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ミニスカートとビキニと「民主主義」との関係 | 1979年革命以前のイラン

  • 執筆者の写真: 香月葉子
    香月葉子
  • 5 日前
  • 読了時間: 10分

更新日:3 日前



恐怖は愛よりもはるかに優れているし
脅迫は慈悲よりもはるかに効率がよい

アメリカ合衆国第46代副大統領ディック・チェイニー



あなたの言うことは信じられない
なぜならあなたが行ったことを見ているから

ジェイムズ・ボールドウィン



革命以前のイランって?

 1960年代から70年代にかけて、世界的な産油国として知られていたのが、革命前のイランでした。


 そのイランを支配していたのは、パフラヴィー朝最後の皇帝で、わが国ではパーレビ国王(シャー)と呼ばれていた方です。


パーレビ国王(パフラヴィー2世/モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー)
パーレビ国王(パフラヴィー2世/モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー)

 それより以前、ちょうど1953年当時、石油の国有化一般大衆の生活向上をかかげてソ連に近づこうとしていたモサデグ首相の政府にたいして、米国のCIAと英国のMI6が協力してクーデターを起こしました。

 米英の安定した石油利権を守るためです。

 同時にイランの最高指導者としてパーレビ皇帝をささえ、独裁体制を擁立させて、その地位を絶対的なものにしました。


イラン「近代化」の素顔は?

 いわゆる「イランの近代化」は、このパーレビ皇帝によって推進され、1960年代あたりからはじまるとされています。


 けれどもその近代化の裏には秘密警察サヴァク(SAVAK)を使って反政府組織や反体制運動をきびしく取り締まっていた独裁体制の素顔がかくされています。


 おなじく独裁政権下にあった南米のペルーやアルゼンチンのように、パーレビ国王は秘密警察を使い、反体制的な知識人、作家、詩人、ジャーナリストを厳しく弾圧しました。


 そのため、多くの作家が作品の検閲をうけて逮捕され拷問されて命をうしないました。


 それを逃れるためには亡命するしかありませんでした。


 その裏で、西側諸国のメディアは、カフェにつどうミニスカートの女性たちやビキニ水着の女性たちの写真を世界中のメディアにばらまいて「イランの民主化でこのように自由な社会が生まれた。ヒジャブを身につける女性はもういない」と喧伝しつづけたのですけれど、9割以上の一般庶民の暮らしは貧しくなるばかりでした。


 しかも、その独裁体制下の恩恵をうけていた2%に満たない富裕層のひとびとのほとんどは、シーア派イスラム教徒ではなく、シオニズムを信奉するユダヤ人の方たちだったのです。


 ムスリムではないので、とうぜんのことながら、ユダヤ人女性たちはヒジャブで顔をかくす必要はありませんでした。


1971年独裁体制下のイランで公開された映画の一場面
1971年独裁体制下のイランで公開された映画の一場面

 ですから1979年の革命が勃発したさい、あわてて国外脱出した富裕層の方たちが、長きにわたってイランの革命政府にたいする憎しみを抱いているだろうことは容易に理解できます。


革命以前のキューバって?

 たとえば、1959年、カリブ海に位置するキューバカストロによる革命が起こったときもそうでした。


 あわてて米国へ脱出し、その後フロリダの政界を牛耳ることになったのは、バティスタ独裁政権をささえていた軍人や政治家や官僚、そしてアメリカの資本家とつながっていた砂糖産業のオーナー、銀行家、大手企業経営者たちでした。


 キューバの場合は、医師や弁護士や大学教授やエンジニアなどの知的労働者に属する方たちも母国を捨ててしまいました。


 そしていつか自分たちが豊かだった時代のキューバを取りもどすという夢の実現のために、米国の資本家とともに3世代にもわたって画策を練ってきたという過去の歴史があって、今にいたっています。


 そのキューバは、なんと60年以上にわたって米国政府による経済制裁を受けつづけ、国際経済から孤立させられている国のひとつです。


デモクラシーとビキニって?

 ところで、どこかの国が「民主化した」という場合に強調されるのが、たいてい最新ファッションに身をつつんで街を歩いている女性たちの姿や、ディスコやクラブやお洒落なブティックやカフェレストランにつどう老若男女の姿なのはなぜでしょう?


 ミニスカートを着れる「自由」があることと「民主主義」(デモクラシー)とのあいだにはいったいどのような関係があるのでしょうか?


 パーレビ国王(シャー)の支配下では、ビキニを着て浜辺に横たわっていた女性たちからは見えない場所で99%の市民たちは弾圧を受けていたわけです。


 ときにはポルノ映画がゆるされているとか、街中でキスをしてもゆるされるとか、レズビアンやゲイのひとたちにも自由がある、などといったことで、民主主義がひろまっている度合いを測るような、不思議なモノサシがあるようです。


 まるでハリウッド映画に描かれている社会や家族関係だけが「民主主義だ」と言わんばかりに。


 それを信じて疑わないことに、ついつい小首をかしげてしまうのです。


 とはいっても、世界の映画界を席巻してきたのはハリウッドなので、その他の国のひとびとの日常生活と家族関係の現実を知りたいとおもっても、なかなか触れることができないのが事実です。


 それに、正直なところ、そういう種類の映画は「ファイン・シネマ」と言われるジャンルに属していて、ハリウッドのエンターテインメント映画にくらべると、どうしても見劣りがするように感じられます。


 というか、そういうふうにこの目と感性を飼い慣らされてきたこともありますし。


1970年当時のイランのビーチ
1970年当時のイランのビーチ

 話をもどしますと、すくなくとも、1979年の革命以前のイランは「民主主義」という看板をかかげた独裁政権だったのです。


 また、「カリブ海の真珠」と呼ばれたキューバも、ごくわずかな富裕層たちが毎晩政府関係者や米国からおとずれているお金持ちたちといっしょにパーティに明け暮れる独裁政権でした。


だから「民主主義」(デモクラシー)ていうのは?

「民主主義」とはいったいなんなのでしょう。


 ミニスカートとビキニが着れる「自由」のことなのでしょうか。


 もしかして「民主主義」というのはハリウッド映画で描かれている米国社会のイメージから学んだものでしかないのでしょうか?


 あまりにも安易に「民主主義」ということばを使いすぎたせいで「民主主義」そのものが中身のないキャッチフレーズそのものになったのかもしれません。


 カリフォルニア大学バークレー校で聴講生をしていたころ、政治学(ポリティカル・サイエンス)の教授がすり鉢状になった大教室でつぎのようにおっしゃっていました。


 あのころはカセットテープに講義を録音して、帰宅後にそれを書き出しタイピングするという、いまから考えたら信じられないほどの労力をついやしていたのですが、そのおかげで教授のことばをノートに残すことができただけではなくて、いまだにわたしの耳の奥からよみがえってもきます。


教授のレクチャーは?

 民主主義はビキニが着れることとはまったく関係がありません。

 また、イージーライダーなどの反体制的な映画を撮影しても逮捕されないという社会のことでもありません。

 若いみなさんにはわからないでしょうが、わが米国の資本家は1930年代に起こった港湾労働者のストライキをおさえこむときにも、警察に実弾を使わせました。

 この国では殺人と暗殺はあたりまえでした。

 またわが国の労働組合指導者だったジミー・ホッファをマフィアを使って暗殺したのも彼らだと言われています。

(わたしが米国で暮らしていた1980年代にはまだハッキリとはわかっていませんでした)

 それに、1950年代に若者たちがロックンロールの流行に飛びついていたとき、米国ではまだ残虐な黒人リンチがおこなわれていました。

 わたしたちがこれほど豊かな暮らしを満喫できるのは世界にある発展途上国のひとびとの安い労働力のおかげです。

 わたしたちアメリカ人ひとりびとりは他の国々で暮らしている20人分の頭を踏みつけているのです。

 そういうシステムのおかげでわたしたちの豊かな暮らしは成り立っています。

 にもかかわらず世界中のひとびとがわたしたちアメリカ人の生活にあこがれ多くの夢を抱いてやってくるのです。

 不思議でなりません。

 そもそもわが米国の資本家たちにとっては、フェミニズムの台頭や移民の増加、レズビアンやゲイのひとたちの権利の幅の拡張、そしてポルノ産業の勃興などはどうでもいいことなのです。

 資本家にとって大切なのは利益の追求です。

 そのためには安くて安定した労働力を確保しなければいけません。

 労働者がレズビアンだろうがゲイだろうがフェミニストだろうがナードだろうが女装愛好者だろうがどうでもいいことなのです。

 市場に参入してくる労働力が増えれば増えるほど彼らにとっては得なのです。

「きみの代わりはいくらでもいる」といって労働者をおどせばいいのですから。

 そうすれば労働条件の改善やサラリー・時給の値上げは要求できなくなることを知っているからです。

 かんたんに「首のすげかえ」ができる社会になればなるほど個人の価値は安くなります。

 利潤の追求にモラルや倫理の入りこむ余地はありません。

 ですから企業の構造と労働基準法にかかわること以外に関してはとても「寛容」なのです。

 けれども、いったん労働にかかわることになると命がけの出来事になります。

 労働条件に関するストライキやデモにたいしては厳しく弾圧して妥協をゆるしません。

 また、社会主義や共産主義に転じた国にたいしては徹底的な経済制裁を課し、エネルギー源を絶って経済破綻をおこさせ、貧乏のどん底におとしいれて、『社会主義や共産主義はかならず失敗して破綻する』と世界中に宣伝しながら、民衆の内部に入りこんだCIAエージェントが「サイオプ」(サイコロジカル・オパレーション)と呼ばれる扇動によって反政府運動を焚きつけ、民衆の選んだ時の政府の「首のすげかえ」をおこなって、米国の利権に都合のよい独裁者をすえてきたのがわが国です。

 ところで「民主主義」を語るときにもっとも見落とされることがひとつあります。

 それはつぎのことです。

 あまりにもシンプルであまりにも当たり前のことなので見落とされてしまうのでしょう。

 考えてみてください。

 みなさんが人生の時間の3分の1を費やし、しかもみなさんの生活の糧をあたえてくれる会社というものは「民主主義」的な組織なのでしょうか。

 だれが会社の社長を選び、だれが会社の方針に決定をくだしているのでしょうか。

 もしも上司の命令には逆らえず、その上司も社長が決定したことには逆らえず、その社長も自分を選んだ取締役たちには頭があがらず、さらにその取締役の方たちも自分たちを選別したオーナーには逆らえない、という組織だとすれば、人間の経済活動の100%が、じつは軍隊のような命令系統に支配されたピラミッド構造の組織で成り立っていることになります。

 だれが最終的な決定権をにぎっているのでしょうか。

 たとえば、自分の会社がある村の環境を破壊していることがわかったとき、それを改善するために社員みんなでアイデアをしぼりだしたとして、そこから生まれた改善策を実現できるような会社組織は、このアメリカで成り立つのでしょうか。

 会社という組織では、軍隊とおなじように、知識と経験の蓄積が必要であり、それに応じて階層構造ができあがっている、というのであれば、なぜある会社が利益を得ている業種での経験がゼロの人間がとつぜんCEOとして招かれて「コスト削減・首切り」を実施できるのでしょう。

 その人物を選んだのはだれなのか。

 そしてじっさいに労働を営んでいるわたしたちの日々の生活がそういうものだとしたら「民主主義」はいったいどのあたりで機能しているのでしょうか。

 その根本的な問題について誰も疑問を発しないのはなぜなのか。

「民主主義」にはさまざまな解釈がありますし「民主主義国家」にはさまざまな形態があります。

 ただひとつおぼえておいて欲しいのは「民主主義」においていちばん大切なのは『寛容さ』(tolerance)です。

 たしかにファッションや歓楽や性的嗜好にたいする政府の姿勢は大切な論点にはなります。

 けれどもそのことについての「自由さ」と「民主主義」そのものとは、また別の次元で語られなければいけないものなのです。


おしまいに

 現在のキューバやプエルトリコ、そしてイランの経済崩壊のニュースを耳にすると、まさに教授がおっしゃったことばそのままです。

 そのことに驚いています。

 あれからすでに半世紀以上がたちました。

 若いころには見えなかったものが、いまこの年齢になってようやく見えてきました。

 学問はほんとうにありがたい大切なものだとおもいます。






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