top of page
執筆者の写真香月葉子

シカゴのレズビアンバー体験記 | アメリカのレズビアン事情

更新日:9月16日


AIDS(エイズ)時代の安全地帯はレズビアンセックスだった?


 1985年ころでしたか、サンフランシスコを拠点(ベース)としたレズビアン・エロティカ雑誌『On Our Backs』(オンナワバックス:エッチしようよ)が創刊されました。

 まだ「LGBT」ということばもなかったころです。

「LGBT」が使われはじめたのは1988年以降のことですけれども、レズビアン&ゲイのコミュニティーにおいても、じっさいにその4文字イニシャルことばがひろまりはじめたのは、おそらく2000年に近くなってからではないでしょうか。


レズビアン雑誌「On Our Backs」の表紙の写真
レズビアン雑誌「On Our Backs」(エッチしようよ)の表紙

 とにかく、ほとんど革命的とまでいわれたレズビアン雑誌『On Our Backs』が発刊されたとき、すでに、ビーチボーイズの有名な曲『Good Vibrations』(グッド・バイブレーションズ)をそのまま店名にした、女性による女性のためのアダルトグッズのお店がサンフランシスコにありましたし、猛威(もうい)をふるいはじめたAIDS(後天性免疫不全症候群 )とはほとんど無縁だったレズビアンの女の子たちは、おどろくほど元気いっぱいでした。


 まだインターネットもソーシャルメディアもなかった時代、さまざまな新聞や雑誌やニューズ番組で取りあげられていたのですけれど、AIDSを引き起こすHIV(ヒト免疫不全ウイルス)にもっとも感染しやすいグループはつぎのものでした。


①ゲイの男性(男性のホモセクシュアルグループ)

②注射器を使用する薬物中毒者

③風俗通いのヘテロ男性(既婚者をふくむ)

④血液透析療法を受けている患者


 どこにもレズビアンのグループがのぼってこなかったのをおぼえています。


 AIDSがひろまりはじめた当初、情報が混濁(こんだく)していて、あれはゲイの男性だけがかかる病気なので、「ヘテロセクシュアルの女性はだいじょうぶ」とか、「とくに既婚者の女性はいちばん安全」というようなことが言われていました。ところが、そのうち「あなたの夫が会社帰りに風俗で遊んでいた場合は危険」という警告にはじまり、「たとえヘテロの女性でも一夜限りの相手とアナルセックスをした場合にはさらに危険」などという警鐘(けいしょう)が鳴りはじめて、ひとびとみんなを恐怖におとしいれていきました。


HIVの画像の写真
HIVの画像

 じっさい、わたしがカリフォルニア州のバークレー市で暮らしていた1983年から1986年までの3年間、ゲイの男性の60%近くがHIVに感染し、そのうちのほぼ3人にひとりがAIDを発症して亡くなるという、とんでもない危機的状況だったこともたしかです。


 誤解なさらないでほしいのですけれど、ゲイの男性という〈在り方〉や男性同性愛者という〈生き方〉がHIVに感染しやすいということではなくて、たんに『コンドームを使用しないアナルセックスをすると危険度が高くなる』というのが科学的な認識です。


 ヒトの肛門(anus)や直腸内部の粘膜は傷つきやすいので、すこしでもムリな挿入(インサーション)をされると、目には見えない切れ目や裂け目ができて、そこからウイルスが侵入する可能性が高まるので、アナルセックスには注意が必要だ、という結論がみちびきだされたのです。


 ほんとうに恐ろしい状況でした。


『まるで戦争のようだ』と多くの医療関係者たちは述べていました。


『知の考古学』という著書で、いちやく〈知的セレブ〉の仲間入りをされたフランスの思想家で哲学者だったミシェル・フーコーも、AIDSで亡くなってしまいました。


 ちょうど、その一年前にカリフォルニア大学バークレー校に講演のために来られたばかりだったので、あまりのおどろきでトワイライト・ゾーンに足をふみいれたみたいな錯覚におちいりました。


ふりかえってみると、1980年代後半から1990年代半ばまでのあいだに、映画『ジャイアンツ』で歴史に残った俳優のロック・ハドソン、映画『サイコ』のアンソニー・パーキンス、黒人の天才的テニス選手アーサー・アッシュ、不世出のバレリーノのひとりルドルフ・ヌレエフ、ファッションデザイナーのペリー・エリス、また、地下鉄の落書きをポップアートにまで引っぱり上げてくれたキース・ヘリング、そして『Queen』のフレディー・マーキュリーなど、たくさんのステキなひとびとがAIDSという新種のウイルスによって殺されてしまいました。

 じっさい、わたしが聴講していた心理学部や社会学部のクラスからも、いつのまにか数人の男子学生がいなくなり、知り合いの女の子にたずねたら「エイズを発症したみたい」と聞かされることがしょっちゅうでした。


 潜伏期間が5年から10年近くもあるということで、70年代の後半に乱行パーティ(Orgy Party)などを楽しんでいたら、かなり〈ヤバイ〉(awful)ことになると言われていました。

でも、あの1970年代というのは、じっさい性の解放時代でもあったので、「なんでもあり」という時代精神(Zeitgeist=ツァイトガイスト)のなかを生きていたような気がします。けっして〈乱れていた〉という印象ではなくて、どちらかというと、自分の体の奥の声に忠実でありたいというひとが多かったようにおもいます。

 わたしもそうでした。


 そんな時代に、とつぜん、性の楽しみが〈死〉をもたらす、というような恐ろしい感染症があらわれたのです。


 じきに性的な接触(sexual contact)そのものが危険視されるようになりました。

 とくに HIV の主な感染源が〈血液〉と〈精液〉と〈愛液〉と〈母乳〉だとわかってからは〈体液恐怖症〉としかおもえないようなヒステリカルな心の反応をみせる人たちもふえてきました。


 なにしろ、性感染症のなかではよく知られている〈梅毒〉ですら、すでに過去のものだという認識がひろまっていましたし、いくら〈梅毒〉でも、さすがにAIDSほどの〈死神〉ではありません。

 それを知っていたからこそ、わたしも、心底、恐怖を感じていました。


 男の人とはセーファー・セックス(safer sex)を心がけていましたし、うんと若いころから、ほんとうに、いちども忘れたことはありませんでした。でも、女の人とは、AIDSということばがひろまる前、まだ東京で大学に通っていたころから、挿入という行為がありませんので、とうぜんのことのように、セーファー・セックスなんてことを気にかけたことはありません。それはカリフォルニアで生活をはじめてからもおなじでした。


 ですから、もしかしたら……そのうちAIDSを発症するかもしれない、とおもって覚悟(かくご)はしていました。


 でも、自分でそれを望んで楽しんだことは後悔したくなかったので、それはそれでしかたがない、とあきらめようとはしましたけれど、そんなにうまくはいきませんでした。

〈恐怖〉と〈あきらめ〉の両端をゆれうごく刃のついた振り子のまんなかにじっと立ちつくしていたような気がします。

 そのあと、HIV検査を受けることができるようになって、ネガティヴだったときのよろこびは、いまでも忘れられません。


 そんな日々のなかで「レズビアンセックスだけがもっとも安全」という情報がひろまり、ヘテロ色の強い女の子(straight woman)までもがレズビアン(日本では『ビアン』と呼びんでいます)の女の子に興味をもちはじめたり、「わたしは安全です」アピールのために〈にわかレズビアンごっこ〉をはじめたり〈にわかバイセクシュアル〉になる女の子がいたのもおぼえています。


 つまりAIDS時代の安全地帯はレズビアンセックスだったのです。


 ただし、レズビアングループにおいても「注射器を使用するほどの薬物中毒者を恋人にもっている場合には注意が必要」だと書かれてあったことはまちがいありません。


 夫と妻だけではなく、若い男女のカップルにおいても、おたがいに、過去2年間の恋愛セックス関係を告白したほうがいい。いや、それだけではなく、以前の恋人や浮気相手からも、彼らと性関係をむすんだ相手を聞き出しておくべきだ、といわれはじめたのもそのころです。


 自分だけの秘密にしておきたかったことなのに、それを告白しなければ命にかかわるぞ、というようなことを言われたのです。


 懺悔(ざんげ)とはまるでちがいます。

 懺悔では神父たちの〈沈黙〉が個人の秘密(情報)を守ってくれるはずですから。

 それは医者や弁護士とおなじです。


 でも、AIDSの場合はそうではありませんでした。

 秘密を開陳(かいちん)しなければ自分の命だけではなく相手の命までをも危険にさらすことになると言われたのです。

AIDSが、ヒトの命を奪っただけではなく、多くのひとびとの結婚生活と恋愛関係をも破壊したことはまちがいありません。

 そのような時代のなかでレズビアン人口は増えはじめ、レズビアンセックスの好みと方法も大きく躍進したのだとおもいます。


 女性を性的オブジェとしてあつかうことはゆるされない、という立場のフェミニズムをかかげている女性からすると、まず信じられないことでしょうけれど、ひとりの女性がもうひとりの女性を服従させて懲罰(ちょうばつ)をくわえるというBDSMプレイが、サンフランシスコの世界的に有名なゲイ・レズビアンのナイトスポット〈カストロストリート〉を中心に流行しはじめたのもそのころです。


レズビアンSMの画
レズビアンSMの画

 そのフラッグシップ(代表格)でもあったのが、先にお話したレズビアン専門誌『On Our Backs』でした。


 ポリスウーマンのコスチュームや、ブラの上に袖なしの革ジャンだけをはおり、タトゥーとピアスとチェーンで飾った筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)とした女性の写真などがお目見えするようになりました。


 つまり、ロックグループ『Queen』のフレディー・マーキュリーや漫画『ジョジョの奇妙な冒険』などで、みなさんにもなじみの深いハードゲイファッションが、いつのまにかレズビアン界隈(かいわい)でひろがりはじめたのです。



シカゴ最高のレズビアンバーとうわさされたお店は……。


 1988年当時のシカゴに『C.K.’s』(シーケーズ)というレズビアンバーがありました。


 なかへ入ると、いまの日本で見かけるごくふつうのファミリーレストランほどの広さで、ダンスフロアはほんの20畳くらいでした。


 とはいっても、席といえば、簡易テーブルと折りたたみ式の椅子をならべただけのことでしたので、状況にあわせてダンスフロアの広さが変わることがありました。


 窓に近いあたりにビリヤード台がふたつ置かれていて、入ってすぐ右側にはバーがあり、カウンターの前には背の高い椅子(カウンターチェア)もなにもおかれていませんでした。


 ですから、カウンターで飲むときは、みんな、立ったままです。


 80年代のはじめごろから、ニューヨークやサンフランシスコを中心にひろまりはじめた立ち飲みバーをおもわせる、打ちとけた自由なふんいきがありました。


シングルズバーのカウンター写真
シングルズバーのカウンター

 そのような様式のバーは〈スタンディングバー〉ではなくて当時は〈シングルズバー〉と呼ばれていました。


 映画『ミスター・グッドバーを探して』(Looking for Mr. Goodbar) のなかでもおなじみになった、あのシングルズバーです。(ところでこの映画のタイトルの〈good bar〉ということばに隠された意味はおわかりだとおもいます。Barには〈手すり〉という意味もありますので……)


 つまり独身者の人々のための出会いの場所というのがキャッチーフレーズ(catchy phrase)だったのです。


 そして、たしかに、そのキャッチーフレーズには効力がありました。


 じつは、そこで21歳の女子大生に出会ったことがきっかけで、ファイア・プレイを知ることになったのですから。



散歩中に足をふみいれてしまったのは不思議の国の不思議なグッズ店?


 1980年代後半のあのころ、わたしは、週末になると、女ともだちのクレアとふたりで、シカゴ大学のあるハイドパークからシカゴ・Lと呼ばれる鉄道システムの電車に乗り、40分ほどかけて大都市シカゴのダウンタウンへ行き、そこからまた30分ほどかけて、林立するビルディング街を通りぬけ、こんもりした樹々にかこまれた涼やかなリンカーン公園にそったお洒落なオールド・タウンの街並みを探索(たんさく)するのを楽しみにしていました。


 バックパックのなかには、手作りのランチを入れていたので、外食にお金をつかう必要はありませんでした。


 街路樹の下で、クレアと、手作りサンドイッチを交換したり食べくらべするのも楽しかったことをおぼえています。


 クレアの金色の髪は、樹々の葉のすきまを通りぬけてきた陽光をうけると、ほんとうにきれいに輝いて、うらやましいほどでした。

そんな彼女はわたしの黒髪にあこがれていたのですから、人は〈ないものねだり〉をする生き物なのだということがよくわかります。

 あの日は、たしか『Ton Sur Ton』(トンサートン)のジーンズを売っているブティックに立ちよったあと、べつのお店で、前から欲しかった『Fido Dido』のTシャツを買い、ぶらぶらしたあと、なにも知らずに『The Pleasure Chest』というお店のドアをひらいたのでした。


「プレジャー・チェスト」の店内の写真
「プレジャー・チェスト」の店内

 いまでは伝説となったロックグループ『Queen』のリード・ヴォーカリストだったフレディ・マーキュリーのように、裸の上半身に袖なしの皮ジャンパーをはおった筋骨隆々な店員さんが、すこしおどろきのまじった笑顔でむかえてくれました。


 インド系の顔つきがまじっていたフレディー・マーキュリーとはちがって、まさにWASP(白人のアングロサクソン系プロテスタント)といった顔立ちの、まさに白人っぽい方でした。


 ガラスのショーケースをのぞきこむと、さまざまな種類のディルドがならんでいます。


 また、レジのそばの壁にはチェーンや手錠や貞操帯などの拘束具とムチなどがぶらさがり、奥のほうでは、ハンガーにかけられたエナメル製や革製のコルセットやボディスーツやボクサーパンツやパンティなどが陳列されていました。

まさに大人のための不思議の国(Wonderland)でした。

 つまり『The Pleasure Chest』はアダルトグッズのお店(Adult Sex Toys Store)だったのです。


 しかもBDSM(ボンデージ、ディシプリン、サディズム、マゾイズム)のプレイで使われるフェティッシュな道具を専門に販売しているお店でもありました。


「プレジャー・チェスト」のカタログの表紙写真
「プレジャー・チェスト」のカタログの表紙

 ほかにもわたしたちの興味をそそる商品はあったのですが、どんなときに、どこに、どんなふうに使うのか、ほとんど想像すらできないものが多く、いちいちそれをたずねるのは恥ずかしいし、ためらわれて、けっきょくわからずじまいにおわりました。


ペニス拘束具の写真
ペニス拘束具

 残念でなりません。



告白と引きかえに教えてもらったのはシカゴのレズビアンバー?


「ゆっくり見てていいよ」と言われたので、のんびりウインドーショッピングを楽しませてもらっているうちに、その筋骨隆々な金髪青年がさりげなく天気の話題を投げてよこしたのです。


 シカゴにしてはめずらしくドライな風が吹いているからすごしやすいね、というような話からスタートしたように記憶しています。


 そのうちわたしたちはハイドパークからやってきたという話になりました。


 つぎにわたしは日本人でクレアはパリからの留学生だと告白してしまいました。


こんな個人情報をもらしたら、デジタルの情報網に支配されている今の時代でしたら、とんでもないことになるかもしれません。

 けれども、あのころは、まだ時の流れが深呼吸するくらいのテンポでしたし、わたしたちひとりびとりの読書の趣味や、購入したもの、または買い物をした場所や食事をした場所、出会った相手、そしてネットで検索したことばの履歴やネットの上でおとずれたサイトのすべての情報を、ほんの片手の数しかないグローバル企業が保存・管理しているというような世界なんて、まだSF小説や映画のなかでだけのお話でした。


 とにかく、店員の彼はやわらかいまなざしでわたしたちふたりを交互にながめて「女の子同士で遊ぶのだったら、このヒタチなんかどうだろう。男にとっても最高のバイブレーターだし。HITACHI がいちばんさ。メイドインジャパンだからまちがいないよ」と説明してくれたのです。

「でも、わたしたち、お金に余裕がないので……」

「それは残念だな。プライベートな質問をしてもいい?」

「はい」

「きみたち、レズビアン? 女の子ふたりでこの店に来てくれたし、おたがいを見つめる視線からもそう思ったんだけど、まちがってたらゴメンね」

「わたしたち、バイセクシュアルです」

「そうなんだ。で、このあたりは、はじめて?」

「はい」

「北ブロードウェイ通りにC.K.’sというレズビアンバーがあるの、知ってる? ダンスもできるから行ってみたらいい。ただし、ふたりとも未成年に見えるから、身分証明書だけは忘れないように」

「わたしたちみたいなバイセクシュアルでも入れてもらえるの?」

「ぜんぜん問題ないよ。でも、知り合いのレズビアンの女の子たちの話だと、けっこうワンナイトスタンドを求めてる女性が多いらしいから、それなりの覚悟はいるだろうけどね。年配の女性も多いみたいだし。いちおう、きみたち、経験はあるんでしょ?」

そんなふうに、予想もしていなかった質問を、とつぜん投げてよこされると、たいていキャッチできなくて、負けてしまうのがわたしです。

 姉から〈バカ正直〉と言われていたのはそのせいなのかもしれません。


「はい。女の子とは東京の大学に入ったころから」と告白してしまいました。

 クレアは「へえ、わたしより遅いね」とおどろいた顔をむけました。

「だったら大丈夫。あそこに来る女性たちはけっこうアグレッシヴらしいから、誘われたときの身のふりかたは考えておいたほうがいいよ。泊まりになる可能性もあるし。それから、バイセクシュアルだってことは最初に言ってたほうがいいかもね」

「いつもそうしてます。カリフォルニアにいたときからずっと。ステキなアドバイスをありがとう」

 そういう内容の会話でした。


 そして、わたしたちは、その翌週の土曜日に、当時のシカゴのレズビアン界隈ではよく知られたレズビアンバーに足をふみいれることになったのです。


ナイトクラブの写真
ナイトクラブ

『Augie & C.K.’s』が正式な名称だったようですけれど、わたしにとっては『C.K.’s』のほうが思い出とくっついていて、よりなじみ深いものになっています。



濃すぎるジン・トニックにこめられたメッセージ?


 はじめての日、開店時間も知らずに足をふみいれたのですが、ボーイッシュでハンサムな30歳くらいのバーウーマン(Barwoman)と、彼女の恋人だとすぐにわかるふんいきの20歳前後の学生風の女の子が、わたしたちふたりを、こころよく迎えてくれました。


「シカゴには旅行で?」とバーウーマンにたずねられました。

「ううん、ふたりともハイドパークに住んでます」

「シカゴ大学の学生さん?」

「彼女はパリジェンヌの留学生で、パリには彼氏がいます。わたしの夫は日本人留学生で、いま大学院にいて、わたしは聴講生をしてます」

「え? あなた、結婚してるの? ぜんぜん、そんなふうに見えなかった。ふたりとも、ここ、どういう場所か、わかってる?」

「はい。ちゃんとわかってて、来ました」

「じゃ、目的は……セックス?」

「はい」

「だったら、わたしと同じよ。だからここでバイトしてるの。女の子との経験はあるのね? キス以上の」

「もちろん」とわたしたちは、ほとんど同時にうなずいていました。

 そして、そこでもふたたび「バイセクシュアルでもオーケーなんですか?」とたずねたのをおぼえています。

「もちろんよ。女の子だったら、たとえヘテロ(heterosexual)の女の子でも歓迎するわ。メディア関係の人で、たんなる好奇心半分のストレートな人だと、さすがにおことわりしてるけど。あのね、既婚のバイセクシュアルの女の子って、けっこうモテるのよ。幼いころからストレートにレズビアンであることを意識した子とはちがって、セックス経験が豊富だっておもわれてるから」

「ありがとう。気持ちがすこし楽になりました。すごく緊張してたから」

「ところで、まだ開店まで1時間以上あるの。よかったら、手伝ってくれる?」


 そう言われて、わたしたちは、学園祭の準備をしているような気分で、簡易テーブルをセットしたり折りたたみ椅子をならべたりしました。


 そのかわりにジン・トニック(Gin & Tonic)をごちそうになったのです。


 ただし、グラスにそそがれたのは、ほとんどがジンで、炭酸水はほんのわずかしか入っていませんでした。


 ステアされたときも、ほとんど泡が出ないくらいでした。


 しかもグラスを手わたされたとき「楽しんでね」と言われて、ほんとうにうれしかった。

あまりお酒に強くないクレアの白い顔は、すぐさまピンク色にほてりはじめて、目はうるみ、唇はゆるんで、ほんのさきほどまでの彼女とはまるきり別人の印象をうけたのを、いまだにハッキリとおぼえています。

 わたしはお店のなかの公衆電話から、学生寮にいる彼に連絡をいれて、ことの成り行きを説明しました。


 そのあとわたしは、大都市の黄昏を見たくなったので、クレアとバーウーマンにそのことを告げたあと、お店のそばの歩道のはしっこに立って、ものめずらしそうにこちらを盗み見る歩行者や、通りすぎてゆく自動車を、ひとり、ぼんやりとながめていました。


シカゴの夜の街角の写真
シカゴの夜の街角

 そして、アメリカ中西部の大都市シカゴの空が、ゆっくりと赤銅色(しょくどういろ)に変わりはじめ、ビルディングのスカイラインをきわだたせつつ、静かに闇にのみこまれていくのを見つめていました。



レズビアン分離主義者vsヘテロのフェミニストの戦争?


 わずか1時間たらずで、『C.K.’s』の店内は、けっこうなにぎわいになりました。


 もちろん全員が女性です。


レズビアンバーの写真
レズビアンバーの雰囲気

 そのなかでクレアといっしょにお酒をなめていると、やわらかい羽毛のコンフォーターにつつまれているみたいな安心感とともに、ワクワクドキドキ感がノドのあたりまでのぼってきて、唾液をのみくだすのがむつかしくなったのをおぼえています。


 クレアは甘いものが大好きなので、いつのまにか、ラム酒ベースのダイキリ(Daiquiri)をなめていました。わたしは、バーウーマンがごちそうしてくれたジン・トニック(Gin & Tonic)を飲みおえたあとには、ドライなウォッカ・トニック(Vodka Tonic)を楽しんでいました。


 これほどたくさんの女性が、ひとつの場所に、しかもひとつの屋根の下にあつまっているのを見るのは、女子校を卒業して以来、ほんとうにひさしぶりのことでした。


 そういえば、あのころ、この、すみからすみまで女性だけで埋めつくされた空間そのものを心地よいと感じるか、それとも居心地(いごこち)が悪いと感じるかで、レズビアン傾向のある女性と男好きなヘテロ女性を見分けることができる、という考えがひろまりかけていました。

ようするに同性にたいするライバル意識と嫌厭感(けんえんかん)の問題が浮かびあがってきたのです。

 じつは、カリフォルニア州のバークレー市で暮らしていたころ、サンフランシスコで全米フェミニストの集会があって、そのときのようすが『Daily Californian』というカリフォルニア大学バークレー校のカレッジ新聞に掲載されました。


 そのあとキャンパス内でさまざまな議論がおこったのです。


 たしか、その記事によると、フェミニスト集会がはじまろうとするときに、多くの女性が席をたって会場から出ていってしまったそうです。


 その方たちを調べてわかったらしいのですが、席を立った全員がヘテロの女性で、表向きの理由は「けっきょく女ばかりで議論をしても世の中を変えることができるとはおもわなくなった」ということだったらしいのですけれど、拒否した女性たちひとりびとりをインタビューした記者によると、じっさいには「会場が期待していたほど広くなかったせいか、女くさくて息がつまった」とか「両わきにこしかけている女たちと肩や肌がふれあうのがガマンできなかった」という生理的反応がおもな原因だったらしいのです。


 それを、同性にたいする〈嫌厭感〉と〈ライバル意識〉というふうにその記者が結論づけていたために、キャンパス内でさまざまな議論がはじまったのだとおもいます。


女性たちばかりのコンサートの写真
女性たちでいっぱい

 

 みずからをレズビアン・フェミニストと称する女性たちのなかからは、「ヘテロのフェミニストと手をつないでも現状は変わらない」とか「ああいう女たちは、けっきょく男と結婚することしか頭にない女たちであり、男を〈カネづる〉としか見ていない女たちなのだ」とか「ヘテロ女は男性中心の政治経済システムを裏でささえている奴隷でしかない」などという意見まで出てきて、おしまいには「同性と肉体関係をもてないような女にフェミニズムをとやかく言う資格はない」という極端な意見(extreme opinion)まで飛び出したのをおぼえています。


 そして、わたしがシカゴに移り住んだころには、「ヘテロ女のかかげるフェミニズムからは脱退して、男たちがつくりあげてきた歴史(history = his story)を支えるのではなく、女を愛する女たちの歴史(herstory = her story)をつくりあげるのだ」というレズビアン分離主義(Lesbian Separatism)がさかんになっていたようにおもいます。


 つまりレズビアン分離主義者vsヘテロのフェミニストとの戦争がはじまったのです。



店内ではブッチ・キャサリンとフェム・キティのセクシー視線バトルが進行中?


 とにかく、ぎっしりと女性に埋めつくされたレズビアンバーのなかで、セクシーに抱き合って踊っている女性たちを見つめながら、体の奥に高まりを感じていたわたしは、友だちから言われていた以上にお酒に強かったような気がします。


 さすがに時代がくだっているので、店内には、1920年代のモガ(モダンガール)とともに、みなさんもよくご存知の宝塚的ギャルソンヌ(男装の麗人)は見かけませんでした。


 短めのウルフカットでズボン(pants)姿の女性と、1980年代に特有のパーマかけすぎで頭が大きく見えるロングヘアにフレアスカート姿の女性のカップルが、ほぼ3分の1を占めていたようにようにおもいます。


 その女性たちにしても、男性の方たちがごらんになったら、おそらくヘテロ女性なのかレズビアンなのか見分けのつかないタイプがほとんどです。


 残りのほとんどは、男の子っぽいファッションできめた〈ブッチ・キャサリン〉と、女の子っぽいフリル系のファッションに身をつつんだ〈フェム・キティ〉ばかりで、みんな、恋愛相手もしくはセックスフレンドを募集中といった感じで、なんともいえない熱っぽさのある同性愛視線(gazerではなく、あくまでもgayzer)を飛ばしていました。


 〈ブッチ・キャサリン〉と〈フェム・キティ〉はわたしの造語(neologism)で、知り合いの女の子たちのあいだでけっこう人気だったので、いつも使わせてもらっていました。


 女学院時代に見た映画『明日に向かって撃て!』の原題 “Butch Cassidy and the Sundance Kid” (ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッド)からとってきたものです。


 ブッチは俗に〈男役〉の女性をさしています。フェムは、みなさんご存知のように、フランス語の女と妻をあらわすファム〈femme〉からきていて、レズビアンの世界では〈女役〉のことです。

トップとボトムという言い方もありますけれど、ホモセクシュアルの男性がよく使うことばなので、ビアンの女の子たちはそれとなく敬遠(けいえん)していました。

 この男役と女役という分け方なのですけれど、1980年代も後半になると、この役割もけっきょくは男性社会がつくりあげた結婚制度によるものだし、男性中心社会を反映している役割なので止めるべきだ、という意見が出てきて、どこからどう見てもふつうのヘテロの女性にしか見えないレズビアンカップル(ビアンカップル)が登場してきます。


 また、ベッドの上で男役と女役をころころと交換できるようなタイプのリバ(リヴァーシブル)と呼ばれる女の子が登場しはじめたのもこのころです。


 つい先ほど説明させてもらった店内の女の子たちのほとんどがそうでした。


 でも、いちばんおどろいたのは、あの夜、すでに、キレイにお化粧をほどこした女の子たちが、10人以上、ひとところにあつまってテーブルを占領し、だれかに声をかけてもらいたそうにしながら、おしとやかにお酒をのんでいるのを見かけたことです。


 かなりしっかりとしたお化粧で、どの女の子も映画『マドンナのスーザンを探して』(”Desperately Seeking Susan”)の中から出てきたようなふんいきでした。


 わたしは、彼女たちの濃いルージュの口紅を見て、ちょっとドキッとさせられたのをおぼえています。


踊るふたりの女性の写真
踊るふたりの女性

 後年、〈リップスティック・レズビアン〉と言われるようになる女の子たちの元祖(がんそ)だったのかもしれません。


 店内に流れていたダンス音楽は、中西部で流行しているローカルなものが多かったらしく、わたしの知らない楽曲ばかりだったのが、よりいっそう新鮮で、とても刺激的だったのをおぼえています。


 もうひとつ新鮮だったのは、店内にふたつ置かれたビリヤード台を占領していた大柄で肉づきのよい女性たちの姿です。


 わたしとクレアを足して2倍にしたくらいに、ほんとうに大柄な、まるでお相撲さんのような女性たちが、クールなおももちでビリヤードを楽しみながら、それとなく好みの女の子を物色しているのがみてとれました。


 4、5人ほどの仲間で遊びにきていた彼女たちは、全員がショートヘアで、しかも全員が洗いたての白いシャツを着て、下は超特大の黒っぽいパンツ姿でした。


 お酒のおかわりを注文するために、席を立って、人混みをわけながら彼女たち(Butch Dyke = ブッチ・ダイク)のそばを通るたびに、「ハァ〜イ、ハニー」と声をかけられ、さらりとお尻をなでられたりもしました。


 そんな彼女たちの体は清涼感のある香りにつつまれていました。また、その首すじや腕や指先にうかがえる清潔感は、シカゴのダウンタウンで見かけるふつうにお化粧をしたビジネス・ウーマンたちの比ではありませんでした。


 髪の生えぎわから爪のすきまにいたるまで、何時間もかけて磨きぬいたような清潔感でした。

この〈清潔感〉というのが、サンフランシスコでもシカゴでも、レズビアンバーに来ている女性たちに共通の、いちばん印象に残っている特徴です。

 それとは別なのですけれど、ひとつ、問題がありました。


 なかなかトイレに行けないことです。


 せまい通路の奥にトイレットブースがいくつかあるのですが(その部屋数をおもいだすことができません)、通路の両わきにはずらりとブッチタイプの女性がならんで立っていて、トイレから出てきたフェムっぽい女の子に声をかけては引きよせ、〈NO〉サインを示さなければ、そのまま抱きしめてフレンチキスをはじめたりするものですから、目のやり場に困るだけではなく、声をかけられても笑みを返すべきなのかどうかすらわからずに不安になって、クレアといっしょにロボットの玩具(おもちゃ)みたいにぎこちない歩き方でトイレットブースへ向かうしかありません。


くちづけする女性たちの写真
くちづけ

 ときには、通路に立ちはだかって、通せんぼするみたいに両腕をひろげてほほえんでいる女性もいたので、「ちょっと失礼」と言いながら彼女の腋の下をくぐりぬけたりもしました。


 なにしろアメリカの白色人種(caucasoid)や黒色人種(negroid)の女性は体の厚みからくる立体感がちがいますので、迫力があるし、美人の女性にいたっては、もうどうしようもなく美しくて、この人はわたしたちと同じ人間なのだろうか、もしかしたらアンドロイドなのでは、という疑問すらわくほどです。


 それに、ようやく奥の小部屋に到達できたとしても、そのトイレが、鍵があってもないのと同じで、ちょうど座ろうとしたところに、いきなりドアがあいて、こちらがあわててショーツをたくしあげると、「あっ、ごめんね」と言いながらも、やさしくほほえんだまま、なかなかドアを閉じてくれないものですから、それが好みの女性だった場合には、ラフマニノフのピアノ協奏曲を聴いたときのように「もうどうにでもして」という気分になって、あの狭苦しいトイレのなかへ誘いこんでしまいそうな自分を感じて、そんな自分が怖くなったのをおもいだします。



❤️この記事は『燃えるセックス【Fire Play】ファイア・プレイとは?』(2022年10月31日公開)からの抜粋(ばっすい)です。




無断引用および無断転載はお断りいたします

All Materials ©️ 2021 Kazuki Yoko

All Rights Reserved.

bottom of page