴりゆがんだエリート意識」のあらわれだったのかもしれません。


 自分たちとつきあいのある海外の有識人(とくに白色人種の)にたいして自国民の行動を恥じていたのかもしれなくて、もしもその底に自分が日本人のひとりであることを恥じるおもいがあったのでしたら、それもある意味悲しいねじれた心根から出てきたものかもしれなくて、つらいものを感じさせられます。


 太宰治さんがたしか『如是我聞』(にょぜがもん)のなかに書いていた「洋行帰り」の人間にありがちなこと、にあてはまるのかもしれません。


 他国の文化やヒトを「崇拝」することは、じっさいにその「他国」にでかけて心が傷ついたときや、その「他国」と戦争をはじめたときには、ぐるりと180度回転して極端な「愛国者」になったりする恐れがある、ということも、過去の歴史が教えてくれます。

 20世紀の大昔には『転向』ということばが流行していました

 とくに「知識人」と呼ばれる方たちにそれが起こりやすい、ということも。



国民性のちがいよりもクラスのちがい?

 どちらかといえば、国民性のちがいよりも、それぞれの国のなかにおける経済・文化的クラスのちがいのほうが大きいようにおもいますし、お国はちがっても、同じような経済的クラスのひとびと同士には共通点や「つながり」があるように感じています。


 それはともかく、比較文化論ブームから受けた「劣等感」にも似たその傷は、社会学者のエズラ・ヴォーゲルが1979年に出した『『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本による、わが国は経済・文化・社会すべてにおいて秀でているという再評価(もしくは日本でお商売するための社交辞令?)を目にするまで、癒えなかったかもしれません。


 また、古くから言われていた『欧州は石造りの文化、日本は木造りの文化』ということばも、70年代に入ると、すでに使い古されたことば(クリシェ)になっていたのですけれど、じっさいの街並みがそのとおりでしたので、欧州にくわしいエッセイストや大学教授なども「右へならえ」で使っておられたようです。


 当時、欧州へはまだ行ったことがなかったのですけれど、帰国してしばらくたって、はじめてパリへ行く機会を得たとき、あれほど重厚だと感じていたサンフランシスコやシカゴの建造物がまがいもの(ニセモノ)におもえるほどの密度感と重みを感じたのは、やはりパリという街がもっている歴史のせいなのかもしれません。


パリの街の写真
パリの街角

 とは言っても、イタリアにくわしい女ともだちは「ローマを見たらパリが新興都市に見える」と言っていましたので、それぞれの国の文化の歴史がそうさせているのでしょうか。


ミラノの街の写真
ミラノの街並み
建物があたえる印象は歴史のたまものなの?

 鎌倉時代に建てられた日本の建造物などは、海外からおとずれたひとびとの目にはどのように映っているのでしょう。

 歴史の深み、という謎めいた神秘的な「何か」にぶつかったあと、ことばにならない印象をたずさえて、それぞれの国へ帰っていくのでしょうか。

 もしそうだとすれば、建造物がわたしたちの五感にあたえる、あの大地に根をはったような重さと厚みと密度感というものは、どうもその国の文化がもっている歴史からきているものなのかもしれません。

 つまり、それぞれの文化がたくわえている情報と技術の継承から生まれたものなのだとおもいます。


金閣寺の写真
金閣寺

 でも、けっきょく、西欧文化をとりいれてまだ150年あまりの日本と、その元をつくった国々とをくらべても意味がないようにもおもわれます。

 その逆もまた真なり、なので。

 どちらかに軍配があがるというものではなく、それぞれの文化のちがいがステキですし、素晴らしいことなのですから。



アメリカ人に過去はいらない?

 世界でも「まれ」なほど歴史に無関心なのがアメリカ人だ、と作家のゴア・ヴィダルは書いていました。


「これまで」よりも「これから先」が大切なのだ、というのがアメリカ人の考え方の根本にはあります。

 ひっきりなしに過去を捨て去って、ひたすら未来への希望にすがりつく、そんなお国柄だと語っていました。


「新大陸」の東海岸に足を踏みいれ、先住民族から土地を奪い、そこからいちばんの西の端っこをめざしてを大陸を横断しながら西部開拓をつづけたひとびとが作った国なのですから、過去をふりかえる余裕なんてなかったはずでしょう。


 いえ、大英帝国の支配層によって貧しい暮らしを強いられていたひとびとからすれば、金塊を見つけるだけで一攫千金の夢(ゴールド・ラッシュ)を手にすることができるというこの新しい国では、「これから先」だけが大切で、過去なんて、思い出したくもない、どうでもいいものでしかなかったのではないでしょうか。

 アメリカ人の心の底には「やるしかない」(You gotta do it / You keep doing it)と叱りつづける義務感がひそんでいると文化人類学者さんがおっしゃるのにもうなずけます。


 俗にいわれる『清教徒主義』(Puritanism)を語るさいには、カルヴァン派に代表されるプロテスタントからの教えのひとつであるマジメに一生懸命働くことを尊ぶ姿勢(Protestant work ethic)と性的なものにたいする潔癖さがよく取りあげられますけれど、支配層をのぞく一般のアメリカ人にとっては、過去の現実そのものが、とにかく死に物狂いでやるしかないという労働にたいする姿勢(hard working ethics)をつちかったのではないかとおもわれます。


 とにかく文字通り「死なないでいる」ためには「やるしかない」し「やりつづけるしかない」わけですから。


 このあたりの精神のメカニズムについては『アメリカ人にありがちな問題? | ジョギングと行動主義心理学とウォルト・ディズニー?』でよりくわしく書いたつもりですので、もしも興味がおありでしたらお読みくださいね。


 アメリカ人というか、アメリカの文化全般におけるエロティシズムの欠落(とくにフランスの知識人などから見て)は清教徒主義の性的モラルにたいする生真面目さ(とくに政治家など公職にある人にたいしてなど)からきていることは明らかですけれど、たんに宗教的なものだけではなく、おなじようにアメリカ大陸のきびしい現実がそうさせたのではないかと個人的には感じています。


 たとえば、はじめてアメリカの先住民を見たときや、巨大なヒグマやバッファローと遭遇したときの開拓者たちが、いったいどんな思いをしたのか想像してみるのはけっしてムダではありません。

 つまり、生存(サバイバル)することのみが日々の最重要課題という環境のなかでは、生まれてくる子供はそのまま「働き手」のひとりとしてみなされたでしょうし、エロスの対象としての「妻」や「夫」は存在しなかったのではないでしょうか。


 ですからアメリカの文化では「SEX」そのものは大胆に表現されることはあっても、欧州やわたしたちの文化にあるようなチラリズムの「お色気」とか「なまめかしさ」という概念、つまりセックスを「斜め横」の方向からとらえる視点がなかなか出てこないのはそのせいではないかと、わたしは勝手に考えています。


 遊戯性というものが欠落しているとしか思えません。


 ですからSexはあっても官能的(sensual:センシュアル)なものが欠けているような印象を受けてしまうのです。


 また、欧州や日本では、いわゆる『変態的』だとみなされるような行為にたいしても文化的な寛容さがありますけれども、アメリカではほとんどの人が眉をひそめるのもそのためではないかとおもわれます。

 生存することがすべてであるような状況下では、それから外れてしまうような「遊び」とか「わき道」的な行為は排除されてしまうのだとおもいます。


 だからこそ逆に20世紀も終わりになったあたりから、一時期『Japanese Hentai』が米国の若い世代からもてはやされたのではないでしょうか。


 世界一お金持ちの国にはなったけれども、もしかしたら、アメリカの心はいまだに日々のサバイバルに必死だった開拓時代に置き忘れられているのかもしれません。


 ほかのエッセイでも書いたおぼえがあるのですけれど、ヒトの歴史を見ればわかるように、エロスの開拓者は衣食住の足りている支配層に属しているひとびとから生まれてくるもので、貧乏な社会のなかからはなかなか生まれてこないのが事実です。

 さらに言えば、『愛とエロス』という概念は、ヒトが発明したもののなかでは、もっともかえがえのない贅沢品だということはまちがいありません。

 それだけに、開拓時代のアメリカ人にとっては、別の意味でも、とにかく子供を産んで働き手を増やすためには、ただ「やるしかない」というのが現実だったのでしょう。

ゴールド・ラッシュ時代のアラスカの写真
ゴールド・ラッシュ時代のアラスカ

 もとはといえば、大英帝国の意向(ナラティヴ)に逆らい、その支配からの独立を画策するひとびとによって建国されたのがアメリカなのですから。

 つまり、英国の側からすれば、アメリカ建国の父などといわれて尊ばれているような人物たちは、みな、いまでいう「テロリストの集団」みたいなひとびとだとみなされていたはずです。


革靴を食べる男 | チャーリー・チャップリンの映画『黄金狂時代』の一場面の写真
革靴を食べる男 | チャーリー・チャップリンの映画『黄金狂時代』の一場面
牛馬は賃金なしで働くのにどうして労働者には賃金が必要なの?

 手段は問わない。なにをやっても勝てばいい。それが人生への答えだ。

 そう信じたひとびとによってつくられたのがアメリカという国のようにおもえてなりません。


 米国で生活しているときに、この国の支配層に属しているひとびとは目的のためには手段を選ばず、という考えをもっているひとたちだし、自分の子供たちには「他人にたいして『思いやり』(compassion)や『共感』(empathy)を抱いてはいけない、それは負け犬の性質だから、と教えているんだよ。つまり、一般の民衆にたいしては笑顔を忘れず、彼らの将来を考慮しているかのようにふるまわなければいけないが、しかし、彼らは畜馬とおなじであり、そのようにあつかわれる存在だということを忘れないことだ、ってね。そうしなければ自分たちの支配的な地位と富は守れないのだ」という教育を徹底しているのだ、と聞かされました。


 そして、そのことは、大学の先生たちからだけではなくて、アパートメントのマネージャーや、感謝祭の夕食に招いてくださった農家のご主人など、ごくフツーの一般の方たちからも聞かされました。


 たとえばスタンダードオイル社を創業したジョン・ロックフェラー・シニアなどは「地を耕すための牛馬はなにも要求しないのに、なぜ労働者に賃金を支払わなければならないのかわからない」ということばを残すくらいで、自分の税金対策のためにシカゴ大学を作ったり教会を建てたりする慈善家としての表向きの顔とはちがって、アメリカを運営している巨大な資産家の心の底の底にはそういう考え方が根強くのこっているのだ、と聞かされました。


 逆に、まさにその一般の市民や労働者のひとびとは、正義感が強く、家族思いで、友人や仲間を裏切らず、泣き言を言わず、タフで、どんな厳しい状況におかれてもユーモアを忘れないという「アメリカ人気質」、つまり、ニューヨークのマディソン街にある広告機関やハリウッド映画などによってつくりあげられたイメージを信じこまされているのだ、とも聞かされました。


 資本主義が育つのにはぴったりの肥えた土壌だったのです、きっと。


 1960年代以降、まだそういう騎士道精神に近いような「good American」のイメージを抱きつつ、そういう生き方をしようとする方たちがいるとは思えないのですけれど、ときおり、ほんとうに「まれ」に「ヒーロー」と呼ばれるようなひとが現れて、お金のためではなく、祖国のためでもなく、ただ、プロフェッショナルとして、みずからの仕事への責任を果たすためだと言いつつ、けっきょく多くのひとびとを救うことになった出来事が報じられたり、または映画化されたりすることがあります。

 たとえば『ハドソン川の奇跡』(『Sully』)のような。


 社会にすがすがしい風を運んでくるような出来事なのですが、そのこと自体が、すぐに「アメリカ人気質」を再認識するお道具としてメディアに利用されたりするのを目にすると、なんともいえないクヤしさのようなものを感じないではいられません。



アメリカ人は他の国のひとたちにくらべてより「現実的」なの?

 とにかく「わたしたちアメリカ人は『なぜ?』(Why)ではなく『いかにどうする』(How)という問いを大切にしています。ですから世界でもっとも現実に役にたつ方法をおもいつくのが得意なのです」ということなのでしょう。

 だからプラクティカル(実践的)でプラグマティック(現実的)なのだと彼らは言いたがります。

 ご存知のように、もともと家系どころか国そのものを捨ててきたひとびとによって作られた国なのですから。


 周囲のひとびとから自分の素性を知られているような古い土地を捨て、みんながみんなお互いを知らない新しい場所で、自分の血筋(ちすじ)からは想像もつかないまったくちがう新しい自分を創りあげること(self-invention)が大切なのだ、とアメリカ人は言います。

 どんな家庭で育ったのか、という事実よりも、みずからの力でどんな人間になったのか、という事実のほうに、よりいっそうの価値があるのだ、と。


 ふたりの関係が「なぜ」こんなことになってしまったかをクヨクヨ悩んでいるよりも、これから先、ふたりの関係を「どのように」修復していくのかという方法を考えることが大切だ、という姿勢が重んじられるようです。

 つまり、いまじっさいに人生に役に立つことを考えてそれを実行に移そう、という。


 ですから、アメリカ人に「あなたはどこから来たのですか?」とたずねるのは、あまり意味がありません。

 それよりも「あなたはいま何をしているのですか?」とか「これから先、なにをしたいと考えているのですか?」とたずねることのほうがよろこばれるように感じられました。



地政学的には「日本は終わった」(Japan is done)の?

 近ごろアメリカの新聞記事などに目をやると、経済学者などの書いたエッセイなどに「Japan is done」(日本オワタ)ということばを見かけることが、たびたびあります。


 たしかに日本は老人大国ですし、これから先、ますますそうなっていくでしょう。

 アメリカの資本家やエリートたちから「生産性が低く効率の悪い国」になってしまったとみなされても、まさにその通りです、とうなずくしかないのかもしれません。


 数すくない若いひとたちが結婚できるような経済的安定と、子供を産みたくなるような未来への希望を提供できないのは、もちろん、わたしたち大人のせいだとおもいます。

 わたしたち大人が運営しているこの国に、新たな才能と未来の労働力が生まれてこないのはとうぜんかもしれなくて、海外の支配層に「日本オワタ」と判断されても歯ぎしりするしかないのでしょう。


 また、日本の若いひとたちは、世界でも「まれ」だと言われるくらいに、政治にたいしては無関心だといわれていて、数字にも出ているようです。

 これから先、国家間での資源の取り合いがあたりまえになり、地政学的にはますます厳しくなってゆく21世紀の世界で闘いぬいていける人材は育つのでしょうか。

「いや、ムリムリ。だって、大学生になっても、まだマンガやアニメやゲームに夢中になっている若者が大多数いるような国ではムリだ」とアメリカの支配階級(the ruling class)の人たちがほくそ笑んでいたとしても、しかたがないことかもしれません。


アニメ・ゲーム機の写真
アニメ・ゲーム機

 しかも、30年間にもおよぶ景気後退(recession)から抜け出せずに、ただひたすらMMT(現代貨幣理論:モダン・マネタリー・セオリー)を地でいくような金融緩和をおこなってきた(もしくはそのようにさせられてきた)日本をながめながら、アメリカの資本家やエリートたちが「さてさて、こういう経済政策をとらせた場合、どんな結果があらわれるのかな?」とうすら笑いを浮かべつつ、日本をテコにして、さらに資産を増やす手立てを考えていたとしても、それを拒むことはできませんし、しょせん日本はアメリカの資本家とエリートたちにとっての実験場みたいなものでしかない、とおもわれていたとしても、それもしかたがないことかもしれません。



わたしたち日本人がよく使う「しかたがない」ということばは?

 そして、このエッセイのなかで、わたしがなんどか使ってきた、この「しかたがない」(It becomes so by itself)という「あきらめ」のしかたそのものが、当時はとても「日本人的」だと考えられていました。


 つまり、わたしたち日本人の特徴として、事故や病気など、自分がおかれた状況にたいして「しかたがない」とあきらめることが多く、また、国家や社会や会社組織や学校などのありかたにたいしても、たとえそれが自分たちが望むものではなかったにしても、「しかたがない」とあきらめて、それを受け入れる傾向がある、と言われたりしました。


 昔の人のいう「長い物には巻かれろ」という態度でしょうか。


 現行のシステムは、先人が作りあげたもので、あくまでも人間が作ったものなのだから、いくらでも変えることできる、という方向へはいかないのが日本人だ、と言われました。


 わたしたち日本人は、いま目の前にあるシステムや法に欠陥があったとしても、あたかもそれが山や川や海などと同じ「自然」そのものであるかのように考え、台風や豪雨や洪水や地震などに打ちのめされたときとおなじように、いまある現実を黙って受け入れる傾向がある、なんて指摘されたり。


 でも、これは、ご存知のように、仏教でいう「諦観」(ていかん)という心の動きだとおもいます。

 なにをどうやっても変えることのできない現実を受け入れることでこれから先への一歩を踏み出そうという姿勢をあらわしています。

 これはヒトの力ではどうしようもならない『自然による災害』という現状を受け入れて「あきらめる」ときにもときどき使われることばですけれど、けっして自分の「目的」を捨てたという意味ではありません。



アメリカのほんとうの顔は「イジメっ子」なの?

 そんな分析をしてみせるアメリカの学者さんたちに言ってみたいことがあります。


 アメリカの地政学的な位置づけは、ひとことで言わせてもらえば「イジメっ子」(bully)ではないでしょうか、と。

 アメリカの支配層の方々などは、高校などで見かける、腕力と暴力にモノを言わせてみんなを脅して従わせているあの「イジメっ子」(bully:ブリー)の典型です。


 かつてのローマ帝国の支配層のように、腕力(軍事力)と暴力(経済制裁)によって、世界中の国々を足もとにひれふさせているのが、このイジメっ子だとおもいます。


 そのくせ、口をひらけば「自由」と「平等」と「民主主義」だなんて言って、自国アメリカの国民にたいしても、なにひとつ達成したこともないしすることもないだろう夢物語を「売り」にしている詐欺師(con man)たちでもあります。


 日本は、みんなのなかで手をあげて自分自身をひきたたせたりはしませんが、いつも目立たないようにしていて存在感が薄いのにもかかわらず、テストの結果が出るたびに、なぜか1位か2位に名前があがる「お利口さん」(good boy)な生徒です。


 その「お利口さん」は、ふだんから、それとなく目立たないようにイジメっ子を助けるのが仕事なので、こっそりカンニングさせてあげたり、イジメっ子の代わりに試験を受けてやったり、こっそりお金を貸してあげたり、イジメっ子のスマホや自転車を修理するための技術と部品を提供してあげたりもしています。


 腐れ縁(くされえん)ということばは、まさにこのふたりの関係、つまりアメリカと日本の関係、をあらわすためにあるようなものだとおもっています。



文化のちがいはなぜ大切なの?

 とにかく、このような時代に、いま、海外から日本をおとずれた旅行者は、京都や鎌倉を歩いてどのように感じているのでしょうか。


 金閣寺のたたずまいと新宿の歌舞伎町のネオン街の喧騒をくらべたとき、どんな印象を受けるのでしょうか。


夜の渋谷の写真
夜の渋谷

 もしくは、人力車に代表されるレトロなブランディングで海外からの旅行者をあつめる浅草。


浅草の雷門の写真
浅草の雷門

 表参道ヒルズに代表される和洋混淆のトレンドの最先端をいく街という「売り」のOmotesandoこと表参道。

 そして、アニメとフィギュアとコスプレとエレクトロニクスの展示会場として、日本文化の輸出にも貢献している「アキバ」こと秋葉原。


秋葉原の夜の写真
世界の「Akiba」こと秋葉原
この先にはなにが待ってるの?

 比較文化論という「間違い探しのゲーム」を楽しんでいた時代から、いつのまにか地政学という「陣取り合戦のゲーム」にお熱をあげる時代へと変わってしまいました。


 これから先、日本はどこへ向かっていくのでしょう。


 なんて大げさなことを申しましたが、じつを言うと、そんなことどうでもよくて、あまり心配したことはありません。それよりも、わたしにとっては「森林税」をはじめとして、いろいろワケのわからない税金を支払わなければいけないことのほうが、ダイレクトに生活費にかかわってきますので心配の種になります。

 

 そもそも、いまの若いひとは政治に無関心だと言いますけれど、無関心にならざるを得ないような政治ばかりが目につくためだ、と考えたことはないのでしょうか。

 もしくは無関心になるような面白みのない教育をほどこしてきたとは考えられないのでしょうか。


壁に描かれた漫画キャラクタの写真
壁に描かれた漫画キャラクタ

 漫画とアニメとゲームから学ぶことは数多くありますし、とても複雑で深い思考を求められるものも数多くあります。

 ちなみに現在のゲーム産業を見てみますと、2022年の時点で、およそ37兆円ビジネス(1ドル = 150円)にまで巨大になっていて、それにくらべると、たとえば全世界の映画産業が生み出しているのは14兆円、そして音楽産業はおよそ4.5兆円ほどです。


 それに、もしかしたら、世界でも「まれ」なほどの「政治的無関心」と言われるのも、なかなかイケてることなのかもしれません。

 なにしろ世界のなかでも「スーパーレア」な若者たちなのですから。

 ある意味、すばらしいことではないでしょうか。


 みんなが同じことに関心をもち、みんなが同じように考え、みんなが同じように行動する他国の若者たちが、なんらかの出来事によってつぶされそうになったとき、日本の若者だけが元気いっぱいに生き残っていて、残りのみんなを救うというシナリオだってありえます。



「隔離」されていたらどんなことが起こるの?

 ダーウィンが教えてくれたように、孤島にいたせいで、いつのまにかよく似た遺伝子をもつ仲間だけで栄えていたとしても、そこに数頭の、彼らが見たこともない捕食動物がやってきたら、あっけなく絶滅させられてしまう、という「隔離」(isolation:アイソレーション)がおよぼす影響とその結末はよく知られています。


 ご存知のように、閉ざされた特定の地域で暮らしていた先住民族が、ヨーロッパからやってきた侵略者たちによって滅された話は、世界史のなかにたくさんころがっています。

 そのほとんどが、侵略者がもたらしたウイルスや、その他の病原菌にたいして、いっさいの免疫をもたなかった先住民族の脆弱さが、敗因のひとつだというふうに言われているとおもいます。


 はたして隔離されているのは日本の若者たちなのでしょうか。それとも世界の若者たちなのでしょうか。

 もしかしたら「西欧」と呼ばれる文化圏に生まれ育って、そこでのモノの見方と考え方に染まった若者たちのほうが隔離された環境にいるのかもしれません。


京都の街の写真
京都の街のたたずまい

 そしてそれも、いつか歴史が明かしてくれる秘密のひとつなのでしょうか。


 どちらにしても「みんなが同じ」という世界は、かなり脆くて崩壊しやすい世界でもある、ということだけは、すでに歴史が教えてくれています。

 ひとりびとりがちがう、ということは、とても力強いことでもあるのです。


 ダーウィンによると「生き残る種は、もっとも強い種ではなく、また、もっとも知能のすぐれた種でもない。むしろ変化にもっとも適応する種である」ということだそうです。

 そして、その変化にたいする「適応能力」をそなえた新たな種をつくりだすためには「異種混淆」(いしゅこんこう)がもっとも手っ取り早い方法なのだそうです。


 突然変異という偶然を待つ時間のよゆうがないくらいに、わたしたちヒトがつくりだした文明の進化の速度は増しています。


 たとえば、地域戦争だったものが、ほんのちょっとした出来事や経済状況によって、あともどりできないほどエスカレートしていって、いつのまにか核をもちいた全面戦争にまで拡大し、気づいたときにはわたしたち人類すべてが滅びてしまうなんていうことも、攻撃と防衛システムをコンピュータとAIにゆだねている現代だからこそかんたんに起こり得るシナリオだということを、わたしたちは忘れがちです。



みんながそれぞれ「ちがう」ことがみんなの「宝」なのかも?

 そういう世界だからこそ、アメリカと日本のちがい、それぞれの国々がもつ文化のちがいは、ありがたい、すばらしいことであり、人類というヒトの存続にもっとも深いかかわりのある秘密(知識と技術の継承)がこめられているような気がしてなりません。


 おたがいがちがう見た目をしていて、ちがう考えをもっていることは、とてもステキなことで、わたしたちが長い歴史のあいだに学んで得た宝のひとつでもあるのではないでしょうか。


日本の祭りの写真
日本の祭り

 それとは逆に、ちがっているものをひとつにまとめる「統一」という考えと方法は、まさにヒト全体の存続を願うときには、かなり欠陥のある考えと方法のひとつだということは、たぶん、まちがってはいないようにおもいます。







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