ホラー映画の名作『災愛』(オブセッション)を徹底解説 | 超詳細レビューでネタバレ御免
- 香月葉子

- 21 時間前
- 読了時間: 48分
あなたから私の魂を取りもどさなければいけない。
魂がなければ私は自分の肉体を殺してしまうだろうから。
ーシルヴィア・プラスー
米国の詩人・短編作家・小説家。30歳で自殺
物語の伏線と仕掛けと結末まですべてお教えします。
記憶の片すみに寄生してしまうような本格的な恐怖を味わいたい方はお読みにならないでください。
『災愛』には多くの「引用」と「罠」がしかけてあります。
そのせいで、いま海外のYouTuberのあいだでは、この『オブセッション』(災愛)というホラー映画の大成功がある種の社会現象をつくりだしています。
またYouTuberが制作した低予算の独立系映画が、いま、ハリウッドの大手スタジオが巨額な制作費を投じてつくった映画に終焉をもたらしている」という、まるで『貧しい天才的革命家 vs 巨大ハリウッド産業資本』というクラス闘争を象徴する政治事件のようにも受けとられていて、さまざまな炎上をもたらしながら、この映画に関する情報がネット上にあふれかえっています。
わたしも、映画を観たあと、おそらく30を超える海外のYouTuberの方たちのレビューにふれましたし、海外の映画評論家が書かれたものにも目を通しました。
ですから、逆に、わたし独自の視座をもって解釈したいという要求がいっそう強まったことはたしかです。
もちろん、彼らから学んだことについては、そのように述べていますし、わたし自身が思いついたことについてはそのように説明しています。
映画のはじまりから最初の3分の1までのあらすじと全体像については「映画『オブセッション』(災愛)の暗く不可解な愛と恐怖 | ホラー映画史に残る名作なの?」をお読みになってください。
目次
① ふたつの嘘とタイガーズアイ(虎眼石)の石言葉とは?
② 映画史に残る「No…no…no、no、no、no、Noooo!」の怪演技って?
③「No!」の変化球のその先に待っていたのは?
④ ベアに抱かれていたのは…だれ?
⑤ 部屋の片すみの暗がりにひそんでいるのは?
⑥ 薔薇の顔の女の謎とは?
⑦ ランチボックスのおぞましい秘密とは?
⑧ カスタマーサービスの男の声が告げた真実とは?
⑨ あのパーティで彼女になにが起こったの?
⑩ 愛の告白が愛の告白を裏切ってしまうのは?
⑪ もっとも危険な深夜デートはクルマのなかで?
⑫ 2度目の願い事に効き目はあるの?
⑬ 目ざめたニッキーが見たものは?
⑭ インセル男性とはどういう男性なの?
⑮ この映画はインセルホラーのひとつなの?
⑯ この映画の怖さはどこから来るの?

ふたつの嘘とタイガーズアイ(虎眼石)の石言葉とは?
レストランでのデート場面には大切な伏線がしかれています。
予告編でも話題になっていたセリフが飛び出すのもこのシーンです。
「ベア、わたし、あなたのこと、もう、マジに、マジに、マジに、どうしようもないくらい愛してる」
Bear, I love you, so, so, so, so, so much.
Z世代(ジェンジー)からすれば《ガチに重すぎる》あのセリフにつづいて、さらに重たく湿っぽくハートにのしかかってくる彼女のセリフがつづきます。
「あなたなしでは…生きていけないかも」
わたしたち観客が《何かがおかしい》と感じはじめるのはこのあたりからだとおもいます。
事実、このレストランシーンのあとから、ベアにはつぎからつぎへと恐ろしい出来事が襲いかかってきます。
第2幕「対立・葛藤」のはじまりです。
きっかけとなるのは友人のイアンから耳にした情報でした。
願い事を1度だけをかなえてくれるという《ワンウィッシュウィロー》をポキっと折ったあとにニッキーの態度が変わり、なぜか彼の家に連れていってほしいと懇願しはじめたのですが、そのときの理由が「疎遠になっていたお父さんが癌になったの。だから…ひとりでいるのがつらくて…」というようなものでした。
ところがイアンが言うには、それは真っ赤なウソで彼女の父親はいまも元気に生活している、とのこと。
また、ニッキーが友人のサラに告白していたというある《本心》も同時に教えられます。
「ベアってさ、わたしにとっては《弟》みたいな存在なのよね」
①父親の癌はウソ、だということと、②彼女にとってベアは弟みたいな存在、だというこのふたつの情報はとても重要な鍵になってきます。
『災愛』という映画への答えはここに隠されているからです。
イアンとの電話を終えたあと、レストランの自分の席にもどってきたベアに、彼女はパワーストーンとしての人気が高い『タイガーズアイ』(虎眼石)をプレゼントします。
母親からゆずりうけた大切なものらしく、その美しい石はベアに『自信と意志の力』をあたえてくれるはずだとニッキーは言います。
そしてこのタイガーズアイという石にこめられた『自信と意志の力』という《石ことば》はこの映画のラストシーンにも効いてくる3つ目の鍵になります。
プレゼントを受け取ったあと、ふたりはあたたかい恋人同士の雰囲気につつまれます。
映画史に残る「No…no…no、no、no、no、Noooo!」の怪演技って?
ところがベアは友人のイアンから聞かされた話が気になってしかたがありません。
ですからけっきょく悩ましげな顔をしてたずねてしまうのです。
「ね、きみのお父さん、ほんとうに癌にかかってるの?」
するとニッキーは、やわらかくほほえみ、熱っぽいまなざしで長いあいだ彼を見つめます。
この時間の流れを一時停止させるような『間』(ま)の長さは恐ろしいほどわたしたちの心拍数をあげさせます。
長い沈黙のあと、彼女は、微笑をうかべたまま、ささやくようにこたえます。
「No」(ううん、ちがうわ)
でも、このひとことでは終わらなくなるのです。
このシーンはあまりにも有名で、たしか予告編にも使われていたのでご存知の方も多いとおもいます。
彼女はしだいに声のボリュームをあげながら、しかも険しい語気にエスカレートさせながら「No、No、No、No」とくりかえし、ついに席から立ちあがって、レストランという公の場所で、まわりにたくさんの客がいるというのに、ほとんど叫び声に近いヒステリックな声色で「No! No! No!」を連発しはじめます。
あわてふためくベアとおなじように、この状況に気まずいおもいをした観客も多かったはずです。
でも、つぎの瞬間、奇妙なことがおこるのです。
叫んでいたニッキーが、とつぜん小声になって、まるでダダをこねている少女のような涙声で「ヤダぁ~、せっかくふたりで楽しいデートをしていたと思ってたのにぃ~」と態度を一変させたのです。
いまにも泣き出しそうな顔つきで。
数秒前のニッキーとは別人の弱々しい甘えん坊な少女がそこにいます。
ベアはそんな彼女の手をとり、かんしゃくを起こした娘をなだめる父親のように「大丈夫だよ」とくりかえしながら彼女をすわらせます。
するとニッキーはふたたび表情を変化させ、冷ややかな大人っぽい声で「どうしてそんなこと(父親の癌についてのウソ)がいま問題になるのよ」と言い捨てます。
まばたきする間に変化する彼女の気分。

「No!」の変化球のその先に待っていたのは?
ここはニッキー役のインディ・ナヴァレッテの演技力が最大限に生かされている場面でもあるのですけれど、英語の「No」ということばをこれほどたくさんの異なった意味に変化させる場面をつくりあげたことに、ほとんど畏敬の念を感じないではいられません。
この場面は食人系未確認飛行物体をあつかったゴシックホラーSFの怪作『ノープ』で知られるジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』という人種差別系監禁ホラーのなかで黒人のメイド役を演じたベティ・ガブリエルが「No、No、No」のカラフルな意味のちがいを表現してバズったことをおもいださせました。
ただ、『災愛』のインディ・ナヴァレッテの場合、「No、No、No」からはじめて、おしまいには幼児がダダをこねているような演技へと着地させたひねりが強い印象をのこします。
どちらにしても、このふたりの女優さんたちは「No」と発するときの声の抑揚と語気の強弱とかすかな表情の変化だけで、信じられないほどさまざまな感情のニュアンスのちがいを表現したのです。
海外のYouTuberの方たちが、ひとりもこのことについて指摘していないのは、英語が彼らの第一言語、つまり「母国語」だからなのでしょう。
彼らが興味をひかれたのは彼女の「No」の微妙な使い方であって、おなじ「No」ということばから生まれてくる意味のちがいではありません。
でも、わたしのように、英語が「第二言語」であり外国語である人間にとっては、彼女の口から発せられる「No」の意味のちがいが気になってしかたがありませんでした。
ベアから「きみの父親はほんとうに癌をわずらっているの?」とたずねられたとき、長い沈黙をはさんで「No」とこたえたときの最初の「No」は「ううん、ちがうわよ」というものだったでしょう。
このセリフとセリフとのあいだの「沈黙の長さ」というか「間のとりかた」があまりにもすばらしいので、わたしたち観客全員が彼女のつぎの出方を待ちながらその表情に吸いよせられることになります。
それにつづく微笑をふくんだ「No、No、No」は「もちろんウソよ、ウソに決まってるじゃない」という意味の「No」なのでしょう。
そしてシートから立ちあがったあとの「No」は「ねぇ、なぜそんなこと聞くの? そんなことたずねて、なんか意味でもあるの?」という問いかけへと変わっていきます。
そしてほとんど叫び声に近いおしまいの「No」の連発は「ヤダ、ヤダ、ヤダ、もう、こんなの、うんざり!」という全否定の「No」だとおもわれます。
だからこそ、態度をころりと変えて、とつぜん少女っぽいしぐさで「あんなに楽しんでいたのにぃ~。せっかくのデートだったのにぃ~」とダダをこねるような鼻声で訴えかけてきたときにも不自然な印象を受けないのです。
この場面のすばらしさは「いったい、なにごと?」とびっくりするほど超自然的なニッキーの変貌ぶりを見せつけたあと、だれもが経験したことのありそうな「フツー」の状態にわたしたちを連れもどしてくれたことかもしれません。
小さなお子さんをもっているひと。ちいさい弟や妹の世話をしたことのあるひと。または認知症のご両親の世話をしたことのあるひと。もしくは薬物中毒におちいった家族や知り合いのいるひとなどは、ファミレスなど公共の場でこういう「気まずい・恥ずかしい・バツの悪い」おもいをした経験があるのでは?
そういうひとたちにとって、この場面は、きっと身近で現実味のあるものとして迫ってきたはずです。
不気味で予測不可能な「変なニッキー」(フリーキー・ニッキー)というキャラクターに変貌したあと、きちんと「フツー」の女の子へもどるという二面性が怖いのです。
そのことにおどろかされたとたん「もしかしたら彼女の体のなかには別のだれかが入りこんでいるのでは?」という背すじを凍らせるような疑問がわいてきてもふしぎではありません。
ホラー映画なのですから、とうぜん変身・感染・多重人格・憑依などなんでもありです。
わたしたちはそう思っていてそれを予想していてそのことに身構えています。
ちなみにこの「No、No、No、No、Noooh」という言いまわしが、いま、米国の高校生のあいだでバズっていて、機会をみては彼女のマネをする女の子が増えているということです。
また、予告編で気になったひとも多いとおもいますが、ニッキーが、ほんの一瞬、瞳を上まぶたの裏にスッと吸いこませて白目を見せるシーンがあります。
あのイタズラっぽい「白目の剥き方」もおなじく女の子たちのあいだで流行しているとききました。
ベアに抱かれていたのは…だれ?
レストランシーンからそのままセックスシーンがはじまります。
そうなることを期待させるような会話もないまま、人形のように横たわっている彼女におおいかぶさって激しく腰を動かしているベア。
その姿が画面いっぱいに映し出されます。
フランス映画『ベティ・ブルー』のはじまり(導入部)に比べるとインパクトはそれほどではありません。
ただし、こちらはホラー映画なので、たんなるセックスシーンではないことがわかるように作られています。
彼の乱暴な腰の動きは「メイクラブ」というよりは、まさにオスとメスの「性行為」のようでした。
眉をひそめたひともいたのでは。
ニッキーはしかたなく抱かれているようにしか見えません。
彼女のあえぎ声は型にはまっていてウソっぽく、無表情でよろこびは感じられず、わたしたち観客のほうへ向けられた目はうつろで、心はどこか別のところにあるかのようでした。
にもかかわらず下半身むきだしのベアは暴力的なほど烈しい動きで彼女を抱きつづけています。
わたしが女だからなのかどうかわかりませんけれど、彼がむりやりニッキーを犯しているようにしか見えませんでした。
強姦(レイプ)に近いような印象すらうけました。
じっさい、性行為を終えたあと、ベッドにあおむけになった彼は、ほんの一瞬、夢がかなったときのような満足感のある表情を見せるのですが、その達成感にあふれた顔つきはすぐさま消え去り、まるで後悔の念にかられたような不安な顔つきにもどりました。
見ているのがつらいし、不快になったひともいたかもしれませんが、ここはとても大切な場面です。
部屋の片すみの暗がりにひそんでいるのは?
彼が目をさますと、デジタル時計の真っ赤な表示は「午前3時45分」を示しています。
となりにニッキーはいません。
この「3:45」という数字をひっくりかえしたら「SHE」になるということを指摘した海外のYouTuberの方がいましたので、わたしもじっさいに試してみました。

深夜の暗い部屋のなか、彼はベッドのなかから彼女をさがします。
画面の左には洋服かけがあり、まんなかには大きな鏡のついた化粧台と引き出し、そして右のほうは部屋のすみっこの深い暗がりです。
そのあたりから弱々しいささやき声がとどきます。
「もういちど寝てちょうだい」
「ニッキー、そこにいるのかい? こんな夜中になにをやってんだ?」
不安なおももちでその暗がりを見つめるベアの前に、とつぜん、まねき猫のようにこぶしをまるめた彼女が、忍足で近づいてきて彼をおどろかせます。
インディ・ナヴァレッテがこの場面について解説しているYouTube動画を見たのですが、監督のカリー・バーカーは「ゴジラのような歩き方で暗闇から出てきてほしい」と彼女に頼みこんで、みずからその動きをやってみせたのだそうです。
でもわたしには猫歩きにしか見えませんでした。
そんな彼女はベアのセーターを着ていました。
「あなたの匂いがするから」という理由からでした。
ほんのわずかのあいだ光のなかに立っていた彼女は、とつぜん人間とはおもえないような動きで後ろ向きにしりぞいていき、部屋の片すみの暗がりへともどってしまいます。
まるでフィリップ・ノーラン監督の悪名高い『テネット:TENET』や1960年代に流行したビートルズの自作映画などでみられるのと同じ、あのフィルムを巻きもどしたような動きでした。
そしてニッキーは「わたし夢見が悪いの」(I don’t like my dream)と弱々しいふるえる声でベアに告げるのです。
直訳すると「わたしは自分の見た夢が嫌いなの」ですが、そのことばを耳にしたとたん、なぜかザワッと鳥肌を立ててしまったのは、さきほどのセックスシーンでのあの虚ろな瞳と「心ここにあらず」といった無表情をおもいだしたからです。
もしかしたら『ワン・ウィッシュウィロー』の魔力にかかってベアのことを「世界でいちばん愛しているわ」と言いながらキスを欲しがるニッキーは、あくまでも「変なニッキー」(フリーキー・ニッキー)のほうであって、親切で優しくて社交的なニッキーではないのでは?
もしかしたら、幼なじみの彼女、つまり本物のニッキーのほうは「変なニッキー」の体のなかに閉じこめられているのでは?
とすると、彼に抱かれていたとき、「変なニッキー」の体のなかで幼なじみのニッキーのほうは「弟のように慕っていた男性から犯されていた」ことになるのでは?
それが彼女のいう「夢見の悪さ」ということなのでは?
この考えが浮かんだとたん、この推論そのものが背筋を凍らせはじめました。
あまりにも不気味で恐ろしい結論へとわたしたちを引きずりこんでいくからです。
そのあとニッキーは、まるでガマガエルが鳴いているかのような、もしくは老人が嗚咽をもらしているような「グウェッ、グウェッ」という泣き方で「わたしがあなたを愛してるほど、あなたがわたしを愛してるとはおもえない。相思相愛じゃない気がする」と泣き声で訴えかけてきます。
同時に暗がりのなかにうっすらと浮かびあがった彼女の顔はまるで別人のものとしかおもえない顔へと変化していくのです。
老女のようでもあり、また痩せ細って死にかけている病人のようでもあります。
まるでこの家で亡くなったベアの祖母が憑依しているかのような錯覚すらおぼえました。
YouTubeを検索すれば、この数秒間のために、お金をかけずにどれほどのメイクアップ技術を駆使できるか、という動画を見つけることができますので、ぜひごらんください。
数秒ごとに顔つきを変容させてゆく、このコリに凝ったメイクアップを成功させた製作陣には頭がさがります。
薔薇の顔の女の謎とは?
そのあとふたたび「あなたはもう寝たほうがいいわ」とかぼそい声でささやいて他の部屋へ姿を消したニッキーが、こんどはカニのような横歩きでベッドのそばを通りすぎるのですが、びっくりして身を起こした彼の目がとらえたのは、数本の美しいバラが生けてある花瓶で顔を隠している彼女の立ち姿でした。
海外のYouTuberの方たちは年齢層が低いために気づかなかったのかもしれませんが、この「薔薇の顔の女」はシュールレアリストの画家サルバドール・ダリやルネ・マグリットの作品ではよく知られているイメージのひとつです。
わたしみたいな昭和世代の女で、とくに澁澤龍彦界隈の文学・芸術にハマったことがあり、ハンス・ベルメールの球体関節少女人形やマルセル・デュシャンの女性用オナニーグッズなどの写真を盗み見ては、罪の意識と禁忌的快感のふたつをブレンドして味わっていたような者たちにとっては、ほとんど常識的知識のひとつでした。
監督のカリー・バーカーがイアン役を演じた脚本家でもある親友のクーパー・トムリンソンといっしょに映画専門学校『ニューヨーク・フィルム・アカデミー』のロサンゼルス校に通っていたということはわかっています。
とうぜん映画史と同時に美術史も学んだはずですから、きっとそのとき彼らの記憶にきざみこまれたイメージなのかもしれません。
そんな想像を働かせて見ていました。
ただ大手ハリウッド映画では、監督もしくは美術監督の教養を、このような形で表現するということはまずありえませんし、たぶん、できないでしょう。
一般の観客には理解できそうにない、とか、あいまいにしか伝わらないという場面は、編集作業のプロセスに入ったときには残酷に排除(カット)されるからです。
有名なハリウッド型プロデューサーたちからは、たとえば「ゴダールなんていうフランス映画監督は自分のことを『天才』だなんて言っている狂人だが、あいつの作品なんてのは映画学校に通っている学生が作った映画(student movie)の典型だね」と笑われているというのがハリウッドという世界なのです。
それはポップアートの旗手アンディ・ウォーホルが1969年に創刊した『Interview』マガジンのなかの対談(1980年代のものです)でそのように語っていました。
そういう意味では、この『災愛』という自主制作映画の強みがこのあたりにもあらわれているとおもいます。
なにがなんでも《この作品が売れるように》作らなければいけないという立ち位置と《この作品を心から愛しているからこそ》作らなければいけないという立ち位置は、油と水くらいに混ざり合うことが不可能な領域なのかもしれません。
ところでこの《バラに隠された女の顔》には深い意味がこめられています。
西洋ではバラの花は古くから『愛』と『死』という対極の概念を象徴するものとして貴重なものとされてきました。
バラは『愛と情熱』をあらわすものであるのと同時に、しぼんで枯れてゆく運命の先にある『死とはかなさ』を予見させる花でもあるのです。
わたしたち日本人にはなじみの深い『桜』が象徴する「美」と「はかなさ」をおもいだした方もおられるのではないでしょうか。
「生命の輝き」をもたらす桜の開花には、同時にその短い命そのものへの「もののあはれ」(サウダージ)がふくまれています。
そして桜の「はかない命」が散りはじめたときに、桜吹雪のなかを歩みながら、わたしたちは「生きとし生けるもの」にとって死は逃れることのできないものなのだという真理を、たとえ無意識にでも感じないではいられません。
年を追うごとに、この華やかなお花見をあと何回見ることができるのだろう、という感慨と感傷を同時に味わうことができるのがヒトという生き物です。
華やかなバラの花瓶で顔を隠しているニッキーの立ち姿は、そのシュールレアリスティックな美学と恐怖によって、映画館から出たあとも、かなり長いあいだみなさんの記憶に残るかもしれません。
それに、この「愛」と「死」という概念そのものが、この『災愛』という映画の底を流れているもうひとつのテーマでもあり、わたしたちを残酷な結末へとみちびいていく地獄への「道しるべ」でもあるのですから。



ランチボックスのおぞましい秘密とは?
翌朝、彼がバイトに出かけようとすると家の扉がとんでもないことになっているのですけれど、ここはホラーコメディの要素も入っているので、映画をごらんになったほうが良いかもしれません。
朝の光のなかで「昨夜みたいなおかしな行動はつつしみます」と彼に約束したニッキーは、優しくほほえみながら手製のサンドイッチをいれたお弁当箱(ランチボックス)を手わたします。
そして作り物の笑顔で彼を送り出すのですけれど、彼がいなくなったあともニッキーは部屋の中央でその笑顔のまま彫像のように固まってしまっただけではなく、立ったまま絨毯の上におしっこをもらしてしまいます。
その瞬間の、お小水がフロアにこぼれおちる音が耳をこわばらせました。
この場面はあきらかに映画『エクソシスト』からの引用(オマージュ?)だとおもいます。
これも若い世代の方たちにはわからなかったようで、わたしが知るかぎり、これについて指摘している海外のYouTuberの方たちの動画にはまだ出会っていません。
さて、バイト先でお弁当箱のタッパのふたをあけると、ふたりで撮影したポラロイド写真が、たしか2枚ほど入っていたとおもいます。
問題になるのは、ベアとニッキーが仲良く頬を寄せあった写真で、彼女はこちらへ視線をむけてほほえんでいるのですけれど、その写真の余白には「これはわたしじゃないわ」(not me)と書かれていたため、それがベアの心をかき乱し、不安な気持ちにさせます。
表情をくもらせたまま、彼はサンドイッチを食べはじめるのですが、そこへ友人であり、昔のガールフレンドでもあったサラがやってきて話しかけます。
そのあと、タッパのふたに貼られていたふせん紙に書かれていた「味はどうだった? やっぱり猫?」という質問によって、彼は自分が食べたサンドイッチは愛猫のサンディの遺体の一部を使って作ったサンイッチであることを知り、そばにあったゴミ箱に吐いてしまいます。
奇怪な行動はしないように、と約束したはずが、一瞬にして裏切られてしまうこの予定調和のなさに、わたしたち観客は監督の思惑通りにふりまわされ、こづきまわされ、不安はどんどん加速していって、不快な恐怖をためこみながら爆走していく『災愛』という名のローラーコースターから降りることができなくなります。
カスタマーサービスの男の声が告げた真実とは?
バイトを終えた帰りぎわ、友人のイアンを乗せて家まで送る途中、その車内でイアンから「じつは『真実か挑戦か』のブロックゲームを楽しむために恒例のパーティを開く予定なんだけど、とうぜん男友だちだけの集まりになるからニッキーは連れてこないでほしい。おまえひとりで参加してもらいたいんだ」と誘われます。
ベアはひとりで出かけることのむつかしさをわかっているだけに顔をくもらせますが、かといって彼女との関係がとんでもないことになりつつあることをイアンに告白することもできません。
イアンをおろしたあと、そんな自分の勇気のなさに悩みながら彼は《ワンウィッシュウィロー》の箱の裏に記載されたカスタマーサービスに電話をかけ、自分ひとりでなんとかすべてを解決しようとこころみるのです。
ここも解釈のしようによってはダーク・コメディの一場面になるはずだったのでしょうけれど、電話口から聞こえてくる声があまりにも無愛想なので、この状況からの脱出方法を必死にさがしているベアがかわいそうにおもえてしまって、わたしは笑えませんでした。
なぜなら電話口の男の声はわたしたちのPCやラップトップに問題があったときに助け舟を出してくれる「カスタマーサービス」の専門家のように親身になってくれるわけではなく、また、ていねいに手とり足とり教えてくれるわけでもありません。
ベアはふるえる声で問いかけます。
「ええっと、じつは願い事を変更したいのだけど」
するとカスタマーサービスの男の声は面倒くさそうな口ぶりで答えます。
「つまり…自分の願い事をキャンセルしたいってこと?」
「いや、キャンセルっていうより、ほんのちょっぴり部分だけでも変えたいんだけど」
「それはできないね」
「え?」
「ムリな相談だね。そういうことはできないよ」
そのあとベアは「そもそもこれは本物なの?」というようなことをたずねて、電話口の男は「なにが? この魔力がかい? ああ、もちろん本物だよ。ほんものの魔力さ」みたいに答えるのですが、つづけてベアは「いや、そうじゃなくて、自分が知りたいのは彼女の愛は本物なのかどうかってことなんだ」とたずねたとおもいます。
すると男はたしか「きみが彼女を選んだという事実だけは本物(リアル)だよ」とこたえます。
ベアは「だったらぼくの願い事をキャンセルしてほしいんだ。取り消しにしてほしいんだ」と頼みこむのですがカスタマーサービスの男からは「それはムリな相談だね。できないよ」とすげなく断られてしまいます。
「じゃ、ぼくはどうしたらいいんだ? 彼女はずっとあのままなのか?」と声を荒げたベアにたいして電話口の男は退屈そうに「ま、きみにできることは何もないね」とつぶやき、そのあとゆいいつの解決策をほのめかします。
「ま、きみが生きている限りはどうしようもないな。きみが死なない限りは願い事が消えることもないからね」
そして「本物のニッキーの声が聞きたいのだったら彼女と代わってやるよ」と告げ、とつぜん電話口から悲鳴のような絶叫のような女性の叫び声が聞こえてきます。
ところでこのカスタマーサービスの声を演じたのはカリー・バーカー監督自身なのですが、このセリフそのものは《物語》をうごかしている監督自身が物語の主人公であるベアにたいして投げかけた警告なのではないかというふうに感じとれました。
つまり、この物語自体は虚構だけれども、そのなかできみが選択した行動だけは事実なのだからどうしようもないんだ、という《虚構と現実の境界線を溶かしてしまう》メタフィクションの要素を取り入れているのではないかと、わたしついつい深読みしてしまったのです。
なぜなら映画史に残る名作『チャイナ・タウン』のある場面を思い出したからです。
事件の真相を追いかけてゆくジャック・ニコルソン演じる私立探偵ギテスが、たしかマルホランド・ダムのあたりで、ロマン・ポランスキー監督自身が演じるチンピラヤクザにナイフで鼻先を切り裂かれるシーンがあります。
そしてその場面から以降、ジャック・ニコルソンは鼻に白い大きな包帯を絆創膏でとめた姿で登場するようになります。
その顔はまさに《ピエロ》です。
監督のロマン・ポランスキーは虚構の物語である『チャイナ・タウン』のなかへ入りこんできて、事件の真相を解こうと必死になっている私立探偵にたいしてつぎのように警告しているのです。
「きみはなにもわかってないんだ。きみが真相に近づこうとするたびに物事はさらに悪い方向へと流れていく。それにも気づかないおろか者がきみなんだ。自分でなにもかもわかっているつもりでも、きみはほんとうはなにも見えていないし、なにもわかっていないのさ。きみはたんなるピエロなんだ」
けっきょくその事件の真相は私立探偵ギテスが考えていたよりもはるかに巨大な水の利権をめぐるロサンゼルスの政治腐敗と都市開発の闇をめぐる事件であり、チンピラヤクザが警告したようにこの私立探偵のせいでもっとも大切なひとが殺されてしまうほどの悲劇へと発展して終焉をむかえます。
そんなことを思い出さずにはいられない電話シーンでした。
ところが家にもどったベアはさらにおどろかされます。
ニッキーが自分の嘔吐物と排泄物にまみれた汚れた姿で彼を待っていたからです。
「変な昆虫を食べてしまったみたいにおなかの調子が悪くなっちゃって」
あわてふためくベアを残して彼女はシャワーをあびてくるわとバスルームへ消えます。
そのとき彼はバスルームのドアの外からパーティに誘われた話をもちだして「男だけの集まりなのできみを同伴することができないんだ」とためらいがちに告げます。
すると彼女は獣の雄叫びのように太い叫び声をあげるのですが、その悲鳴におびえたベアをからかうかのように、とつぜん静かな優しい声色になって「だけどサラは誘われたらしいわよ。他の女の子たちも参加するんだって」と言います。
その情報をニッキーがどうやって手にいれたのかについては結局わからずじまいなのですけれど、そのぶんこの映画にまとわりついている超自然的な気配を濃くするお道具にはなったかもしれません。

あのパーティで彼女になにが起こったの?
その夜、イアンが反対していたのにもかかわらず、ニッキーはベアに付きそってイアンの家で開かれているパーティーへ出かけます。
そして『真実か挑戦か』ゲームの飲み会を楽しんでいるときに、ニッキーは『ヘンゼルとグレーテル』の童話について語りはじめます。
その童話を彼女が暴力的な近親相姦の物語にアレンジしながら朗読しはじめたため、パーティに招かれていた友人たちはみな白けてしまいます。
その自分流に作り変えた物語のなかで「柳の枝だけが魔法をかけることができるのよ。その魔法のおかげでお兄さんは、今夜、妹のわたしのなかに入ることができるの」みたいなことを述べるシーンがあってベアの表情をこわばらせただけではなく周囲の友人たち全員を気まずくさせてしまいます。
しぃ~んと静まり返ったパーティの雰囲気に気づいたのかニッキーは明るい声色で「これってじつはわたしがいま執筆中の新作なの」みたいな言いわけをしてその場をとりつくろいます。
そのあとでこんどはベアにブロックを引き抜く番がまわってくるのですが、そのブロックに書かれてあったのは『あなたの左にいる人にキスしてください』というものでした。
彼の左にこしかけていたのは女友だちのサラです。
スクリーンに釘づけになっていたわたしの鼓動がいっきに速まりました。
同時に映画館のなかがざわつくのを感じました。
とうぜん、観客全員が予想したとおり、ベアの真正面に座っていたニッキーはスッと立ちあがり、不満と嫉妬そのものの醜い顔で口を「への字」にゆがめ、こちらをじいっとにらみつけています。
ほんとうに不満そのものの恐ろしい顔つきでした。

そのまま無言で彼の背後へやってくると、しばらくその場に立ちつくしていたのですが、とつぜんサラがこしかけていた椅子の背もたれをつかみ、彼女を腰かけさせたまま、女の子の筋力とはおもえないパワーで椅子ごとゴゴゴゴ~ッとうしろへ移動させたのです。
そしてサラが腰かけていた場所にひざまずくなりベアからのくちづけを待って目をとじました。
この『への字顔』も米国の高校生やカレッジ学生たちのあいだでかなりバズっていると聞きました。
そのあとニッキーは「わたしの彼に愛をそそいだ人間はみんな死ぬことになるのよ」というようなことを叫んで、さらにパーティの場を白けさせてしまうのです。
かとおもったら、ふいに本物のニッキーがあらわれたのか、彼女はパニック発作におちいったかのように、キャアっと叫んでフロアにひっくりこけてしまいます。
そして立ちあがったあとには、近くにおかれていたお酒のボトルをひっつかんで割り、その瓶の破片で自分の顔をグサッグサッと傷つけはじめたため、ベアだけではなく友人たち全員がパニック状態におちいってしまいます。
「救急車だ、だれか救急車を呼んでくれぇ」

愛の告白が愛の告白を裏切ってしまうのは?
病院からもどってきたふたりは口論になります。
ベアは「ぼくは本物のニッキーに会いたいんだ」と懇願し、ニッキーは「わたしはニッキーよ」とこたえるのですが、彼は満足しません。
このあたりは『アメリカン・サイコ』の作者ブレット・イーストン・エリスの処女作を映画化した1987年の『レス・ザン・ゼロ』のテーマ音楽をおもいださせる美しく哀しい痛みをともなったサウンドトラックが流れてきて、まるでロミオとジュリエットの一幕を見ているかのような熱情と悲しみのあふれるロマンティックな場面になっているとおもいます。
『レス・ザン・ゼロ』を思い出させるこの哀感にみちたテーマ音楽は『災愛』のなかでもなんどか流れてきて胸をしめつけられるようなすばらしい効果をもたらしています。
とくにニッキーが叫び声をあげたときなどに、その状況とはまるで関係ないようなこの美しい哀しいサウンドトラックが流れてくるところはほんとうに見事です。
彼が「本物のニッキーはぼくのことをほんとうに愛してくれているのかい?」とたずねる場面に胸をきゅッとしめつけられるような甘酸っぱい痛みを感じる方もいるかもしれません。
けれども「もちろん愛しているわ」とこたえるニッキーがわたしたちにはどうしても信じられません。
おたがいに相手のことを世界で一番愛していると言いつづけるのですけれど、わたしたち観客はそんなふたりの告白がすでに意味をなさないところまで崩壊していることを知らされています。
だからこの場面は悲劇的なのです。
ギリシャ悲劇にも近いレベルで悲劇的なのです。
なぜなら《ワンウィッシュウィロー》の魔法というか《魔力・呪い》による力がもたらした愛はあくまでも《まぼろし》であり本物ではないということがあらかじめわかっているからです。
ここで使われた《柳の枝》はシェークスピアの悲劇で使われる魔女の《予言》とおなじお道具といってもいいかもしれません。
シェークスピア劇のなかで、主人公は恐ろしい《予言》通りにならないように運命の分かれ道がくるたびに必死にもがいて逆らうのですけれど、なにをどうしてもけっきょく《予言》通りの結末へと運ばれていってしまいます。
それこそが《悲劇》をかたちづくっている本質なのです。
そのことに、たぶん、わたしたち観客は最初から気づいています。
だからこそ先の見えない物語の展開におびえながらも、その《魔力・呪い》の結末がどうなるのかを知りたくてうずうずしているはずなのです。
それだけではありません。
主人公のベアがその《魔力・呪い》に甘えてニッキーの心を奪ったことも知っています。
また、関係がくずれはじめたときですら、そんな自分の心の弱さとずるさに負けてしまう場面をなんども見せつけられてもいます。
ですから、ふたりのこの呪われた《愛の物語》は、なにか大きな変化が起こらないかぎりは、このまままっすぐに悲劇の崖っぷちへとむかっていくのでは? とわたしたちは感じないではいられません。
つまり、わたしたちはハッピーエンドになることを願ってはいるのですけれど、彼が死なないかぎりふたりの関係を修復することはできないと告げられてもいるため、期待と不安をともに感じつつ、そのアンビバレンスに苦しみながら、恐ろしい結末がおとずれるのを待つしかないところへ追いつめられていきます。
そして、この愛と情熱と執着がもたらす悲劇と恐怖のメカニズムこそが、まさに『フランケンシュタインの花嫁』やトランシルヴァニアとルーマニアの境にあるワラキアの支配者であったヴラド3世をあつかった『ドラキュラ』や『狼男』などの映画に通底しているホラーロマンスの醍醐味のひとつなのではないでしょうか。
事実、悲劇の崖っぷちへむかっていくふたりを押しもどせる者はいません。
ベアが「ぼくのことをほんとうに愛してくれているのかい?」と問いかけると、彼女は「わたしはあなたの変なニッキーよ」(フリーキー・ニッキー)とほくそ笑み、「ニッキーはあなたのことを本気で愛してるわ」と告白するのです。
つまり彼を愛しているのは、彼を世界で一番愛しているという呪いをかけられ、そうしなければいけないという『強迫観念』にとらわれたニッキーのほうだったのです。
本物のニッキーは彼のことを好きだったかもしれないけれど愛してくれていたわけではなかったのでは?
ベアはそこではじめてその真実から目をそらすことができなくなります。
そしてニッキーに提案します。
ぼくたちふたりはしばらく距離をおかなければいけないし、今夜はもういっしょに寝るのはやめよう、と。
けれども彼女は「もしひとりにされたらわたしは静かに冷えていって大切に守ろうとしていたものを手放してしまうとおもう。そのあとには何も残らなくなってわたしは消えてしまうかもしれない」みたいなことを言います。
つまり自殺の可能性をほのめかすのです。
けっきょく一緒に寝ることになったベアのすぐ横には顔半分が血まみれになったニッキーが眠っています。
そこへサラからのメッセージが届きます。
どうしても言わなければいけないことがあるから公園で待ってるわ、という内容です。
彼はニッキーを起こさないようにおそるおそる立ちあがり寝室を去ろうとしますが、ちょうどそのとき、横になって目をとじたままのニッキーが、まるで寝言をつぶやいているかのように「ねぇ、いま、彼女は寝てるわ。いまのうちにわたしを殺して。お願い」と懇願しはじめるのです。
ベアは腹をたてます。
自分といっしょにいるくらいだったら死を選びたいというふうに解釈したからです。
「そんなことはできないよ」と彼が声を高めると「しぃぃ。彼女を起こさないで。お願いだから、いまのうちにわたしを殺して」と切実な口調で訴えかけてきます。
この場面でついに本物のニッキーはこの《ワンウィッシュウィロー》の呪縛にとらわれた「変なニッキー」の内部に閉じこめられているのだという事実が明らかになります。
けっきょく眠りについたまま「お願いだからわたしを殺して」と懇願するニッキーをあとにしてベアは家を出ていってしまいます。

もっとも危険な深夜デートはクルマのなかで?
サラのクルマに乗りこんだベアはとんでもない事実を知らされます。
親友のイアンはニッキーと2年間つきあっていたのだけれども、あくまでもセックスフレンドとしかおもっていなくて、ロマンティックな恋愛関係には発展しなかった。そのためニッキーがとつぜんベアとつきあいはじめたことをイアンは自分への腹いせだとおもっているらしい、と。
「あなたにはもっとくつろげる相手が必要だとおもうわ」とサラはつけくわえ、ベアが「きみのような人のこと?」とこたえたせいで、ふたりは狭い車内でなんともいえない恋愛モードに入っていきます。
けれどもサラが「あのゲームの夜、あなたの左にすわっていたのはわたしだったのだから、ほんとうはあなたにキスしてもらえるのはわたしだったはず」と告白したのと同時に、いきなり運転席の窓が粉々に砕け散って、サラのうしろ髪をひっつかんだニッキーが、持参したレンガをステアリングウィールの上におき、そこへ彼女の顔をなんどもなんども狂ったように叩きつけて殺してしまいます。
しかも無言のままレンガにサラの顔面を叩きつけるたびごとに「プパッ、プパッ、プパッ」と短いクラクションの音が聞こえてきて、そのリズミカルな音響効果が「変なニッキー」の冷静で機械的な殺人行為をさらに強調することになっているため、彼女にたいする底知れない恐怖をわたしたち観客全員に植えつけることに成功しているとおもいます。
そのあとニッキーは「彼女の死体を片づけるのを手伝ってくれなくちゃダメよ」と恐怖のどん底につきおとされたベアをなぐさめるように優しくささやきます。
「だってこれは全部あたなたのせいなんだから。サラのせいでもあるけど。あなたがこうなることを望んでたのよ。こうなることを願っていたのよ」
そして追い討ちをかけるようにして次のセリフでわたしたちの背すじを凍らせてしまいます。
「心配しないで。わたしたちはやり直せるわ。わたしはどこにも行かないし。これからもずっとあなたのそばにいるから」
2度目の願い事に効き目はあるの?
顔をつぶされて失ったサラの死体をクルマの後部座席へおさめたあと「あなたはもうお家に帰ったら? あとはわたしが処理するから」と言われたベアはふたたびクリスタルショップへ行きます。
そこで必死の形相で店員の男性にたずねたことは「この暗黒の願い事から解放されるのにはどうしたらよいのか」でした。
店員はこたえます。
「そうだね。ま、きみの知り合いのだれかに頼んできみの願い事とは真逆の願い事をしてもらうか、もしくはきみが自殺するしかないかな」
以前、《ワンウィッシュウィロー》のカスタマーサービスへ電話をかけたときに出てきた相手とおなじく投げやりで面倒くさそうな態度です。
ほんのすこしブラックな笑いを誘った場面でした。
なぜクスッという笑いがこぼれてしまうのか?
そのときわたしたちはあることに気づかされたからなのです。
「物語」の流れとはちがって、この「現実」の世界での出来事や人間関係はあくまでも相対的なものだということに。
恋人をほんの数時間前に飛行機事故で亡くした女性が空港へ急ぐためにタクシーをひろったそのとき、すぐ近くの居酒屋で卒業パーティを楽しみながら大騒ぎしている学生たち。
ノーベル賞に匹敵する数学の難題を解いたつもりの助教授が天にものぼるような気持ちで深夜のコンビニへ立ちよったところへ、まだ中学生くらいの少年がそのコンビニの棚から食べ物を万引きしてつかまるのを目撃したとしても、父親を交通事故で失った少年が病気がちの母親とふたりきりで暮らしていて、この2日間コッペパン5個しか食べていないという事実を知ることはできません。
現実の出来事はいつもこのようにしてしか起こりえないのです。
だからこそ他者に起こった悲劇や遠い場所での悲劇を感じるためには想像力(イマジネーション)と共感能力(エンパシー)のふたつが必要になります。
カスタマーサービスの電話口の男性と、このクリスタルショップの店員の男性は、「ものがたり」というつくられた世界の流れに穴を開けるためのお道具なのかもしれません。
窒息させられるような恐怖を新鮮に保つためには、おなじように新鮮な酸素を観客に吸わせることも必要だ、ということをカリー・バーカー監督は理解していたのでしょう。
たとえベアが「生きるか死ぬか」といった問題をかかえていたとしても、クリスタルショップの店員にとって彼はたんにひとりのカスタマーでしかないのだし、あくまでも他人事でしかないのです。
そこに善悪の価値判断がはいりこむ余地はありません。
このようにしてしか、わたしたちは現実とかかわりあうことができないのですから。
みなさんが前を見ているとき背後は見れないし、右に顔を向けると左手のほうは見えなくなります。
哲学者のイマヌエル・カントを悩ましたわたしたちヒトにおける認識の限界というものです。
わたしたちは「自分が見ているもの以外」の世界を見ることができません。
わたしたちにとっての現実とは、いつもせいぜい5メートル以内の世界での出来事であって、それ以外ではないのです。
だからこそ詩や小説や演劇や映画やラジオやテレビやスマホやVRが生まれたのでしょう。
そういうお道具がわたしたちを遠くへ連れていってくれるような気持ちにさせてくれるのです。
そういうお道具をヒトが《意識》によってつくりだしたのです。
わたしたちの想像力をかきたててくれる娯楽のおかげで、長い歴史のあいだにヒトは5メートル以内でくりかえされる日常生活から脱出して、ほんのひととき息抜きする方法を得ることができるようになりました。
ですから、ほんとうのことを言えば、東日本大震災で2万人という方たちが命を奪われようとしていたとき、はるか遠くの地方では誕生日パーティのケーキを食べていた家族がいたでしょうし、山あいのラブホテルで密会を楽しんでいたカップルもいたわけです。
ようするに5メートル以外の場所で起こっているすべてのことは《情報》でしかないからです。
目の前でそれを体験しないかぎり他人の《死》もけっきょくは《情報》のひとつでしかありません。
うわさのひとつでしかないのです。
あなたのご両親がいま交通事故で亡くなったとしても、その事実をだれにも伝えない限り、あなたの兄弟も親族の方たちもその死を知ることはありません。
つまりその《情報》を与えられていないひとびとからすれば、たとえあなたがお葬式を終えたとしても、彼らの頭のなかではあなたのご両親はずっと生きつづけているわけです。
18世紀の哲学者ジョージ・バークリーが提唱した有名な命題を思い出した方もおられるかもしれません。
その命題はさまざまに形を変えてよみがえってきます。
「だれもいない森の奥で一本の木がたおれたらその音は聞こえるだろうか?」
目ざめたニッキーが見たものは?
けっきょくベアはそのクリスタルショップで残りのワンウィッシュウィローをすべて買い占めて「ニッキーが世界で一番自分を愛してくれるように」という願い事をキャンセルしようとこころみるのですが、いくら力をこめて柳の枝を折ろうとしても、あれほど簡単に折ることのできた細い柳の枝がなぜか1本も折れてはくれません。
彼はイアンの自宅におもむき、状況を説明して、自分の願い事を取り消してくれるように懇願します。
ところが彼の話を鼻っから信じないイアンは「いますぐ10億ドルが手に入るように」と願います。
とたんに天井から豪雨のように現金が降りそそぎ、ベアを絶望のどん底へつきおとすと同時にイアンにたいする憎しみをふくらませます。
この、じっさいにドル紙幣が豪雨のように降りそそいでくる場面に笑った方たちもいましたが、監督のかしこさが透けてみえる場面でもありました。
《ワンウィッシュウィロー》の魔力がリアルなのだということをわたしたち観客に再確認させるためのお道具でもあったからです。
つまりこの《降り注ぐドル紙幣》はベアが直面しているニッキーとの酷い恐ろしい状況はリアルであって、そこから逃げることはできないという事実をつきつけてくるからです。
ここまでくると、①ニッキーが死んでしまうか、もしくは②ベア本人が自殺するしかない、という選択肢しか残されていません。
彼は最後の1本である《ワンウィッシュウィロー》を持って家にもどり、ニッキーに願い事を取り消してもらおうとしますが、居間の椅子にすわらされている顔を失ったサラの全裸死体を見つけて全身を硬直させてしまいます。
そこへ「あなたのためならなんでもするわ」というささやき声が聞こえてきて、ふりむくと、サラの頭からそぎとった頭髪をかむり、サラの死体からはぎとった血まみれのドレスを身につけたニッキーが立っています。
「わたしのことをほんとうに愛してる?」と銃をつきつけながら迫ってくる彼女におびえて「うん、愛してる、愛してるよ」と必死にこたえるベア。
ニッキーは銃口をくわえて自殺するそぶりを見せます。
そこへドル紙幣をもってイアンがあらわれます。
あっという間に彼の額を撃ちぬいて殺してしまうニッキー。
その銃をこっそりと奪ってバスルームに立てこもったベアは、なんとか自殺しようと銃口をくわえてはみるのですが、恐怖にかられてどうしてもできません。
かわりに猫のサンディがまちがって食べたらしい祖母の常備薬を見つけてトイレカバーにこしかけひと粒ずつ口にいれはじめます。
その場面の背景になっているタイル貼りの壁が、鏡のせいでキリコの絵画のようにゆがんだ遠近法になっていることにお気づきになったでしょうか。
彼のこのときの内面をこの奇妙にゆがんだ背景で象徴させていることはまちがいありません。
彼はけっきょくボトルのなかの薬をいっきにのみこんでしまいますが、そのあとすぐに吐き出そうとします。
でも吐きだすことができません。
ちょうどそのとき居間でニッキーが《ワンウィッシュウィロー》を折る「ポキっ」という音が聞こえてきたせいでもあります。
とたんに、まるで別の人格があらわれたかのように、ふしぎなほど幸福そうな微笑をうかべた彼がバスルームから出てきてニッキーのそばへもどっていきます。
ふたりは向かい合って、たがいに笑顔を浮かべ、ロマンティックなくちづけを交わします。

そのかたわらのテーブルの上には《ワンウィッシュウィロー》の箱がおかれています。
そこには彼女の手によって真っ二つに折られた柳の枝がありました。
つまり彼女は「ベアの願い事が消えますように」と願ったのにちがいありません。
ただし、そのせいで薬の過剰摂取が成功し、彼は自死を遂げることになるのです。
なぜなら、お約束どおり、願い事をキャンセルするには彼が死ななくてはいけないからです。
そんな彼の死体を抱いてニッキーは泣きくずれ、銃をにぎってその銃口をくわえますが、そのとたん本物のニッキーが意識をとりもどします。
その瞬間のあわてふためくニッキーの姿はほんとうに悲劇的で哀れです。
銃をもっている血まみれの自分におどろき、血まみれのベアの死体におどろかされ、そして額を撃ちぬかれて死んでいるイアンとまわりに散らばっている血まみれのドル紙幣に気づいてパニック発作をおこしてしまいます。
そして彼女は、周囲の惨状におののきながら、サラからはぎとった血まみれのドレス姿で悲鳴のような泣き声をふりしぼります。
その叫ぶような泣き声にかぶさるようにしてザ・リトル・リッパーズの1960年のヒット作『永遠に』(Forever)というノスタルジックでスローなリズム&ブルース曲が流れてきて、映画『災愛』は幕を閉じていきます。
インセル男性とはどういう男性なの?
ここ数年のあいだ米国の女性誌や女性ファッション誌で話題になったり特集が組まれたりするものに『インセルホラー』があります。
《インセル》とは異性とつきあいたい気持ちはあるし、異性とのセックスも経験したいけれど、どうしてもその望みが叶えられない男性、つまり、『インヴォランタリ・セリベート』(不本意ながら独身でいるしかない)男性のことです。
ゲイではありません。バイセクシュアルでもありません。
ヘテロセクシュアルのシスジェンダー男性、つまり《ストレート》な男性たちです。
ただし、なぜか30代になっても40代になっても女性の恋人が見つからず、性的関係をむすぶ相手も見つかりません。
異性の手をにぎったことすらない30代の男性だったり、いちどでいいから女性の胸にふれてみたいと願っている独身の50代の男性などもインセルと呼ばれているようです。
日本で「非モテ」とか「弱者男性」と呼ばれている方たちに近い概念かもしれません。
そういう男性に共通しているのは女性嫌悪とアンチフェミニズムと女性蔑視らしく、現実の女性を漫画やアニメのなかのキャラクタとおなじように想像したり、アンドロイドやロボットのような非人間としてだけ性的対象物にしたいという欲望をもったりするのだそうです。
とうぜん結婚などは夢のまた夢で、そういう夢を見ることそのものがナンセンスだと考えているのもインセル男性の特徴のようです。
みずから「女性が自分のことを好きになってくれるはずがない」とあきらめてしまった男性や、幼いころや青春時代に女性にバカにされたりひどいことをされた経験をもったために「女嫌い」(女性蔑視主義者:ミソジニスト)になってしまった男性たちもインセルのカテゴリーに入れられています。
ひとことで言えば、恋愛する相手やセックスする相手が見つからず、そういう相手が見つからない原因はすべて女性たちにある、と思いこんだり、そう信じこんでしまったり、そういう考えをもっている男性たちをインセルと呼んでいるようです。
彼らに言わせると、自分たちは生まれながらにして負け組で、遺伝子的に不運なクジを引かされた男たちであって、女たちは会話が上手で女あつかいに長けている《チャド》と呼ばれる勝ち組男性たちに群がるように生まれてきた生き物だということ。
けっきょく女性たちはみな①金のある男性を好む生き物で、②チャンスさえあればだれとでも性的関係をむすぶほどふしだらな生き物で、③たえず他人の心をあやつることばかり考えている生き物でもある、という考えをインセル男性たちは信じていて、そういう女性たちを全員《ステイシー》と呼んでいるのだそうです。
このようなインセル男性が犯罪をおこすとどうなるか?
ストーカーになったり、とつぜんの爆発的暴力によって女性たちを無差別に殺害したり、特定の女性を選んでSNSで徹底的にサディスティックないじめをつづけたり、若い女性を拉致して自宅に閉じこめ、ペットのように檻のなかにいれて奴隷としての私有物にさせたりしますし、じっさいにそういう事件はあとをたちません。
そういう事件から着想を得た《インセルホラー》という新しい映画ジャンルが生まれたのが数年前のことになります。
幽霊やモンスターが恐怖をもたらすのではありません。
女性を自分の思い通りにしようとするインセル男性の歪んだ所有欲と暴力的なまでの支配欲が最大の恐怖として描かれるのです。
この映画はインセルホラーのひとつなの?
では、米国の大手女性誌の映画評論家やYouTuberたちが指摘しているようにこの『災愛』はインセルホラーなのでしょうか?
ちがいます。
まったくちがいます。
この映画のはじまり、つまり導入部で、ウェイトレスの女の子を相手にニッキーへの愛を告白するためのシミュレーションをおこなっているベアを見ていたらわかりますが、彼のなかには女性嫌悪も女性蔑視もありません。
告白の練習相手にされているウェイトレスの女の子も、彼の熱っぽい愛のセリフに心をうごかされたかのような表情をしています。
ベアという主人公はたしかに異性との関係に不器用かもしれませんが、これがインセルホラー映画でないことはあまりにもハッキリしています。
彼は優柔不断ですがセンシティブで優しさのある青年なのです。
どちらかといえば昭和の時代の男性たちをおもいださせる青年でした。
昭和の時代の男性については、女性を理想化しすぎるために、そのイメージが現実の女性から乖離してしまい、そのせいで恋愛関係に《ぎこちなさ》や《ひとりよがり》が生じるという、そんな解釈が多かったように記憶しています。
昭和時代の男性における独身主義は、そのもっとも良い部分をとりだしてみれば、あくまでも《ダンディズム》へのあこがれを燃料にしていたため、独自の生き方や美学への《こだわり》が強く、異性や恋愛にはそれほど興味はありません、といった気取りと権高さを感じさせるものだったようにおもいます。
紳士を夢見る男性たちの、すこしムリをしすぎなのでは…といった行動には、なんともいえない《おかしみ》と《かわいらしさ》と《哀感》がありました。
そこには家父長制によって君臨する父親がいる家庭環境において、その独裁者のもとで献身的に生きている母親をかばって守るという騎士道精神にも近いものがあったのかもしれません。
ある特定の世代を語るとき、その世代を育てた両親がもっている価値観に目をむけなければ、ほんとうの答えはわかりません。
ところで、この映画のなかでは、オカルト映画の基本的お道具となる超常現象などのトリックはいっさい見られませんし、十字架などの宗教的な象徴が使われたこともありませんので悪魔憑きの映画でもありません。
この映画のなかに《悪》は存在しないのです。
ニッキーは《ワンウィッシュウィロー》の魔力によって「変なニッキー」に乗っ取られた被害者ですし、そこから生まれた二面性にほんろうされてさんざんな目にあわされるのがベアという気の弱い青年です。
ただ、しいて《悪人》を特定するとしたら、被害者でありつづけたベアかもしれません。
彼は自分の責任において大切な選択をしたことがありません。
たった一度きり《ワンウィッシュウィロー》をつかって願い事をしたときをのぞいては。
あとはなにからなにまで他人まかせです。
《否定》されたり《拒絶》されたりすることにたいする恐怖がそうさせているのかもしれません。
べつの見方をすれば、みずから選択しないことで自分への逃げ道をつくっているのです。
自分を守ろうとしているのです。
そういう彼の立ち位置がこの物語における《悲劇》を生み出していることはあきらかです。
おしまいになりますが、監督のカリー・バーカーをはじめとするこの映画の制作陣は、おそらく1970年代から80年代にかけての映画から多くを学んだのだろうとおもいます。
主人公ベアを撮影するときのカメラワークと照明、その後の編集作業における色合いなどをふくむ画調はマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』を思い出させるものがありました。
もちろん『エクソシスト』へのオマージュはいたるところに見つかります。
お小水、嘔吐、汚物まみれの姿、テープでふさがれたドア…などなど。
でも、そんなことはたいしたことではありません。


この映画の怖さはどこから来るの?
この映画をささえているのは、いままでほとんど無名だった俳優さんたちによるおどろくばかりにみごとな演技力だからです。
初期のアル・パチーノやダスティン・ホフマンやロバート・デ・ニーロなど《演技派》と呼ばれた俳優たちをほうふつとさせる圧倒的な演技力を感じさせられました。
ニッキー役のインディ・ナヴァレッテはもちろんのこと、ベア役のマイケル・ジョンストンの演技にいたっては、まだ静けさをたたえていたころのアル・パチーノの、とくに『シー・オブ・ラブ』における微妙な表情の長回しをおもいださせるものがありました。
ベアがバスルームで自殺をこころみようとするラストシーンのあの表情をごらんになってください。
あれほど長いあいだ顔の表情の微細な変化だけで観客を釘づけにできる演技力は《フツー》ではありません。
乱暴な言い方かもしれませんが、現在ハリウッド大手スタジオによって推されているティモシー・シャラメやグレン・パウエルの演技が色褪せて見えたくらいです。
そもそもこの映画の怖さはニッキーの二面性や奇怪な行動にたいするベアの驚愕と苦渋と躊躇と恐怖のいりまじった反応によって生み出されたものです。
ニッキーの分裂症的な会話や不気味な動作にしても、それにたいするベアの恐怖感が表現されていなければ、それほどたいしたものではなかったでしょう。
わたしたちはマイケル・ジョンストンの表情と声色の変化に感情移入することで、この映画の底知れない恐怖を味わされていたのです。
B級ホラー映画というジャンル分けによって一蹴されてしまう映画が歴史に残る名作になるときは、かならずといって良いほど圧倒的演技力を誇る俳優さんたちの存在が不可欠になります。
『エクソシスト』がそうですし『ローズマリーの赤ちゃん』や『シャイニング』もそうです。
けれども、ときに無名の俳優さんたちがおどろくべき演技力を披露して快挙をなしとげることがあります。
『悪魔のいけにえ』や『死霊のはらわた』などがそうでしょう。
その他のホラー映画は真夏のパーティ用であり、演技力が劣っているぶんだけお笑いの要素が強くなって、みんなでいっしょに矛盾点をディスって遊べるエンターテインメントです。
まさにその名のとおりの《B級ホラー》と呼べるものになっているとおもいます。
でも、この『災愛』はちがいます。
これは映画史に残る傑作であり、その矛盾のないプロットとさまざまな象徴をつかった遊び心と過去の映画からの引用によって、あとあとまで語りつがれる真の意味で《複雑》な映画になるでしょう。
しかも一部の映画ファンたちが褒め称える《カルト・クラシック》というだけではなく、一般のひとびとの心にも深く食いこんで考えさせる映画として残っていくことはまちがいありません。
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