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  • 執筆者の写真香月葉子

戦争メモ 其の4 | 戦争について考える | 反戦映画と兵役逃れとパレスティナの惨状

更新日:4月7日



戦争映画について考えてみました。

 たしか『日曜洋画劇場』だったとおもいます。

 子供のころに見たことのある戦争をテーマにした映画で、もっとも印象に残っているのは『ジョニーは戦場へ行った』(Johny Got His Gun)という映画でした。

 第1次世界大戦の戦場で、四肢だけではなく、顔の大部分をも失ってしまった青年が、病院のベッドに横たわって過去を思い出していきます。舌がないので、もちろん話すことはできません。視覚も聴覚も嗅覚もうばわれた状態ですから、彼のひとり語り(モノローグ)がなければ、ジョニーがなにを考えているのか、どういう気持ちでいるのか、まったくわかりません。医師や看護婦にとっては、たんに、人間の形をうしなった肉の塊が、頭をゆすぶったり、首を縦にふったり横にふったりしているとしか見えません。条件反射のような機械的反応の一種だとおもわれていて、彼がなにか意味のあることを伝えようとしているのだとは受け取ってもらえません。けれども、そういうイモムシのような「動き」だけが、ゆいいつ、彼に残されたコミュニケーションの手段であり、また、両腕両脚をうしなって、長方形の箱のようになった胴体の肌で味わう感覚だけが、ゆいいつ、外界とのつながりをもたらしてくれるものでした。そんな彼の生活に、ある看護婦が変化をもたらして…というぐあいに、病院に横たわったジョニーの戦後15年間を描いていくというシンプルでパワフルな反戦映画です。

 病院のベッドに横たわっている現在の場面はモノクローム(白黒)で描かれ、回想のシーンは美しいほどのカラー映像でつづられています。

 戦争をあつかった映画で、つぎに印象に残っているものといえば、『2001年宇宙の旅』や『シャイニング』そして『アイズ・ワイド・シャット』などで知られるスタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』でしょうか。

 これはブラックジョークにあふれた「痛快」なほどの風刺映画でした。

 キューブリック監督は、それから20年以上もの時を経て、ふたたび戦争をテーマにした『フルメタル・ジャケット』を世に出しました。

 この映画では、なにげなくブラックな笑みをもらしてしまいそうな場面が、いくつか散りばめられていました。

 キューブリック監督と同じように、鋭い風刺によって戦争批判をしたものにはロバート・アルトマン監督による『M★A★S★H マッシュ』がありますし、また、わたしの愛読書のひとつだった『Something Happened (なにかが起こった)』の作者ジョセフ・ヘラー原作の映画化『Catch-22 (キャッチ=22)』も記憶に残っています。

「キャッチ=22」ということばは、その物語の登場人物たちのあいだでは、軍規のひとつだとみなされているのですけれど、じっさいには存在しないもので、不条理な板ばさみ状態をあらわす表現として、わたしが1980年代にアメリカで暮らしていたころには、もうすっかり社会に浸透して日常用語として使われていました。

 たとえば、「彼の授業を受講するためには、彼女の授業を事前に受講しておかなければいけないけれども、彼女の授業を受講するためには、彼の授業を事前に受講しておかなければいけない」とか「アメリカで働くためのワーキングヴィザを取得するためには、ちゃんとした働き口がなければいけないけれども、ちゃんとした働き口を得るためにはワーキングヴィザが必要になる」といったようなブラックジョークがひろまっていて、「これってまさにキャッチ=22(八方ふさがり)だろ?」と苦笑していたバークレー校の学生たちをおもいだします。


戦争の光景を描いた絵
戦争の光景

 カミュやサルトル時代の不条理では「溺れているヒトがいる。でも、それを見つけた自分は、いま、橋の上でひとりきりだ。つまり救えるのは自分だけだ。でも自分は泳げない」というものだったはずですけれど、キャッチ=22の場合は、双方向からの不可能性にはさまれてしまうところが、なんとも言えないゆがんだ黒い笑いと、ひんやりしたすきま風をおもわせる怖さをもたらすようです。

 ところで、その手の風刺的な作品とは別に、『白鯨』に登場するエイハブ船長のように、敵軍のUボートに取り憑かれたひとりの男を描いた『マーフィの戦い』という映画も心に残っています。



ではエンターテイメント系の戦争映画は?

 戦争映画のなかでもエンターテイメントに属するものでは、たくさんの火薬が華々しく使われ、たくさんのアクション場面があって、敵と味方がハッキリしているか、たとえハッキリしていなくても、ちゃんと悪役は存在していて、主人公たちは、そんな悪にたいする反撃や復讐をくわだてながら、おしまいには、その物語を見ているわたしたちに「それ行け」という高揚感と「やった」という勝利感や満足感や解放感をもたらしてくれる作品になっているはずです。

 さすがに近年は、あまりにもわかりやすい勧善懲悪のラストシーンでしめくくる映画は見かけなくなりましたけれど、たとえ、観客の愛国心にうったえかけたり、ストレス解消を提供してくれなくても、最新兵器や最新デジタル技術の品評会をおもわせる映像で観客を満足させようとするものもあります。

 また、いっしょに闘う者たちだけが味わうとされる「熱い」友情や帰属意識を刺激するような映画もあります。

 その手の戦争映画は、もしかしたら、団体スポーツをしているときやコンサート会場に行ったときに感じる「みんなとひとつになる」とか「同じ趣味を共有する仲間とひとつになる」といった帰属意識と高揚感に似たものをあたえてくれるのかもしれません。

 ただし、軍隊の組織における上下関係については、いっけん厳しくリアルに描かれているようにみえても、じっさいの組織における人間関係の複雑さや政治のむつかしさにくらべると、あくまでもエンターテイメントなのですから、ある程度ロマンティック(非現実的)な視点で描かれているものがほとんどだとおもいます。



反戦映画とはどういうものなのでしょう。

 反戦映画の場合は、このように現実離れした視点で戦争を描いている場面が、娯楽性を追求したものにくらべて非常にすくなくなっています。

 まず、戦闘場面や、その他のアクションシーンで、「カッコいい」とか「それ行け」とか「やった」といったような高揚感や達成感や満足感や解放感をもたらさないような手法を使っている映画が多いようです。

 そうしなければ、戦いや殺し合いを享楽する可能性がでてきて、戦争を批判したことにはならないからです。

 たとえば、戦争の真実とはこういうものだ、と主張しつつも、悪に裁きを下すような戦闘シーンが使われてしまうと、けっきょく観客のうっぷんをはらすことになり、「やはり戦争は必要悪だ」とか「暴力には反対だけれども悪を排除するためにはしかたがないことかもしれない」という考えを押しつけているのと変わりがなくなるからです。

 とは言っても、反戦映画も商業映画のひとつであることに変わりはありませんから、わたしたちの興味を引いてくれるストーリー展開と、ふだん見ることのできない映像(世界)が提供されていなければいけません。

 つまり、わたしたちを別世界へ連れていってくれなければいけません。

 この日常生活をしばしのあいだ忘れさせてくれなければいけません。

 ただし、良質の反戦映画の場合、戦争という特殊で異常な背景のなかですら、日常生活でみかける人間のさまざまな感情の起伏が描かれ、おどろくほど細やかな日常生活の一面を浮かびあがらせてくれるものが多いように見受けられます。

 戦争は悪いものだ、という一方的な押しつけではなく、人間にとって戦争とはどういうものなのか、戦争とは何なのか、ということを疑似体験させてくれる作品が、たぶん、レベルの高い反戦映画なのかもしれません。

 エンターテイメントではありながら、戦争アクション映画とは、楽しみ方の質がすこしちがう感じの…。

 そういう意味でも『ジョニーは戦場へ行った』という映画は、いろいろな意味でほんとうに素晴らしい作品ですし、いちど見たら、二度と忘れることのできない映画だとおもいます。

『ディアハンター』や『Uボート』(Das Boot)、そしてカート・ヴォネガットの原作を映画化した『スローターハウス5』もそれぞれ反戦映画のひとつに数えられてはいますけれど、独特のスリルと高揚感をもたらす場面もいくつかあって、戦争アクション映画と反戦映画とのハイブリッドなのではないかとおもいます。

 この手のハイブリッドな戦争映画には、たいてい胸をしめつけられるようなラストシーンが多く、そのあたりが元気いっぱいで胸がスカッとする戦争アクション映画の終わり方とはすこしちがった印象をもたらすはずです。

 見終わったあと、ほんの数分間でもいいから、いちおう戦争の残酷さと悲劇について考えてみてね、というメッセージがこめられているのかもしれません。

 たとえば、オリバー・ストーン監督の作品でしたら、『プラトーン』よりも『7月4日に生まれて』のほうが、より反戦映画としての評価が高くなっているとおもいます。

 また、フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』は、反戦映画でも風刺映画でもなくて、『ザ・ゴッドファーザー』とおなじく人間ドラマですし、作家ジョセフ・コンラッドの名作『闇の奥』(Heart of Darkness)を元にした文明批評でもあると解釈されているのは、あの映画を当時リアルタイムでごらんになった方たちには馴染みの深い評価だとおもいます。

 とは言っても、こまかいジャンル分けなどどうでも良いとおっしゃる方は、ぜんぶひとまとめにして「戦争映画」と考えていただいて、ぜんぜんかまいません。

 ところで、近ごろ見た反戦映画のなかでは、『命の伝令』と『西武線線異状なし』が、もっとも心打たれた作品でした。

『西武線線…』は、わたしの両親だけではなく、義父母もレマルクの原作は読んでいましたし、戦争を経験した世代の方たちのほとんどは映画も見ていたはずです。

 1930年公開の映画、1979年テレビ放送された映画、そして2022年にNetflixで配信された映画と、なんどか再映画化(リメイク)されていて、戦争文学と戦争映画を語るときには無視できない作品です。


レマルクの『西武戦線異状なし』の英語翻訳版表紙の写真
レマルクの『西武戦線異状なし』の英語翻訳版の表紙

 わたしは1930年のものと2022年のを見ました。

 ドイツで製作されたNetflix用の2022年度版のものが、映像の技術が格段に進歩しているせいか、レマルクの原作に描かれていた戦場と世界観を忠実に再現しているように感じられました。

 ドイツ帝国生まれのレマルクもお墓の下で満足しているのではないでしょうか。



徴兵をまぬがれたひとたちがいます。

 カリフォルニアにいたころ、シルヴェスター・スタローン主演の『ランボー』という映画が大流行していて、映画館の前には長い列ができていましたが、ほとんどが男性たちばかりで、アメリカではめずらしくカップルがすくなかったのが印象的でした。

 テレビで紹介されていたとき、はじめてそのタイトルを耳にしたのですが、主人公の名前だと知らなくて、「乱暴」という日本語を使っているのだとおもって笑われたことがあります。また、黒澤明監督の「用心棒」をもじってつけたのかしら、とひそかに考えていたこともあります。


シルヴェスター・スタローン主演の映画『ランボー』のポスター写真
シルヴェスター・スタローン主演の映画『ランボー』

 心的外傷後ストレス障害(PTSD)をかかえたベトナム帰還兵の物語で、重いテーマをかかえていることから、娯楽追求のアクション映画とは異なっているという評が多かったようにおもいます。けれども、アクション場面そのものが娯楽性を追求したものでしたので、もちろん反戦映画ではありません。その3年後に世界中を沸かせたトム・クルーズの『トップガン』とおなじく、戦争をあつかったアクション映画の代表作だとおもいます。

 ところで、『ランボー』では、反戦デモを行なっている平和主義者のひとたちから罵声を浴びせられた思い出を抱える主人公が描かれていますし、『トップガン』では空母から発艦するジェット戦闘機が興奮と愛国心の両方を刺激するように描かれているため、ペンタゴン(米国国防総省)からもさまざまな援助を受けることができたようです。

 じっさい、米国で暮らしていたとき、『トップガン』のおかげで兵役への志願者数が3倍に増えた、という記事を読んだことがあります。


空母から発艦するジェット戦闘機の写真
空母からジェット戦闘機が発艦するようす

 おもしろいのは、ベトナム戦争当時のアメリカで1964年から1973年まで徴兵制(the draft)がしかれていたのですけれど、スタローン氏自身は兵役を経験したことも戦場に行ったこともなく、1965年9月~1967年6月までの2年間をスイスにあるアメリカン・カレッジ・オブ・スイッツァランドで過ごし、帰国後の1967年~1969年はマイアミ大学で演劇を専攻していました。

 当時、大学生や大学院生、もしくは結婚して子供のいる若者は、徴兵から免除されたので、スタローン氏は「徴兵逃れ」(draft evasion)をした若者たちのひとりでもありますし、そのような暴露記事を書かれたこともあります。

 そのことについては、シカゴ大学で教えておられたジョン・J・マカルーン先生の『オリンピックの歴史とその象徴的意味』という授業を聴講し、たびたびオフィスの扉をノックするようになったころに知りました。

「彼はベトナム戦争当時、お金持ちのお嬢さんたちが入るスイスの全寮制学校(ボーディングスクール)で管理人のアルバイトをしながら徴兵を免れた男なんだよ。ぼくは大学院に入って教授をめざすことで徴兵逃れをした人間のひとりだけどね」

 そんなふうに先生ご自身が告白したのですけれど、後年、スタローン氏に関する先生のこの情報はまちがいだったことがわかりました。

 さきほど述べたように、全寮制の女子校ではなくて、ビジネススクールと教養課程(リベラルアーツ)をそなえたアメリカン・カレッジ・オブ・スイッツァランドで学んだということでした。

 ちなみに、ロックフェラー家の一員でもあるウィンスロップ・ポール・ロックフェラー氏もここの卒業者(アルムナイ)のひとりです。

 この方はスタローン氏より2歳年下で、1948年生まれですので、おなじようにベトナム戦争当時の徴兵制度にひっかかる世代のひとりですけれど、スイスに滞在しておられたので、戦場へ送られる心配はいらなかったはずです。

 マカルーン先生はつぎのように話しておられました。

「長いあいだアカデミアに隠れていたぼくとはちがって、戦場で殺されてしまったか、たとえ生き残っても手足を失って帰ってきた若者のほとんどは、大学に行くこともできない家庭の若者たちで、軍隊に入ったら職業訓練を受けれるし、さまざまな免許がとれるし、貯めたお金で大学へ行けるかもしれない、と夢に見てた人たちが多かったんだよ」

「金持ちの息子たちと米国議会の議員の息子たちも、いろいろな方法で兵役逃れをさせてもらっていたよ。カナダの大学へ行かせるのがいちばん手っ取り早い方法だった。東部に住んでいる連中だったら、距離そのものもたいしたことないから、感謝祭やクリスマスには息子たちを帰郷させて、一家団欒を楽しむことができたんだ。ぼくはミドルクラス出身だから、必死に勉強して大学の教員になる抜け道しか残されていなかった」

 わたしは「でも、兵役を拒否する、ってすばらしいことではないでしょうか。戦争反対の表明でもあるとおもいます。ヒトを殺したりヒトに殺されたりすることを拒否したということでもあるし」と言ったことをおぼえています。

「いや、ヨーコ、そんなにかんたんな問題じゃないんだよ。ぼくはいまだに罪の意識にさいなまれてる。たとえば、ぼくよりちょっと上の世代だけど、大学教授のなかにも、朝鮮戦争の兵役経験者たちがいてね、彼らと話をしていても、なんとなく頭があがらないんだ。彼らは友人たちの死体を乗りこえ、人殺しの方法を学んだあとで、大学にもどってきた人たちだからね。ぼくらとはまるでちがう種類の人間だよ。とくに同世代のベトナム帰還兵(Vietnam Veteran)たちに出会うと、男として、なんともいえないに引け目を感じてしまうんだ。それに、きみの言うような戦争反対の表明ということになると、じっさいにプラカード片手に街路を歩いて『反戦活動』をし、逮捕され、刑務所に入れられた人間だけが、堂々と胸を張って言えることだしね」



男性的であることの大変さが伝わってくるお話でした。

 とくに戦争ばかりしている米国で「男性的」(masculine)であろうとすることには命がかかっているようにすら感じられました。

 女のわたしには想像できない精神的苦悩をかかえておられていたのだとおもっていたのに、じっさいに戦場に行って殺された若者や、手足を失って帰国した若者たちは、そのような精神的苦悩ですら手のとどかない贅沢品だったのだと教えられてショックを受けたことをおぼえています。

 戦争を経験した国で、じっさいに戦争に行った人と、戦争に行かなかった人とのあいだには、目に見えない深いクレバスが口をあけているのかもしれません。

 男性的であるということの証明が、暴力と死にあふれた戦場体験だという世界は、ほんとうに酷いグロテスクなものだとおもいます。

 ちなみに、Wikipediaによりますと、ベトナム戦争によって亡くなった南ベトナムと北ベトナムの一般市民の数は405,000から627,000人、北と南ベトナム軍の兵士合わせて444,000人から666,000人、また、アメリカ兵と同盟国の兵士を合わせて282,000人で、合計およそ1353,000人のひとびとがベトナム戦争によって殺されたことになります。


ベトナム戦争戦没者慰霊碑の写真
ベトナム戦争戦没者慰霊碑(VietnamVeteransMemorial)

 ところで、イラク戦争中に空母に軍服姿で降り立ち、兵士たちを激励したジョージ・W・ブッシュ大統領も、兵役逃れをした方で、いちども戦場の土を踏んだことはありません。

 けれども「敬礼」の仕方は、なんども練習したおかげで「かなりサマになっていた」と自慢げに話していたのをテレビで見たことがあります。



戦場でまっさきに消えるのは「哀れみ」と「同情」のようです。

「ほめ殺し」という新語が登場し、バルセロナでオリンピックが開幕した1992年から、阪神淡路大地震につづいて地下鉄サリン事件の発生した1995年にかけて、遠くボスニア・ヘルツェゴビナでは紛争がつづいていたのですが、その当時、ボスニアで起こったスレブレニツァの虐殺を調査し、それについての記事を書いた人がいました。

 元ニューヨークタイムズのリポーターで作家のチャック・スデティックという方です。

 彼の『Blood and Vengeance(血と復讐)』という本のなかにはつぎのような描写があります。

「私はかつて、紫色と黄色に変色した男性や女性、そして数人の子供たちの死体が散らばった町を歩いたことがあります。なかには撃たれて死んだ者もいれば、首を引きちぎられた死体もありましたが、私はなにも感じませんでした。写真家と一緒にぶらつきながら、メモを取り、死んだ人々の体を覆っているシーツをめくっては、男性の死体の性器が切り取られているかどうかを確認してまわりました。壁のそばで射殺された市民服姿の6人の男性の曲がくねった死体の近くで地面から白い旗をひろい、それを持ち帰って机の上に掛けました。わたしは、以前、トラックの荷台のなかで圧死した赤ん坊たちの死骸を降ろしている様子を見て、すぐさまその母親たちのインタビューに駆けつけたことがありました。また、わたしの自動車の正面を自転車に乗って走っていた18歳の少年をぐうぜんにも轢き殺してしまったことがあります。彼の頭は圧しつぶされていました。彼をサラエボ中央病院の救急室に運ぶために車の後部座席に積みこむ際、わたしはドアを開けて手伝い、彼の父親にお悔やみを述べました。それからホテルへもどり、自分の部屋に入って、当日の記事をニューヨークへ送りました」

 感情をおさえこんでいるうちに、いつのまにか「無感動」(apathy)の状態におちいってしまった自分自身を、包み隠すことなく、淡々と、冷静に描いています。

 戦場で「哀れみ」(pity)や「同情」(empathy)を押し殺してしまうのは、心がこわれるのをふせぐための防衛機制(ディフェンス・メカニズム)なのかもしれません。

 ずいぶん昔のことですが、『企業戦士』ということばが流行したことがあります。企業で働いておられる方たちは戦場にいるのと同じなのです、という意味でも使われていました。

 勝つか負けるか、やるかやられるか、という二者択一を迫られるような仕事場(環境)では「相手のことなんてかまってはいられない」とか「他人に同情するような余裕はない」ということがよく言われていたようにおもいます。

 そういう意味では、まさにビジネスマンは兵士さんたちなのだろうとおもいます。

 商売(あきない)までをも戦場に変えてしまうシステムとは何なのでしょうか。

 ヒトであるためにもっとも大切な「感情」までをも押し殺させるようなシステムとはどういうものなのでしょう。

 レイモンド・チャンドラーの小説『プレイバック』のなかに書かれた、あの、あまりにもよく知られたことばを思い出さずにはいられません。

「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きる資格がない」

 原文はつぎのようなものです。

 If I wasn't hard, I wouldn't be alive.

 If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

 いま、命があって、これを読んでくださっている方たちは、みな強い方たちです。

 明日はどうなるのかわかりませんけれど、少なくとも、いま、この瞬間までは、事故で命を奪われることもなく、病気で一命を落とすこともなく、自殺をすることもなく、生きつづけてこられて、これを読んでくださっています。

 つまりヒトという生き物として「死」に打ち勝ってきたのですから、みなさん全員がサバイバーであり「強い」方たちなのです。

 そして、哲学者パスカルの「人間は考える葦(あし)である」ということばのように、みずからが自然界において弱い存在であることを認識できるという「知性」をそなえた生き物でもあります。

 極寒でなくても、摂氏20度の気温のなかですら、全裸でなにも身にまとわず日陰にいつづければ、低体温症(ハイポサーミア)におちいって死んでしまうほど脆弱な生き物が、わたしたち「ヒト」という動物なのです。

 生まれてわずか4-5時間で、鹿の赤ん坊はみずからの脚で立って移動することができますけれど、森のなかに置き去りにされたヒトの赤ちゃんが単独で生き残ることはほとんど不可能だとおもわれます。たとえ、文明という人工の自然によって生まれた都市と制度のなかでも、おそらく5年から10年のあいだはだれかに面倒をみてもらわなければ生きていけない動物なのですから。

 つまり、そういう弱い存在であるからこそ、心の面でもさまざまな弱さをもっているのがとうぜんでしょうし、おなじように「弱さ」を抱えている他者にたいしての理解が生まれてくるはずで、そういう他者への思いやりがなければ、ヒトとして生きる価値がないのではないか、という問いをレイモンド・チャンドラーは投げかけているのでしょう。

 ヒトは自然界では葦のように弱々しい存在だけれども「考える」ことができるからこそ偉大である、というニュアンスではなくて、自然界においては、頬をなでるようなそよ風にすら右へ左へと翻弄される葦みたいに弱い存在であるからこそ、その弱さを認識することが知性であり、その弱々しい立場から「考える」べきなのだ、というニュアンスでとらえると、帆船をくりだして世界を手中におさめようとしていた17世紀初頭の西欧に生まれ、ひとりのキリスト神学者でもあったパスカルのことばが胸の奥にしみこんでくるのではないでしょうか。

 ただ、残念なことに、このあと、帝国主義にささえられた西欧の文明は、彼の願いとは真逆の方法、つまり自然をねじふせるような「技術」と「暴力」とによって他国を支配し、その国のひとびとを奴隷にしていきます。

 そして、いままで恐れてきた「荒ぶる自然」をも科学によって理解できるようになるだけではなく、その科学によって生まれた「技術」(テクノロジー)を使えば、「荒ぶる自然」ですら自分たちの思い通りになるのでは、という「奢り」(おごり)を持ち続けながら、この21世紀にいたっているのかもしれません。

 それはどんな仕組みになっていて、これからどんなふうに変化していくのでしょうか。

 戦争が教えてくれることはさまざまです。



ガザでは今日も空襲がつづいています。

 2023年12月16日の時点で、パレスティナのガザ地区では、ハマスによる10月7日のイスラエル攻撃以来、イスラエル軍(IDF)による無差別砲撃と空爆などにより、18,800人の一般市民が殺害され、そのなかの8,000人は子供たちで、6,200人が女性、そして負傷者は51,000人にのぼっています。

 そして2023年12月17日の時点で、ジャーナリストとメディア関係者のガザ地区において確認された死者数は64人。内訳はパレスティナ人67名、イスラエル人4名、そしてレバノン人が3名となっています。また13名のジャーナリストが負傷、3名は行方不明、19名はイスラエル軍に逮捕されたと「伝えられて」(reported)います。

 また、崩壊した建物の瓦礫の下には、どのくらいの数のひとびとが埋まっているのか、いまだにまったくわかっていませんし、助け出すことすらできない状況なのだそうです。

 国際連合は、これはあきらかに民族浄化(Ethnic Cleansing)を目的したジェノサイド(大量虐殺 genocide)であると指摘してイスラエルを非難しています。

 それにくわえて、国際連合は、無差別砲撃とミサイルをつかった計画的な都市と家々の破壊がドミサイド(大量破壊 domicide)にあたるとして、おなじく強い批判を投げかけています。


2024年2月2日時点のイスラエル・ハマス戦争の犠牲者情報です
イスラエル・ハマス戦争による2024年2月2日時点での犠牲者数の情報です

 道路・水道・電気・公共交通機関など、社会を支えているもっとも大切な施設(infrastructure)のほとんどが破壊されてしまい、みなさんもご存知の通り、水と電気とガソリンの供給はイスラエルの管轄下にありますので、IDF(イスラエル軍)から指定された地区へ非難しようにも、交通機関がないため、一般市民は(そのうちの45%は14歳以下の子供たち)空腹と喉の渇きと闘いながら、瓦礫のなかを徒歩で何十キロも避難場所へ向かっているということです。

 ところが、イスラエル軍はその避難場所へも攻撃をくわえるため、ひとびとはさらに南下しなければいけない状況です。

 その模様は海外のジャーナリストたちによってビデオにおさめられています。

 攻撃する前にわざわざ「そこは危険だから立ち退きなさい」というような警告をするほどに人道主義的な国はわれわれだけだ、とイスラエル政府は自慢げに語っているけれども、たとえ戦時下においても、一般市民を強制的に彼らの住まいから立ち退かせるのは「戦争犯罪」にあたるとして国際連合はイスラエルを非難しています。

 ところで、2023年12月17日の時点で、ガザ地区にあるパリのノートルダム寺院よりも古い歴史を誇るモスクが、修復のみこみがつかないほど破壊されたことが確認されました。

 また、国際連合の報告によりますと、ガザ地区にある病院の7割以上が破壊され、100におよぶパレスティナの庁舎(government buildings)と300を超える学校がすでに崩壊してしまいました。

 問題になるのは、庁舎が管理していた出生証明書(birth certificate 戸籍謄本)や土地台帳(land register)の記録やデジタルデータまでもが跡形もなく破壊されてしまったことだ、とUN(国際連合)はイスラエルを非難しています。

 これによって、たとえ瓦礫の下から被害者の死体が回収されたとしても、じっさいの死者数を記録と照らし合わせることは不可能だし、ガザ地区が復興されるときが来たとしても、パレスティナのひとびとは自分の先祖が何世代にもわたって暮らしてきた土地の所有者としての権利を申し立てるための証拠とそのデータをうしなったことになる、と。

 つまり、彼らは、とつぜん居住権を奪われたのとおなじで、これらは明らかに意図的な攻撃であり、ドミサイドにあたる、とUNはイスラエル批判を強めています。



すべては石油、石油がいちばん大切。

 ロイターによると、ガザ地区への空爆がつづいている最中(さなか)、2023年10月30日に、イスラエルのエネルギー省は、12種におよぶ石油と天然ガスの採掘権を世界的に有名な6社にあたえました。

 英国のBP(ブリティッシュペトロリアム)、イタリア最大の半国有石油・ガス会社ENI(エニ)、スコットランドのDana Petroleum Ltd(ダナ・ペトロリアム株式会社)、もとは旧ソ連の構成国のひとつで現在はトルコと深い親密な関係を築きあげているアゼルバイジャン共和国の国営石油会社(SOCAR: State Oil Company of the Azerbaijan Republic)、そしてイスラエル自身の石油会社NewMed Energy(旧Delek Drilling デレック・ドリリング)などがふくまれています。

 また、ガザ地区の地下には莫大な量の油田が見つかっているとイスラエル政府は発表しており、その経済効果は何十兆円にも匹敵するだろうと述べています。

 英国のメディアによると、その採掘権に関するニュースにたいして、アメリカとその他の国々の機関投資家や石油会社の株主たちは、ロシアからの石油と天然ガスを絶たれた欧州諸国への新しいエネルギー供給源としてイスラエルが中心的な役割を担うのは「とてもよろこばしいことだと思う。イスラエルの首相ナタニヤフが最後まで目的を達成することを期待している」と述べています。



わたしたちの報道は嘘です。

 デイリー・ミラー紙(Daily Mirror)という英国の日刊タブロイド紙を創設した初代ロザミア子爵ハロルド・ハームズワースに宛てて、1917年、ジャーナリストで編集者で作家でもあったジェームズ・ルイス・ガーヴィン氏が、第1次世界大戦下における西武戦線の戦況について、つぎのように説明しています。


1918年の夏に撮影されたドイツ軍の戦車の写真
1918年の夏に撮影されたドイツ軍の戦車

「わたしたちは嘘をついています。そして自分たちが嘘をついていることもわかっています。わたしたちはわが国の民衆(the public)に真実を伝えていません。わたしたちはドイツ軍よりもより多くの兵士を失っており、西武戦線を突破することは不可能だということです」



武器製造メーカーの方たちからは笑顔が絶えません。


ゼレンスキー氏は、昨日、ワシントンD.C.でアメリカ合衆国の兵器メーカーの幹部たちと会談しました。ここで、ロッキード・マーティン、ボーイング、ノースロップ・グラマン、ジェネラル・ダイナミクスなどの幹部(エグゼクティブ)と一緒に記念撮影をしました。これからもこれらの企業には多くの利益を生むビジネスチャンスがありそうです。

(ウクライナの国営報道機関『ウクルインフォルム』(UKRINFORM)からの記事です)



東京が燃え続けた日々。

 昭和17年4月18日が東京大空襲のはじまりでした。アメリカの空母から発進したB25爆撃機13機が東京を空襲したのです。それにくわえて、昭和19年11月24日にはサイパン島から発進したB29爆撃機が東京を空襲し、それ以後は、B29による各都市への空襲が本格化していきました。

 東京に対する空襲は、終戦まで122回にもおよび、多くの死者と被害を出しました。

 とくに、昭和20年3月9日深夜から10日にかけての大空襲は、全焼した家屋の数が約26万7,000戸、死者数はおよそ8万4,000人にまでおよんだとされています(昭和37年警視庁史昭和前編)。


1945年の東京大空襲後の写真
1945年の東京大空襲後の写真

 この空襲でアメリカがおこなった作戦は、周囲に焼夷弾(しょういだん)を投下して火の海とし、都民の逃げ道をふさいでおいて、その内側を無差別爆撃するというもので、これほど多くの死者が出たのはそのせいだと考えられています。



死者が見たもの。

 スペイン出身でアメリカで哲学者・詩人となったジョージ・サンタヤーナの名言です。

 Only the dead have seen the end of the war.

「戦争の終わりを見たのは、ただ死者のみ」


生きる権利を拒否された少年のイラスト
生きる権利を拒否された少年





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