支配層に都合のよい「分断統治」について | エネルギー危機がもたらす経済破綻と食料危機
- 香月葉子

- 5月4日
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更新日:4 時間前
食料供給を支配する者は人々を支配し、エネルギー資源を支配するものは国を支配し、金融を支配するものは世界を支配する。
ヘンリー・キッシンジャー(1923年5月27日 - 2023年11月29日)
(アメリカ国家安全保障問題担当大統領補佐官および国務長官)
政治や世界情勢にかかわるモノを書くときに、ひとりの書き手としていちばん懸念していることは、わたしたち現代人が「効率性」(efficiency)というものを最優先させているという事実です。
政治や世界情勢に関する読み物の場合、ほんの数行に目を走らせただけで、この書き手は「何々派」のひとでは? とか「何々主義」を信じているひとなのでは? といった疑問にとらわれる方々がおられるようです。
ソーシャルメディアに目を通してみると、わたしたちはなんについてもすぐに答えを出したがる時代を生きていることがわかります。
あの人は何々だとすぐに決めてかかる方々も多いようです。
ヒトが「思考」するときにもタイムパフォーマンス(タイパ)が求められる時代に入ったのかもしれません。

最小のコストで最大の成果をめざすという「効率性」は、見方を変えれば、ようするに「こらえ性」を失わせていく最大の要因のひとつだとおもいます。
そうなると、ちょっとした先入観(色眼鏡)によって書かれたり語られたりした内容を解釈するようになります。
そういう情況が残念でなりません。
そして、いま、「状況」ではなく「情況」という漢字をつかっただけで、もしかしたら今これを書いているひとは「何々派では?」とか「何々主義者では?」と疑うような方々がおられるのではないかとおもって、じつは、わざと使ってためしてみました。
たとえば、ヒトは長くつきあった方や親しくつきあっている方にたいして「あの人はどういう人なんですか?」という意見をもとめられるとコトバにつまってしまうことがあります。
ほんの2、3の形容詞ではとても評価・判断できないことに気づかされるからです。
相手の方を知れば知るほど、距離が近づけば近づくほど、その方がいろいろな側面をもっていることに気づかされるからです。
相手の方の複雑さと深さと変化に辛抱強くつきあってきた方ならなおさらです。
ただ、「あの人ならそういうことをしたかもしれない」とか「あの人らしい意見だとおもう」とか「あの人がそういうことを言うはずはないとおもう」などと、相手の方がじっさいに行なったことにたいする判断にはゆるぎのないものがあるようです。
ひとことで言い表わすことはできないかもしれないけれども、その方の性質というか性格の「芯」の部分だけはなんとなく理解してつかんでいるような気がする、とでも言ったらいいのでしょうか。
母親や父親が「まあ、あの子はそういう子だから」という場合には、「そういう子」という判断のなかに「先入観と期待感」や「深い理解とあきらめ」や「愛といらだち」のすべてがふくまれているはずですし、けっして客観テストの「正か誤か」というような単純な受け答えから生まれたものではないでしょう。

正直なところ、この21世紀にいまだに「サヨク」だの「ウヨク」だのといったラベルを「本気」で信じている方たちがおられるとはおもってもいませんでした。
けれども日本で書かれたものだけではなく、米国や欧州で書かれたものやYouTubeやソーシャルメディアなどを見まわすと、いまだにそういうことに目を血走らせている方々がおられることはたしかなようです。
でも、そもそもなにが「サヨク」でなにが「ウヨク」で、どういうことが「革新」でどういうものが「保守」なのかと問われても、定義そのものがあいまいですし、語っている方々にしても、それぞれの定義に関してそれぞれ微妙にちがった考えをお持ちのようですから、あまり「効率性」を高める結果をもたらしてくれるお話ではないようです。
永遠の平行線をたどるために永遠に議論しつづけているようなものかもしれません。
そういう意味では、まさに米国の歴史家ハリー・エルマー・バーンズ氏(1889年6月15日 - 1968年8月25日)の唱えた『永遠の平和のための永遠の戦争』(Perpetual War for Perpetual Peace)を地でいくような「非効率的」な論争をつづけてきたのではないかとおもっています。
そういう争いにばかりお熱をあげて、いちばん肝心なことが目に入らなくなるように、うまくだまされてきたのだとおもいます。

たいへん「乱暴」なことを言わせてもらうと、ヒトの歴史には支配層と非支配層がいるだけで、あとは彼らの「分断統治」(divide and conquer)による非支配層の仕分けしかないような気がしています。
そのために、ひとびとにはさまざまな差別意識をうえつけること。
たとえば、性差別 / 人種差別の意識をうえつけ、クラス意識 / 階級意識やグループ意識 / エリート意識を根づかせながら、それぞれ互いに反目させるようにしむけて、自分たち支配層へは批判の目を向けさせないようにしながら支配力を温存させるという…。
「勝ち組 / 負け組」とか「リア充 / オタク」とか「上級国民 / 下級国民」などなど…。
でも、支配層にとってはみな同じなのです。
自分たち『支配者』と『その他大勢』だけによって彼らの世界観はつくられています。
そして『その他大勢』をコントロールするために、四大文明が生まれたはるか古代から『エリート』といわれる階級をつくりあげてきました。
エリートとはその名の通り、選ばれた者、です。つまり支配層から選ばれた方たちであり、彼らの支配権と富を永続させるために政治的・経済的な責務を果たしている、ある意味、とても優秀な(はずの)方々でもあります。
その見返りとして支配層から守られ利益を得ている方々でもあります。
彼らは支配層にとって宦官のような存在です。
富裕層、または上流階級に属していると思いこんでいる方々でもありますし、知的優位性を誇っている方々でもあります。
そんな自分たちの社会的地位と名誉と富を守るために『現状維持』(status quo)を望むのはとうぜんのことでしょうし、結果的に、たえず国民の9割を占める『その他大勢』の要望や要求をせきとめる側にまわってしまうのもしかたがないことかもしれません。
ギリシャの経済学者で政治家で地政学的コメンテータでもあるヤニス・バルファキスさんがおっしゃるように「もっともリベラルな発言をしてきた大学の教員(アカデミクス)や有識者にかぎって、本格的なデモンストレーションや市民革命がおこったときには、まっさきにその非有効性や暴力性をとりあげて批判する側にまわるのが彼ら自身であったことは歴史的事実です。つまり自分たちを守ってくれているシステムそのものがゆさぶられるような何かが起こったときにとつぜん権力の側に身を転じて市民を裏切ってきたのは彼ら自身なのです」というコトバは頭の片隅にとどめておいたほうがいいかもしれません。
なぜならエリート階級に属している(と思っている)方々も「この現実世界の政治的・経済的・社会的な構造を根本から変えられるはずはありません。なぜなら《人間の弱さ》というこのどうしようもない壁が立ちはだかっているからです」と心のどこかであきらめているからだ、というのがヤニス・バルファキス教授の結論でした。
絶望は変革への意思をくじかせる最大の要因なのかもしれませんね。
なにしろ支配層の保有している富のレベルは桁ちがいですし、彼らが影響をあたえることのできるコネクション(情報網)の広さと緊密さも国家単位です。
この件につきましては、カリフォルニア州立大学ソノマ校で政治社会学を教えておられるピーター・フィリップス教授のお書きになった『巨大企業 (ジャイアンツ) 17社とグローバル・パワー・エリート : 資本主義最強の389人のリスト』をお読みになるのがいちばんだとおもいます。
そういう支配層からしてみれば、「サヨク」の方々も「ウヨク」の方々も、また「革新」の方々も「保守」の方々も、それぞれ相手を揶揄することで自分たち支配層に批判の矛先を向けなくしてくれるという意味では、民衆コントロールのための「効率性」を高めてくれるとても便利な集団なのかもしれません。
けれども、ときどきこのカラクリに気がついて「労働者には黒人も白人も黄色人もない、みんなが一致団結すべきである」というようなことを述べて、そのまま一致団結した大行進をやりとげたマーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような方が出現する場合があります。

また「どこどこの国は仮想敵国であると結論づける前に、まずはその国を動かしている方たちと向かい合って話し合いをすることがほんとうの外交ではないのか。そうすれば戦争を避けることができるはずだ」と述べてじっさいにソビエト連邦やキューバの指導者と和平協議を行おうとしたジョン・F・ケネディのような政治家があらわれることもあります。
このおふたりは「1を聞いて10を知った気になるのはやめよう。何ごともやってみなければわからない」という未知の領域へ一歩をふみだす勇気を持った方たちでした。

ただし、戦争を利用してもうけてきた支配層にとっては困った状況です。
とくにそういう人物がひとびとの尊敬と多大な人気をひとりじめにしているときには、かなり不都合な状況が生まれます。
とはいっても、早いうちにその芽をつみとってしまえば、支配層の方々にとっては安泰です。
古今東西、政治の世界では常套手段として使われてきた「暗殺」で問題は解決します・
彼らにとって次のお仕事は「黒色人種」と「白色人種」と「黄色人種」をそれぞれ争わせることです。
彼らがたがいに反目しあって争っているあいだは自分たち「支配層」がなにを行なっているのかということについて誰も注目しなくなるからです。
おなじように、自分たちの経済・政治・軍事の支配をおびやかすような国があらわれたときには、その周辺の国々をあおってそれぞれが敵対するようにしむけながら、彼らが手をむすんで強大になり自分たちに歯向かうようになる状況をつくらせないために先手を打っておかなければいけません。
とはいっても、わたしたち日本人のように、黄色人種でありながら白色人種にあこがれ、白色人種の文化を拝みながら「追いつき追い越せ」とやっきになってきた国民もいます。
でも、彼ら白色人種のエリート層からは「見た目は黄色のくせに中身は真っ白になったつもりでいる『バナナ』民だね」と陰口をたたかれつづけている便利な国民でもありますので、なんともいえませんけれど。
たとえば、英国の片田舎、しかも観光地でもない小さな村の小さなレストランに足を踏み入れたとき地元の英国人があなたをふりかえって見せる反応と、そんな白人しかいない英国の片田舎で小さな中国料理店を家族で経営しているお店に入ったときにあなたをふりかえった中国人が見せるであろう表情を想像してみるのはけっして無駄ではありません。
どちらの人があなたに無防備なほどの笑顔をむけてくるでしょうか。
世界は政治や経済や文化では超えられない人間の本能によって動いているところがあるとおもいます。
いま目の前にいる相手は自分たちの「仲間」なのかそれとも「よそ者」(ストレンジャー)なのかということを判断するときにはたらく、ほとんど生理的反応に近いほどのスピード感のある防衛本能というものはどうしようもありません。
それは自分たちに近しい『外見』(アピアランス)をそなえているかどうか、という文化人類学的な問題におちつきます。
児童心理学においても答えが出ている「親しみをおぼえるもの」というところへすべては流れおちていくのです。
ヒトが備えているそんな本能をすらおさえつけて互いを争わせようとする支配層の思惑と貪欲さにはキリがありません。
彼らにとって「戦争」は美徳であり「対話」は悪徳なのです。
それさえできれば、支配層の方々はわたしたち全員の視界から消え去ることができます。
見えない存在でありながら支配する存在でもありつづけることができるのです。
それはまさに、荘園制度の終わりを加速させた産業革命以降、初期資本主義社会へ移行する過程で生まれてきた「不在オーナー」(Absentee Owner)とおなじように、ココには存在しないけれどもココのすべてのものを所有していて、しかもどこか遠くのほうからわたしたちが生かされているこの制度をコントロールしながら、この制度から利益をむさぼりづづけることができるひとびとでもあるのでしょう。

そのためにはわたしたち全員を借金漬けにすればいいのです。
荘園時代の『農奴』とおなじように現在ではクレジットカードとサブスクリプションと電子マネー(電子決済)の発明による「オシャレな」賦役と貢納と囲い込みによって、ギリシャの経済学者・政治家ヤニス・バルファキスさんが唱えてきたテクノ封建制(Digital Feudalism)への移行がすすんでもいるようですし。
その完璧な金融コントロールの最終段階が中央銀行デジタル通貨(CBDC:Central Bank Digital Currency)なのだと、いま、世界的に有名になられただけではなく、わたしたち日本人にも『円の支配者』という著作で親しみのある経済学者リチャード・ヴェルナー教授(Professore Richard Werner)までもが警告しています。
もちろん、ひとくちに支配層(Ruling Class)と言っても、風変わりな宗教や思想を信じて一般常識の世界から見るとおぞましいような儀式にお熱をあげる支配層もわたしたちヒトの歴史のなかには数多く出現しましたし、そういう支配層は、じっさい「陰謀説」に夢中な方々の食指をうごかすような秘密のベールにつつまれていた場合もあったでしょう。
王朝や国家や帝国の興亡の波にもまれながら支配層もさまざま変化してきたことはまちがいありませんけれども、根本的に、彼らの目的はいたって「シンプル」です。
権力の維持であり、家系の存続であり、資産の拡大であり、そのための利益の追求がすべてなのです。

わたしたち「その他大勢」のことなど気にかけたことはありません。
マイケル・ジャクソンが歌っているように、まさに「They don't care about us」なのです。

自分たち以外のひとびと、つまり非支配層全員を完全にコントロールすることができたら…これこそが昔から変わらない彼らの夢であり野望だったはずです。
支配を永続させるためにはあらゆる手練手管を弄して反逆の芽をつみとることだからです。
物理的に従わせるか精神的に従わせるかにかかわらず。
そこで思いついたのが、まずは自分たちの存在を消し去ればよい、という戦略でした。
自分たちを批判の標的にさせないことが大切。
だれに反逆すればよいのかわからなくさせてしまうことが大切。
ですから、ほんのすこしでも自分たちが批判の対象になりそうになったときには「いやいや、悪いのはわたしたちではありません。あなたたちの敵は彼らです」と別の対象を指さして、そこへ目を向けさせてきました。
いちばん楽なのは隣人同士を争わせることです。
それがもっとも「効率性」の高い戦略なのはまちがいありません。

わたしたちは「いったいだれのせいでこうなったのだろう」と悩むとき、どこかにその原因をさがそうとやっきとなります。
彼らのせいでこうなったのだ。ああいう考え方のひとたちがいるからこうなっているのだ。あの国のせいでこうなったのだ。
もしくは抽象的な「この制度のせいでこうなったのだ」とか自虐的な「すべては自己責任なのだ」という「あきらめ」におちつかせるのも効率的でしょう。
そうすれば責任を負わなければいけない支配階級に属している特定の個人や集団に批判の矢が飛んでくることはなくなりますから。
そのくせ自分たちが数年間のギャンブルに狂って巨額の資産を得たあと、2008年のリーマンショックで銀行そのものを破綻に追いこんだときには「自己責任」どころか、われわれは『大きすぎてつぶせない:too big to fail』という屁理屈をこね、われわれ銀行とウォール街の支配層を税金で救済しないかぎり世界経済そのものが破綻するぞ、と脅して「世界の庶民」を人質にしたひとたち。

分断統治。
古代から支配層がもっとも好んで使ってきた民衆コントロールがこの「Divide and Conquer」であり、ひとびとをさまざまなクラスや階層やグループに分け、互いに反目・対立させながら自分たちの地位の安定を図ってきました。
いま、わたしたちの地球は戦争だらけです。
さらに互いを争わせようと、隣国を敵視させるようなプロパガンダがメディアをおおいつくしているようにも見受けられます。
さまざまな場所で「あの国は危険である」とか「あの国はわたしたちを押しつぶそうと狙っている」というように他国の脅威をおおげさにあおりたてて自分たちの政策を有利にさせようとする『恐怖煽動戦略』(fearmongering:フィアモンガリング)が発生しているようです。
このような時代にもっとも大切なのは、抽象的な「平和主義」を訴えることではなくて、わたしたちを脅すことで誰が利益を得るのか、という具体的な事実をさらけだすことだとおもいます。
現実のお金の流れを追いかけることです。
Follow the Money。
どこへお金が流れていき、だれが得をするのか?
不可視の支配層の姿を太陽の光にさらすためには、具体的な数字が必要であり、具体的な組織図と人間関係が必要であり、これが必要なものすべてであることに変わりはありません。
そしてもちろん「反戦」運動などを筆頭に、さまざまなデモンストレーションは市民の権利ですし、もっとも具体的なカタチでわたしたちの意見を可視化できるということでは、これも昔から変わらない大切な武器のひとつです。

たしか米国のニクソン大統領の回想録でしたか、国務長官ヘンリー・キッシンジャーとふたりでホワイトハウスの執務室(オーバル・オフィス)の窓から外をながめたとき、反戦運動に参加したひとびとによってホワイトハウスが取り囲まれていることを知り、ヘンリー・キッシンジャーとふたりで「言い知れない恐怖を感じた」と書かれていたように記憶しています。
あれほどの地位と権力を手にしていたふたりがふるえたのです。
ひとびとを本気で怒らせたらどういうことが起こるか歴史が教えてくれています。
1対99では頭数(アタマカズ)がちがうのです。
だからこそ暴力革命が起きたときにはほんとうに悲惨な情景がひろがります。
群衆が押しよせ、支配層はとらえられ引き回され、酷い最期をむかえることになります。
そうならないことを祈っていますけれど、わたしたち市民にできることは、そういう悲劇を生むような「恐怖」を、ほんの数秒でも数時間でも数日でも支配層に感じさせることなのかもしれません。
その瞬間、わたしたち市民が、なにを感じているのか、なにを思っているのか、なにを願っているのか、なにを要求しているのか、ということが、はじめて彼らに明らかになるのだとおもいます。
それこそが「人民の、人民による、人民のための政治」を行なわせるためにもっとも大切な「愛国心」だと信じています。
沈黙したまま何もしなければ何も欲しがっていないとおもわれてもしかたがありません。
限界を超えるところまで我慢しつづけた先には暴力革命や市民戦争という崖っぷちが待っているかもしれません。
そうなる前にこちら側の要求を伝えることが大切なのではないでしょうか。

そういう意味でも、じっさいに街路に出て、プラカードをかかげて、さまざまな問題提議をなさっている方たちへの尊敬をうしなったことはありません。
「サヨク」でも「ウヨク」でも「革新」でも「保守」の方々でもかまいません。
権力はそのままにさせておくと、その支配欲に限度がなくなるからです。
そんなキリのない貪欲さ(greed)が、いつのころからか、おそらく第一次オイルショックの1970年代あたりから、善悪の価値観を超えて、なぜか「善きもの」へと変わりました。
貪欲さはすばらしいのだ、と。
なぜなら、あらゆる価値観の最上位に「お金」(gold)が君臨しはじめたのです。
そうなるとヒトの価値はただただ「お金があるかないか」(have or have not)という二者択一だけにおちつきます。
お金にモラルはありません。
たとえどのような悪業を働いて手にした資産でも、その資産そのものはそのヒトの過去を語るものではありません。
たとえ違法なインサイダー取引で儲けたヒトであろうと、人身売買や麻薬や賄賂で富を築いたヒトであったとしても、また戦争を利用した株価操作で信じられないほどの資産を得たヒトであろうと、いったん大富豪になってしまえば、さまざまな機関や組織に寄付金をくばることで『善人』の仮面をかむることができますから。
そのような歴史的ないましめから、わたしたち一般市民が自分たちの要求と意志を目に見えるカタチにできる「発言の自由」と「デモンストレーション」を行う権利を得ることができるようになりました。
歴史的にみて、女性の権利や労働者の権利など、その他もろもろの市民にあたえられた権利は、いつもデモンストレーションという要求の可視化によって実現してきたものばかりです。
それはまさに奴隷制度廃止運動家であり政治家でもあったフレデリック・ダグラス氏がおっしゃったように「権力はこちらが要求しなければなにも譲らない。ずっとそうだったし、これから先もそれはずっと変わらない」ということを証明するものでもあったのでしょう。

もちろん、権力にたいして弱者の側であるわたしたち「市民」がデモンストレーションをおこなう権利を得られたことは、西欧の知的文化と民主主義がそこまで発達したおかげであることは言うまでもありません。
その西欧が到達した「民主主義」の約束事が、いま、米国と西欧諸国そのものによって投げすてられようとしているように感じられてなりません。
その「民主主義」とはなにもせずに得られるものではなく、たえまない討論と抗議によってだけ健康を保てるというのが歴史的教訓です。
だったら正規のルート、つまり議会政治を通して討論し抗議したらいいではないか、という意見があります。
けれども、その民主主義のいちばん根っこにある手段が、いま、なぜかアカデミアにおられる政治学者さんたちからも否定されはじめているのが米国の現状なのです。
「それはまったくの無駄であり、虚しい結果を生むだけだ」と。
「なぜなら政治家たちのほとんどが「お金」で買われてしまっているので、彼らは国民の代表ではありません。あくまでも大富豪や財閥やグローバル企業の所有者や機関投資家などの献金者の意見に耳をかたむけながら、献金者(ドナー)たちの意向をくみとり、それを実現するためのお道具になってしまっているからなのです」と。
「ですから、たとえ法改正や政治改革を要求したとしても、いちおう審議するフリ(パフォーマンス)をしながら、わたしたちの耳に心地よいコトバを聞かせてはくれますが、最終的には献金者たちに都合のよい法律をつくるのです。彼ら政治家の仕事は大富豪たちがさらに富を増やすことのできる法案を提出することであり、国民の現状に目を向けて、わたしたちが向き合っている問題に対処することではないのです。だからこそ政治家たちのスローガンとはうらはらに現実は何も変わらない、という状況がつづいているのです」
これはすでに政治理論家で、カリフォルニア大学バークレー校・オックスフォード大学・コーネル大学などでも教鞭をとってこられたシェルドン・ウォーリン名誉教授が述べておられた『逆全体主義』(inverted totalitarianism)とか『逆ファシズム』(inverted fascism)という考えにも合致する現実です。
ファシズムとはもともと大企業への権力一極集中が完成した先に生まれてくるものだと考えられていますので、先進国といわれている国々の「今」を見つめていますと、まさにそのような状況下にあるのではないでしょうか。
ほんのひとにぎりの巨大グローバル軍需産業とIT企業が、政治家たち、つまり国家そのものを動かすような状況、つまりコーポラティズム(corporatism)が政治を支配・采配している現状を見ますと、アメリカという国はすでに寡頭政治(オリガルヒ)というよりも「ファシズム」に片足を浸しているのではないかとも考えられます。
米国の学者さんたちが『テクノファシズム』と名づけた状況が生まれているのはまちがいありません。
たとえば、巨大なAIデータセンタを建設するために、ジョージア州の美しい森だけではなく、4世代にもわたって暮らしてきたひとびとの土地を強引に没収し、彼らの街そのものを平地に変えてしまう『Emergency Use Authorization』(緊急使用許可)をIT企業のために施行しているのが現在の米国のトランプ政権です。
コロナ禍のときにこの同じ『緊急使用許可』によって、ファイザー・モデルナ・アストラゼネカなど巨大製薬会社が開発したmRNAワクチンにどのような副作用があろうとも、後ほど彼らにその責任を追及することはできないし、また賠償金を請求することもできなくなったのです。
お金が最上位の価値になり、法とモラルと道徳がゴミ箱に投げやられると、このような政治家と企業との癒着があたりまえになってしまう、ということを米国がいま世界中に見せつけているとも考えられます。
わたしが知っていたアメリカはもうそこにはないのです。
だからこそ:
絵を描くことのできる方。
音楽を作ることのできる方。
映像作品を作ることのできる方。
大自然と手をむすびながら農作物を作ることのできる方。
学問に身を投じてきた方。
建物や道路をつくることに身を投じてきた方。
無機質に見える数字に意味を見出して理解できる方。
さまざまな組織の裏情報を得ることのできる方。
大企業や株式市場の内情にくわしい方。
そしてYouTubeやその他のソーシャルメディアなどで代替メディアを発信することのできる方…などなど。
そんな方たちが、それぞれの場所でそれぞれの方法で「争い」へと向かっていくこの世界の流れをせきとめる意志を表現(発信)なさったら、ほんのわずかな期間であったとしても、支配層の「たくらみ」をくじくことができると信じています。

なぜなら、世界の経済が破綻し、肥料不足から多くの国々で飢餓が起こるかもしれない状況下で、お互いに小競り合いをしているような時間は残されていないのかもしれませんから…。
1990年代初頭に東欧が崩壊した現場を取材していた元ニューヨークタイムズの記者の方がいます。ピューリッツァー賞を受賞なさったクリス・ヘッジズさんです。現在は調査報道記者・作家・政治コメンテーターです。その方が講演会でつぎのように述べていました。
「なにかがうまくいっているように見えているところからいきなり全てが崩壊するのに数日もかからない。わずか数時間ですべてが変わってしまった。ほんの昨夜までディスコに行ったりブティックで買い物をしたりしていたはずなのに、翌朝にはスーパーや商店の棚から食べ物が消え去り、窓がこわされ、畑からは作物が盗まれ、街には暴力と略奪にあふれかえっていた。まるで夢を見ているようだった。その場にいなかった人にはぜったいにわからない感覚だ。ものごとが崩壊するときの速度はとんでもないものだ。ローマは1日にしてならず、されど滅亡は1日にしてなる、というコトバがあれほどの現実感でわたしの心をしめつけたことはそれまでなかった」
広々した体育館のなかにドミノをならべて素晴らしい絵模様を描くのには大変な労力と時間がかかります。けれども、そのひとつを倒したとたん、となりあったドミノは次から次へと倒れていき、すべてが倒れてしまうまでにかかる時間はほんの数分間です。
この忌まわしい「戦争だらけ」の世界情勢がそのような悲劇をもたらさないことを祈りつつ、このキーボードから指を離したいとおもいます。
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