【超簡単】プロパガンダの手法と毒素 | ウソにだまされないために
- 香月葉子

- 10月28日
- 読了時間: 11分
更新日:6 日前
ネット社会にGPSはありません。
国家の情報機関や優れたハッカーはネット上でのわたしたちの居場所をかんたんに知ることができます。
けれどもそれはあくまでも特別なシチュエーションにかぎられていますので心配してもはじまりません。
彼らがホンキでわたしたちを「すみからすみまで」知ろうとしたときにはまず勝ち目はないからです。
2013年、エドワード・スノーデン氏の内部告発によって、アメリカ国家安全保障局(NSA)による監視網が西側諸国の全域にはりめぐらされていることが発覚しましたが、そのせいで彼がスパイ罪と反逆罪に問われたことはご存知だとおもいます。
そのあと2016年には、悪い意味で優秀なハッカーさんたちが、たとえそれが米国の議会議員たちのスマートフォンであっても、その人の電話番号さえわかれば、いともかんたんに侵入できることを、議員たちの目の前で証明する番組もつくられました。
デジタル世界に自分に関する情報(データ)を残しているかぎり、わたしやあなたの痕跡(秘密)はなにからなにまでお見通しになるのはしかたがないことなのです。
このブログのエッセイも写真も電子書籍も例外ではありません。
とはいっても、国や大企業の方向をきめるようなお仕事をなさっている方や、そのようなポストにつかれている方ではなく、無名の一般人にはあまりかかわりのないことにおもわれます。
ですから、だれかが自分のスマホやPCに忍びこんできたり、どこからか監視しているのではないか、ということで不安になったり神経質になったりする必要もないのではないでしょうか。
プロキシーサーバーを使っていてもVPNのような回線接続サービスを受けていても、どれほど複雑なパスワードを設定していても、向こう側が「ホンキ」を出せばわたしたちのような個人はみな素裸にされてしまいます。
それよりも、ふだんの生活で問題になるのは、わたしたちがどこにいて何をしているのかを教えてくれるひとがいないということです。
それはつまり、こちらからだれかに居場所を教えないかぎり、わたしたちは透明人間になってネット空間を放浪できるということでもあります。
わたしたちは自由です。
何者にも縛られずにインターネットのなかを飛びまわれます。
それだけに、迷子になるのもかんたんです。
たとえば、誹謗中傷があふれ、わたしたちの個人情報が盗まれ、わたしたちをギャンブル依存症やポルノ依存症に誘うような『イビル・スポット』に迷いこんだとしても、それはすべてわたしやあなたの自己責任になってしまいます。
目立つためには放火魔になるのがいちばん
そんなネット社会のなかで発信者のがわに立ってみると、意見のちがいをきわだたせるということが、かなり大きいウェイトをしめてくるのはしかたがないかもしれません。
ほかの人とのちがいをきわだたせることが『強み』(アセット)なのです。
と、そう信じている方がほとんどだとおもいます。
つまり『商品』を売るために必要だとされるマーケティングと変わりはありません。
ですから、みんなと真反対の意見を述べることで目立とうとしたり、わざと炎上させるようなことを発信して目立とうとする方たちもいます。
そういう場合にはつぎのことが起きます。
情報を発信している人と、その人が発信した情報にくいちがいが生じてくるのです。
一貫性が失われます。
その場かぎりになりがちです。
なにかについて意見を言うたびにコロコロ『立ち位置』が変わって、そのひとがほんとうはどういう考えで生きている人なのか、どんなモノの見方をしている人なのかがだんだんわからなくなります。
ただし、じっさいに手にふれることのできるカタチのある『商品』を紹介したりあつかったりしている方たちにはこのような問題は起きません。
ある事件や出来事についての考え方やモノの見方をあつかっている方たちにだけそれが起きます。
だれもが共通に見て触れて使って納得できる『カタチあるもの』をあつかってはいないからです。
ですから、たとえばテレビや大手新聞などで取り上げられている出来事についての有識人と呼ばれている方々の意見と、ユーチューバーと呼ばれている方たちの意見がまるでちがっていたり、ソーシャルメディアの X や TikTok などではその出来事についての見方そのものがちがっていたりもして、ますます頭がこんがらがってしまうかもしれません。
それがネット社会というものですし、それはこれから先も変わらないでしょう。
なぜなら、その『汚れ方』にこそ自由がひそんでいるように感じられるからです。
そもそも『広告』ってどんなものなの?
ご存知のように、商品やサービスをみなさんに広く伝えるための方法全体は『宣伝』と呼ばれています。
その宣伝を成功させるための具体的な手段としてテレビCMを流したり、電子チラシを表示したり、昔ながらのポスターをつくって歩行者の注意をひいたり、ダイレクト・メールなどを送ったりします。
それは『広告』といわれています。
そして、いま、わたしたちの生活空間はおどろくほど多くの『広告』にうめつくされています。
わたしたちがもっている1日24時間のうち、めざめている時間のほとんどは『広告』にうめつくされていると言ってもいいでしょう。
テレビCMや新聞・雑誌・ラジオ・ウェブサイトの広告が目に入ってきます。
電車やバスのなかで見かける中吊りや壁貼りがあります。
また、街のなかで見かける昔ながらのポスターなど、広告の手段にもいろいろあります。
それに、21世紀をむかえてからは、みなさんのスマホやタブレットに表示される広告が主流となってきました。
駅の構内やイベント会場などでたびたび見かける電子看板や電子ポスター、あるいはビルディングの一角などにもうけられた大型の広告用ビジョンディスプレイなどから飛び出してくる3D映像など、ほんとうにさまざまです。
そんなデジタル機器を通した情報発信の仕組みは、ひとまとめにして『デジタルサイネージ』と呼ばれています。
このようにわたしたちの目を引くためのお道具はさまざまありますけれど、見たり聞いたりしているものが広告であることには変わりありません。
そして、それらの広告がなんらかの『商品』を売るための手段であることにも変わりはありません。
パンやおにぎりや化粧品やお薬。
靴や服やバッグなどのほかには映画・コンサートのチケット。
また、自転車や自動車や家など大きなものだけではなくて、手でふれることのできない保険や債券など、『商品』にもさまざまあります。
とはいっても、それらの『商品』にはみなカタチがあります。
たしかに、預金や社債や債券や保険など、いわゆる『金融商品』と呼ばれているものは手にふれることができません。
けれどもそれを取引するためには『契約』という具体的な手続きが必要になります。
つまり目に見える『カタチ』があるのです。
プロパガンダってなにを売るためのものなの?
でも、プロパガンダにはそのようにハッキリと目に見える『商品』がありません。
手でふれることのできる『商品』もありません。
またその『商品』の説明もありません。
わたしたちのモノの見方や考え方にうったえかけてくるものだからです。
はっきりと聞いたわけではないけれど自然と耳にはいってくるウワサ話のようでもあります。
また、通りすがりに耳にしたひそひそ話のようでもあります。
にもかかわらず、その耳打ちは、さまざまなメディアを通じて、さりげなく何度もくりかえされることで、いつのまにかわたしたちの意識にふしぎな影響をおよぼし、わたしたちのモノの見方や考え方を一定の方向へとみちびいていくことができます。
つまり、わたしたちひとりびとりに似たようなモノの見方や考え方を植えつけることができるのです。
そうすることで『世論』そのものに影響をあたえ、わたしたちみんなの行動を変えさせるという目的でおこなわれるのが『プロパガンダ』なのですから。
広告もプロパガンダも、ともに情報を発信するということではおなじです。
けれども、広告はよりわたしたちの経済活動につながっているものなので、企業や個人事業主などから発信されることが多いものです。
それにくらべて、プロパガンダはより政治活動や社会活動にかかわっているものなので、時の政府や政党、あるいは特定の政治団体やシンクタンクなどから発信されることがほとんどだと考えられています。
ただし、広告とプロパガンダとの境界線は、けっして壁のようなものではありません。
どちらかというと浸透膜のようなものだとお考えになるのがいちばんかもしれません。
たとえそのふたつを仕切っていても、プロパガンダの要素が強いものが広告のなかへじわじわと沁みこんでいって、知らないあいだに混じってしまうことがあるでしょうし、またその逆の場合もあるでしょう。
プロパガンダの特徴を知りたい
プロパガンダの特徴はなんといっても情報の「歪曲・誇張・隠蔽」です。
『歪曲』とは、ある事件や出来事を一方向からだけ見るように強いることです。
そのため、じっさいに起こった事実をゆがめて伝えたり、あるものを極端に良く見せたり、ほかのものを極端に悪くみせたりすることです。
『誇張』とは、ある事件や出来事の一部分だけをとりだしておおげさにあつかうことです。
全体の流れやいきさつを無視して、自分たちに都合のよいことだけを取り出して強調したり、自分たちに都合の悪いことはじっさいよりも悪い印象をあたえるように手をくわえたりすることです。
『隠蔽』とは、反対意見や、ちがう角度からの見方などを排除して批判し、たとえその事件や出来事の真実にかかわる情報を手にいれていたとしても、それが都合の悪いものであればもみ消してしまうことです。
そしてわたしたちはスタートラインにもどってきて同じ質問をします。
だからけっきょくなにを信じたらいいの?
くりかえしますが、そんなわたしたちの迷いと不安に忍びこんでくるのがプロパガンダなのです。
情報はたんに情報でしかありません。
情報そのものには「意味」などはありません。
ある情報が自分の役にたたないかぎり「価値」すらありません。
その情報に意味と価値をもたせるのは自分自身なのです。
まず、信じようとする「はやる気持ち」をおさえて、色とりどりのお料理を前にしたときのように「ふんふん、そっちはこういう味で、こっちはこういう味ですね」と情報に箸をのばしながら召しあがるのはどうでしょう?
迷うのがあたりまえなのです。
なにかひとつのものに頼りたくなるのはあたりまえです。
心の「平安」とか「安定」をもとめる気持ちはわたしたちみんなのなかにあります。
でも、迷うことはけっして悪いことではなくワクワクする楽しいことではないでしょうか。
そんなふうに情報からうける影響を理解していれば、迷いからくる『不安』も薄らぐはずだとおもいます。
選ぶのはわたしたちなのです。
決めるのもわたしたちなのです。
この世にたったひとつの正しい答えはないと思ってあきらめることも大切かもしれません。
わたしたちは、日々、迷いながら生きていて、そのなかでさまざまな選択と決断をしながら、それでも一歩一歩進んでいます。
その歩みが右肩上がりなのか右肩下がりなのか知ったことではありません。
そもそもそれはだれが決めることなのでしょうか?
なにを信じたらいいの?
そう感じているからこそ、さまざま調べて、日々いろいろなことを学んでいるのではないでしょうか?
情報の良し悪しを判断するためには、まず、①その情報の内容をささえている具体的な証拠やデータはあるのか、ということと、②その証拠やデータはどこから得られたのか、もしくは、どのようにして得たのか、というこの2点に注意をはらうことがたいせつだとおもいます。
つまり①エビデンスと②情報源というその2点です。
くどいようですけれど、いちばん大切なのは、この世界にたったひとつの正しい答えはないとあきらめることではないでしょうか。
つまり「あれか、これか」とか「正か誤が」というような『白黒思考』では、この現実の世の中でおこっていることを理解するのは不可能なのだ、と考えるのがいちばんかもしれません。
あきらめた上で調べていれば心のどこかにいつも冷静で『醒めた自分』を感じることができるはずです。
刻々と変化して移り変わっていく現実のなかで、自分にとっていちばん大切におもえる答えにいちばん近いもの、それがわたしたちにとっての「正しい情報」「正しい答え」なのではないかとおもいます。
エビデンスと情報源に目を通したあと、自分の「今」にとってもっとも最適だと感じたものを自分にとっての「正しい答え」とするよりほかに、いまのところネット社会での「安心」を得る方法はないのかもしれません。
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