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消費文化とエネルギー危機と脱炭素社会

  • 執筆者の写真: 香月葉子
    香月葉子
  • 4月6日
  • 読了時間: 29分

更新日:10月12日



ひっそりと迫ってくるヤバすぎる脅威

 いま、世界は石油や天然ガスの奪い合いでますますキナ臭くなり、いたるところで紛争や戦争が勃発しています。


 そのあたりの事情については『ロシア・ウクライナ戦争の原因と背景 | 資源と覇権と貪欲』なかで述べていますので、興味がおありの方はお読みください。


 あのエッセイのなかの『戦争の背後にうごめく「貪欲な」(greedy)ものたち』のセクションでは化石燃料が手に入らなくなったときに社会がどんなことになるのかについて書いています。


 ご存知のように、戦争や自然災害や経済制裁などによって化石燃料を得ることがむつかしくなりますと、そのせいで運送費や交通費はどんどん上昇します。


 とうぜんモノの値段もあがってきます。つまりインフレーションが止まらなくなります。


 そうなると、まるでタイムマシンで過去へ時間を巻きもどすかのようにして世界の国々は自国を守るため(つまり現在の統治機構を温存するため)にそれぞれ門戸を閉じはじめることが考えられます。


 つまりナショナリズムに傾く国々が増えてきます。


 国をまたいで移動する自由もごく一部の人々をのぞいて制限されはじめるかもしれません。


 グローバルからローカルへの回帰とでも言えばいいのでしょうか。


 もともと産業革命以降の発明と技術から生み出された進歩はすべて石炭・石油・天然ガスから生み出されるエネルギーによって支えられてきたものです。


 俗に言われている「デジタル文明」を土台にした第4次産業革命というものも「電気」がなければ話になりません。


 もちろんAI産業をさらに拡大するために必要な巨大なAIデータセンターを維持したり新たに建設したりするためには気が遠くなるほどの電力が必要になります。


 その電気はすべて化石燃料によって生み出されているものです。


 そして「いいえ、風力発電や太陽光発電や水力発電によっても電気を作ることはできます」と反論したとしても、「ではいまの電力供給量でデータセンターを運営できますか?」と問われたり「そもそも電気を作るためのそういう風力発電用風車や太陽光発電用パネルや水力発電用のダムなどはどのようにして作られているの?」という問いの前にはことばをにごすしかありません。


 つまり、わたしたちの現在の文明を支えているエネルギーを生み出す元が手に入りにくくなってくると、この資本主義の右肩上がりの成長が化石燃料の高騰で足ぶみをはじめ、じわじわと終わりをむかえることになるかもしれないのです。


 つまり経済成長・発展の終焉(The End of Growth)です。


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新しいエネルギー源を発見する以前のお話

 わたしたちヒトという生き物は、この肉体の力だけでは足りないところを、過去何千年ものあいだずっと牛や馬やロバやラクダや象などの大型の家畜たちの筋力にたよってきました。


 1頭の牛や馬はおそらく一千万円近いトラクターとおなじ価値をもっていたのではないでしょうか。


 アメリカ大陸横断鉄道のレールを敷いたり、たとえばピラミッドのような大きな建造物を作るときには、自分たちと同じヒトを大勢あつめてきて、そのひとたちをほとんど無給に近い奴隷として過酷な労働をさせることで、その鉄道のオーナーやその国の王(ファラオ)にとっては「コスパの良い」結果を引き出すことができました。


 ただし、アメリカ大陸横断鉄道の線路の下には信じられない数の中国人労働者の死体が埋まっている、という言い伝えが生まれた歴史的事実がありますので、鉄道敷設にかかわる話題はうまくもみ消してきたことにもうなずけます。

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 とにかく、わたしたちヒトという生き物は、土や鉄などを加工するために必要な火力、そしてお料理するためや暖をとるため、そして暗闇を照らし捕食動物から身を守るための灯りを得るためのエネルギーは、木々を燃やすことや動物を殺して得られた油(鯨油は代表的なものです)などによって手に入れてきました。


 そういう生活はロンドンでガス灯がともる1800年代初頭までずっと変わらないままでした。


 何千年、いえ、「火」を発見して木々を燃やすことをおぼえてからは、ほとんど何万年、いえ、何十万年ものあいだずっとです。


 たとえば、人力で車重1.5トンの小型乗用車を10キロ先まで押していこうとすると、たとえニュートラルにしてタイアを転がせる状態にしていたとしても、筋力に自信のある大人の男女3人が、すくなくとも5、6時間くらいは汗を流すことになるのではないでしょうか。


 平坦な道ならまだしも、もしも、それが長い長い上りの坂道だったとしたら…?


 ところが、たった1リットルの液体を自動車の燃料タンクに注ぎ入れるだけで、そんな苦行から一瞬にして解放されるのです。


 1.5トンの重さの自動車に乗って10キロを移動することがわずか数十分で可能になります。


 しかもペダルに足をのせるという労力だけで。


 おまけに冷暖房までついてきます。


 つまり、19世紀以降、わたしたちは魔法のエネルギー源を手にしたわけです。


 しかも、石油は電気を作ったり鉄鋼を加工したりするためのエネルギーを発生させてくれるだけではなくて、みなさんもご存知のように、わたしたちのまわりにあるビニールやプラスティック製品、ストッキングやサランラップや発泡スチロールなどの製品を生み出し、フロアタイルだけではなくて化粧品や薬剤を提供してくれますし、その上、アスファルト道、そして農業に必要な肥料と農薬の両方をも石油から得ることができます。


 つまり、映画アヴェンジャーズのシリーズにお目見えした『四次元キューブ』などよりもはるかに変幻自在で優秀なエネルギー源を手にしたわけです。


 それによって、さきほど説明したように自動車を動かすこともできるようになりました。


 ただし、その自動車を作るためには鉄やゴムなどが必要になってきます。


 また、アルミニウムを得るための鉱石ボーキサイトや自動車に内蔵された電子制御ユニットに必要なレアアースなど、自動車に必要なすべての原材料を見つけてこなければいけません。


 見つけたあとは、ダイナマイトや重機によってそれを掘り出し、巨大トラックや船舶で運搬し、何千キロも離れた工場でそれぞれの部品を加工し、鉄鋼やタイアやプラスチックや半導体やウレタンをつくり、それをふたたび何千キロの遠くから集めて組み立て、製品として完成させるわけです。


 そのプロセスは非常に複雑ですし、それだけに多大なエネルギーを必要とします。


 ひとつの小さな部品や商品ですら、わたしたちの手もとにとどくまでに最低1,000キロを超える距離を旅してきたのですから。


 そして、それら一連のプロセスそのものが石炭や石油や天然ガスが生み出してくれるエネルギーにたよっているのです。


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ホームレスからいきなりマンション住まいへ

 たとえてみると、化石燃料の発見は、数千年のあいだ道ばたで木々の枝と葉っぱで作ったテントを張って雨風をしのぎながら生きてきた人類全員に、ある日、とつぜん、4LDKのマンションがあてがわれたようなものだったのかもしれません。


 ホームレスだった人類がとつぜんゴージャスなマンションに移り住むことができるようになったわけです。


 しかも血のにじむような苦労をすることもなく。


 それが産業革命が生み出したものであり、資本家たちが「資本主義がもたらしたのはたんなる技術革新や数々の発明だけにはとどまらない。医学も飛躍的に進歩し、人類の平均寿命も19世紀後半からほとんど垂直に近い延びを示している。また女性の社会進出は進み、病死したり餓死したりするひとびとの数も激減している」と述べる進歩は、じつは資本主義のおかげでもなければ社会主義でもファシズムでも共産主義によってもたらされたものでもありません。


 つまり、富と労働と個人の自由の配分をどうすればよいかということについての、そういうさまざまな考え方のちがいによるものではなくて、ひとえに石炭・石油・天然ガスを見つけたことによるものなのです。


 そして、そのパワーのありがたさに人類が気がついたことによるものなのです。


 もちろん化石燃料を発見する以前の時代には何もなかったというわけではありません。


 たとえば40年前の海外での「日本学」(Japanology / Japan Study)の授業では常識のひとつと言われていたように、17世紀の江戸は、当時の世界の主要都市パリやロンドンなどをはるかにしのぐ人口の多さを誇る大都市でしたし、上水道や下水道のシステムも他国の都市にくらべてはるかにととのっていました。


 また、タージマハールや金閣寺やベルサイユ宮殿などをごらんになれば、わたしたちヒトの知識と知恵がどれほどのものであったかは一目瞭然でしょう。


 それは過去のひとびとがつくりだしてきたさまざまな銃器や大砲、もしくは楽器などをごらんになってもわかります。


 獣(ケモノ)の骨や皮だけではなく金や銀や銅や鉄をあつかうことにも長けていたのです。


 また植物繊維から布を発明したのもわたしたちでした。


 そしてわたしたちヒトという生き物は主に木と石と土を使って村を作り都市を作ってきたわけです。


 断崖絶壁のまんなかや岩山の頂だけではなく、獣ですら通らないようなジャングルの奥など、この目を疑うような場所に城塞(じょうさい)を築くことすらできました。


 でも、この過去の人類がなしとげた「叡智の結晶」(えいちのけっしょう)に触れたときの感動は、たぶん化石燃料から生み出されたエネルギーにささえられた近代文明のなかに生まれてきたわたしたちが抱く「驚き」(sense of wonder)からきているものがほとんどではないでしょうか。


 ショベルやブルドーザやクレーンなどの重機がなく大型トラックもなく溶接機もないような時代にあれほどの建築物を作ることができたり、燃やすものが木炭しかない時代にどうやってあれほど美しく硬い刀や陶器をつくることができたのだろう?


 そんな驚きがヒトという生き物の凄さと不思議さをあらためて感じさせてくれるのかもしれません。


 そうは言っても、たとえば、重病人を寒村から医者のいる町まで馬車に乗せて雨のなかのぬかるみを運んでゆく世界と、石炭で走る汽車や、ガソリンで走る自動車に乗せてアスファルト道(石油から作られています)で運んでゆく世界とでは、とうぜん平均寿命の数値にも差が出てきたはずでしょう。


 たとえ瀕死の病人でなくても…たとえば、風邪をひいて高熱を出している幼児が苦しんでいたとしても、馬車で医者を連れてくるのと自動車に子供を乗せて連れていくのとでは、大きなちがいがあったことはうなずけます。


 産業革命以前の世界では、助かる者も助からなかったことが多かったのにちがいありません。


 でも、産業革命がもたらしたものは良いことばかりではありませんでした。


 たとえば、その後、職人さんたちによる手作りの製品は影をひそめていき、工場の大型機械による大量生産による製品が世にひろまっていったことは、みなさんもご承知だとおもいます。


 進歩にはいつも光と影がつきものなのですから。


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掘れば掘るだけ損をする

 ひとつわかっていることがあります。

 それほどに大切な石炭・石油・天然ガスなのですけれど、それらを得るために必要なエネルギーのほうが、それによって利益を得るためのエネルギーよりも大きくなれば、採掘することは無意味になってきます。


 それはEROI(energy return on investment : エネルギーの投資にたいする回収率)と呼ばれています。


 地球から石炭・石油・天然ガスが近いうちに枯渇してしまうという話ではありません。


 この地球にはまだまだそれらが埋蔵されている場所があり、そこから新たな石炭や石油や天然ガスを手にすることができれば、わたしたちのこの産業革命以降からはじまった便利で贅沢な暮らしももうすこし続けることができるのではないかと考えられています。


 ただ、石油開発企業がそれを採掘・開発するためのコストと、その技術支援のための補助金(つまり税金)が経済成長の足を引っぱりかねない、そんな場所や深さでしか発見されなくなってきているということが不安のタネなのです。


 いくら採掘技術が進んで、そのためのお道具も進歩したとはいっても、それにかかるお金はやはりどこからかもってこなければいけなくなります。


 それに化石燃料はあくまでも限られた資源なのですから、どちらにしても、いつかその井戸が空になってしまう時はおとずれます。


 とはいっても、石油会社の重役や広報担当の方々は「そのうち原油の生産量が右肩下がりになるなんてことを声高に叫んでいる『ピークオイル論』の信奉者がいるが、石油が枯渇するようなことは当分ありえないし、それどころか生産量は逆に増している」という意見をお持ちでした。


 たしかに映画『ジャイアント』(1956年)や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007年)で描かれているように、大地をほんのすこし掘るだけで石油が噴き出して、その土地を買収して所有していた者は億万長者になることができました。


 でもそれはうんと昔の話です。


 いつのころからか、岸から何十キロも沖合に設置された海底掘削基地で、しかも北海の荒波のまんなかで数千メートルの深さにまで掘りすすまなければ石油を得ることができなくなっていましたし、その北海海底油田ですらもが現在枯渇の危機に瀕(ひん)しているという事実からは目をそむけることができなくなっています。



石油があまりすぎて困っちゃうってホント?

 とは言っても、現在は原油の生産量が減っていくのではなくて石油需要が頭打ちになって右肩下がりになっていくのではないかという逆の石油需要ピーク説が注目されていることも事実です。


 その逆オイルショック説を唱えている方々によりますと、2030年前後から石油の需要がピークをむかえて原油価格が大幅に下落する可能性がある、ということらしいのですけれど、石油の需要が減っていけば石油の生産量をおさえるしかなくなるでしょう。


 ということは大地の下で眠っている石油の減り方もおだやかになるのでは…?


 そうなると、とうぜん石油を採掘できる年数も増えるというわけで、わたしたち人類全体にとってはけっして悪いお話ではないとおもわれます。


 ところで、石油の需要が減りはじめる理由は、①電気自動車Electric Vehicle)や②再生可能エネルギーの技術革新とその普及だということになっているようです。


 ただし、テスラを「激推し」(げきおし:フラッグシップ)してきた合衆国政府も、コロナ騒動後あたりからはお熱もさめてきて、あまり助け舟(補助金=税金)を出さなくなってきたようです。


 合衆国の北西部など冬の寒さがきびしい地域での不具合がめだってきたことと、謳い文句の『完全自動運転技術』の安全性が疑わしくなるような事故が増えていること、また、年数がたってバッテリー交換時期がおとずれたときに、それにかかる高額な交換費用がばかばかしくなってテスラを手放すオーナーたちが後をたたなくなったことが原因のようです。


 そのせいで売り上げは右肩下がりになりはじめ、中古車墓場にはテスラが山積みになっているというニューズもたびたび見かけるようになりました。


 また再生可能エネルギーは、それを維持するための費用と供給できる電力量のあいだにおりあいがつきませんし、新しい技術革新のためには、それがじっさいに可能になるのかどうかとはかかわりなく、これから先25年から30年のあいだ関係各所へ補助金(税金)をばらまいていかなければいけないようですし。


 にもかかわらず、もうすぐ石油の需要がどんどん減っていって原油価格が下落し、世界経済に悪い影響をもたらすだろう、と国際石油資本(オイルメジャー)にかかわりのある方たちは逆の意味での「警告」を発しています。


 けれども、じつをいうと、電気自動車と再生可能エネルギーの技術革新のほかにも、わたしたち人類の石油消費量を減らすことのできる方法があるのです。


 という言い方は誤解を生むかもしれませんので、すこし言いかえますと、わたしたちはすでに石油の需要を減らす大きな出来事をいくつか経験してきましたし、おそらく現在もその出来事のなかで生活しているのかもしれません。


 たとえば、石油だけではなく、エネルギー消費量全体を減らす要因となるものには次のものがあります:


①戦争

 軍隊の移動や武器の生産および使用にはエネルギーが必要となりますが、じっさいに戦争が起こった場合、建物や交通網や交通機関は破壊され、とうぜんのように食べ物の供給もままならなくなりますので、戦時下での生活水準は大幅に下がり、とうぜんのようにエネルギー消費量は減っていきます。

 またG7の国々、とくに米国からの経済制裁を受けている国々は石油を手にいれることができなくなりますので、とうぜん石油消費量は激減します。

 それだけではなくて、その結果として、同時に、つぎに述べる継続的な「不況」(リセッション)という経済崩壊にもみまわれます。


②経済崩壊

 不況や恐慌などによって経済活動がにぶると生産や移動や輸送に必要なエネルギーが減りますので、とうぜん石油の需要も減ります。たとえば1990年代初頭の日本におけるバブル経済の崩壊、1990年代後半の米国におけるITバブルの崩壊、つづいて2008年に起こった世界規模のリーマンショックによる景気後退も石油消費量を減らす要因のひとつでした。


③感染症の流行

 感染症がひろがると、ヒトの動きはにぶり、それにつれてモノの動きもにぶります。それ以上に、たとえば2020年からはじまったコロナ禍においてはヒトとモノの流れを制限する、ほとんど世界同時規模のロックダウンという方策がとられて、いっきにエネルギーの需要は減りました。

 つまり、このロックダウンによってわたしたちは世界同時に経済活動を停止させられたのです。

 これは人類史上はじめての出来事でした。

 またロックダウンは国際社会に大きなダメージを与えただけではなく、それぞれの国が受けた経済的・文化的・精神的ダメージにしても計り知れないものがありますが、コロナ禍のおかげ?で石油の消費量は減りましたし、とうぜんのように採可年数は伸びました。


 つまり、この資本主義社会のなかで、とくに優先的に石油を必要としているひとびと、たとえば自家用機で世界を飛び回っておられる財閥や億万長者やエリートの方々、そしてそういう方々が所有しているグローバル・コーポレーションなどの寿命を延ばすことには成功したとも言えるのではないでしょうか。



レジ袋と自家用ジェット機とのあやしげな関係?

 たとえばイーロン・マスク氏や億万長者でデータ分析企業パランティア(軍事情報システムと市民監視システムの技術に必要なソフトウェアなどを提供している会社でもあります)の創設者ピーター・ティール氏などが自家用ジェット機で一年間世界を飛びまわるために必要なガソリンの量はみなさんが普通乗用車を一生乗るためのガソリン量よりも多いという数字が出ています。


 億万長者たちの自家用ジェット機のなかでも中型機が1時間に消費するガソリン量はおよそ1,200リットルほどかかるのだそうです。

 サンフランシスコからニューヨークまで自家用ジェットではおよそ5-6時間かかりますので、すくなくとも6,000リットルのガソリンを消費することになります。


 石油の消費量ということだけに関していえば、たとえばわたし1人が1年間レジ袋を使うために必要な原油量は4.5リットルです。

 つまり中型の自家用ジェット機が1時間飛行するたびにわたしたち2,400人が1年間に使うレジ袋分の石油が大気にまきちらされていることになります。

 また、イーロン・マスク氏やピーター・ティール氏が週末にサンフランシスコからニューヨークまでお出かけになるたびに、わたしたち12,000人が1年間に使うレジ袋分の石油で大気をよごしていることにもなります。


 とはいっても、日本国内でのレジ袋年間使用量は305億枚。1年間にわたしたち国民全員でおよそ14億リットルの原油を消費していることになります。


 おどろきの量です。


 では、中型自家用ジェット機で週末ごとにサンフランシスコからニューヨークへ仕事もしくは遊び目的で飛行したとしたらどうでしょう?


 その場合はジェット機1機のために1年間に288,000リットルのガソリンが使われます。

 現在、世界でじっさいに使われている自家用ジェット機の数は24,000機ですから、自家用ジェット機を所有している方々全員が週末だけに飛行したとして、1年間におよそ70億リットルのガソリンを消費していることになります。

 もちろん、最小限にみつもって、ですけれど。


 わたしたち国民全員がレジ袋に使う原油が1年間に14億リットル

 億万長者が所有している24,000機の自家用ジェット機が消費する原油が1年間に、しかも週末だけしか乗らないとして、70億リットル


 小学生にでもわかる数学の問題ですね。


 にもかかわらず、そのような自家用機の使用にたいする規制はありません。


 飛行場においても「あのお方たち」はなんらめんどうくさい手続きをすることもなくゲートをくぐりぬけてご自分の自家用機に乗ることができます。


 わたしたち一般人がテロ防止対策感染予防対策とやらのせいで煩瑣(はんさ)な手続きを強いられ、ときには何時間も足止めをされて飛行場の通路やホールで待機させられるのとは大違いです。


 そんな億万長者の彼らが政治家へ寄付金をくばって、そういう法律を作らせているのですから、この世はほんとうに不思議の国ですね。



トップ1%が所有するこの世界

 たとえば2001年9月11日の米国多発テロ事件後につくられた『米国愛国者法』(Patriot Act)をお調べください。

 旅客機に乗るさいに、現在のようなさまざまな手続き(機内への持ち物検査や身体検査など)が必要になったのは、あの法が作られてから以降のことです。

 9/11という事件をきっかけにして世界は大きく変わったのです。

 

 それだけではありません。

 自家用機で世界を飛びまわっておられる方々とは反対に、地球のために、そして環境破壊を食いとめるために、あるときは節約して、あるときは罪の意識をすらもってレジ袋を使わないように努めているのは、あくまでも地球人口70億の99%にあたるわたしたち一般人です。


 現在、地球の全人口の95%にあたるわたしたちが所有している全資産を超える富を所有しておられる1%の方々ではありません。


 自分たちには批判のほこさきを向けさせないまま、逆にわたしたち一般人にみずからの生活態度を悔い改めさせることで、いつのまにかトップ1%の方たちの贅沢な暮らしを支えるようにもっていく。

 そのような台本とそれを実行にうつすための政策はどこからわいてきたのでしょう。

 さすがに億万長者になられるような方々は頭の良さがちがうとおもいます。


 なぜかコロナ騒動をおもいだしてしまうのはわたしだけでしょうか。


『あなたがマスクをしなければ大切な人を危険にさらすことになるんですよ。まわりの人々はどうでもいいのですか? 恥を知りなさい、恥を。たとえ経済を停止させ、ロックダウンのせいで個人店やライブハウスや劇場がつぶれてしまったとしても、人類を救うためにはしかたがないのです。ロックダウンに従わないひとはモラルが欠けている身勝手なひとなのです。ワクチンを接種しないひとはまわりの方たち全員の命をそまつにするひとです。犯罪者と変わりません。老いた両親のために、そして未来の子供たちのためにワクチン接種をしなければいけません』


 そのくせ、たとえば、カリフォルニアの州民には厳しいマスク着用を強要していながら、カリフォルニア州の知事ギャビン・ニューサム氏本人は、知り合いのCEOや献金者などといっしょに高級フランス店での誕生日ディナーパーティ「マスクなし」で楽しんでいたことが発覚し、その偽善者ぶりがやり玉にあげられたのをおぼえている方もおられるかもしれません。


 あの2年間、炎天下のアフリカ諸国でも、頭に大きな荷物を乗せ、長い道のりを徒歩ではこんでゆく地元の女性たちまでもがマスクをしていたのです。


 世界中がそうなりました。

 ほんとうに世界のすみずみまでもが「マスクをしている人」の風景で埋めつくされたのです。


 ソーシャル・メディアの空間でもそうでした。


 そのときに権力の座にあって、マスク着用をひとびとに強制できるような立場にあった人の心のなかの動きを想像してみるのもおもしろいかもしれません。


 たとえば、いまこれを読んでくださっている「あなた」が『現在インフルエンザが流行しているため、それが命にかかわるほどのものかどうかには関係なく、明日からは電車やバスに乗るときにはかならずマスクをしてください。着用していないひとたちは交通機関を利用する権利がないのと同じです』というような発表をおこなったとたん、とつぜん明日の朝から1日350万人近くのひとびとが行き交う新宿駅のなかでマスクをしていない人がひとりもいなくなったとしたら?


 圧倒的な権威の成就ではないでしょうか?


 権威と権力を好み、それを得ることを望んで、他者を従わせることに喜びを見出すことのできるタイプの方にとってはほとんど「夢の世界」の訪れだったのではないでしょうか。


 ちょうどそのような役職についていたおかげで『自分にはこれほどのパワーがあるのだ』ということを毛細血管のすみずみにまで感じとることができたのでは?

 なにしろ「ひとこと」テレビで発表するだけであれほどの数のひとびとを従わせることができたのですから。

 そのことに快感をおぼえない権力者がいるでしょうか?

 そもそも権力の座につくという行為そのものがそういう「権力への意志」(Will to Power)を表明しているのでは?


 たしかに、コロナ禍においては、ひとびとの命を救うため、人類を救うためという「大義名分」もあったのでしょうけれど、東京のラッシュアワーの寿司詰め状態の満員電車のなか、となりの人とのお顔の距離がほとんど数センチしかないような状況で、しかも流行りはじめたときが冬だったせいで電車の窓はすべて閉じられたままだったのですけれど、そのときのマスクの有効性にどこからも疑問の声すらあがらなかったのがふしぎでした。


 とにかくあのせいでわたしたちの日々の生活は大きく変わったのです。

 他者にたいする意識も世間にたいする態度も大きく変わりました。


 そのワクチンで大もうけしたのは巨大製薬会社ファイザーです。

 またコロナ騒動がはじまる1年前には倒産の憂き目にあって民事再生法を願い出ていた製薬企業モデルナも大もうけしました。


 また、ファイザーの株をコロナ騒動がはじまる半年前に購入して巨大な資産をさらに増やし、現在は世界保健機関(WHO)運営資金の88%を出資しているビル・ゲイツ氏は、2024年のテレビインタビューで「わたしがコロナ禍の2年間テレビで説明してきたほどコロナ・ウイルスは毒性の強いものではありませんでした。けっきょくコロナ禍のはじまったころにドイツやスウェーデンのウイルス学者さんがおっしゃっていたように『しょせんは風邪くらいのもので60歳以上の方たちだけに注意を払っていればいい』といった結果だったのが残念です』と述べました。


 それがYouTubeやXやインスタグラムなどのソーシャルメディアでとりあげられ、そのインタビューにおける彼のうすら笑いの表情と『しょせんは風邪くらいの症状だったのが残念だった』ということばにたいする怒りが炎上していたことも、すでになつかしい過去のものとなりました。


 自分たちのおこないは棚にあげておいて、わたしたち一般人に罪の意識や恥の意識をもたせながら、きっちりと利益を得ることに巧みな方たちなのですね。

 いまさらながらに感心させられてしまいます。

 

 

消費文化が終わりを迎えるかも?

 とにかく、この時代のヒトの暮らしに欠かせない石炭や石油や天然ガスの供給にかげりがみえてきたとしたら、大好きだった果物やパスタやお菓子類ともお別れの時が近づいているということです。


 ほとんどが輸入物だったり、それを作る材料が輸入にたよらざるを得ないようなモノばかりですから、どんどん高価なモノになっていくとおもわれます。


 いいえ、それだけではありません。


 海外で作られた化粧品や自動車や洋服もおなじように高くなっていって、そのうち手に入れることすらむつかしくなってくるかもしれません。


 また、1960年代にいたるまでがそうだったように、海外旅行などというのはほんのひとにぎりのお金持ちやエリートの方々だけの特権になるかもしれません。


 国際線の旅客機だけではなく国内線においても飛行機というのは贅沢きわまりない乗り物になっていくでしょう。


 そして、もちろん、石油を原料にしていたアスファルト道は、ますますひび割れが激しくなり、修復するのもままならなくなって、すこしずつ砂利道へともどっていくでしょう。


「いやいや、トウモロコシから得られるバイオメタノールや合成燃料(e-fuel)などカーボンニュートラルなエネルギーを手にすることができるから、まだまだだいじょうぶ」とおっしゃる方々もいらっしゃいます。


 その研究をすすめることでお給料をもらっている化学者や研究者の方々、そしてそういう「新しい」エネルギーへの期待と希望をあたえてくれる開発をおしすすめるための広告塔の役割を担うことでお給料を得ている方々も多いことでしょうから、それもとうぜんだとおもいます。


 でも、たとえば核融合の理論は1920年代に生まれていまだに実用化にはいたっていませんし、合成燃料は第二次世界大戦の時代、つまり1940年代のころに生まれたのにもかかわらず、コストを下げて製品として実用化できるまでにはまだあと2、30年はかかると言われています。


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 それに、太陽光発電や風力発電がどのくらい広い土地を必要とするのか、しかも、それを製造して設置するコストと維持費にくらべて、じっさいに生み出される電力がどのくらい少ない量なのかについても、すでにご存知の方が多いとおもいます。


 カリフォルニア大学バークレー校で聴講生をしていたころ、生物学の教授だったか人類学の教授だったか忘れましたけれど、「歴史的に見て、科学の世界で60年以上ものあいだ研究をかさねてきたのにもかかわらず実用化のための成果や躍進が得られなかった場合、その理論と研究はおそらく実現不可能なものだと考えてまちがいない」とおっしゃっていたのをおぼえています。



なにをどうしてもスタート地点に引きもどされるって?

 これを読んでくださっているみなさんはとっくに気がついておられるのかもしれませんが、ようするに二次エネルギーと呼ばれるものはすべて一次エネルギーにたよらざるを得ないという事実がネックなのです。


「エネルギー危機をのりこえるためには新たなエネルギーを生み出せば良いのだ。そうすればなんとかなる」という考え方とやり方そのものが、その新たなエネルギーを作りだすためにますます一次エネルギーを使い果たしてゆく原因そのものになってしまうという構造的な矛盾がネックなのです。


 そうなると「モノを大切にしよう」という考え方と「長く使えるモノ作りをしよう」という考え方が、ふたたび手をむすぶときが来るのではないかと考えられます。


 大げさな言い方をすれば、ようするに「消費文化の終焉」ということが刻々と近づいているのかもしれません。


 でも、そんなことを言うと、こんどは、モノを作るための原料をさがしたり加工することで生きている企業、つぎからつぎへと新しい製品を生み出すことで生活している会社、またその「新しいモノこそ価値あるモノ」という考え方や見方をひろめることで生計を立てている評論家や有識者と言われるような方々、そして、おなじようにそれらの企業がスポンサーになってくれているおかげで命をつないでいるメディアや広告業で働いている方々はどうすればよいのかという難題がひかえています。


 ところが、そんな暗い不安をもたらすシナリオですら、わたしたち一般人にとってはほとんど『見えない危機・聞こえない危機』のひとつとして隠されているようなのです。


 とは言っても「日本のエネルギー事情」をちょっとお調べになったらおわかりになることですけれど…。


 一次エネルギーとは石油・石炭・天然ガス・原子力・薪・水力・潮流・地熱・太陽エネルギー・トウモロコシ・牛糞など自然の恵みによって得られるものであることはみなさんご存知だとおもいます。


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 そして、二次エネルギーがそれを燃やしたり加工したりすることで生まれる電力・都市ガス・ガソリン・プロパンガス・灯油・軽油などですし、また、新たなところではバイオエネルギーや合成燃料であることもご存知だとおもいます。


 ですから、とにかく、なるべく早く化石燃料そのものへ寄りかかる移動手段から離れて、化石燃料やその他の自然から得られた二次エネルギー(たとえば電力)による移動手段にたよるようにしたほうが良いのでは、という意見が大多数です。


 もしかしたら『リッターからワットへ』というスローガンが必要なのかもしれませんね。



せめて電気だけは絶やさないで

 たとえば電動アシスト自転車(e-Bike)がひとりの人間を1キロ移動させるのに必要なエネルギー消費量は自動車にくらべて40分の1ですむと言われています。


 ステキなことだとおもいます。


 ただし、それと環境問題とが密に関係しているかといえばかなり疑問に感じているところもありますので、そのうち地球温暖化とCO2問題についても書くつもりではいます。


 ところで、移動手段のための身近なお道具(自動車やモーターバイクなど)を電動化することは脱炭素社会の実現には欠かせないことだ、ということばをお聞きになった方は多いのではないでしょうか。


 そして、たとえば、EV(電気自動車:エレクトリック・ヴィークル)はガソリン車のに比べて組み立てに必要な部品数が2万点 vs. 3万点で、およそ1万点ほどすくなくてすむということもお聞きになったかもしれません。


 けれども、テスラ1台を生産するために使われる化石燃料の総消費量(レアアースなどの原材料を得るために必要な大型機械を動かすためと輸送費などに使われるエネルギー消費量などをふくむ)は一般の普通ガソリン車一台を作るのに必要な化石燃料の16倍だという報告もあるようです。



ひっそりと共存している驚異

 そんな難題をかかえている時代に、子供のいる女性にとっては必要不可欠な発明品『電動アシスト自転車』が、あまりにもあたりまえのように日本の街路を走っていて、しかも、その貴重な存在をおおげさに主張しないことにはおどろかされます。


 たとえば水道水を燃料にして走る自動車が実用化されているのにもかかわらず、また、それを街中でしょっちゅう見かけるのにもかかわらず、そんなことは取り立てて言うほどのことでもないし騒ぐことでもないといったあつかいを受けていたとしたらどうでしょう。


 たぶんあれは「驚異の必需品」なのです。

ブリヂストンの電動アシスト自転車 bscycle.co.jpさんより
ブリヂストンの電動アシスト自転車 bscycle.co.jpさんより

 もっともっと社会のすみずみにまで、また、ひとりびとりにまで行き渡ってとうぜんのお道具だとおもいますし、なるべく早くそうなって、もっともっと安く手に入れることができたらいいのに、と願っています。


 もちろん、電動アシスト自転車ではなくて、純粋に人力そのもので移動できる自転車こそが、もっとも脱炭素社会の実現に貢献していることは言うまでもありませんが…。





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