プロパガンダにだまされないための注意事項
- 香月葉子

- 2025年10月28日
- 読了時間: 9分
更新日:15 時間前
【裸の個人】
国家の情報機関や優れたハッカーはネット上でのわたしたちの居場所と行動をかんたんに知ることができます。
彼らがホンキでわたしたちを「すみからすみまで」知ろうとしたときにはまず勝ち目はありません。
2013年、ご存じのように、エドワード・スノーデン氏の内部告発によって、アメリカ国家安全保障局(NSA)による監視網が西側諸国の全域にはりめぐらされていることが発覚しました。
日本の首相からドイツの首脳たちだけではなく、各国の皇族にいたるまで、彼らが家族や親族や知り合いや他の議員などとかわしたEメールの内容はことごとく露わにされ、NSAによって膨大な個人情報が収集されていたことがわかったのです。
つまりある国家の情報機関そのものが国際協定に違反するようなことをしていたわけです。
けれども、スパイ罪と反逆罪という重い罪に問われたのは、そんな国家の犯罪をあばいたスノーデン氏のほうでした。
そのあと2016年には、悪い意味で優秀なハッカーさんたちが、たとえそれが米国の議会議員たちのスマートフォンであっても、その人の電話番号さえわかれば、いともかんたんに侵入できることを、議員たちの目の前で証明する番組もつくられました。
デジタル世界に自分に関する情報(データ)を残しているかぎり、わたしたちの痕跡(秘密)を消し去ることはできません。
すべてはお見通しです。バレバレです。
このブログのエッセイも写真も電子書籍も例外ではありません。
とはいっても、国や大企業の方向をきめるようなお仕事をなさっている方や、先端技術の開発をなさっているような方でもなければ、そういう心配をする必要はないのかもしれません。
たとえプロキシーサーバーを使っていても、もしくはVPNのような回線接続サービスを受けていても、あるいはどれほど複雑なパスワードを設定していても、向こう側が「ホンキ」を出せば、わたしたちのような個人はあっという間に素裸にされてしまうでしょうから。
それ以上に、昨今では『データブローカー』たちが集めているわたしたちの個人データがどこに売られてどのように使われているのかを心配したほうがいいのかもしれません。
【誘惑する放火魔】
そんなネット社会のなかで発信者のがわに立ってみると、意見のちがいをきわだたせるということが、かなり大きいウェイトをしめてくるのはしかたがないかもしれません。
ほかの人とのちがいをきわだたせることが『強み』(アセット)なのです。
そう信じている方がほとんどだとおもいます。
つまり『商品』を売るために必要だとされる差別化と変わりはありません。
ですから、みんなと真反対の意見を述べることで目立とうとしたり、わざと炎上させるようなことを発信して目立とうとする方たちもいます。
そういう場合にはつぎのことが起きます。
情報を発信している人と、その人が発信した情報に食いちがいが生じてくるのです。
一貫性が失われます。
その場かぎりになりがちです。
なにかについて意見を言うたびにコロコロと『立ち位置』が変わって、そのひとがほんとうはどういう考えで生きている人なのか、どんなモノの見方をしている人なのかがだんだんわからなくなります。
ただし、じっさいに手にふれることのできるカタチのある『商品』を紹介したりあつかったりしている方たちにはこのような問題は起きません。
ある事件や出来事についての考え方やモノの見方をあつかっている方たちにだけそれが起きます。
だれもが共通に見て触れて使って納得できる『カタチあるもの』をあつかってはいないからです。
そのぶん、なにを言ってもだれかを批判しても罪に問われることはめったにありません。
ある意見や情報が正しいかどうかをいちいち比較して検証する手続きがめんどうだからです。
ですから、いいかげんなことを書いたり話したりしたことにたいして謝罪することすらいりません。
じっさいに個人の名誉にかかわることであったり人命にかかわることであったり会社の存亡にかかわるような損害をもたらさないかぎりは。
ここに『プロパガンダ』がひろまる原因があります。
【広告の手段】
ご存知のように、商品やサービスをみなさんに広く伝えるための方法全体は『宣伝』と呼ばれています。
その宣伝を成功させるための具体的な手段としてテレビCMを流したり、電子チラシを表示したり、昔ながらのポスターをつくって歩行者の注意をひいたり、ダイレクト・メールなどを送ったりします。
それは『広告』といわれています。
そして、いま、わたしたちの生活空間はおどろくほど多くの『広告』にうめつくされています。
わたしたちがもっている1日24時間のうち、めざめている時間のほとんどは『広告』にうめつくされていると言ってもいいでしょう。
テレビCMや新聞・雑誌・ラジオ・ウェブサイトの広告が目に入ってきます。
電車やバスのなかで見かける中吊りや壁貼りがあります。
また、街のなかで見かける昔ながらのポスターなど、広告の手段にもいろいろあります。
それに、21世紀をむかえてからは、みなさんのスマホやタブレットに表示される広告が主流となってきました。
駅の構内やイベント会場などでたびたび見かける電子看板や電子ポスター、あるいはビルディングの一角などにもうけられた大型の広告用ビジョンディスプレイなどから飛び出してくる3D映像など、ほんとうにさまざまです。
そんなデジタル機器を通した情報発信の仕組みは、ひとまとめにして『デジタルサイネージ』と呼ばれています。
このようにわたしたちの目を引くためのお道具はさまざまありますけれど、見たり聞いたりしているものが広告であることには変わりありません。
そして、それらの広告がなんらかの『商品』を売るための手段であることにも変わりはありません。
パンやおにぎりや化粧品やお薬。
靴や服やバッグなどのほかには映画・コンサートのチケット。
また、自転車や自動車や家など大きなものだけではなくて、手でふれることのできない保険や債券など、『商品』にもさまざまあります。
とはいっても、それらの『商品』にはみなカタチがあります。
たしかに、預金や社債や債券や保険など、いわゆる『金融商品』と呼ばれているものは手にふれることができません。
けれどもそれを取引するためには『契約』という具体的な手続きが必要になります。
つまり目に見える『カタチ』があるのです。
【プロパガンダの目的】
でも、プロパガンダにはそのようにハッキリと目に見える『商品』がありません。
手でふれることのできる『商品』もありません。
またその『商品』の説明もありません。
わたしたちのモノの見方や考え方にうったえかけてくるものだからです。
はっきりと聞いたわけではないけれど自然と耳にはいってくるウワサ話のようでもあります。
また、通りすがりに耳にしたひそひそ話のようでもあります。
にもかかわらず、その耳打ちは、さまざまなメディアを通じて、さりげなく何度もくりかえされることで、いつのまにかわたしたちの意識にふしぎな影響をおよぼし、わたしたちのモノの見方や考え方を一定の方向へとみちびいていくことができます。
つまり、わたしたちひとりびとりに似たようなモノの見方や考え方を植えつけることができるのです。
そうすることで『世論』そのものに影響をあたえ、わたしたちみんなの行動を変えさせるという目的でおこなわれるのが『プロパガンダ』なのですから。
広告もプロパガンダも、ともに情報を発信するということではおなじです。
けれども、広告はよりわたしたちの経済活動につながっているものなので、企業や個人事業主などから発信されることが多いものです。
それにくらべて、プロパガンダはより政治活動や社会活動にかかわっているものなので、時の政府や政党、あるいは特定の政治団体やシンクタンクなどから発信されることがほとんどだと考えられています。
ただし、広告とプロパガンダとの境界線は、けっして壁のようなものではありません。
どちらかというと浸透膜のようなものだとお考えになるのがいちばんかもしれません。
たとえそのふたつを仕切っていても、プロパガンダの要素が強いものが広告のなかへじわじわと沁みこんでいって、知らないあいだに混じってしまうことがあるでしょうし、またその逆の場合もあるでしょう。
【プロパガンダの特徴】
プロパガンダの特徴はなんといっても情報の「歪曲・誇張・隠蔽」です。
『歪曲』とは、ある事件や出来事を一方向からだけ見るように強いることです。
そのため、じっさいに起こった事実をゆがめて伝えたり、あるものを極端に良く見せたり、ほかのものを極端に悪くみせたりすることです。
『誇張』とは、ある事件や出来事の一部分だけをとりだしておおげさにあつかうことです。
全体の流れやいきさつを無視して、自分たちに都合のよいことだけを取り出して強調したり、自分たちに都合の悪いことはじっさいよりも悪い印象をあたえるように手をくわえたりすることです。
『隠蔽』とは、反対意見や、ちがう角度からの見方などを排除して批判し、たとえその事件や出来事の真実にかかわる情報を手にいれていたとしても、それが都合の悪いものであればもみ消してしまうことです。
そしてわたしたちはスタートラインにもどってきて同じ質問をします。
【防御の心得】
まさにそんなわたしたちの迷いと不安に忍びこんでくるのがプロパガンダなのです。
情報はたんに情報でしかありません。
情報そのものには「意味」などはありません。
ある情報が自分の役にたたないかぎり「価値」すらありません。
その情報に意味と価値をもたせるのはわたしたち自身です。
まず、なにかを信じようとする「はやる気持ち」をおさえて、さまざまな情報に手をのばして比べてみるのがいいかもしれません。
選ぶのはわたしたちなのです。
決めるのもわたしたちです。
情報の良し悪しを判断するためには、まず、①その情報の内容をささえている具体的な証拠やデータはあるのか、ということと、②その証拠やデータはどこから得られたのか、もしくは、どのようにして得たのか、というこの2点に注意をはらうことがたいせつだと言われています。
つまり①エビデンスと②情報源という2点です。
でも、これ以上に大切なことは、この世界にたったひとつの正しい答えはないとあきらめることかもしれません。
つまり「あれか、これか」とか「正か誤が」というような『白黒思考』では、この現実の世の中でおこっていることを理解することはできない、と考えていたほうがいいようにおもえます。
そうすれば、心のどこかにあきらめた後の『醒めた自分』を感じることができるのではないでしょうか。
その『醒めた自分』こそが客観的な①エビデンスと②情報源をみつけるのにふさわしい人物のような気がするのです。
そして、そんなエビデンスと情報源に目を通したあと、「今」の自分にとってもっとも最適だと感じたものを自分にとっての「正しい情報」「正しい答え」とするよりほかに、いまのところネット社会での「安心」を得る方法はないのかもしれません。
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