【シカゴ】将来が見えない40代の彼
- 香月葉子

- 2025年11月9日
- 読了時間: 9分
更新日:5 時間前
シカゴ生まれのフレッドは若くもなくハンサムでもなかったが、またたく間に人をやさしく包みこんでしまうような雰囲気があった。
それがとても自然なので、出会ったばかりの人でも、すぐにその心の鎧を壊されてしまうのだろうか。
わたしはそうだった。
イタリア系の男性だったが、ユダヤ系アメリカ人の妻とは離婚もしていて、13歳のひとり娘がいた。
心理学部の博士課程に進んだばかりの彼とはシカゴ大学主催のパーティーで出会った。
すでに40に近い年齢の大学院生だったが、緒斗とわたしはすぐに打ち解け、パーティのあと彼のアパートに立ち寄ることになった。
シカゴ大学が所有する大学寮の建物で、おなじく私たちが住んでいたシェルバーン大学寮からは歩いてほんの2、3分もかからない距離にあった。

フレッドはひとりで住むには広すぎる家族用の部屋に住んでいた。
寝室と広々した応接間のほかにも2部屋ほど空いたスペースがあり、賃貸料がかなりの額になるだろうことは大学のカタログを見たときに知っていたが、そのことについてはまったく気にかけていないようすだった。
娘がひと月に1度は泊まりに来るから、なのだそうだ。
母親と違って、娘の方は40に近い父親が博士を目指していることが自慢らしく、ときどき友だちを引き連れて泊まりに来ることもあるらしく、彼は「ティーンエージャーの女の子たちといっしょに寝るわけにはいかないからね」と皮肉っぽく笑った。
彼の顔立ちと体つきは、映画『タクシードライバー』の主人公トラヴィスの同僚の役をしていた俳優のピーター・ボイルにそっくりだった。
そのことを指摘すると、知り合いからも同じことを言われたと教えてくれた。

このシカゴの大学院に入るまでは、写真の仕事で糧を得たり、シカゴ郊外のハイランドパークで自分でデザインをした宝石を販売したりしていたという。
富裕層が多いハイランドパークで彼の宝石は人気で高く売れたらしい。
イタリア系なのにもかかわらずダイアモンドをあつかうことができたのは、妻の父親がニューヨークの47丁目にあるダイアモンド地区で宝石商だったことから得られた恩恵らしい。
年収が7千万円を超えた年が3回ほどあったという。

ハイランドパークはミシガン湖岸のきれいな街ではあるが、そこに暮らしているのは仲の悪い老夫婦が多く、ありあまるほどの資産を持っているのにもかかわらず、彼らの邸宅を訪ねると、たいていすぐに罵り合いがはじまり、それがいつのまにか顔をゆがめて怒鳴りあうような夫婦喧嘩にまで発展することがたびたびあったよ、と苦笑した。
そこでいったんフレッドは邸宅からひき上げるのだが、後日、奥さんから呼び出され、彼のデザインした宝石を買ってもらうことが多かったらしい。
デザインだけではなく、きっと彼の人柄も一役買っていたのにちがいない。


「明日にでも棺桶に入りそうな老夫婦が、あの静かな高級住宅街を散歩しながら、とつぜん口喧嘩をはじめて、おたがいの太ももを杖で叩きあうのを何度か見たよ」
そんなハイランドパークに買った家は、最近、離婚の際に、ユダヤ系の妻に譲渡したため、この学生寮が、いまのところは彼の唯一の住居なのだそうだ。
「若いころはニューヨークのアートスクールに通ってたんだよ。でも、油絵ではなくて宝石の魅力に取り憑かれてしまったせいで、けっきょく退学してしまったんだけどね。ジュエリーデザイナーになりたくなって」
そのときたまたま宝石商の娘と知り合いになったらしく、この女性と結婚すればそれ相応の利益と恩恵を得れるだろう、と計算しながら彼女を口説いたのだという。
その女性は彼の妻となった。
「コネがないとユダヤ人が支配している宝石商の世界には入れないからね」
彼女の父親とも懇意になり、宝石彫刻師のもとで2年間学んだ彼は『器用で才能がある』と認められたのだそうだ。
フレッドは少年時代から自分に出来ないことは何もないという自信があったらしい。
そんな彼がほとんど1日18~20時間近く宝石デザインに打ち込んだのだから、気に入ってもらえたのも当然かもしれない。

「いろんな裏技を教えてくれたよ」と肩をすくめてみせた。
「それなのに、どうして宝石のお仕事をやめて、いまこうしてシカゴ大学の博士課程にいるの? 誰にでもできる仕事ではないのに」
「まわりからもそう言われたよ。ただ、宝石のほうは完全にやめたわけじゃないんだ。食べていかなくちゃいけないからね。じつは、まだ若くてこの頭に髪の毛がいっぱいあったころ、心理学の学位をとってね」
「え? そうだったの? 心理学部の学生さんだったの?」
「そんなタイプに見えないだろ? でも、もちろんいまやってる実験心理学ではなくて臨床心理学のほうだったけどね」
なぜかといえば、当時、彼自身が抱えている心の問題が多すぎて、心理学さえ学べば、なんとか自力で解決できると期待していたらしい。
けれどもそうはならなかった、と言う。
そのため、心理学の学位を取得して卒業したあと、若きフレッドは心の問題を抱えたまま、食べるためにさまざまな職についたらしい。
イタリア系の貧しい家に育ち、8人兄妹のまんなかで、食事のたびに争って食べなければいけないような境遇だったせいで、生きていくことにたいする不安などはまったくなかったという。
「20代なんて、ま、そんなもんさ」
いちばんの問題は、自分が『ほんとうは何をしたいのかほんとうは何になりたいのか』まったくわからなかったということだったらしい。
マフィアのメンバーになった可能性もあるし麻薬の売人になった可能性もあるしウォール街で金融商品の売人になった可能性もあるという。
ただ、そのころから写真に興味をもつようになったのだそうだ。
女性のヌードを見るにはもっとも手ごろな趣味だとおもったからだという。

そして結婚して宝石デザイナーで生活の糧を得れるようになってから、その趣味を磨くために思い切って写真専門学校に入り、彼はそこで本格的に写真の歴史と美学と技術を学んだ。
じきにフリーランサーになることはできたが、宝石デザイナーの仕事だけで稼いでいたころにくらべると、年収はかなり少なくなったと肩をすくめてみせた。
イタリア系アメリカ人独特の唇をゆがめて眉をつりあげながらのすくめ方だった。
「妻との関係が悪化しはじめたのもそのころからだね。『そんな年齢で写真家になろうとするからよ。頭がおかしくなったとしか思えないわ』て言われたよ」
フレッドは思い出したように「じつはこんな仕事をしたこともあるんだ」といって、クローゼットのなかから数年前の『プレイボーイ』誌をとりだしてくると、ハイレグビキニ姿のプレイメイトとならんでほほえんでいる写真を見せてくれた。
そして「じつはぼくが撮ったこの娘の写真は『プレイボーイ』誌に載ってるんだ」と自慢げに唇をゆがめ、その金髪のプレイメイトのヌード写真が掲載されているページをひろげて見せてくれた。
写真家の名前を目にして緒斗とわたしは同時に感嘆の声をもらしていた。
「たとえ修正しなくても、彼女のプッシーはとても綺麗なピンク色だったな」とつぶやき、そのあたりを指さしたので、わたしは横合いからそのページをのぞきこんでうなずいた。
彼はつぎに『プレイボーイ』誌の創刊者ヒュー・ヘフナーと一緒に写っている写真を見せてくれた。
ふたりのまわりにはバニーガールの『制服』に身をつつんだ数人のプレイメイトたちの姿もあった。
どこにも陰鬱さのない人工的なまでの明るさにわたしは軽いめまいを感じたことをおぼえている。
「このせいでますます妻とは不仲になってしまったけどね」とフレッド。

すこしでも年収を増やすために、写真の仕事のあいまに宝石も売っていたが、顧客になった奥さまたちにプレイメイトの写真を撮ったことがあると告白すると『プレイボーイ誌に掲載されるような写真家だからこそあなたの宝石デザインはステキなのね』と意味ありげにほほえんで、指輪やブレスレットをまとめて買ってくれることも多かったたらしい。
ただ、そのあと自分のヌードを撮ってもらえないかとたのまれることが多くて困ったという。
「シカゴはヒュー・ヘフナーの地元だし、例の北ミシガン通りに建っている自社ビルはイリノイ州のランドマークみたいなものだから、60歳を超えた金持ちの奥さま方のなかにはリベラルな考えのひとたちが多かったんだろうね」
そんなフレッドの説明がわたしにはよく理解できなかった。


けれどもひとつ問題があった。
売れれば売れるほど、稼げれば稼げるほど、しだいにフリーランスの写真家という仕事にも、また宝石デザイナーという商売にもうんざりしてきたのだという。
そしてふたたび自分は『ほんとうは何をしたいのかほんとうは何になりたいのか』わからないという根源的な疑問に悩まされはじめたとき、彼はすでに40に近くなっていた。
そのうち今度は、脳の神経メカニズムそのものを学べば、すこしは自分のことが理解できるようになるだろうと考えるようになり、シカゴ大学の大学院に入ったのだという。
そしてわずか1年で理学修士号(マスター・オブ・サイエンス)を取得。
そのまま博士課程へすすんだ。
とはいっても、自分が望んでいたような答えはまだ見つからないという。

「自分の脳と心の問題よりも、どちらかといえば教授との関係のほうがやっかいになってきてイライラさせられてる。ま、ちょっとがんばれば最短で博士号はとれるとは思うけれど、その次はどうしたらいいのかわからない。自分のチームに入ったら2、3年で助教授にしてやると言ってくれる教授もいるけどね」
彼は紅茶を飲みながらそんな自分の過去をまるで他人事のように淡々と語る。
その表情を見ているかぎり苦悩はまったく感じられなかった。
もちろん人をやさしく包みこむような彼独特の雰囲気は変わらない。
それこそが彼の心の問題なのだろう、と、ふと、そう思った。
1988年 秋 / シカゴ
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