映画『オブセッション』(災愛)の暗く不可解な愛と恐怖 | ホラー映画史に残る名作
- 香月葉子

- 6月15日
- 読了時間: 14分
更新日:16 時間前
すべての極端な感情は狂気と結びついている。
ーヴァージニア・ウルフー
『災愛』はすばらしい邦題です。
『オブセッション』という映画をきちんとおしまいまで観て、その内容を深く理解した上であっても、これほど映画の内容を的確にとらえた邦題が生まれたかどうかはわかりません。
『最愛』が『災愛』に変わったとき、ふたりの関係はどうなるの?
まさにそういう映画でした。
このエッセイにはたぶんネタバレはないとおもいますが、気になる方は、先に映画をごらんになることをおすすめします。

目次
①あらすじ
②お化け屋敷的ドッキリは使わない
③読めない展開
④等身大の登場人物
⑤「日常性」がもたらすリアリズムの濃さ
⑥日常空間から隣接異空間(リミナルスペース)へ
あらすじ
主人公はベア(熊/忍耐)というあだ名で呼ばれている青年で、米国のGen-Z(ジェンジー)、つまりZ世代の若者たちが共有しているとみられる ①将来への期待感のなさ、②現状を変える手段をもたないという無力感、③カタチだけの表面的な友人関係からくる孤独感、などを身にまとっているようなのですが、はたして主人公ベア本人がそれをはっきりと自覚しているかどうかはわかりません。
内向的でセンシティブで優柔不断であまり自己主張をしないベアという主人公は、どこからどうみてもいまどきの《陰キャ》の代表みたいな青年です。
男性的で支配的な「アルファ男性」(Alpha male)ではなく、あきらかに受動的でひかえめな「ベータ男性」(Beta male)なのです。
彼は友人のイアンとサラとともにミュージックストアで働いています。
そしてその同じ職場で働いているニッキーという女の子に恋心を抱いています。
彼女は彼の「初恋」(childhood crush)の相手でもありました。
ニッキーは明るく親切で社交的でフットワークの軽い典型的な《陽キャ》の女の子。
主人公のベアとは真逆の性格です。
映画はベアの孤独感がつたわってくる喫茶店の場面からはじまり、そのあと家にもどった彼は飼い猫のサンディが死んでいるのを発見します。
その家は亡くなった祖母からゆずりうけたものらしく、猫のサンディは彼の祖母が服用していた薬をまちがって餌といっしょに食べてしまったのです。
悲しみにうちひしがれながらも、彼はニッキーへのプレゼントを探すためにクリスタルショップへ出かけていきます。
でも、なぜか、かんじんのクリスタルを買わずに『ワン・ウィッシュ・ウィロー』というおもちゃを買ってしまいます。
「たった一度だけ願いを叶えてくれる」というふれこみの珍しいおもちゃでした。

その夜、ニッキーを彼女の家まで送っていったベア。
クルマのなかで彼女に「わたしのこと、好き? 言うならいまがそのときよ」とたずねられたのですが、彼は本心を伝えることができず、しどろもどろに口をにごしながら「ぼくたちは良い友だちだとおもってる」とこたえてしまいます。
そんな自分のふがいなさにイラだった彼は「ニッキーが世界で誰よりも自分を愛してくれるように」と祈りつつ『ワン・ウィッシュ・ウィロー』のボックスに入っていた柳の枝をポキッと折ってしまうのです。
とたんにクルマから出て自宅のドアをあけかけていたニッキーの態度が一変します。
彼のクルマにもどってきて「わたしの部屋に来ない? それがダメだったらあなたの家に連れていって。疎遠になっていた父親が癌にかかって死にそうなの。ひとりですごせる勇気がないの」と打ち明け、けっきょくベアの家に泊めてもらうことになります。
みるみる親密なふんいきになって、彼のベッドのなかでフレンチ・キスをしはじめるニッキー。
ところが、そんな自分の行為におどろいたニッキーは、とつぜんわれに返ったようにベッドから跳びおりて「ごめんなさい、ごめんなさい。いまのはパニック発作だったの。でも、おながいだからこのベッドで一緒に寝かせてくれる?」と要求します。
そしてなにもないまま朝をむかえたベアが見たものは、飼い猫サンディの屍をキッチンの床に横たえ、キャンドルや手紙などをそえて供養のための儀式を行おうとする彼女でした。
ベアは動揺が隠せません。
この不思議な夜がスタートの合図だったかのように、ふたりは幸せそうな交際に入っていきます。
彼にとっては片思いだったはずなのに。
でも、もしかしたら、彼女も自分のことを好きだったのかも…。
と、そんな期待感を抱かせてはくれますが、じっさいに、この幸せが相思相愛からきているのかどうかはわかりません。
わからないように描かれているからです。
ふたりは、まるで同棲生活をしているカップルみたいにふるまい、友人たちにふたりの熱い関係を見せつけたいのか、まわりからの視線を受けながらも仕事場でもいちゃいちゃしはじめます。
まるでふたりの「承認欲求」を満たすためであるかのように。
ただし、ふたりのこの「幸せなひととき」はそれほど長くはつづきません。
ほんの短いほほえましい場面が終わると、いきなりギアが変わり、暗く重たく恐ろしい恐怖のシーンの連続が、わたしたち観客を最恐のラストシーンまで引きずりまわしていきます。

お化け屋敷的ドッキリは使わない
このなかで観客をとつぜん「ワッ」とおどろかせるジャンプ・スケア(jump scare)と呼ばれる手法はつかわれていません。
ジャンプ・スケアとは、ようするに『お化け屋敷的』ドッキリ手法に近いもので、たとえば、つぎのような場面のことです。
① バスルームの鏡つきキャビネットを閉じた瞬間あなたの真後ろに包丁をふりあげた隣人が立っていた。
② 冷蔵庫の中を物色したあと扉をとじた瞬間あなたのすぐそばには顔の上半分がなくなったゾンビが立っていた。
③ だれかがひそんでいるのかなと不安になってベッドの底をのぞきこんだあとホッと安心してもとのあおむけ姿勢にもどったとたん、真上の天井には吸血鬼がはりついていた。
そして、おそらく1990年代年以降のホラー映画をごらんになってきたファンの方にとって、こういったドッキリシーンがB級ホラー映画の常套手段であることは承知しておられるとおもいますし、そのぶん、すでに目と耳がなれてしまっているとおもいます。
ですから、その手の場面になると「そろそろくるわよ〜」と身構えているはずなのです。
こうなると、監督のほうとしては「そう見えて、じつはこうくるんだよね」と他の映画とはほんのすこしちがうヒネリをくわえながら観客をびっくりさせるしかないわけで、「キツネとタヌキの化かし合い」みたいな競争になっていたのではないかとおもわれます。
でも、くりかえしますが、この映画には、そのような『お化け屋敷的』ドッキリ手法は使われていません。
それどころか、1億円ちょっとの低予算で制作された映画とはおもえないほど見事なカメラワークと照明技術、まるで昔ながらのフィルムで撮影されたのではないかとおもえるほど粒子の粗い1970年代風のダークな画質、また矛盾のないアイデアと無駄のないBGMにくわえて、独特の間(ま)をはさんだ物語の展開速度によって、わたしたちの恐怖心と不快感をともに刺激しつつ、観る者をじりじりと絶望の崖っぷちへ追いこんでいきます。
しかもどの場面をとってみても出来レースではなく無難な展開にもなっていません。
読めない展開
つまり「予定調和」がないのです。
奇想天外なところはないのに、なにがどう展開するのか予想すらできません。
そのほとんどがベアとニッキーの役を演じるふたりの役者さんの圧倒的な演技力に支えられています。
ホラー映画の役者さんたちにもオスカー像を手渡すべきだとおもいました。
映画館のなかで観客の方たちが笑いをこぼしたのは、ニッキーに本心を伝えることのできないベアのおどおどした挙動を見ることができた最初の15分くらいまででした。
それから残りの1時間30分のあいだ、ホラー映画ではあたりまえの「Oh、No」とか「OMG」とかいった拒絶や嫌悪を感じさせる声をもらすひともいなければ、「Wow」とか「Oh、Shit」といった驚きの声をあげる観客すらいませんでした。
深夜のお墓場のようにしぃ~と静まりかえった観客席は、高校生たちが6割以上を占めていたはずですが、20歳をこえたような若者たちも、できるだけスクリーンから遠ざかりたいかのようにみんなそろって椅子に背中をおしつけていました。
また、5秒先がいっさい見えないニッキーの変化と恐ろしい行動に、指のすきまからスクリーンを見つめている女の子たちの姿もありました。
しかも、ニッキーがわたしたちの心を芯からふるえあがらせるのは、たいていいつも彼女が真っ暗なシルエットそのものになっていて、その表情すら見ることができないときなのです。
等身大の登場人物
この映画がもたらす根源的な恐怖は「日常性」からきています。
夏になるたびに公開される「スクリーム」や「ファイナル・デッドコースター」シリーズなどに代表される「campy horror movie」(みんなで楽しむおバカホラー)のように、きちんと整った筋書き通りのフォーマットでなりたっているものではないのです。
また、億万長者たちがつどった豪華な邸宅のなかでくりひろげられる殺人ゲームでもなく、森のなかの古い家を購入した家族にもたらされる惨劇でもなく、どこかの孤島にとりのこされたカップルやお金持ちのグループがはじめる虐殺ゲームでもありません。
この映画のなかの登場人物たちは、おそらくZ世代の若い方たちにとっては親しみのある「等身大の男女」ばかりだとおもいます。

仕事場といっても「フツー」のバイト先だし、部屋もまさに米国の低中流家庭に育った若者にとっては見慣れた「フツー」の部屋だろうし、パーティといってもみんなであつまって「Truth or Dare Jenga」(真実の告白もしくは罰ゲームへの挑戦)ゲームをすることくらいです。
これはブロックで作られたジェンガのタワーを使ったゲームです。
積み重ねてあるタワーからひとつブロックを引きぬいて、そこに「質問」(Truth : 真実の告白)が書かれていれば正直にそれに答えるか、もしくは引きぬいたブロックに「挑戦」(Dare : 罰ゲーム)が書かれてあればみんなの前でそれを実行しなければいけないもので、若者たちだけではなく大人たちのあいだでも人気のパーティ用ゲームです。
たとえば「いま、あなたの正面にいる人に恋心を抱いたことはありますか?」と書かれていたら「ある・ない」という真実を告白し、もし「あなたの右側に座っているひとの唇にキスをしてください」と書かれてあれば相手の性別にはかかわりなく、みなの前でそれを実行しなければいけません。
「日常性」がもたらすリアリズムの濃さ
この映画は、週に一度あつまってそのゲームを楽しむことで友情をたしかめあっている、ほんとうにどこにでもいるフツーの若者たちを描いているのであって、ハーバード大学やプリンストン大学やイェール大学などを卒業したあとにニューヨークのウォールストリートや投資銀行で働いているようなエリート青年たちをあつかっているわけではありません。
フツーにバイトをして、それほど将来に希望を抱いているわけではないけれど、SNSで友だちとコミュニケーションをとりながら、ときどきみんなであつまってみじかいパーティタイムを楽しんでいる若者たちなのです。
SNSには時間をついやすけれど、だからといって、おたがいに心の底から信頼できる友人をもっているわけではなくて、なんとなく「承認欲求」を満たしたいがためにつきあっているような感じがつたわってきます。
そのくせ、心のなかでは、ほんものの恋をしたくて、だれかに愛されたくて、いつもウズウズしているような。
そんな行き場のない孤独感をかかえていそうな若者たちなのです。
ブラッドスプラッターの要素もありますが、くどさがなくサッと通りすぎるので、それほど不快に感じることはないとおもいます。
飼い猫サンディの死にしても、主人公ベアとのつながりが描かれていないために、その屍体を発見したときにも、わたしたち観客のがわには痛みはなく、まるでぬいぐるみが置かれているかのような印象を受けるとおもいます。
そうでなければ、そのあとに起こるニッキーが作った「お弁当事件」(ランチボックス・インシデント)が耐えられないものになることを、この26歳の監督はちゃんとこころえているのです。
わたしたち観客が不快さを感じるのは、ブラッドスプラッター的なシーンではなく、どちらかといえば、仕事場やレストランや友人たちが集まっている部屋などで、その場の「空気」を完全に無視したニッキーが不可解な言動をとったときかもしれません。
それを目撃したときの「気まずさ」が痛いのです。
そして、そういう場面を見るたびに腰がおちつかなくなるのですが、それだけではなくて、彼女の常軌を逸した「ふるまい」と激しい「感情のゆれ」、そして人間離れした奇妙な「動き」は、弱まるどころかますます強くなっていきます。
そのせいでわたしたちの心は濁流を流されていくときのように翻弄され、しかも、手をのばしてすがりつくための大樹の枝はどこにも見つかりません。
このすべてがわたしたちみんなが慣れ親しんでいる「日常生活」のなかで起こるのです。
どの場面からも息苦しくなるほど濃厚なリアリズムがたちのぼってきます。
いつのまにか日常という名の「迷路」の内部に閉じこめられたわたしたちは、「八方ふさがり」の状態ですこしずつ酸素をうばわれながら、だれもが経験したことのある恐怖を100倍の濃さで味わされるのです。
日常空間から隣接異空間(リミナルスペース)へ
日常性のなかにもたらされた「不穏な出来事」がどんどんエスカレートしていって、いつのまにか恐ろしい「狂行」へと突きすすんでいくときのどうしようもない無力感。
万国共通の『願い事には気をつけなさい』という「いましめ」がもとになっていますので、かの有名な短編ホラー小説『猿の手』の進化系であることはまちがいありませんし、ニッキーがなにかに取り憑かれたようにして変貌していくのはとうぜん『エクソシスト』を思い出させるものですけれど、これはけっしてオカルト的な「悪魔憑き」をテーマにしている物語ではありません。
最近では『猿の手』の変化系ともいえる『Talk to Me トーク・トゥ・ミー』という映画もありましたが、ニッキーの場合は悪魔に憑依されているのではないからです。
『災愛』はそのようなホラー映画や物語からのテーマをもとにしてはいるでしょうけれど、ほんとうの怖さは別の場所から近づいてきます。
いままであたりまえだった「日常生活」がじわじわとゆがみはじめ、すこしずつくずれていく恐怖。
そのことに気がついたとき、わたしたち観客は、すでに現実のすぐ隣で口をあけているダークで不可解な不安をもたらす「隣接異空間」(リミナルスペース: liminal space)へと引きずりこまれているのです。
映画『シャイニング』で描かれたホテルの廊下や『バックルームズ』の背景となっている黄色い壁にかこまれた延々と終わることなくつづく無人の部屋の数々。
どこか親しみのある「見たことのある」風景なのに「どこかがおかしい」と感じられて、わたしたちに「なんともいえない」不安感と閉塞感をつのらせるような薄気味の悪い空間。
深夜の巨大モールの駐車場や校舎の廊下と教室。終電をたったひとりで待つことになった郊外の駅のプラットホームや岸壁にひろがる閑散とした滑走路のような道路と倉庫群。
だれもいない地下鉄駅にならんだベンチ。
シュールレアリストのイヴ・タンギーやジョルジョ・デ・キリコが描いた奇妙にゆがんだ空虚な風景はみなさんにもなじみの深いものだとおもいます。

もしもそんな場所におきざりにされたら? そこから抜け出せなくなったとしたら?
この『災愛』という映画は、この現実を変容させ、あたりまえのようにくりかえされていた日々の生活と人間関係そのものが、じつはそういうリミナルスペースでの出来事だったのでは? と錯覚させます。
その瞬間に感じる「めまい」にも似た不快な恐怖。
永久に開放感を味わうことのできない現実。
わたしたち全員をそんな重たい不気味な世界へ引きずりこんでいく求心力を感じさせてくれる映画でした。
この『災愛』という映画はまちがいなくジャンルを超えて『エクソシスト』や『悪魔のいけにえ』や『シャイニング』や『死霊のはらわた』とならぶホラー映画の古典のひとつとなるでしょう。
それは、たぶん、まちがいありません。
※ネタバレをふくむ詳細とこの映画でつかわれているプロットや小道具や会話の意味についての場面分析と解説などは次のエッセイで書きたいとおもいます。
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